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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(4) [われらの時代]

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 日中国交正常化はアメリカ側にしこりを残し、ニクソン政権が対日政策を見直すきっかけになった。
 1973年7月31日から8月1日にかけ、ワシントンで田中・ニクソンによる2回目の日米首脳会談が開かれた。
 田中は日本がアメリカからの輸入を大幅に増やし、それによって日本の対米貿易黒字額が12億ドルに減ったことを強調した。これにたいし、ニクソンはさほど喜ぶわけではなく、むしろ日米間の経済競争が激しい政治的対決にいたらぬよう警告した。
 そのあとニクソンは田中にたいし、侮辱的なことばを次々と発した。ウォーターゲート事件で追及され、あきらかにイライラしていた。通訳官はニクソンの悪態ぶりをごまかすのがたいへんだったようである。
 田中は北方領土問題の解決にも意欲を燃やしていた。
 1973年9月26日から10月10日にかけ、田中は西欧3カ国とソ連を訪問、ソ連ではブレジネフ書記長と会見した。
 当時、ソ連は日本との領土問題は解決済みとの態度をとっていた。二島返還を明記した1956年の日ソ共同宣言は反故にされていた。しかし、ブレジネフとの会談で、田中は巻き返す。日ソ間で北方四島が戦後なお未解決の問題であることを確認させたのだ。これは田中外交の成果として、現在も評価されている。
 ところが、著者は、日ソ首脳会談に先立ってキッシンジャーが陰険な秘密工作をしていたことを暴いている。
 1973年8月16日、キッシンジャーはホワイトハウスで駐米ソ連大使のドブルイニンと会い、ソ連が北方領土問題で日本に譲歩しないよう求めていたのだ。そうした背景もあって、ブレジネフは田中との会談で、北方領土が未解決の問題であることを認めたものの、それ以上、踏みこむ気配はまるで見せなかった。
 じつは、田中と会談したブレジネフは、よそよそしく、心ここにあらずという感じだったという。田中訪ソ直前に発生した第4次中東戦争にむしろ気をとられていたのではないか、と同行団の一人が語っている。
 第4次中東戦争が発生したのは10月6日のことで、その後の石油輸出機構(OPEC)による石油価格引き上げによって世界経済は大混乱におちいる。
 資源の乏しい日本は、このとき中東外交をアラブ寄りに転換しようとした。これにたいし、キッシンジャーは日本がアラブの要求に応じないよう警告する。だが、田中は石油の問題がある以上、何もしないと自分の首を絞めることになる、とキッシンジャーの警告を無視し、11月22日に親アラブの外交政策を発表する。この新政策にキッシンジャーは激怒した。
 アラブ寄りの姿勢を示すことで、日本は石油供給を確保した。しかし、石油ショック後、国内の物価は急上昇し、国民の不満は高まっていた。
 1974年7月の参院選で自民党は大幅に議席を減らした。副総理の三木武夫は田中の金権選挙を批判して辞任、蔵相の福田赳夫も内閣を去った。
 そして、金脈問題が浮上するなか、田中は11月に首相を辞任し、いわゆる椎名裁定によって、三木武夫が首相に就任することになる。
 この年の8月にはニクソンも辞任し、9月にフォード政権が成立していた。キッシンジャーは大統領補佐官のまま国務長官に就任した。
 そのキッシンジャーは田中のカムバックを恐れていた。

 1976年4月にアメリカ政府が日本の検察庁にロッキード文書を渡すとき、国務省がその文書を点検したことは前にも述べた。そのさい、国務省は安全保障にかかわる部分は留保し、田中にかかわる部分はそのまま渡した。
 アメリカはなぜ田中にかかわる部分を留保せず、日本側に渡したのだろうか。
 そこにキッシンジャーと三木とのスクラムがあった、と著者はみる。
 三木は官僚を信用せず、1976年3月5日、NHK解説委員で外交評論家の平沢和重をキッシンジャーのもとに送り、ロッキード事件にかかわった政府高官名を早めに知らせてほしいと申し入れていた。
 だが、キッシンジャーの態度は硬かった。平沢は4月5日にもキッシンジャーと会い、三木が高官名を事前に知りたがっていると伝えた。だが、キッシンジャーの返事は同じくノーだった。
 アメリカは、ロッキード事件が自民党政権と日米安保体制に打撃を与えないかと心配していたのだ。
 5月7日、三木は首相官邸でホジソン駐日大使と会い、ロッキード事件は田中金脈問題であり、CIAとの関係は不問にするとの考えを伝えた。三木はロッキード文書のなかに田中の名前があることをすでに知っていた。
 そのころ三木おろしの動きが強くなっていた。だが、三木はそれに耐え、7月27日の田中逮捕を実現し、年内いっぱい政権を維持することに成功する。アメリカの期待どおり、後継首相には福田赳夫が就任した。
 キッシンジャーが田中の告発に直接関与したという証拠はない。そこは慎重で秘密主義を重んじるインテリジェンスの専門家である。だが、フォード大統領との会話では、自分たちがロッキード事件を演出したことをにおわせる部分もある。田中自身も晩年「キッシンジャーにやられた」と話していたという。
 ロッキード事件では、ついに「巨悪」の正体が暴かれることはなかった。著者はこう書いている。

〈ロッキード事件はまさに、残された課題の方が大きかった。児玉誉士夫から先に広がる闇を暴くことができなかったからだ。その闇に棲む「本当の巨悪」[において]は、ロッキード社、丸紅から田中角栄や全日空とつながったルートとは比較にならないほど巨額の金が動いた。〉

 丸紅ルートは5億円、それにたいし児玉ルートは21億円。その21億円のルートはついに解明されることなく、ロッキード事件は幕を閉じた。
 児玉は長年、ロッキード社の秘密コンサルタントをつづけてきた。そのため、実際には児玉への支払いはもっと多額にのぼる。
 児玉が扱っていたのはロッキード社の軍用機だった。その金額は政府予算から支出されるから税金である。軍用機の売り込みに児玉がかかわり、その成功報酬としてロッキード社から多額の現金が支払われていたという事実が判明すれば、日米安保体制が大きく揺らぐ。
 ロッキード社は、CIAの協力者でもある児玉を秘密コンサルタントにすることによって、自衛隊に次期戦闘機F104や次期対潜哨戒機PXLを売り込んできた。
 さらに児玉は全日空へのトライスター売り込みでも暗躍した。マクダネル・ダグラス社のDC10導入を決めていた全日空の大庭哲夫を失脚させたのも、児玉の工作による。
 1972年10月、ダグラス社の巻き返しによって、ロッキード社の工作があやうく水の泡になろうとしたときも、それを救ったのは児玉だった。児玉はコーチャンの訴えを聞くと、その場ですぐ中曽根康弘に電話をかけ、田中角栄を通じて話をひっくり返したのだという。
 ロッキード工作で児玉のはたした役割は大きかった。だが、児玉が成功報酬としてロッキード社から受け取ったとされる少なくとも16億円がどのように使われたかは、ついに解明できなかった。
 児玉誉士夫はロッキード社の次期戦闘機FXにつづき次期対潜哨戒機PXLの売り込みでも動いていた。
日本政府はPXLの国産化を断念し、1977年にロッキード社からP3Cを購入することを決定した。このとき田中はすでに失脚していたが、PXLの国産化方針が撤回されたのは田中政権時代の1972年10月のことである。この一件にも、児玉誉士夫と小佐野賢治が密接にかかわったことがあきらかになっている。そのときもおそらくカネが動いていた。
 いわゆるロッキード事件を暴いた1976年2月のチャーチ小委員会でも、日米間の軍事問題にかかわる秘密工作資金の流れについては、いっさい検証されることがなかった。
 児玉誉士夫がCIAと深くかかわる人物であったことが、児玉ルートの解明を阻む要因になっていた。
 日本の政界で児玉誉士夫ともっとも関係が深かったのが中曽根康弘である。
 1976年2月下旬、中曽根(当時自民党幹事長)はチャーチ小委員会が開かれたあと、ロッキード事件をもみけすようアメリカ側にはたらきかけていたことがわかっている。これにたいし、アメリカ政府も、自民党政権を維持するため、これ以上の情報開示はしないと判断したと思われる。
 こうして中曽根は巧みに逃げ切ることに成功した。そして、1982年11月から87年11月まで日本の首相を務め、日米同盟の強化を推進することになる。
 1979年1月、こんどはアメリカの証券取引委員会(SEC)で、ダグラス・グラマン事件が表面化する。早期警戒機E2Cホークアイを売り込むため、グラマン社が日商岩井を通して、日本の政府高官(岸信介、福田赳夫、松野頼三、中曽根康弘)に不正資金を渡していた容疑がでてきた。
 だが、この事件では、実際のカネの流れについては、ほとんど証拠が明らかにされなかった。
元防衛庁長官の松野頼三に日商岩井から5億円の政治献金が支払われたことがわかったものの、それはすでに時効を迎えていた。
 E2C導入をめぐる疑惑は事実上シロということになる。野党が要求したにもかかわらず、岸信介の国会証人喚問もかなわなかった。
 岸は「政治は力であり、カネだ」と考えていた。「カネは濾過してから使え」が口癖だったという。
 田中以外にも「巨悪」は存在した。
 著者はいう。
「彼らは日米安保関係強化を旗印にした、巨額の米国製軍用機輸入の利権に群がっていたのだ」
 ロッキード事件は、日米安保体制の裏にひそむ利権構造の氷山の一角にすぎなかったことがわかる。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(3) [われらの時代]

