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授業再開と「形式」論議──『丸山真男と戦後民主主義』を読む(5) [われらの時代]

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[69年9月、文学部の追及集会]
 1969年1月19日に、いわゆる「安田砦」が陥落したあと、東大では2月から授業が再開された。
 しかし、全共闘が教室に押しかけ、なぜ授業を再開するのかと教官に詰め寄る場面が多くみられたという。
 本書によると、丸山が日本政治史の講義を再開したのは2月21日である。教室は満員で、200人ほどの学生でいっぱいになっていた。しかし、授業の冒頭、法闘委の学生が、機動隊導入について丸山の責任を追及し、なぜ授業を再開するのかと問いただした。
 これにたいし、丸山は講義は日常的な制度であり、講義をおこなうのは教員の義務だと答えた。学生の不当処分と機動隊導入の責任を追及する法闘委側と丸山のやりとりは1時間半もつづき、この日は自著の『日本の思想』に関する話を10分ほどして、講義は終わったという。
 次の2月24日午後3時ごろには、講義の教室に向かおうとする丸山を学生たちが取り囲み、大教室に連れていった。そこには百数十人の学生が待ち構えていて、白や赤のヘルメットをかぶった党派の学生が丸山の責任を追及したという。
 丸山は「強制的につれてこられた状況では発言しない」と、セクトの学生による追及を無視しつづけた。このあたり、丸山の態度はりっぱである。追及は5時までつづき、丸山はようやく解放された。
 丸山は機動隊導入の責任を感じてはいたが、権限があったわけではない。権限をもっていたのは加藤一郎総長代行である。
 当初、2月か3月を考えていた加藤が、1月15日に機動隊導入を決意したのには、理由があった。入試ができるかもという可能性が頭にちらついたからである。
 著者はもし全共闘が12月23日の話し合い申し入れを受け入れ、当局と譲歩し、安田講堂撤退を決めていたら、1月の機動隊導入はありえなかった、と述べている。
 しかし、実際には1月18日から19日に機動隊が導入され、不幸な激突が発生したのである。
 2月24日、丸山は機動隊導入の責任を問う学生たちの追及をほとんど黙殺した。だが、この日、ぽつりと漏らした発言が、のちに語り草になった。
 ある学生が「丸山教授は形式的原則に固執して、われわれの追及への実質的な回答を回避している!」と丸山を糾弾したのである。
 これにたいし、丸山は「人生は形式です」と答えた。
 このとき、大教室に詰めかけた学生のなかには、この発言になぜか感動を覚えた者もいたという。
2月28日は無事、講義がはじまった。だが、途中、教室に数名の学生が入ってきて、ビラをまき、丸山は学生のひとりと論争した。
 学生たちはなぜ授業を再開するのかを丸山に問いただしたかったようだ。だが、丸山は強制拉致と暴力を批判し、一方的に論争を打ち切ったという。
 著者は「丸山は、その自由主義的な大学観からも、暴力には厳しかった」と書いている。
 丸山にとって、大学はひとつの「知的共同体」だった。その「知的共同体」を崩壊させようとする、学生の暴力はどうしても許せなかった。
 3月3日の講義は中止になった。この日、全共闘の総決起集会が開かれたあと、法学部研究室は再封鎖され、またも機動隊が導入された。
 3月7日は予定どおり講義がおこなわれたが、5分もしないうちに30人ほどの学生が押しかけ、議論がはじまった。ゼミ生や一般学生も巻き込んで、教室は大混乱になったが、丸山は落ち着いていた。
 その日、心電図に異常が出たため、3日後、丸山は武蔵野日赤病院に強制入院させられる。心不全をおこしていた。入院中、肝臓障害をかかえていることもわかった。この強制入院で、のちに丸山は命拾いをしたと語っている。
 ここで、取りあげるべきは2月24日の「人生は形式です!」という丸山のことばである。このことばには、別の伝承もある。文学部の学生が丸山を「形式主義者!」となじったのにたいし、「人生は形式です!」と答えたというのだ。
 いずれにせよ、「人生は形式です」とは、いったいどういうことなのだろう。
 著者によれば、丸山にとっては、人権も多数決も民主主義もある意味「形式」にほかならなかった。この形式を単なる形式とみなして、暴力的に反逆する姿勢に、丸山は嫌悪を隠せなかった。良心の自由という観点からみても、形式こそが何はともあれ守られなければならなかったのである。
「人生は形式です」はとっさに出たことばで、ほんとうは「文化は形式」というのが、当時の丸山の持論だった、と著者はいう。
 さらに著者はこう書いている。

〈丸山が形式に固執するのは、混沌とした状況を制度の形式で整序しようとする秩序観からでもあった。……[丸山は]「混沌への陶酔」も「秩序への安住」もともに戒めていたが、東大紛争では「混沌」の克服に重心を置かざるをえなかった。〉

 そんな丸山の「形式的自由主義は、官僚的法治主義の別名かもしれない」とも、著者は述べている。たしかに全共闘側はそう受け取ったかもしれない。
 山本義隆も5月18日の朝日新聞投稿で、「私たちは単に制度を問題にしたのではなく、問題は先生方の権力との緊張の忘却、専門領域への埋没、権力的または無責任な態度、つまり人間の問題だったのです」と論駁した。
 丸山のいう「形式」とは、慣習とか伝統と受け取ってもよいだろう。丸山にとっては「知的共同体」である大学の慣習や伝統を守れない学生は出ていってもらうしかないと思っていた節がある。

〈69年1月の機動隊導入は、それほど凄まじい暴力を見せつけ、非暴力の思想など空しくなるような廃墟を生じた。それは、抗議しつづければ弾圧される実例として、人々の意識を屈折させ、歴史の断想を生じた〉

 著者がそう書いたのは、このとき丸山真男の時代が終わったと感じたためだろうか。

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