SSブログ

臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(2) [商品世界論ノート]

TH_subcnt2352.jpg
 オスマン帝国は1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲するも挫折する。次にウィーンを包囲したときは1683年になっていた。
 このときオスマン帝国の力はすでに限界に達していた。ドイツ・ポーランド連合軍の総攻撃を受けて、敗走する。あとに残された荷物のなかに大量のコーヒー豆があった。そのコーヒー豆をもらい受けた男がウィーンで最初のカフェを開く。そんな逸話がある。
 パリの上流社会でコーヒーが広がりはじめるのは、その15年前、ルイ14世の時代だった。オスマン帝国大使のパリ着任がそのきっかけとなった。
 そのコーヒーを民間で売りはじめたのがアルメニア人の出稼ぎ商人である。最初のカフェはうまくいかないが、カフェはやがて学者や文士のたむろする場所になっていく。1689年には豪奢な雰囲気のカフェ、プロコプも誕生する。カフェという空間からは、100年のあいだにフランス啓蒙主義、アメリカ独立運動、フランス大革命がはぐくまれていく。
 フランスでは、コーヒーはあまりからだによくないといううわさがあり、そこから独特の飲み方が誕生する。ミルクと砂糖をたっぷりいれたカフェ・オ・レである。
 フランスの特徴は、イギリスとちがい、コーヒーが女性の文化にも取り入れられていったことだ、と著者は指摘する。
『フランス史』の著者ミシュレは、1719年の「パリは一つの巨大なカフェになった」と論じている。このころパリには300軒のカフェがあり、そこで人びとはおしゃべりに花を咲かせていた。
 オランダの後を追って、フランスも植民地でのコーヒー栽培をこころみようとする。最初に目をつけたのが、西インド諸島、カリブ海のマルティニク島である。それは功を奏し、1759年にマルティニクとグアダルーペから1120ポンドのコーヒーが輸出される。やがてフランス領西インド諸島から産出されるコーヒーは膨大な量に達した。フランス産コーヒーは中東にまで進出し、モカ・コーヒーの地位を脅かしていく。
 だが、西インド諸島のコーヒー栽培を担ったのは黒人奴隷であることを忘れてはならない。

〈コーヒーを「ニグロの汗」と呼ぶ、おぞましい語彙が残っている。人手のかかるコーヒー栽培を支える労働力は黒人であった。アフリカ西海岸に集められた黒人奴隷はキリスト教牧師の祝福を受けた後、西インド諸島のプランテーションへ運ばれ、奴隷を降ろした船は、今度は砂糖、タバコ、ラム酒、インディゴ、そしてコーヒーをヨーロッパに運ぶのである。黒人奴隷の輸送には……細心の注意は微塵も払われなかった。黒人の三分の一が輸送中に死亡したという。〉

 植民地商品はナント、ボルドー、マルセイユなどの商業資本をうるおし、フランスに製糖産業、皮革産業、木綿産業をもたらした。
 パリの宮廷では、豪奢なコーヒー文化と上流社会のサロンが日々を彩るようになる。大衆はそんな生活とはまるで無縁、毎日パンとスープで腹を満たすのが精一杯だった。
 1787年、フランス全土は不作に襲われる。翌年も同じ。厳冬がつづいた。パリでは三部会が開かれた。パレ・ロワイヤル周辺のカフェはアジテーションの渦と化す。アメリカ独立革命の熱気がまだただよっていた。
 1789年7月14日、バスティーユ監獄が襲撃され、反乱が広がる。カフェは革命派の拠点となる。
 フランス植民地西インド諸島のハイチは、コーヒー、木綿、カカオ、香料などフランスの富の一大源泉だった。その住民はほとんどがアフリカから連れてこられた黒人奴隷で、ほかにわずかな白人と、混血のムラート、それに少数の先住民からなっていた。1791年8月、大規模な黒人奴隷暴動が発生する。1804年、ハイチはついに独立をはたす。だが、その先には苦難の歴史が待っている。