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 1976年4月10日にアメリカ政府から東京地検が入手したロッキード資料のなかには、ロッキード社長コーチャンがえがいた人物相関図が含まれており、そこにロッキード→丸紅→田中のカネの流れが示されていた。
 だが、それだけでは田中逮捕に踏み切る証拠にとぼしかった。その時点から東京地検の苦闘がはじまる。
 資料には、そのほかコーチャンが東京に滞在したときに、トライスター売り込み工作にあたったときの日記があった。
 それによると、この事件に日本側で登場するのは、政治家では田中角栄、中曽根康弘(当時通産相)、二階堂進(官房長官)、田中秘書の榎本敏夫、丸紅では檜山広(社長)、大久保利春(専務)、伊藤宏(専務)、全日空では若狭得治(社長)、渡辺尚次(副社長)、それにロッキード社の長年のアドバイザーである児玉誉士夫、さらには小佐野賢治などであることがわかった。
 さらに別のメモでは、橋本登美三郞(元運輸相)、二階堂進、佐々木秀世(運輸相)、福永一臣(議員)、佐藤孝行(元運輸政務次官)、加藤六月(元運輸政務次官)にもカネが支払われていることがわかった。のちに橋本と佐藤は逮捕され、受託収賄罪で有罪判決を受ける。ほかの4人は「灰色高官」と呼ばれたものの、時効のため起訴されなかった。意外なことに、全日空社長の若狭にも多額の謝礼金が支払われていた。
 相関図は複雑にからみあっていた。その焦点にはどうみても田中角栄がいた。だが、田中逮捕を可能にする決定的な証拠は見つからなかった。
 ここで著者は、いわゆるロッキード資料のなかに、日本側に提供されなかったものがあったことを指摘する。それは軍用機の対日輸出関係にかかわる資料だった。
 もしそれが明らかになり、児玉誉士夫を通じて多くの政治家にカネが渡っていることがわかれば、日米安保体制があやうくなる、と国務省が判断したとしてもおかしくない。これがロッキード事件の裏のインテリジェンスにかかわる秘密だった。
 こうして、事件の主役と見られていた児玉誉士夫は脇役とみるほかなくなったのである。
 東京地検特捜部は田中角栄逮捕に向けて全力を集中した。その息詰まる捜査過程については本書をお読みいただくほかない。丸紅幹部の逮捕と自供、コーチャンへの嘱託尋問、全日空社長、若狭得治の逮捕をへて、田中角栄と秘書の榎本敏夫が逮捕されるのは1976年7月27日のことである。
 捜査を通じて、金銭のやりとりに関して次のような経緯がわかってきた。
 1972年8月23日、丸紅の檜山と大久保は目白台の田中角栄私邸を訪問し、総理が運輸大臣を指揮して、全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう働きかけてもらいたいと依頼した。そのとき、田中は即座に「よっしゃ、よっしゃ」(実際には「よしゃ、よしゃ」だったらしい)と答え、5億円の献金(賄賂)を受け取ることを了承した。
 8月28日にも、財界人の集まりで、檜山は田中と話し、トライスターの導入を勧めている。
 さらに10月14日、檜山は田中邸を訪れ、田中からロッキードの件はうまくいっているから心配ないという話を聞いている。田中は全日空の若狭社長に電話するとともに、全日空の大株主で盟友でもある小佐野賢治にもトライスターを採用するよう働きかけていた。
 こうして、10月30日に全日空による最初のトライスター6機の正式発注が決まるのである。
 ところが、ロッキード社はすぐ田中に5億円を支払ったわけではない。翌1973年6月ごろ、田中の秘書、榎本敏夫から丸紅専務の伊藤宏に支払いを催促する電話がかかってきた。
 伊藤はさっそくコーチャンに連絡したが、コーチャンはもう予算は使ってしまったと答えた。連絡がないので、たぶん、田中との約束はなくなったのだろうと思っていたというのだ。
丸紅側は激怒し、それならもうロッキード社の製品は日本では売れないようにすると答える。これにはロッキード社のほうが慌て、さっそくカネを用意することにした。
 ロッキード社は4回に分けて、カネを支払うことにした。カネが用意できるとロッキード社日本支社長のクラッターが丸紅の専務、大久保に連絡し、伊藤がそれを受け取るという段取りになった。
カネを受け取ると伊藤は1回目はピーナツ領収書を、2回目からはピーシズ領収書をクラッターに渡した。そのカネはすぐに田中の秘書、榎本か、榎本の運転手に渡された。
 渡された時間と場所は1回目が1973年8月10日で英国大使館裏(1億円)、2回目が10月12日で伊藤の自宅近くの電話ボックス前(1億5000万円)、3回目が1974年1月21日でホテルオークラ駐車場(1億2500万円)、4回目が3月1日で伊藤の自宅玄関(1億2500万円)だった。
カネは段ボールにはいっていた。
 ロッキード裁判は長期化し、昭和と平成をまたぐ18年間の長期裁判となった。1983年10月12日、田中角栄に懲役4年の判決が言い渡される。田中は上告し、最高裁判決が出る前の1993年12月16日に死去した。これによって田中の受託収賄罪が確定した。

 しかし、ロッキード事件には隠された別の面がある、と著者はいう。
 それがキッシンジャーの関与である。かれが田中角栄を排除しようとしたのは、田中外交に嫌悪をいだいたためだ。
 著者はその証拠となる文書をいくつも発見している。
 1972年7月6日に日本の首相に就任した田中角栄は、日中国交正常化に意気込んでいた。田中は9月下旬に中国を訪問、早々と日中国交正常化を実現する。そんな田中の動きに、アメリカのニクソンとキッシンジャーは強い不満と警戒感をつのらせたというのだ。
 田中は訪中を控えた8月31日から2日間、ハワイでニクソンと日米首脳会談をおこなっている。ニクソンはすでに2月下旬に中国を訪問、毛沢東や周恩来とも会見して、「上海コミュニケ」を発表し、米中関係改善の扉を開いた。
 だが、このときアメリカは中国と国交を正常化したわけではなかったし、正常化するつもりもなかった。台湾問題で合意をみられそうもなかったからである。そのため、アメリカが中国との関係を正常化するのは、日本よりもはるかに遅く、1979年1月となる。
 上海コミュニケでは、台湾からの米軍の撤退がうたわれていたが、その時期は明記されていなかった。「一つの中国」についても、アメリカは中国の考えを理解すると表明しただけである。国交正常化までにはまだ時間を要すると考えていた。
 日米の外交当局どうしの打ち合わせのなかで、アメリカは日本が中国に接近するのはかまわないが、そのさいには日米間の事前調整が必要だと主張していた。ところが、田中角栄は日中国交正常化に向けて突っ走るのである。
 9月29日に北京で合意された「日中共同声明」には、日本が中華人民強国政府を中国の唯一の合法政府であることを承認すると記されていた。これにより、台湾は即日、日本と断交した。田中は早くから台湾との断交を覚悟していたといわれる。
 この年5月15日には沖縄が日本に返還されていた。これによりアメリカは日米関係がより強固なものになると考えた。沖縄返還を花道に佐藤栄作は6月17日に退陣、そのあと自民党総裁選で総裁に選ばれたのは、佐藤の後継者と目されていた福田赳夫ではなく、コンピューター付きブルドーザーといわれた田中角栄だった。
 田中は日米間の懸案としてくすぶっていた繊維問題を通産相時代に強引な手法で、あっというまにケリをつけた。そのことを当初、アメリカは高く評価していた。
 キッシンジャーは田中と頻繁に会っている。田中はキッシンジャーとのあいだで、佐藤時代のような「密使」を使わなかった。そのため、両者の関係は当初フランクに進むかに思われた。ところが、である。田中は日中国交正常化に向けて突っ走る。
 その動きにアメリカ政府は懸念を示していた。とはいえ、それはストレートに伝わらない。表向き、アメリカは日中国交正常化を妨害しないという立場をとらざるをえなかったからである。
 田中が首相に就任すると、中国はこれまでの頑なな原則論を捨てて、日中国交正常化を積極的に求めるようになった。それにたいし、田中政権も前のめりになり、国交正常化に向けて、大胆に舵を切っていく。
 8月31日から2日間にわたって、ハワイで開かれた日米首脳会談でも、アメリカ側はホンネを隠し、日本側と日中問題について議論した。その議論は堂々巡りに終わり、アメリカは田中による日中国交正常化の動きを阻止できなかった。
 しかし、アメリカのホンネは、日本が中国との関係において、米中の「上海コミュニケ」を超えたところまで踏みこんでもらいたくなかったのである。とはいえ、アメリカが日中国交正常化に反対したととらえられる愚は避けたかった。ベトナム戦争がつづくなか、アメリカも米中関係の改善を望んでいたからである。
 こうして、アメリカ側、とりわけ外交の責任者であったキッシンジャーは、アメリカの苦労を無視して、さっさと先に進んでいった田中外交にたいする怒りをふつふつと煮えたぎらせることになる。田中外交への不信、 それが、ロッキード事件でふきだすことになるのである。
 ロッキード疑獄は単なる贈収賄事件ではない。アメリカに逆らうと、どんな痛い目にあうかを、日本の政治家の頭にすり込んだできごとだったともいえる。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(2) [われらの時代]

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アメリカの航空機会社ロッキード社による日本へのエアバス売り込み工作が最終局面を迎えたのは1972年のことである。
 その背景にはどのような状況があったのだろう。
 著者による説明を聞いてみよう。
 ベトナム戦争末期、軍需が減るなか、アメリカの巨大航空会社各社は経営困難におちいり、旅客機開発に社運をかけていた。
 そのころ、日本では田中角栄が首相となり、アメリカではニクソンが大統領に再選されていた。
 ニクソンは地元カリフォルニアのロッキード社に肩入れしていた。そのロッキード社が再建の柱としたのが、民間旅客機のL1011トライスターであり、その最大の売り込み先が日本だったのだ。
 ロッキード社の最大のライバルはマクダネル・ダグラス社だった。両者はともにエアバス(広胴型)のトライスター機とDC10の売り込みをめぐって、激しく争っていた。
 1970年代はじめ、日本では日本航空がエアバスの導入を断念したため、売り込み先は全日空にしぼられていた。その全日空にたいしても、ロッキード社はマクダネル・ダグラス社に遅れをとっていた。
 そこで、ロッキード社は、これまで日本に軍用機を売り込むさいに世話になっていた児玉誉士夫にあらためて工作を依頼する。調べてみると、すでに全日空は三井物産を通じて、DC10型機3機をオプション契約していた。
 1970年、児玉は汚い手を使って、全日空社長の大庭哲夫を辞任に追いこむ。こうしてDC10の発注が白紙に戻ったあと、ロッキード社の社長コーチャンが1972年8月から70日間、東京に乗り込んで、陣頭指揮をとり、全日空からの受注を勝ちとるのである。
ニクソンもロッキード社を支援した。
 1972年8月31日から2日間、ハワイでは田中・ニクソンの日米首脳会談が開かれていた。記録には残っていないが、その懇親会で、田中がニクソンにロッキード社のトライスター購入を頼まれた形跡がある。
 だが、田中がニクソンからロッキード社製のトライスター購入を依頼される約1週間前に、田中はすでに丸紅社長の檜山広から5億円の秘密政治献金の話を持ちかけられていたのだ。

