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文部省留学生に──美濃部達吉遠望(16) [美濃部達吉遠望]

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 1年で内務省を辞め、1898年(明治31年)9月から東京帝国大学大学院で学ぶことになった美濃部達吉は、内務省試補の扱いで1年ほど内務省から手当をもらうことになった。それによって学費と生活費をまかなうことができたのである。
 内務省にはときどき顔を見せるだけでよかった。そのため、省内からは「チョコ参」と呼ばれていたが、たしかに、それほど省内で仕事があったわけではない。法律問題について意見を聞かれる程度で、あとはAlbert Show(アルバート・ショー、1857〜1947)の“Municipal Administration in Continental Europe” という本の翻訳を依頼されたくらいだという。
 この本はアルバート・ショウ原著、内務省地方局訳『欧洲大陸市政論』として、1899年(明治32年)10月に有斐閣書房から出版された。翻訳書ではあるが、これが処女作になった、と達吉本人は記している。
 ところが、これが達吉の初出版かといえば、そうではない。同じ有斐閣書房から、この年8月に達吉は自身の名義で『改正府県制郡制要義』という本を出版している。厳密には、こちらこそがかれのデビュー作である。しかし、翻訳書のほうが先に原稿が仕上がっていたので、自分にとっては、こちらのほうが最初の作品だという意識が強かったのだろう。
 アルバート・ショーはアメリカのジャーナリストで、雑誌編集者、ジョンズホプキンズ大学で講義をしたこともある。1883年にイギリスとヨーロッパ大陸を回り、さまざまな都市の行政を研究し、それをイギリス編とヨーロッパ編の2冊の本にまとめた。『欧洲大陸市政論』はそのひとつである。
 大学院で学ぶ達吉は、内務省から依頼を受けて、1895年に発行されたこの本の翻訳に取り組んだ。ショーがヨーロッパに渡って、各地の都市の行政を見て回ったのは、アメリカの都市の腐敗がすさまじかったので、それをただすためのヒントを見つけたかったからだという。
 内務省で最初にこの本に着目したのは誰だったのだろう。東大教授であり、内務書記官を兼ねる師の一木喜徳郎だったかもしれないし、あるいは直接の上司で府県課長をしていた井上友一だったかもしれない。井上は帝国大学法科大学の英法科を卒業し、のちに東京府知事となり、自治の第一人者と呼ばれた人物である。
 いずれにせよ、達吉はショーの著作に真剣に取り組んだ。ジャーナリストによるヨーロッパ諸都市の生き生きとした記述にひかれたことはまちがいない。
 ショーは19世紀後半の特徴は、大都市の急速な膨張だとして、市政の重要性を強調していた。著書にはフランス、ベルギー、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツ、スイス、オーストリア・ハンガリーの諸都市の状況が、ジャーナリストの目で事細かに記述されていた。いちばん詳しく書かれているのは、ヨーロッパを代表する都市パリだったが、ミラノやフィレンツェ、ベルリン、ウィーン、ブダペストなどにも筆が及んでいる。
 明治の内務省がヨーロッパ各国の市政を視野に入れていたことは、ちょっとした驚きである。中央からの郡県制を敷くだけではなく、地方自治のあり方を模索していたといえるだろう。しかも、達吉にとっては、この本を通じて、パリやベルリンの様子を知ることは、留学の予行演習ともなったはずである。
 本書の冒頭はパリ市の概要にあてられていた。達吉はそれを次のように訳している(原文はカタカナ、現代表記とし、多少読みやすくした) 。

〈欧州諸国の都市は第十九世紀において最も偉大なる発達を遂げたり。往事における欧州の市街は実に狭隘にして暗黒なる迷宮の府たるに過ぎざりしが、近世においては即ち道路は整い、公園は飾られ、交通の機関、ガスの供給、下水、上水の設備ことごとく備わらざるなく、これを往事に比すれば霄壌(しょうじょう)もただならず[天地の差であって]、しこうして欧州都市の発達がかくのごときに至りしは皆パリ市にその師導[指導]の恩を荷(にな)えるものにして、パリは実にもって近世的都市の模範となすべきものなり。〉