 ナポレオンの台頭はコーヒーの歴史にも大きな影響をおよぼしている。
 1794年に左派のロベスピエール派が倒れ、国民公会が解散され、1795年に総裁政府が成立したとき、ナポレオンは、その指導者だったバラス子爵に見込まれて、かれの副官となった。
 総裁政府は左右の勢力から脅かされていた。右の側は王党派であり、左の側はバブーフを中心とするパンテオン協会である。10月にパリで王党派がクーデターをおこすと、ナポレオンはその鎮圧に成功する。その返す刀で、翌年2月にはパンテオン協会を武力で倒した。
 ナポレオンは着々と支配者への道を歩みはじめる。
 1797年、オーストリア軍に勝利したナポレオンはウィーンに入城する。そして、講和をこばみつづけるオーストリア使節団を前に、手にしていたコーヒー・カップを床に落とし、カップが粉々になるのをみて、「余は貴殿たちの国をこのようにもできるのだ」と言い放ったという。
 1804年、ついに皇帝となったナポレオンはドイツを蹂躙し、神聖ローマ帝国を解体する。1806年にはベルリンに入城し、ベルリン勅令を発し、大陸封鎖を宣言した。
 著者によると、「大陸封鎖というのは、大陸を封鎖することではなく、大陸で海を封鎖すること」なのだという。その最大目的はイギリスとの通商関係を断つことにあった。しかし、海が封鎖されると、コーヒーもはいってこなくなる。
 ナポレオンはコーヒーのことを考えていなかったわけではない。ろくな食事をとらなくても、なんとなく元気のでるコーヒーを軍隊に導入したのはナポレオンだといわれている。コーヒーが手にはいらないとなると、いったいどうするつもりなのか。
 先例があった。
 プロイセンのフリードリヒ大王(1740〜86)は、啓蒙主義と軍国主義によってプロイセンを強国に導いた。そのフリードリヒ大王がオランダからのコーヒー輸入の多さに業を煮やして、こころみたのが代用コーヒーづくりだった。
 その原料はチコリ(キクニガナ)。麦芽、大麦、ライ麦、サトウキビ、いちじく、ドングリ、その他もろもろもこころみられた。それでも庶民は本物のコーヒーを飲みたかった。コーヒーのお湯割りがはやる。
 ナポレオンは海を封鎖したため、西インド諸島からもジャワからもコーヒーがはいってこなくなった。唯一の例外はトルコ、エジプト、シリアのルートで送られるアラビア・モカだけだった。しかし、猛烈に高い。コーヒーの味と香りを忘れられない庶民は、代用コーヒーに走った。
マルクスとエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』には、こんな一節があるという。

〈ナポレオンの大陸封鎖によって生じた砂糖とコーヒーの欠乏はドイツ人を対ナポレオン蜂起に駆り立て、このようにして1813年の輝かしい解放戦争の現実的土台となったことで、砂糖とコーヒーは19世紀においてその世界史的意義を示したのである。〉

 ナポレオンが敗れたのは、砂糖とコーヒーの欠乏が原因だという。これはほとんど冗談に近い話だが、少なくともナポレオンが砂糖とコーヒーを奪ったことが、ドイツ・ナショナリズムに火をつけたことはまちがいないだろう。
 ナポレオンから解放を勝ちとったベルリンッ子は、甘いコーヒーとケーキに喜びを見いだす。こうしたベルリン・スタイルのケーキ屋兼カフェハウスをつくったのは、スイスからやってきた出稼ぎ職人だったといわれる。
 ナポレオン戦争の余波は南アメリカにもおよんだ。
 ナポレオンにリスボンを占領されたポルトガル王室は植民地ブラジルに脱出した。こうして1808年から14年間、リオデジャネイロがポルトガルの首都となった。だが、王室がポルトガル本国に帰還したあと、ブラジルがもはやポルトガルの植民地に戻ることはない。1822年にブラジルは独立を宣言する。
 そのころ、ブラジルからはヨーロッパに向けて、コーヒーが輸出されるようになっていた。やがてブラジルは世界のコーヒー循環を司る中枢へのぼりつめていく。
 たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒーは世界を揺り動かしている。
 つづきはまた。

nice!(13)  コメント(0)