 ロッキード事件が浮上するのは4年後の1976年になってからだ。
 そのころ、ニクソンはウォーター事件で失脚(田中も金脈問題で失脚)、その後、アメリカではニクソンへの違法な政治献金疑惑が浮上していた。
 アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会のフランク・チャーチ委員長は、証券取引委員会(SEC)とともに、多国籍企業による多くの違法政治献金事件を調査していた。そのなかで、ロッキード事件が見つかることになる。
 1976年2月4日。この日、ワシントンの連邦議会議事堂では、上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会が開かれていた。フランク・チャーチ委員長の名前をとって、チャーチ小委員会と呼ばれる。
 このとき、ロッキード社が対日工作資金として、児玉誉士夫に約700万ドル(当時のレートで21億円)、丸紅に約320万ドル(同9億6000万円)を支払っていたがあきらかになった。
 丸紅専務の伊藤宏がピーナツ100個を受領したという領収書も公表された。ピーナツは金を意味する暗号で、1個100万円で計1億円となる。ほかにも伊藤が4億円を受け取ったことを示すピーシズの領収書も提出され、丸紅が合わせて5億円を受け取った事実が立証された。
 他方、児玉の領収書には宛先がなく、児玉の丸印だけが押されていた。その枚数は36通、金額は15億4334万円にのぼった。
 2月6日の公聴会ではロッキード社副会長になっていたコーチャンが証言した。そこでコーチャンは、児玉誉士夫が1960年代はじめからロッキード社と協力関係にあったこと、旅客機トライスターの売り込みにあたっては国際興業社主の小佐野賢治の協力を得たこと、さらに丸紅側の提案により複数の日本政府高官に賄賂を送ったことを認めた。
 あらかじめ、その後の日本側の捜査についてふれると、児玉ルートは解明されないまま1984年の児玉の死去により捜査は終了することになる。戦闘機の売り込み工作に用いられたとされる総額21億円の行方は、いまもわからずじまいである。
 捜査が執拗につづけられたのは丸紅ルートである。その結果、丸紅から5億円を受け取ったとして8月16日に田中角栄が逮捕された。田中は1審、2審で実刑判決を受けたあと、上告後の1993年に死亡し、その後、ロッキード事件は次第に忘れられていった。
 田中逮捕にいたる経緯については、あらためてふれることにしよう。

 著者はチャーチ小委員会の半年前の1975年夏に、上院の別の委員会(銀行委員会)で、すでにロッキード事件が暴かれていたことをあきらかにしている。ロッキード社のホートン会長が、日本を含む各国政府の高官にカネを支払ったことを事実上認める発言をしていたのだ。
 日本のメディアは、この事実をほとんど報道しなかったが、この情報をいちはやく活用した国会議員がいる。社会党の楢崎弥之助である。
 楢崎は1975年10月23日の衆議院予算委員会で、ロッキード社の次期対潜哨戒機(PXL)と旅客機L1011トライスターの対日売り込みにさいし、日本の政界に5000万円ないし3億円のコミッションが流れたのではないかという疑惑を追及した。
 楢崎が注目したのは1972年8月31日から9月1日にかけてハワイで開かれた田中・ニクソン会談だった。だが、証拠はまだ見当たらなかった。楢崎がさらに田中とロッキード社との関係に言及するのは、翌年チャーチ小委員会が開かれた直後の2月10日のことである。
 チャーチ小委員会で事件が明るみにでた以上、東京地検、警視庁、東京国税局は動かざるをえなかった。合同捜索がはじまる。丸紅による改ざん書類やいくつかの証拠が見つかった。
 国会では2月16日から衆議院予算委員会で証人喚問がはじまった。だが、国際興業社主の小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広も、存じていない、記憶にございませんをくり返すばかりだった。
 じつはチャーチ小委員会の資料には、政府高官名を記したものはなかった。田中角栄の名前が明記されていたのは、証券取引委員会(SEC)の資料である。日本側はこの資料をどのようにして手に入れたのだろう。
 その裏にあったのは、首相三木武夫の執念である。三木おろしの動きが表面化するなか、三木はカムバックをはかろうとしていた金権政治家の田中角栄を政治的に封じようとしていたという。野党の証人喚問要求に積極的に応じたのもそのためだったが、その証人喚問は茶番で終わってしまった。
 三木はアメリカ政府に政府高官名を含めた関連資料の公表を求めていた。しかし、フォード大統領は捜査が完了するまで、SECの資料は公開できないとの立場を示した。

 ここで、時間を少し巻き戻してみよう。
 上院外交委員会多国籍企業小委員会、通称チャーチ小委員会がロッキード社の問題を取りあげるようになったのは、1975年9月12日からである。最初はインドネシアやイラン、サウジアラビア、フィリピンへの軍用機販売がテーマになり、翌年2月4日になって、ようやく対日売り込み工作の問題が取りあげられた。
 追及の焦点となったのはロッキード社から賄賂を受け取った日本の政治高官の名前だった。
ロッキード社の会計事務所からチャーチ小委員会に提出された資料には、政府高官の名前がはいった文書が削除されていた。外交関係に配慮したとされる。
 また調査されたのは民間航空機トライスターの件だけで、軍用機P3Cオライオンについてはまったく調査がなされなかった。
 こうしてチャーチ小委員会は尻切れトンボで幕を閉じることになる。
 他方、証券取引委員会(SEC)もロッキード社に資料提出を求めていた。ロッキード社に不正行為の疑いがあれば、徹底追及するのがSECの立場である。
 SECは外国政府高官の名前を特定するため、粘り強い調査をつづけていた。そして、SECが最終的に獲得したロッキード社の資料に、田中角栄の名前も含まれていたのだ。

 そのころアメリカの外交を牛耳っていたのがヘンリー・キッシンジャー(大統領補佐官に加え73年9月から国務長官兼務)である。
キッシンジャーは証券取引委員会(SEC)の資料を日本の東京地検に引き渡す件に関して、「助言」する権限をもっていた。キッシンジャーはSECの資料のなかに田中角栄の名前があることを知っていた。
 SECの資料はワシントンの連邦地裁の法的管理下に置かれていた。これを外国の捜査機関に引き渡すかどうかは、司法省と国務省の判断にゆだねられていた。
 日米司法当局の交渉により、3月23日に日米の取り決めが調印された。SECの資料が東京地検に到着したのは4月10日のことである。
 検察庁から派遣されて米司法省と交渉したのは堀田力だった。
 日本への文書提供に関し、最終的にチェックをおこなったのは国務省である。田中角栄の名前を記した文書は渡すが、日米関係に過度のダメージを与えないよう(つまり反米政権などが生まれることのないよう)最大限の配慮が払われた。日本に渡された資料は6000ページのうち2860ページだった。
 国務省内で田中角栄の名前入り文書を日本側に引き渡すよう強く求めたのは、国務長官のキッシンジャー自身だ、と著者はみている。
 ロッキード事件でアメリカ政府が恐れたのは自民党政権の崩壊である。非自民の反米政権が誕生すれば、日米安保体制はあやうくなり、在日米軍基地の維持もむずかしくなるかもしれない。しかし、政府高官の名前のはいった文書を日本側に渡さなければ、大物政治家が逮捕されず、日本国民の不満が溜まるいっぽうだろう。
 国務省は内部で論議を重ねた末、田中の容疑を示す文書を日本側に渡すことにした。アメリカ政府は、日本側の慎重な捜査が進展することで、むしろ三木政権が安定することに賭けたのである。
 4月10日に東京地検に到着したロッキード資料のなかで、政府高官名が記された文書は意外に少なく3点だけだった。だが、そのなかにロッキード社社長のコーチャンが手書きで記した人物相関図があった。その中央に書き込まれていたのがTanakaの名前だった。キーパーソンが田中であることはまちがいなかった。
 三木がロッキード事件の徹底解明を主張するなかで、水面下では三木おろしの動きが活発になっていた。だが、それは成功しない。世論はロッキード事件の解明を求めていたからである。
 1976年6月30日、ワシントンのホワイトハウスで三木・フォードによる2回目の日米首脳会談が開かれた。アメリカはクリーン・イメージの三木を洗練された「進歩派」と高く評価するようになっていた。
そして、このあと7月27日、東京地検特捜部は田中前首相の逮捕に踏み切るのである。
 疲れたのできょうはこのあたりまで。あらためて、すごい話だなと思う。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(1) [われらの時代]

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 立花隆はこう書いている。
「ロッキード事件は裁判によって明るみに出される部分より、関係者の沈黙によって永遠に闇の中に葬られた部分のほうがはるかに巨大なのである」
 ほとんどの人は、1976年に発覚したロッキード事件を田中角栄による収賄事件と思いこんでいる。だが、それはほんの氷山の一角にすぎない。立花隆のいうように、この事件の闇は深いのである。
 本書『ロッキード疑獄』の著者は『秘密のファイル』などで知られる国際ジャーナリスト。共同通信ワシントン支局長や特別編集委員を歴任し、テレビでもおなじみだが、15年がかりの執念で執筆した600ページ近い本書では、知られざるロッキード事件の隅々に光をあて、はじめて事件の全容をあきらかにした。そこから浮かびあがるのは、日米安保体制の利権に巣くう黒いネットワークである。
 それでも、この事件では、なぜ田中角栄ばかりに注目が集まったのだろうか。黒幕とされた児玉誉士夫とそのルートにほとんど捜査がおよばなかったのはなぜか。そこには、何か政治的な意図のようなものすら感じられはしないか。
 昔、文明子(ムン・ミョンジャ)の『朴正熙と金大中』(2001)という本を編集していたときに、あっと思う一節にぶつかったことがある。
 文明子は韓国系の女性ジャーナリストで、長くホワイトハウスの取材を担当していた。金大中拉致事件をいち早く伝えたため、韓国中央情報部(KCIA)にねらわれ、アメリカに政治亡命した。
 その彼女があるとき、キッシンジャー国務長官にこう尋ねた。
「ヘンリー、ロッキード事件もあなたが起こしたんじゃないのですか?」
 するとキッシンジャーは「オブコース(もちろんだとも)」と答えたというのだ。
 彼女によると、キッシンジャーはアメリカを差し置いて中国と国交を結んだ田中角栄を「あまりにも生意気」と考え、「田中程度なら、いつでも取り替えられる」とうそぶいていた、と彼女は書いている。
 ちょっと眉唾なところもある。というのも、1976年にロッキード事件が発覚したときには、田中角栄は金脈問題で、すでに失脚していたからである。
 はたして、このキッシンジャーの発言はほんとうなのか。それとも、それは彼女の創作なのか。もし、ほんとうだとしたら、キッシンジャーはロッキード事件の暴露とどのようにかかわっていたのか。
 キッシンジャー発言の謎は、その後、長いあいだ、ぼくのなかでわだかまっていた。
 そして、本書によって、キッシンジャーがロッキード事件を利用して、田中角栄を政治的に葬ろうとしたのは事実であることをはじめて確認することができた。さらに、キッシンジャーがなぜそんなことをしたのかという謎もようやく解けたのである。
 そこでは日米間のすざまじい政治的暗闘がくり広げられていた。