 おそらく内務官僚にとっても、パリの改造は日本にとってもこれからの都市のモデルととらえられていたはずである。
 それにしても、本にして600ページ近くになる大著をおそらく半年ほどで訳したところをみると、達吉の語学能力の高さがうかがえる。
 これから留学するにちがいないドイツの都市についても、達吉はこの本から多くの知識を得ていた。しかも、この本は市政がどうあるべきかをも語っていた。
たとえば

〈ドイツの市政府は市の各種の利害より独立したる別種の物体にはあらずして、ただちにこれとその生存を同じうするものなり。しこうして市とはその区域内に包含せる人民および人民の利害の集合にほかならず。ドイツの市政府の観念には、そのなしうべき事務の範囲に関してひとつも制限あることなく、いやしくも市の利益を増加し、および市民の幸福を増進しうべきものは、ことごとくこれを実行するの職務を負うものなり。〉

 こうしたとらえ方から、達吉が地方自治のあり方を学んだことは、じゅうぶんに推測できる。
 ベルリンについては、こんなふうに書かれていた。

〈ベルリン市の進歩の新時期は一八六一年にその端を啓(ひら)けりというを得べし。この都市においてベルリンは新たにその郊外なる一大地域を併合し、旧時の城壁はことごとくこれを毀壊(きかい)して新地域との交通を自由ならしめたり。一八六一年には皇帝ウィルヘルム[一世]新たにプロイセンの王位に登り、しこうしてこの時より以後ベルリン市に対する王国の自由政策は開始せられたるなり。この年において新市庁ははじめて開かれたり。プロイセンの欧州強国の列に加わるやベルリンをしてパリと競争するの希望を起こさしめ、しこうしてパリにおけるハウスマン[ジョルジュ・オスマン]の市街改造は大いにベルリンをして奮起せしめたり。〉

 こうした一節を訳出しながら、達吉は大いに留学への夢を膨らませていたと思われる。
 この本はいま読んでもおもしろい。当時のヨーロッパ諸都市のありさまが手にとるようにわかる。
 自身が著した著書『改正府県制郡制要義』も大冊である。留学を前にした1年足らずの大学院生活のなかで、よくまとめたものだ。
 この本は、府県とは何かからはじまって、知事や議会、役所など府県の機関、府県の自治権、府県の監督、さらには郡の政治を論じたものだ。
 達吉の出発点が憲法ではなく、むしろ地方自治にあったことがうかがえる。
 その緒言に達吉はこう書いている(前と同様、読みやすくした)。

〈維新の後ひとたび地方の権力を削ぎて、これを中央に統一し、万機細大となくこれを中央に帰したるにより、一時自治制の跡を絶ちたりしが、明治十一年(七月)第十八号布告をもって、はじめて府県会規則を制定し、ついで明治十三年(四月)第十八号布告をもって区町村会法を布き、地方自治の制度は再びその端緒を開きたりしが、政府はなお鋭意その制度の完成を勉め、ドイツ人モッセ氏をして市町村制の草案を起草せしめ、案成るの後、明治三十一年(四月)法律第一号および同年法律第二号をもって市制および町村制を公布し……(以下略)〉

 そして「本著諭せんと欲するところは即ち新府県制および郡制の規定の実体を説明せんとするにあり」と記している。
 達吉のこのデビュー作は、1890年(明治23年)に公布された「府県制・郡制」が1899年(明治32年)に全面改正されたのを受けて、その条文を逐一解説したものである。
 明治政府の地方制度、すなわち府県制・郡制はそれ自体、興味のあるテーマだが、いまそれを詳しく述べるのはためらわれる。
 ただ、その緒言からもうかがえるように、達吉が地方における「自治」の復活に大きな希望を托していることはあきらかだろう。
 本書において、達吉は府県を法人ととらえ、自治体は国家から直接指示されるわけでない独立の意思をもって、公共の事務を処理するという立場を打ち出している。
 将来は明るかった。いや、少なくともそうみえた。
 こうして大学院在学中にこの2冊の本を仕上げて、達吉は文部省留学生として、1899年(明治32年)8月にヨーロッパに向けて出発することになる。文部省から比較法制史研究のため、3年間、独仏英3国への留学を命ずという指示を受けたのは5月のことである。留学するまでという約束だったので、8月には内務省試補の役職も解除された。

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