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臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 毎日飲んでいるコーヒーなのに、その歴史についてはよく知らない。本棚で眠っていたこの本を読んでみることにした。
 コーヒーの原産地は東アフリカである。それが眠気を覚ます健康な飲料としてイスラーム世界に出現するのは、西暦15世紀のことだという。
 イスラーム世界でコーヒーを広めたのは、イスラーム神秘主義の修道僧、スーフィーたちである。目ざめてあれ、まどろみを追い払えというスーフィニズムにとって、眠気を醒ますコーヒーは格好の飲み物だった。
 やがて、それは「黒いザム・ザムの聖水」と呼ばれるようになる。ザム・ザムとはメッカのカアバ神殿近くにある水場のこと。コーヒーは神聖視されることになる。
コーヒーをだすのは客人をもてなす証しでもあった。
 アラビアやエジプトにコーヒーが広まってくると、反発もでてくる。1511年にメッカでコーヒーが禁止された。だが、それは長くつづかない。まもなくコーヒーはイスラーム世界で公認される。さらにメッカ巡礼がコーヒーを各地に伝えることになった。
 16世紀初めには、カイロやイスタンブールでも「コーヒーの家」ができ、スーフィーたちが集まるようになった。その後、「コーヒーの家」は増えつづけ、社交の場となっていった。
 やがてイエメンのサヌアに近いノビ・チュアッペ山の麓でコーヒーが栽培されるようになる。コーヒー栽培には温暖な気候や適度な雨量が必要なだけではない。灌漑施設などの設備、多くの手間を要した。つまり、元手がかかる。コーヒーは、最初から商品になることを運命づけられていた。
 コーヒーを飲む習慣はアラビア、ペルシャ、トルコのイスラーム世界を越えて、南アジア、東南アジアへと広がっていく。ヨーロッパも「コーヒーの家」を取り入れるようになる。1652年にロンドン、1666年にアムステルダム、1671年にパリ、1683年にウィーン、1686年にプラハにカフェが誕生する。
 しかし、このころコーヒーの供給源はイエメンにかぎられていた。ヨーロッパへの出荷港はイエメンのモカ。そのため、モカがコーヒーの代名詞となった。
 コーヒー交易は莫大な利益をもたらした。
カイロの豪商たちは南アラビアのコーヒーの独占権を握った。イエメンのコーヒーは砂漠や紅海を越えて、カイロの倉庫に集まってくる。
 著者いわく。

〈豪商に必須の能力は、商品交換によって結合される共同体のそれぞれの価値観の差異から利益を捻出できることである。彼はアラビア南端の住民のささやかな暮らし向きの中で生産されるコーヒーと、イスタンブールのトプカピ宮殿のハーレムで、金や銀のカップに注がれて飲まれるコーヒーとの違いが分かる広い視野を持っていなければならない。その巨大な差異を前提にしながら、商品としてのコーヒーはそれぞれの共同体の中では等価物の外観を有しながら移動していくのである。〉

 コーヒー交易にかかわろうとするのは、カイロの豪商だけではない。東地中海沿岸を拠点とするレヴァント商人も同じだった。現在のシリア、レバノン、イスラエルの沿岸にあたるレヴァントには、フランスやイタリアの商人たちが集まり、地中海交易を担っていた。彼らがコーヒーに目をつけなかったわけがない。
 だが、そもそもヨーロッパでコーヒーが売れるのだろうか。
「コーヒーという新商品の使用価値が人間の内的欲求として定着することを誰よりも欲していたのは商業資本家であったはずである」
 ヨーロッパでもコーヒーが飲まれるようになるには、まずイメージづくりがだいじである。
 だが、その前に抜け目のないオランダの商業資本家の動きをみなければならない。
 インド航路や新大陸航路が発見されて以来、オランダは世界市場に乗り出している。紅海はすでにイスラーム世界とヨーロッパ世界の接点となっていた。インドやインドネシアにコーヒーを船で運ぶのはオランダである。
 さらにオランダがたけていたのは、イエメンでしかつくられていなかったコーヒーを、植民地のジャワでつくろうとしたことである。モカからコーヒーの苗木が取り寄せられ、ジャワ・コーヒーが生まれる。それは1712年にはじめて輸出され、たちまちヨーロッパとアメリカの市場を席巻することになる。
 オランダ東インド会社はジャワの支配層と結びついて、プランテーションをつくった。そして、ジャワの住民たちにオランダのためのコーヒーを栽培させることで、莫大な利益を確保した。
 こうして「第三世界の基本的産業構造がヨーロッパの『消費欲望』に応じて形成され、しかもその商品は一面的に世界市場に依存し、国家の自律的経済に多大の困難を与えるという、今日の第三世界に残る問題の基礎が敷かれる」。