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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(5) [われらの時代]

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 1966年、中国で文化大革命がはじまった。
 渡邊はこの中国の動きに最初に注目したのが吉本隆明だったと書いている。吉本は1966年8月の『文芸』に「実践的矛盾について」という皮肉な題名の一文を寄せ、「中共支配下の整風運動」は、「戦争期の日本の農本主義思想の運動と実践がたどったとおなじ命運をたどるだろう」と予言している。しかし、その吉本も文革の実態をつかんでいたわけではない。
 1967年2月、川端康成、石川淳、安部公房、三島由紀夫は連名で、文革批判の声明を発表、文化大革命が学問芸術の自由を圧殺していると糾弾した。
 そのころ、武田泰淳は雑誌『展望』に秋瑾(しゅうきん)の史伝『秋風秋雨人を愁殺す』を連載しはじめていた。連載は4月から9月までつづき(6月は休載)、翌68年3月に追加の章を発表して、単行本として出版された。
 秋瑾(1875〜1907)は、清朝末期の女性革命家。夫と子を捨て日本に留学、実践女学校に入学した。清朝を倒すため浙江省人の革命団体、光復会に入会し、帰国後、1907年7月、徐錫麟(じょしゃくりん)とともに武装蜂起する計画を立てる。
 だが、計画に齟齬が生じた。予定より早く7月6日に安徽省安慶で蜂起せざるを得なかった徐錫麟は、安徽巡撫、恩銘の暗殺に成功したものの、たちまち逮捕、処刑されてしまう。当局は秋瑾による紹興での武装蜂起計画を察知し、7月13日に秋瑾が代表をつとめる大通学堂を包囲し、秋瑾を逮捕。31歳の秋瑾は2日後、斬首により処刑された。密告があったとされる。秋瑾は詩人でもあり、「秋風秋雨人を愁殺す」は彼女の遺句である。
 武田泰淳は秋瑾が厦門(アモイ)で府長官の孫娘として生まれたところから筆を起こし、彼女が湖南の富豪の家に嫁ぎ、官位を買った夫にしたがって北京に行き、夫にさからって1904年に日本に私費留学、光復会に参加し、武装蜂起を計画するにいたった経緯を最初の2章で丁寧に追っている。
 渡邊によれば、この2章を書き終えた段階で、武田泰淳は1967年4月13日から5月17日に帰国するまで、訪中作家代表団の団長として、中国各地を訪れた。杉森久英、永井路子、尾崎秀樹らが同行し、北京、西安、上海、杭州、紹興、長沙をめぐったという。
 帰国してから、武田は『展望』7月号に秋瑾伝のつづきを発表する。武田はさっそく杭州から紹興に向かったときの旅行の印象をはさんだ。中国の並木の路は美しく、杭州から紹興までは1時間半の旅程だった。水路には小舟が浮かんでいた。紹興に着くと、武田は魯迅の故居を訪れてから、秋瑾ゆかりの場所に行くが、そこは門が閉ざされていて参観ができなかった。
 武田は毎月連載の秋瑾伝を書きつなぐ。魯迅のエッセイ「水に落ちた犬を打て」に触れながら、こう書く。

〈徐錫麟と秋瑾が刑死した年にだけ、秋風秋雨が人を愁殺したのではなかった。その後、魯迅は死に至るまでくらい秋風秋雨が止むことなく人を愁殺しつづけるのを感じつづけていた。さもなければ、「水に落ちた犬を打て」の主張がますます彼の胸中にあって確固たる信条になって行くはずがない。〉

 武田は、文化大革命下の中国でも、秋風秋雨が激しく人を打っていると感じていた。
 魯迅はその小説「薬」で、夏瑜(かゆ)という青年に托して、秋瑾のことを描いている、と武田はいう。魯迅は日本留学中、さほどことばを交わしたわけではないにせよ、東京で秋瑾の姿を見ていた。
 武田はいう。
「勇敢にも刑死直前まで、牢番に向って革命の大義を説こうとした青年の名は夏瑜、秋と夏では季節もつながるし、瑜と瑾は同じ玉へんであるから、すぐさま察しのつくような名にしているのは、用心ぶかい魯迅としては珍しいことである」
 さらに武田は魯迅の「酒楼にて」から「今後だって? わからんよ。君はいったい、あのころぼくたちが予想したことで、一つでもその通りになったことがあると思うかい」ということばを引いて、中国革命が当初予想した方向とはちがう道をたどりはじめていることを暗示している。
 秋瑾伝を書くにあたって、武田は古くからの友人でもあった夏衍(かえん)の『秋瑾伝』を参考にしていた。その夏衍が、このたびの文化大革命で1年ほど前から激しく攻撃されていることを知った。
 やがて夏衍は7年間にわたって投獄されることになる。しかも夏衍を執拗に攻撃していたのが魯迅の妻、許広平であったことが「何とも物がなしい、わりきれない闇となっておそいかかり、いつまでも漂ってはなれない」と武田は書く。そして、魯迅の言にしたがえば、「私などは『落ちるまえに死せる犬』であらねばならないだろう」と嘆いた。
 悲しみが伝わってくる。
 武田の秋瑾伝からは「秋瑾と魯迅をつうじて、当時だれも考えおよばなかった粛清という文化大革命の本質に迫る、すくなからぬ問題が提起されている」と渡邊は論じている。
 1968年8月の『群像』に掲載された「わが子キリスト」でも、渡邊は武田が「『秋風秋雨人を愁殺す』では書きえなかったみずからの現在の中国そのものへの複雑な思いを、イエス復活の故事に託して大胆に吐露した」とみている。そのとき武田の脳裏には自殺した老舎をはじめ、文革で迫害された多くの作家の顔がよぎっていた。
 いっぽう、竹内好は1963年2月以来、「中国の会」を結成し、雑誌『中国』を発行しつづけていた。雑誌の中心を担ったのは、竹内をはじめとして、橋川文三や尾崎秀樹などである。雑誌『中国』は、当初、普通社から発行されていたが、普通社が経営不振におちいったため、1964年6月から会員制となり、その後、67年12月から徳間書店が版元となり市販されるようになった。 竹内はここに10年間にわたり「中国を知るために」というエッセイを掲載しつづけた。
 竹内好個人は1965年に評論家引退宣言を出していた。とはいえ、時折、中国について語っている。1966年12月の『思想の科学』では、小田実との対談で、中国では新民主主義といわれる過渡期がかなり長くつづくと思っていたのに、「その点では、全く私の予想がはずれたんですよ」と思わずホンネをもらしている。中国社会主義への幻滅が深まっていた。
 1967年6月の『文芸』では、文化大革命のはじまった中国を見て帰国した武田泰淳と対談している。竹内はいまや毛沢東が偶像になってしまっていることに疑問を呈しながらも、実権派が国家防衛だけを考えているのにたいし、毛沢東は世界革命を目標としているのではないかとも話している。そのころ日本やフランスでは、学生運動の一部に毛沢東思想が浸透しはじめていた。
 中国にいささかの落胆を覚えながらも、竹内は中国を擁護しつづける。筑摩書房から刊行された『講座中国』第1巻には「日本・中国・革命」と題する一文を寄せた。
 中国は日本をアメリカ帝国主義の隷属下にあるとみている、と竹内は述べ、中国の危機感をこう説明する。「アメリカからの侵略を既定の前提として、その場合、ソヴェトは頼りにならない、あくまでも自力で抵抗するほかない、と考えていまの行動を割り出している、これが危機感の内容である」
 日本人とちがって、中国人は革命を善なるものととらえている、とも書いている。中国人にとって「永続的なのは国家ではなくて、革命である」とも断言する。「世界的規模をもってする帝国主義には、革命を世界的規模に拡大するのが唯一の対抗策である、と中国人がいま考えたとしても、それは空論ではなく、歴史から学んだかれらなりの帰結である」
 1968年1月の『思想』で、大塚久雄と対談したときには、竹内は「私は文化大革命はわからない、判断を放棄します」と、あっさり述べている。竹内の気持ちは揺れていた。
 竹内は学術訪中団や文芸家協会から訪中のさそいがあっても、からだに自信がないという理由でことわっている。そのくせ、1969年6月10日から7月5日まで、武田泰淳・百合子夫妻といっしょにソ連全土を回っている。官製の中国旅行はしたくないという気持ちが強かった。
 だが、竹内の日中国交回復をねがう姿勢は変わらなかった。1970年2月に竹内は日米軍事同盟が強化されるのをみて、「日中国交回復はまったく絶望的になった」と述べ、7月には「たぶん米中戦争は必至であり、その一環としての日中戦争も必死でありましょう」との絶望感を表明していた。1971年10月にも「私個人は、中国との国交回復をあきらめております」と書いていた。ところが、1972年9月に田中角栄首相が訪中し、日中共同声明がだされ、国交回復が実現することになるのである。
 テレビで共同声明が発表されるのをみて、竹内は「肩からスーッと力がぬけてゆく感じがした。ほとんど予期のとおり、というよりも、予想以上のものだった。よくもここまでやれた、というのが正直な印象である」と、雑誌『中国』に記した。まさか、アメリカよりも前に、日本が中国との国交回復をはたすとは思ってもいなかったのだ。
 雑誌『中国』はとりあえずの目的を果たし、幕を閉じることになった。だが、このとき竹内をとらえていたのは、むしろ非力感だった。
 日中関係は、国交回復以降、新たな局面にはいっていく。
 日中関係が急転回する直前、武田泰淳は大作『富士』の執筆に取り組んでいた。原稿は1969年10月から71年6月まで雑誌『海』に掲載され、71年11月に単行本として発売された。
 この小説は一見、中国とは無関係のようにみえる。しかし、渡邊はいう。

〈たしかに『富士』は、舞台が1944年の春から秋にとられ……敗戦直前の日本にたいする辛辣な批判となっていることを、わたしとて否定するものではない。だがその敗戦直前の日本と重ねあわせるようにして、武田泰淳がそこに文化大革命下の中国を見ていたと考えることは『富士』が『秋風秋雨人を愁殺す』「わが子キリスト」と、ほとんど間をおくことなく書きつがれたことからも、けっして見当はずれではないと、わたしは思う。〉

