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臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 ドイツの植民地獲得は、イギリスやフランスに遅れをとっていた。1883年に西アフリカを植民地にしたのが最初である。その後、1885年に東アフリカ、すなわち現在のタンザニアの大陸部分、ルワンダ、ブルンジを獲得している。その総督を務めたのがドイツ植民協会のカール・ペータースだった。
 ペータースはドイツ領東アフリカに「ドイツ東アフリカ会社」を設立し、貿易とプランテーションに乗り出す。アフリカでプランテーションといえば、まず思いつくのが東アフリカを原産地とするコーヒーだった。
 東アフリカ会社は調査の末、ウサンバラの丘陵地帯にコーヒー栽培に適した土地をみいだす。多くのプランテーション会社が設立され、東アフリカ会社自体もその一角に加わった。
 丘陵地帯と港を結ぶ鉄道もつくられた。だが、肝心のコーヒー栽培がうまくいかない。プランテーションの乱立が足を引っぱっただけではない。雨が多すぎたほかに、労働力がうまく確保できない。加えて、ブラジルの生産過剰により、コーヒー価格が低迷した。
 1905年にはマジ・マジ反乱が発生した。綿花栽培をはじめとした植民地政府による強制労働が、現地人の反乱を引き起こしたのである。反乱はまたたくまに広がる。これにたいし、ドイツは軍隊を派遣し、反乱を徹底的に鎮圧した。反乱後、ドイツ領東アフリカの住民人口は、戦禍と飢餓により激減したといわれる。
 その後、ドイツは東アフリカ植民地の再建と改革に乗りだす。だが、ウサンバラのコーヒー栽培に関してはうまくいかない。先はまったく見込めなかった。
 しかし、ドイツ人はあきらめなかった。ウサンバラに代わる有望な地をみつけた。キリマンジャロの南山麓だった。
 キリマンジャロのコーヒー生産は大成功を収める。
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 いっぽう、ヴィクトリア湖に面したブコバには、もともとコーヒーが自生していた。ドイツは現地のスルタンを説得して、ここにコーヒー・プランテーションをつくることにも成功する。収穫高は抜群で、しかも上質なコーヒーができた。
 ブコバのコーヒーはイエメンのアデンを介して、モカの名前でヨーロッパに輸出された。すでにモカの港は衰退して久しかった。それでも、アラビア・モカの名前が残ったのは「東アフリカのコーヒーがアデンに送られ、そこでモカの名を冠して市場に出されていた」ためだという。
 第一次世界大戦に敗北したことにより、ドイツは植民地を失った。しかし、人種差別の思想は根強く残った。ドイツ人はみずからを支配人種ととらえ、「劣悪人種」を管理して、かれらから労働力を引きだすという考え方を変えることはなかった。
「ドイツ人がアフリカの『原住民』を扱ったその方法を、ユダヤ人問題の『最終解決』に応用するとき、人種差別主義は国家の官僚機関による合理的な大量殺戮へと展開する」と、著者は書いている。

 第一次世界大戦中、ドイツ政府は必死になってコーヒーを確保しようとした。ブレーメンとハンブルクには大きな備蓄倉庫が立っていた。しかし、思わぬ長期戦を前に、その備蓄も尽きてくる。中立国オランダからの輸入に奔走するが、それもおぼつかなくなる。
 こうしてコーヒーが欠乏すると、兵士の士気も低下してくる。キールの軍港で、水兵たちが「レーテ(協議会)」を結成し、反乱の火蓋を切る。兵士の反乱は全海軍に広がり、ドイツ革命が発生、ホーエンツォレルン家が倒れ、ワイマール共和国が誕生する。
 ワイマール共和国は「ラーテナウ暗殺に始まり、ヒトラーの政権獲得に終わる」と、著者はいう。
 ラーテナウはユダヤ人実業家で、電機メーカーAEGの会長。当時はワイマール共和国の外相を務めていた。1922年に極右テロ組織によって暗殺された。
 ヒトラーは1923年にミュンヘンのビアホールで蜂起し、逮捕される。投獄されたのは8カ月にすぎない。1933年に首相に就任するまで、着々とナチ党の勢力を伸ばしていく。
 その間、1920年代のコーヒー世界はどうなっていたか。
 当時、圧倒的にコーヒーを産出していたのはブラジルである。サンパウロ州の高度600メートルから800メートルの高原地帯は、コーヒー栽培にとっては理想の風土だった。ブラジルは世界のコーヒーの4分の3を生産していたという。
 ところが、大豊作によって生産過剰が生じる。政府はコーヒーを買い入れて価格維持をはかるが、供給の調整がなかなかうまくいかない。すると、そのうち第一次世界大戦が勃発して、今度は需要が落ちこんだ。
 第一次大戦後、ブラジルに幸運をもたらしたのは、アメリカ合衆国の禁酒法だった。そのおかげで、アメリカでのコーヒー需要は一気に伸びた。
 だが、それも1929年の大恐慌まで。コーヒーの価格も大暴落した。それに対抗するため、ブラジルはコーヒーの廃棄をはじめる。廃棄されたコーヒーの一部は、蒸気機関車の燃料になった。
 著者はいう。

〈全世界の消費量の2年半分にあたるコーヒーを廃棄する光景が照らし出しているのは、人間の汗水たらした日々の労働が、無価値としてしか現象しなくなった市民社会の現状であった。それは資本主義自由経済の失効の気分に明確なイメージを与え、新たな国家秩序への渇望を、濃密なアロマとしてドイツの空中に漂わせたのである。そのアロマにいちばん旺盛に元気回復の活力を見出したのはナチズムであった。〉

 アウシュヴィッツの収容所長ルドルフ・ヘスは、ガス室に送りこむユダヤ人に、入浴が終わったら熱いコーヒーを飲ませると約束したという。その浴室、じっさいにはガス室に送られるユダヤ人は、いったいどんな思いでそのことばを聞いたのだろう。その先に、どんな惨劇が待っているかも知らずに。
 コーヒーは幸せを与えてくれる飲み物だった。われわれにとっても、朝のコーヒーは1日のはじまりを後押ししてくれる約束事のようなものだ。
 ごくあたりまえのそんなちいさな喜びは、じつは世界史と世界経済が生み落とした産物であることを、日ごろわれわれはさほど意識しない。それはいつもあたりまえのように届けられる恵みだと感じている。
 1962年の5月、ニューヨークのカフェ・コモンズでコーヒーを飲んでいたある若者は、通りを見ながら、ある歌詞が思い浮かび、それを鉛筆でメモした。若者の名はボブ・ディラン。歌詞は「風に吹かれて」と名づけられた。
 著者はいう。

〈商品フェティシズムと、自然と人間の搾取とは、同じメダルの両面である。コーヒーという商品は地球を一枚のメダルにして、華麗なフェティシズムと陰惨な搾取を繰り広げた近代の典型的な商品であった。〉

 一杯のコーヒーの裏には、欲得づくの植民地主義と辛苦の労働がまとわりついている。にもかかわらず、コーヒーは時を超えて歩みつづける。いまもその歴史は歩みをとめていない。
 たまには、そんなコーヒーの歴史に思いを寄せてみるのも悪くないだろう。そこからひとつの旅がはじまることはまちがいない。
 その答えは風に吹かれるままかもしれないけれど。

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