 商品は世界を変える。コーヒー生産によって、かつての農村共同体は分解を強いられる。いっぽう、コーヒーという商品を消費する側でも、生活スタイルに新しい要素が加わる。
 ロンドンではじめてコーヒー・ハウスが誕生したのは1652年のことである。それが1683年には3000、1714年には約8000に達した。
 コーヒー・ハウスは、市民にそれまでにない「公共空間」を提供した。ここでは、情報収集や取引がおこなわれ、政治的議論やおしゃべりがくりひろげられた。一時、政府はコーヒー・ハウスの閉鎖を命じるほどだった。だが、猛反発にあい、すぐに営業が再開され、コーヒー・ハウスは以前にもましてにぎわうようになった。
 コーヒーはアルコールに代わる飲料として、謹厳なるピューリタンの教義にも合致していたという。

〈イスラーム・スーフィズムの精神的庇護のもとに誕生したコーヒーは、ある独特な陶酔、覚醒的な陶酔を特徴としていた。コーヒーのそうした商品特性は、資本主義の基本的倫理の、少なくとも一端を形作る、冷静で醒めた宗教としてのピューリタニズムに好ましいものであったことは疑いない。〉

 さらに、コーヒーが当時の医学界からあたかも万能特効薬としてもてはやされたことも、コーヒーが大いに飲まれるようになったひとつの要因だったという。
 だが、なんといっても、「人々を引きつけたのはコーヒーと呼ばれる黒い苦い飲み物それ自体というよりは、新種の『公共の場』の魅力であり、真の商品は情報であった」。
 コーヒー・ハウスのなかは自由な空間であり、デモクラティックな精神に満ちていた。しかも、そのカウンターでは美女たちが立ち働いていた。上流社会の社交場とは異なり、コーヒー・ハウスは身分の枠を超えて気兼ねなく市民が集い、社会情勢や政治動向、商売から文芸にいたるまでの会話を交わすことのできる集会所だった。
 ところが18世紀半ばには、ロンドンのコーヒー・ハウスは急速に衰退する。代わってあらわれるのが、食事のできるクラブだった。
 コーヒー・ハウスに入りびたる亭主に業を煮やした女性たちがコーヒー反対運動に立ち上がったことが、コーヒー・ハウス衰退の原因だという説もある。

〈ロンドンのコーヒーはあまりに男の飲み物であった。婦人たちが、コーヒー・ハウスに埋没した夫たちを呼び戻し、他方では公共的制度としてのコーヒー・ハウスの活力が使い果たされた時、家庭的団欒のひとときにロンドンの男性と女性は改めて素知らぬ顔でコーヒーを飲むというわけにはいかなかった。コーヒーに代わる非アルコール系飲料として瞬く間に女性をとらえ、そして結局、イギリス人の家庭をとらえたのは紅茶であった。〉

 トマス・トワイニングが女性にも受けそうな優雅なティー・ハウスを開いたのは1717年のことである。むさくるしいコーヒー・ハウスは次第にはやらなくなる。
 ロンドンではコーヒーは敗れた。だが、それでコーヒーの命運が尽きたわけではない。ヨーロッパ大陸の舞台が待っていたのである。
 つづきはまた。

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