 武田の目にはいま中国は「ワルプルギスの夜」のようにわきたち、権力の陰謀が渦巻く空間と映っていた。渡邊からすれば、武田の『富士』には「変転きわまりない中国のありようから距離をおいて、かつて中国を侵略した兵士であった過去を胸に、ひたすらその罪を贖うため殉教者のように生きようとする」姿が描かれているようにみえるのだった。
 竹内好は1974年2月、酒場の階段から転落して、骨折し2カ月間の入院を余儀なくされた。「中国の会」が解散してからは、ふたたび魯迅の新翻訳に没頭するようになっていた。全7巻の『魯迅文集』第1巻がようやく筑摩書房から刊行されたのは1976年10月のことである。
 いっぽう武田泰淳は、1971年の谷崎潤一郎授賞式の会場で倒れた。脳血栓だった。1974年には百合子夫人の助けを借りて、口述で『目まいのする散歩』を連載しはじめる。さらに「上海の蛍」などの上海懐古に着手するが、1976年10月5日、胃がんのため死去した。享年64歳。
 このとき葬儀委員長をつとめた竹内好は、11月に食道がんが発見され、入院する。その後、病院に『魯迅文集』のゲラを持ち込んで仕事をしていたが、第3巻の解説を口述筆記したあと、1977年3月3日に66歳で亡くなった。魯迅の全面新訳はかなわなかった。
「竹内を表とすれば武田が裏というこのかけがえのない関係は、ふたりの死までつづ」いた、と渡邊は書いている。「死にいたるまで中国と中国人にたいする日本人としての責任を問いつづけたふたりは、戦後の中国が消滅していくまさにそのとき、近代日本にとって貴重な遺産を残して世を去った」
 もし、あのころ竹内好と武田泰淳を読まなければ、ぼくもただの反中の徒に成り果てたかもしれない。ぼくにとって、竹内と武田は、いまでも中国への入り口でありつづけている。

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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(4) [われらの時代]

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 1959年11月、筑摩書房の『近代思想史講座』第7巻に、竹内は「近代の超克」と題する論考を寄せた。
 もともと「近代の超克」は、太平洋戦争開戦翌年の『文学界』1942年9月号、10月号に掲載された特集のタイトルで、そこには西洋近代主義を克服するための視座を示す論文と、論文にもとづくシンポジウムの記録が掲載されていた。特集に参加したのは、西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、義満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎の13人。「近代の超克」という標語は、「大東亜戦争」推進のイデオロギー的役割を果たしたとされる。
『近代思想史講座』の論考で、竹内はこの特集「近代の超克」が、『文学界』グループと日本浪漫派、京都学派の三派によって論じられていることを明らかにし、喧伝されているのに反し、それが「戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかった」ほど無内容であること、それゆえ勝手な読みをゆるされ、ムードとして拡散したにすぎないと評する。
 竹内はいう。「満洲事変」、「支那事変」以来、日本が中国を侵略しているとみる人は、けっして少なくはなかった。だが、そのころ反戦運動や反ファシズム闘争が組まれることはなかった。中国との戦争には日本民族の「優越意識」がしみついていた。そして、太平洋戦争(「大東亜戦争」)の火蓋が切られると、多くの人びとが欧米との開戦に礼賛の意を示した。
「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった」と竹内はいう。すなわち、大東亜戦争二重構造論。植民地解放闘争ではなく、植民地侵略戦争というところに、竹内らしい誠実さがあるとみてよいだろう。
 この二重構造は補完関係と相互矛盾の関係にあったとされる。なぜなら先進国が後進国を指導するというのは西洋的な原理だが、植民地解放運動は日本帝国主義だけを特殊扱いにしないからだ、と竹内はいう。
「アジアの盟主」という主張に、連帯の基礎はなかった。そのため、戦争は解決されることなく無限に拡大し、太平洋戦争は「永久戦争」になるほかなかった。
「わたしは、徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた」と竹内は告白する。これは吉本隆明と同じ考え方である。大東亜戦争は理念としては永久戦争、総力戦であって、抵抗という思想にはいたらなかったと認めている。
 京都学派は戦争とファシズムの理論をつくりだしたのではなく、政府の公式見解を擁護しただけだ、と竹内はいう。
 いっぽう、かつて交友関係のあった保田与重郎に代表される日本浪漫派の考え方は、京都学派とはことなる。保田は近代日本のすべてを否定し、絶対攘夷を唱え、それによって自己をゼロに引き下げ、思想なるものの武装解除を成し遂げようとしたのだ。
 そのため、「近代の超克」は、永久戦争の理念に屈服する思想破壊におわり、強い思想体系を生みだせなかったのだ、と竹内は評する。そして、敗戦ののちは、「近代の超克」はあっさりと見捨てられ、思想的には虚脱と従属化が導かれることになった。
 思想に創造性を回復するためには「近代の超克」をアポリアとして、もう一度見据えなければならない、と竹内は論じた。このことは、竹内にとって、アジアを舞台とした「近代の超克」が、戦後においても、ひとつの課題でありつづけたことを意味している。
 竹内の「近代の超克」論は、荒正人のような左派の評論家から激しい反発を招いた。荒は自分は当時、少数派だったかもしれないが、日中戦争はもちろん太平洋戦争の開戦には否定的だったとしたうえで、ファシズムへの抵抗こそが、今日につながる普遍的課題だと論じた。したがって、「近代の超克」などというファシズムを支える論議は、たちどころに葬り去らねばならない。
 荒の批判は、きわめてまっとうなものだったかもしれない。しかし、竹内はあくまでも当時の雑誌に発表され、評判を呼んだ言説にこだわった。「近代の超克」が、「大東亜戦争」の二重構造を指し示し、西洋近代主義とは異なる理路を提示しようとしていた点は、けっしてないがしろにできないと論じたのである。

 その竹内は60年安保闘争に積極的にかかわった。「安保批判の会」に参加し、代表のひとりとして藤山愛一郎外相や岸信介首相とも面会したり、井の頭野外音楽堂で、丸山眞男を講師にかつぎだして、市民集会を開いたりもしている。
 竹内が新安保条約に反対したのは、それがソ連だけではなく中国を仮想敵国とする軍事同盟であること、さらに条約の締結によって、いまだ戦争状態のおわっていない中国との国交回復が不可能になることを恐れたためである。
 だが、5月19日、自民党は国民の納得が得られないまま、単独採決で衆議院の会期延長を決め、そのまま本会議で新条約の承認可決へとなだれこんだ。その後、参議院で条約が自然承認されるまでの30日間、政府の暴挙に抗議する反対デモが国会を取り巻いた。
 5月21日、竹内好は政府に抗議して、勤務する都立大学に辞表を提出した。そして、6月2日には文京公会堂の「民主主義をまもる国民の集い」で講演し、その2日後『図書新聞』に、有名な「民主か独裁か──当面の状況判断」の一文を発表する。

〈民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない。この唯一の争点に向っての態度決定が必要である。〉

 竹内は国民運動による民主主義の再建を求めた。
 6月4日には、総評・中立労組460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人、計560万人の参加する6・4闘争がくり広げられた。竹内はこのときの闘争に「下からの民主主義」の息吹を感じた。だが、それはあまりに楽天的すぎたのである。
 6月10日には、来日したアイゼンハワーの報道官(新聞秘書)ジェームズ・ハガティ(ハガチー)の乗った車をデモ隊が取り囲む事件が発生、6月15日には、全学連主流派が国会に突入し、22歳の樺美智子が死亡する事件が起きた。そして6月19日、参議院での審議がおこなわれないまま、新安保条約が自然成立した。
 1961年7月、竹内好は、安保に関する評論や講演記録を集めた『不服従の遺産』を出版する。
 1960年9月13日、名古屋公会堂ではこう話していた。

〈戦後の新しい憲法は残念ながら我々が自分の力で勝ちとったものではない。これは歴史の事実でありますけれども、この憲法を蹂躙する勢力があった時に、その蹂躙する勢力が憲法を捨てた時に、つまり相手が憲法は最早要らない、自分には邪魔だというので捨てた場合に、これを我々が拾えば、これは我々のものになるのです。憲法というものは人民が自分で作るべきものです。また、我々はそれを戦後当然すべきであったが、残念ながら歴史の事実としてはできなかった。けれども、今我々が自分の憲法を作る時期です。〉

 60年安保をへて、竹内は明治以来の日本とアジアのかかわりを跡づける仕事に着手する。近代主義者やマルクス主義者は、おうおうにしてアジアへの視点を欠落させていたのだ。
 1961年に竹内は「日本とアジア」という論考を発表する。
 明治以降、日本のエリートは歴史は未開から文明に進むという「文明一元観」にもとづいて日本の近代化を推し進めてきた、と竹内はいう。その最大のイデオローグが「偉大なる啓蒙家」、福沢諭吉だった。
 竹内によれば、福沢の「脱亜論」は誤解されている。福沢は「日本がアジアでないと考えたのでもなく、日本がアジアから脱却できると考えたのでもない。むしろ脱却できぬからこそ、文明の基礎である人民の自覚をはげますために、あえて脱亜の目標をかかげたのだともいえる」。
 福沢には国家と人民の独立をめざす「緊迫した危機感と、同時に冷静な認識」があった。福沢は「ヨーロッパの眼で世界を眺めたのではなかった。彼のアジア観は、アジアとは非ヨーロッパである、あるいはアジアとはヨーロッパによって蚕食される地である、と考えたことである」と、竹内はいう。
 したがって、福沢の「脱亜論」は単純なアジア否定論でも、日本によるアジア支配肯定論でもない。福沢自身、アジアの独立を望んでいた。アジアの原理が「文明の否定を通しての文明の再建」であることを直感していた節もある。だが、「脱亜論」のあと、福沢はそれを理論化することなく、「かえって力による文明の強制を是認する方向に後退していった」と竹内はみる。
 さらに竹内は1963年8月に「日本のアジア主義」と題する論考を発表した。
 アジア主義は公認の思想ではなく、いわば心的なムードである。竹内の壮大で複雑な論考は、宮崎滔天からはじまって、玄洋社、樽井藤吉、内田良平、福沢諭吉、中江兆民、岡倉天心、北一輝、大川周明、石原莞爾などの考察にいたる。いまや忘れられかけている茫洋とした思想的な流れをつかむことが目標だった。
 竹内によれば、アジア主義はもともと右翼の独占物ではなかった。
「アジア主義が右翼に独占されるようになるキッカケは、右翼と左翼が分離する時期に求めるべきだろう。その時期はたぶん明治末期であり、北一輝が平民社と黒龍会の間で動揺していた時期である」
中江兆民と頭山満は生涯親しかった。しかし、その弟子にあたる幸徳秋水と内田良平にいたって、思想は左右にわかれたという。
 竹内は日本のアジア主義の大もとには、西郷隆盛の存在があったのではないか、というところまで、想像の翼を広げている。
 渡邊一民は、竹内の「日本のアジア主義」をこう評している。

〈「日本のアジア主義」が、ほとんど断定されることのない仮説的な議論から成りたっていることは、あらためて言うまでもあるまい。そもそもこの前人未踏の領野を踏みわけて筋道を立てていこうとする以上、それもまたやむをえなかったことにちがいない。とはいえこの「日本のアジア主義」によって、アジアにかかわる近代日本の精神史が、これまでほとんどかえりみられることのなかった右翼の側に大きく視野を拡げ、じつにさまざまな新しい問題を提起したことは、だれしも認めざるをえまい。〉

 50年ほど前のあのころ、ぼくは下宿にこもって、大学の授業にも出ず、わからぬなりにマルクスの『資本論』を読んでいた。
 しかし、中国やアジアについて、もっと知りたいと思うようになるのは、やはりあのころ竹内好の著書に遭遇したからだろう。

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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(3) [われらの時代]

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 武田泰淳が上海から引き揚げたのは、1946年2月のことである。帰国してから多くの小説を発表するようになった。1946年から48年にかけて発表した「秋の銅像」、「審判」、「蝮のすえ」「滅亡について」などの作品は、日中戦争での兵士(自身)による老人殺害や、上海で経験した敗戦による空虚感、滅亡感を描いている。
 渡邊によると、「武田泰淳は、いま上海での『滅亡』経験により『ゼロ』という極限状況に追いこまれ、そこでみずからの内面に甦った『死者のまなざし』を作品に定着することから、小説家としての第一歩を踏みだした」のだった。
 いっぽう、堀田善衛は1945年11月に上海で国民政府に留め置かれ、中央宣伝部対日工作委員会に配属され、47年1月に帰国する。そのときの経験を描いた作品が、長編の『祖国喪失』であり、その後、『歴史』や『時間』を書き継ぐことになる。
 敗戦を迎えたとき、竹内好は報道班の兵士として、洞庭湖畔の岳州にいた。敗戦で革命運動が巻き起こると予想していたので、天皇の放送にはがっかりした、とのちに語っている。
 復員したのは1946年6月、そのとき『中国文学』は同人の岡崎俊夫らにより、すでに復刊されていた。その緊張感のない煮えきらない編集方針に竹内は怒りすら感じる。そして、版元の破産などもあり、竹内と武田があまりかかわらないまま、『中国文学』は1948年5月に第109号を出したところで、けっきょく廃刊となった。
 そのころ、竹内は翻訳やエッセイ、評論の執筆で多忙をきわめるようになっていた。魯迅をめぐるエッセイで、竹内は「魯迅の目に、日本文学は、ドレイの主人にあこがれるドレイの文学とみえていたのではないか」と書く。さらに、日本には「あらゆる抵抗の契機を利用した魯迅のような『人民の文学者』はいない」と断言する。
 そうしたなか、1948年11月に、竹内は代表的論文のひとつとなった「中国の近代と日本の近代──魯迅を手がかりとして」を発表する。
 近代におけるヨーロッパの「自己解放」は、東洋への侵入をともなった。これにたいし、東洋は抵抗を通じて自己を解放した。抵抗の結果は、しばしば敗北をともなった。しかし、敗北を自覚するところから、運動がはじまり、歴史がつくられるのだ。
 そのような歴史観を示したあと、竹内は日本の近代においては、魯迅の抵抗にみられるような抵抗がほとんど見られないと指摘する。原理は都合よく次々と塗り替えられ、それが進歩のように思われる。日本文化は優等生文化だ。
 竹内はいう。

〈日本は、近代への転回点において、ヨオロッパにたいして決定的な劣勢意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨオロッパを追いかけはじめた。自分がヨオロッパになること、よりよくヨオロッパになることが脱却の道であると観念された。つまり自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした。あらゆる解放の幻想がその運動の方向からうまれている。そして今日では、解放運動そのものがドレイ的性格を脱しきれぬほどドレイ根性がしみついてしまった。〉

 日本文化が優秀なのは、主体性が欠如しているからであり、つまり抵抗を放棄しているからだ、と竹内はいう。「日本文化は……外からくるものを苦痛として、抵抗において受け取ったことは一度もないのではないか」
 ここで、竹内が見据えているのは、日本の真の独立である。それは政治的な独立にとどまらず、むしろ精神的な独立といってよいだろう。
 1949年10月1日、中華人民共和国が成立した。
 1950年1月、コミンフォルムは日本共産党の平和革命路線を批判した。これにより、日本共産党はその批判を受けいれない「所感派」と、批判を受けいれる「国際派」に分かれ、連合国軍によるレッドパージののち、武装革命路線をとるようになった。そして、その後、ふたたび平和路線に戻った。
 竹内はコミンテルンの批判に右往左往する日本共産党がコミンテルンのドレイにほかならず、日本の革命についてまともに考えていない、と厳しい評価を下している。そして、そのころから、竹内の思考は中国革命と毛沢東に向かうことになる。
 竹内は「毛沢東の魯迅への傾倒の深さは、なみなみならぬもの」と述べている。さらに「中共[中国共産党]がどんなに高いモラルに支えられているか」を強調する。
 さらに1951年4月の「評伝毛沢東」では、毛沢東が党内で孤立し、井岡山にこもるなかで、みずからの思想を築いていったことに大きな意義を見いだしていた。

〈毛沢東思想はこの期に形成された。かれの内外生活の一切が無に帰したとき、かれが失うべきものを持たなくなったとき、可能的に一切がかれの所有となったとき、その原型が作られたのである。これまで他在的であった知識、経験の一切が、遠心的から急進的に向きを変えて、かれの一身に凝結したのだ。それによって、党の一部であったかれが、党そのものとなり、党は、中国革命の一部でなくて全部になった。世界は形を変えた。つまり、毛沢東は形を変えたのである。〉

 竹内は毛沢東をきわめて文学的にとらえている。渡邊は「こうして中華人民共和国成立の1949年以後、中国共産党そのものである毛沢東が、すでに13年まえに没した魯迅にかわって竹内好の同時代の指標となっていくのだ」と論じている。
 このころ、竹内は日本の代表的な評論家として、一目置かれるようになっていた。1952年には国民文学を提唱し、さまざまな論議を巻き起こした。それはとりわけフランスを金科玉条にする文学への批判であり、民族の伝統に根ざす文学の提唱にほかならなかった。だが、論議は次第に拡散し、そのうち雲散霧消してしまうことになる。
 1954年5月から1年間、竹内は『思想の科学』の編集長を務めた。前田愛によれば、竹内は「日本人全体の思想をそだてる運動のための共通の広場」をつくろうとしていたのだという。
 そのころ武田泰淳は、注目すべき小説を刊行している。1952年10月に講談社から出版される『風媒花』である。
 描かれたのは講和条約直後の1951年秋の3日間。架空の「中国文化研究会」をめぐるドラマになっている。
 登場するのはエロ作家の峯、そして思想家の軍地、そして会のさまざまなメンバー。峯は蜜枝という女性と同棲している。さらに美貌の三田村青年、右翼の怪物、細谷源之助などもからんで、小説は立体的、ドラマチックに構成される。
 峯は武田泰淳本人、蜜枝は武田百合子、軍地は竹内好、細谷は北一輝がモデルになっている。ほかにもモデルはいるはずだが、ぼくなどにはわからない。中国文化研究会は「中国文学研究会」のことだといって、まちがいないだろう。そして、登場人物はたぶんに戯画化されている。
 物語は峯(武田)が銀座で開かれた中国文化研究会に久方ぶりに出席するところからはじまる。中国文化研究会は、戦前、「支那」に代わって「中国」という表記をはじめて採用し、中国とのあいだに「新しい橋」を架けようとした。そして、その思いは共産中国が成立したあともつづいているというのが、会の説明だ。
 この会を引っぱっているのが、峯の15年来の友人である軍地(竹内)だった。久しぶりに会合に出てきた峯を軍地が茶化す。そんな軽妙なやりとりがあって、会を支えているのが、軍地の熱烈な使命感であることが示される。
 日中戦争を忘れて、中国を論ずることはできなかった。会に参加するほとんど全員が、この戦争に参加していた。「何万何千万の中国民衆の家庭を焼き払い、その親兄弟を殺戮したあの戦争」が、いまもつづく会の出発点となっている。
 峯は潔癖な軍地を尊敬している。ただ自分と同じ「文学病患者」であることに悲劇性を感じている。「本当の物凄い政治家」が、自分たちを支配しようとして待ち構えていて、「そいつの出現到来を軍地は希望しつつ、また一方ではそれに抵抗し反抗しなきゃならない」引き裂かれた状態に、いつか軍地がおちいるのではないか、と峯は危惧する。
 それが毛沢東だと武田泰淳が示しているわけではないが、作家の勘はさすがに鋭い。
 会合の途中で峯は席を立つ。電報で親戚(亡き妹のつれあいで、支那哲学者)の危篤を知らされていたためだ。病院に行くと、見舞客のなかに、かつて満洲国を「王道楽土」と唱え、軍の大学に勤めていた男と、老漢学者がいた。かれらは口々に「支那一点ばり」の軍地を批判し、「支那をネタにして、日本を罵倒したってはじまらんですからな」と憎悪に満ちた声をあげるのだった。
 いっぽう銀座での会合を終えたあと、軍地をはじめとする3人のメンバーは、有楽町のガード下の焼酎ホールで飲んでいた。そこに現れたのが、中国人を母とする美貌の三田村青年で、はっきりいって純粋行動のテロリストである(いかにも武田泰淳好みの人物)。かれは、日本人を糾弾するため、テロに走ろうと考えている。三田村は軍地に「あなたと僕は同類なんですからね」と言い放ち、いっしょに大磯に行こうと誘った。
 その夜、軍地と三田村は、大磯で右翼の怪物、細谷源之助と会う。細谷は戦前、上海、南京、武昌での中国青年の武装蜂起に参加していた。そして日本改革のために、青年将校による武装クーデターをくわだてた。西洋を排撃するアジア革命はこの老人の夢だったといってよい。二・二六事件で刑死した北一輝がモデルである。
 翌日、軍地と三田村青年は、霧雨の降る海岸を歩いている。三田村青年の頭にあるのは、細谷老人の唱える「殺、殺、殺」の呪文だ。三田村は軍地に向かって、「真に中国を信じ愛しているとしたら、新中国の文化を研究しているだけじゃ、不充分なはずですがね」といい、いまふたつの計画が進行しているという情報を軍地に明かす。
 ひとつは、旧日本陸軍の将校が、中国軍閥の親分と手を握って、反共義勇軍を編成するため、台湾に兵員と武器を集めようとしており、そのための密航船が一両日中に、九州から台湾に向けて出航しようとしているという情報。もうひとつは、これとは逆の動きで、ある美少年が朝鮮戦争で米軍に協力する都内のPD(特需)工場にたいし、食堂のやかんに毒薬を投げ込み、東京じゅうのPD工場を恐怖におとしいれようとしているという情報。
 軍地はその美少年が三田村のことだと気づき、「君はやっぱり少し、自分という者を、特別の者に見立てたがっているんじゃないかな」と話し、すでに実行に移ったというその計画を批判する。
 この日の昼、作家の峯は、同棲する蜜枝の弟でマルクス青年、守の愛人、細谷桃代に頼まれて、彼女のつとめるPD工場を見学してから、彼女のサークルで話をすることになっていた。ところが、工場の食堂の土瓶に青酸カリが入れられているのがわかって、工場見学は中止となり、峯はそのままサークルで話をする羽目になる。
 峯は思わず、こう話しはじめた。

〈実に無数の人間が人間によって殺されている。愛国的殺人であろうと売国的殺人であろうと、殺人行為にかわりはない。自ら手を下さなかった人々といえども、何らかの形で殺人にかかわりのない者はいない。我々日本人のほとんど全部、否世界の人間のほとんど全部が殺人に参加したと言ってもいい。殺されながら殺し、殺しながら殺す。無数の媒介物によって、知らず知らずのうちに、どこかで誰もが人殺しに関係している。しかも現代の一番おそろしい点は、殺人者が時がたてば自分の犯した行為を忘れられるばかりでなく、時によっては、自分が人殺しであることを知らないですむ点にあります。〉

 現代では、だれもが殺人者だという武田泰淳の哲学が開陳されている。
 物語はさらにつづく。その夜の新宿での蜜枝の痛快な大冒険。三田村の隠匿兵器略奪事件とそれを阻止した少女の話。北京政府とつながりがあるのではないかと中国文化研究会に探りをいれはじめた公安の動き。話はますます混沌としてくる。
 そして、だれもが、それぞれの思いを秘めたまま、小説はとつぜん幕を閉じることになる。
 渡邊一民はこう述べている。

〈いってみれば『風媒花』は、中国にかかわる1951年以後の日本におけるさまざまなドラマの「序曲」として書かれたと言えるかもしれない。そしてそのためこの作中には、武田泰淳の経験のすべて、あえていえば中国文学研究会同人のすべてが傾注されている〉

『風媒花』は、中国をめぐる未完成の曼荼羅図だったといえるかもしれない。そうした中国への熱い思いは、すでに失われて久しくなっている。

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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(2) [われらの時代]

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 1937年7月、日中戦争がはじまり、日本国内では戦時体制がますます強化されていった。
 この年10月、竹内好は外務省の補助金で北京に留学し、武田泰淳は召集され、中国大陸の戦線に送られた。
 その間『中国文学月報』は、同人たちの手によって年11冊の割合で刊行されつづけている。
 武田は上海と徐州の戦闘に参加、杭州にしばらく駐留し、翌年の徐州会戦、武漢作戦にしたがったあと、1939年10月に除隊となり、日本に戻ってきた。
 中国の戦場を経験した武田は、日本であふれている中国関係の出版物に空しさを感じ、『中国文学月報』に「我々が戦地で見た支那土民の顔」は「あまりにも鮮明に眼の底にとどまっているので、活字になった支那評論が色あせて見える」との感想を寄せている。

〈文化とは何と無力なものであらう。その時私は数万の鴉の群れ飛ぶ空を仰ぎ、永遠に濁り流れる無言の江水を見下ろして嘆息しました。我々が研究し愛着を持った支那の文化といふものはかくも無力に破壊され消滅して行くものであろうか。〉

 そのころ2年半の留学を終えて、北京から戻ってきた竹内好も混迷を深めていた。
 1940年4月に『中国文学月報』は『中国文学』と改題され、生活社から市販されることになった。出版界では、中国ブームが巻き起こっていた。
 帰国した竹内は、「文学」の枠を越えて、中国そのものを理解するための雑誌づくりをめざそうとした。「アメリカと中国」特集を組んだのも、そうしたこころみのひとつである。「翻訳時評」のコーナーを設けて、新たな中国理解への道を開こうともした。
 1941年12月、日本軍は真珠湾を攻撃、太平洋戦争がはじまる。
 竹内は1942年1月の『中国文学』巻頭に、「大東亜戦争と吾等の決意」なる宣言を掲載する。

〈歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫(うちふる)へながら、虹のやうに流れる一すじの光芒の行衛(ゆくえ)を見守つた。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取つたのである。何びとが事態のこのやうな展開を予期したらう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じてゐた。戦争はみじめであるとしか考へなかった。実は、その考へ方のほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚はれてゐたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了解した。〉

 アメリカやイギリスと戦争をはじめるさいの高揚感は、おのずからわきあがったものだったろう。竹内は「東亜を新しい秩序の世界へ解放するため」、「東亜から侵略者を追へはらふ」、「日支両国万年の共栄のために献身する」のだ、と本気で信じていた。
 アメリカと戦争して勝つとか、中国と永遠の共栄を築くとか、西洋列強を追いだして東アジアに新秩序をつくるとかのスローガンには、どこか虚偽が潜んでいる。そのことを竹内好も自覚していなかったわけではなかった。のちには、おおいに反省もしたことだろう。
 だが、竹内はこのときの高揚感を忘れることはなかった。戦後になって独自のアジア主義を主張するようになるのはそのためだ。竹内の唱えるアジア主義は、日本も真似しがちな西洋流の拡張主義を乗り越える跳躍台となりうるはずだった。
 そのことについては、またあらためてふれる。
 竹内好は雑誌『中国文学』を編集しながら、1940年4月以来、回教圏研究所に勤めていた。そして、1942年2月に研究所から派遣されて中国に行く機会に恵まれ、北京、内蒙古、太原、開封、杭州、上海を回り、4月に帰国した。回教事情を調査するのが目的だったが、中国各地の様子を見て回ったのはいうまでもない。帰国してから、武田泰淳など中国文学研究会のメンバーと座談会を開いている。
 竹内はそのなかで、「大東亜共栄圏文化の根幹である日本文化と支那文化が……もっと本質的に本当の意味で融合しなければいけない」と語っている。そのためには外部から論評するのではなくて、のっぴきならない根源的なもののなかに、自分自身を投げ入れることが必要だ、と竹内はみずからの決意を示した。
 太平洋戦争が進展し、戦局が激化するなか、『中国文学』も1943年3月に廃刊を余儀なくされ、9年間の幕を閉じることになった。
 だが、それと同時にふたつの著書があらわれる。武田泰淳の『司馬遷』(1943年4月)と竹内好の『魯迅』(1944年12月)である。
 武田泰淳は1940年8月の『中国文学』に載せたエッセイでこう書いていた。「世に殺人ほど明確なものはない。殺された者は横になって動かず、殺した者は生きて動いてゐる」。
 渡邊は、戦場のぬきさしならぬ緊張感を抜きにして、武田泰淳の『司馬遷』は語れないと述べている。
 司馬遷にとって、歴史とは全体であり、世界にほかならなかった。
 武田はこう書く。

〈「人間」の姿を描くことによつて、「世界」の姿は描き出される。「人間」の動きを見つめることにより、歴史全体が見わたされるのである。そして「人間」の姿を見つめて行き、「人間」の動きを描き出してゐるうちに、いつしか「人間」は「政治的人間」と化して、世界を動かし、歴史をつくり出してゐることがわかつて来るのである。〉

 ここで、武田は「政治的」を広い意味で使っている。すなわち「世界を動かし、歴史をつくり出」すことが「政治」なのである。
 いっぽう竹内好は1943年12月4日に召集され、10日に中支派遣軍の補充兵として、中国湖南省に送られた。その直前に完成した『魯迅』の原稿は、武田泰淳の跋と校正をへて、翌年12月に出版へとこぎつけることになった。
 したがって、『魯迅』が出版されたときには、竹内は中国の戦場にいたのである。
魯迅について、竹内はいう。

〈彼は、退きもしないし、追従もしない。まづ自己を新時代に対決せしめ、「掙札(そうさつ)」によって自己を洗ひ、洗はれた自己を再びその中から引出すのである。この態度は、一個の強靱な生活者の印象を与へる。〉

 掙札とは、何か。できごとを内在的に把握し、それを否定することによって、新たな何かをしぼりだすことを指しているのではないか。そのかぎりにおいて、魯迅は変わりつづけたが、すこしも変わらなかったともいえる。
 そこで、竹内はこうもいう。

〈魯迅の見たものは暗黒である。だが、彼は、満腔の熱情をもつて暗黒を見た。そして絶望した。絶望だけが、彼にとって真実であつた。しかし、やがて絶望も真実でなくなつた。絶望も虚妄である。「絶望の虚妄なることは正に希望と同じい」。絶望も虚妄ならば、人は何をすればよいか。絶望に絶望した人は、文学者になるより仕方ない。〉

 魯迅は絶望に安住しなかった。希望も絶望も見捨てて、掙札により無限なる道を求めることにした。それは生きることを意味していた。そして、「無力な文学は、無力であることによつて政治を批判せねばならぬ」という境地にいたった、と竹内は論ずる。
 それは竹内自身がたどりついた思想だったといえるだろう。
 戦場で戦う竹内を追うように、今度は武田泰淳が1944年6月に上海に赴くことになる。さらに武田と同じく雑誌『批評』の同人となっていた堀田善衛が上海に行くのは1945年3月のことである。
 そのころ上海は国民党と共産党に加え、国際的な諜報機関が暗躍する場所で、日本軍占領下とはいえ、すでに無政府状態に近くなっていた。
 それから間もなくして日本は敗戦を迎える。
 このとき、竹内も武田も堀田も中国にいる。

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渡邊一民『武田泰淳と竹内好』を読む(1) [われらの時代]

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 サブタイトルに「近代日本にとっての中国」とある。
 だとすれば、これは昔の話かというと、そうでもあるし、そうでもない。
 武田泰淳も竹内好も過去の人である。学生時代、ぼくなども生かじりながら、ふたりの本をよく読んだものだ。竹内と武田は中国への入口であり、ふたりの著作を通じて、ぼくらは日本は中国と二度と戦争をしてはならないと思っていた。
 最近の日本は、まるで準戦時体制下にあるかのように息苦しい。アメリカと同盟を結ぶ日本にとって、強大化し帝国化する中国を仮想敵国とし、かといって日本と中国の経済関係は切っても切れぬ関係にある。この微妙な関係のなかで、何につけ、中国との緊張は高まる。日本自身も中国と同様、いわば「中国化」しつつあり、国内では治安体制が強化され、監視と排除の仕掛けが網の目のように広がっている。
 ぼくの気分は悲しさ半分、あきらめ半分といったところ。しかし、どこか熾火のように反抗心が残っていて、日々のニュースや解説者のコメントに文句をつける癖は抜けない。
 この年になると、世間がどう変わろうと、自分は自分であって、いまさら変えようがない。世間からみると、そんな困った自分はいつつくられたのだろう。ふり返ってみると、それは親のすねをかじって長く過ごした大学生時代だったと思わないわけにはいかない。そして、あのころ、大学闘争が終わりを迎えたころ、わからないなりによく読んでいたのが、竹内好と武田泰淳だった。
 戦後の冷戦体制のもと、日本と中国はいわば切断されていた。そんなとき、日本と中国の国交回復を訴えつづけていたのが竹内好だった。時代錯誤ともみえる大きな文明ビジョンのもと、竹内は両国のねじれた関係をただそうと努力をつづけていた。
 竹内は武田と同様、文革に失望し、一時は国交回復も諦めていた。だが、アメリカが新外交戦略をとったため、突然、日中回復が実現する運びとなった。それでも、竹内は日本と中国がほんとうに理解しあう関係になるのかを疑っていた。変わらなかったのは、中国を内在的に理解しようという竹内の姿勢である。
 本書の著者、渡邊一民(1932〜2013)はフランス文学者で、立教大学教授。ミシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳者として知られていた。さまざまな翻訳のほか、多くの評論を残したが、近代日本の精神史3部作として書かれたのが、『フランスの誘惑』と『〈他者〉としての朝鮮』、そして本書『武田泰淳と竹内好』である。
 前置きが長くなったが、のんびりと、あまり深刻がらず、むしろ昔を懐かしむような気分で読んでみることにしたい。

 1912年の清朝滅亡後も、日本は中国での権益を求めて、中国に進出しつづけていた。だが、現代中国についての日本人の知識はきわめて乏しく、むしろ偏見に満ちていた、と渡邊は指摘している。
 1920年代になって、佐藤春夫や谷崎潤一郎、芥川龍之介なども中国を訪れているが、その中国観は旅行の印象記にとどまっていた。それを一変させたのは1932年に刊行された横光利一の『上海』だったという。
 横光は日本人の経営する上海の綿紡績会社、内外綿で発生した1925年2月の中国人労働者によるストライキと、それが巻き起こした抗議活動をこの小説にえがいた。この事件により、上海はほぼ3カ月にわたって麻痺状態となり、イギリス人の指揮する警官隊の一斉射撃により、多数の死傷者がでた。いわゆる5・30事件である。これ以降、上海は革命の舞台へと変じていく。
 1935年前後は、日本にとって知の地殻変動がおこった時期だ、と渡邊は書いている。美濃部達吉の天皇機関説が糾弾され、日本は神国であるという国体明徴運動がはじまり、治安維持法によって検挙された小林多喜二が拷問死させられ、獄中の共産党員が相次いで転向している。それは狂瀾の時代だった。
 そんな時代に竹内好や武田泰淳らは『中国文学月報』を発刊する。1935年3月のことである。
 渡邊によれば、当初「月報」の誌面をにぎわせたのは「漢学論争」だったという。
 江戸時代に完成をみた「漢学」に、「月報」はどう向き合うべきかと、ある同人が問いかけたのにたいし、竹内はこう答えている。
 いまや漢学は社会の進化の外に置き去りにされ、硬化しているが、もし「溌剌たる外気の流入」がなされれば、硬化を免れる可能性はある。しかし、旧来のような文献考証学的な態度に終始するならば、漢学を昔のように復興するのは無理だし、そもそも無駄だと思う。それよりも自分たちの血をたぎらせるような中国文学を見いだすことこそが、「月報」の課題ではないか。
 そのため「月報」は、魯迅、林語堂、周作人、老舎、郁達夫など、現代作家の翻訳に多くのページを割くことになる。
「月報」が軌道に乗りはじめたころ、1936年10月19日に魯迅が上海で亡くなる。翌月の第20号「魯迅特輯」は、たまたま魯迅の訃報と重なった。そこで竹内は急遽、追悼の意味を込めて、魯迅の「死」というエッセイを翻訳した。魯迅はこのエッセイを9月に発表したばかりだった。
 渡邊がこのエッセイにふれているわけではない、ここでは、竹内好と魯迅とのかかわりを知るために、雰囲気だけでも紹介しておこう。
 エッセイのはじめに、魯迅はケーテ・コルウィッツの版画集を印行することになり、アグネス・スメドレーに序文を頼み、それを茅盾に訳してもらい、読んでみたと書いている。その序文でスメドレーは、コルウィッツの最近の画材には死を主題にしたものが多いと指摘していた。そこで、魯迅も中国人にとって死とは何かを考えてみたという。
 魯迅の文章はユーモラスで、たっぷり皮肉がこもっていて味わい深い。金持ちは金持ちなりに、おだやかな成仏を願い、貧乏人は早くこの世とおさらばして、りっぱに生まれ変わることを願う。死にも階級差がある。しかし、多くの人はふだんあまり死のことを考えず、自分も多くの人と同様、これまで成り行きまかせで、臨終の際のことなど深く考えてこなかったという。
 ところが、ことし大病を患って、ようやく死というものの予感が湧いた。アメリカ人の医師にみてもらうと、余命いくばくもないとのこと。その宣告は少しも気にならなかったが、物思いにふけるうちに、死について考えるようになった。ただ、思うのは、死ぬとどうなるかというような哲学ではなく、むしろこまごまとしたことばかり。そこで、遺言めいたものを考えてみた、と魯迅はいう。
 その遺言めいたものは、1936年の竹内の訳ではこうなっている。

一、葬儀に当り、何びとより、一銭たりとも香奠(こうでん)を受くるを許さず──但、老朋友はこの限りにあらず。
二、速かに棺に納め、葬ればよし。
三、紀念に関する何事もなすべからず。
四、我を憶わず、己の生活に力(つと)めよ──然らざるはたわけ者なり。
五、吾子長じて、才能なくんば、つつましき生業(なりわい)を求めて身を立つべし。ゆめ空頭の文学家、美術家となる勿(なか)れ。
六、他人の汝に許し与えんとするものを真(まこと)とするなかれ。
七、他人の牙と眼とを傷け、却(かえ)って報復に反対し、寛容を主張する者、かれが如きに近づくべからず。

 後年、竹内はこの部分を次のように訳しなおしている。

一、葬式のために、誰からも、一文でも受け取ってはならぬ──ただし、親友だけはこの限りにあらず。
二、さっさと棺にいれ、埋め、片づけてしまうこと。
三、何なりと記念めいたことをしてはならぬ。
四、私のことを忘れて、自分の生活にかまってくれ──でないと、それこそ阿呆だ。
五、子どもが成長して、もし才能がなければ、つつましい仕事を求めて世すぎせよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな。
六、他人が与えると約束したものを、当てにしてはならぬ。
七、他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

 この箇条書きのあとが、さらに痛烈である・
 竹内の1936年訳で示しておく。

〈まだあったが、今は忘れた。覚えていることは、熱のあるとき、こんなことを思い出した。よく欧洲人は臨終の席で儀式を行い、他人の赦(ゆる)しを求め、自らも他人を赦すという。私は怨敵が多いといえよう。もしも新しがりの男が来て、自分に問うた場合、私は何と答えたものであろうか。考えてみた。そして決めたのは、彼等をして恨ましめよ、吾また一人も恕(ゆる)すまじ、ということであった。〉

 魯迅を通じて、竹内ははじめて中国に触れたのである。

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21世紀の展望──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(10) [われらの時代]

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 本書の原書は1994年、翻訳書は96年に出版されている。本書が扱うのは1914年から91年までだ。それ以後についても、多少の言及はあるが、1990年から今日まではや30年立ったかと思えば、時の流れの早さに驚かされる。
 あのころから現在までをふり返っただけでも、大きなできごとが頻発した。歴史年表をめくる。
 1993年、欧州共同体(EU)発足、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との暫定自治協定、細川連立政権誕生。1994年、金日成死去。1995年、世界貿易機関(WTO)発足、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、ラビン・イスラエル首相暗殺、ボスニア和平協定調印。1996年、自民党政権奪還、ペルー日本大使館人質事件。1997年、英ブレア労働党政権発足、香港の中国返還。1998年、韓国大統領に金大中、クリントン米大統領の不倫疑惑。1999年、NATOによるユーゴ空爆。2000年、プーチンがロシア大統領に、平壌で南北首脳会議。
 そして21世紀にはいって、2001年、米中枢同時多発テロ、米英軍のアフガニスタン空爆開始、小泉政権発足。2002年、欧州単一通貨ユーロの流通、小泉首相訪朝。2003年、米英軍がイラク攻撃を開始、サダム・フセイン大統領を拘束、中国では胡錦濤が国家主席に、韓国では盧泰愚が大統領に、日本では有事法制関連三法が成立。2004年、サマワに自衛隊派遣、EUが25カ国体制に、スーダン西部のダルフールで殺戮事件。2005年、ロンドンなど世界各地でテロ、京都議定書発効。2006年、北朝鮮が地下核実験、第一次安倍内閣発足、イラクでテロ激化。2007年、安倍首相突然の辞任、原油価格高騰。2008年、リーマン・ショック、麻生内閣、秋葉原で通り魔殺人事件。2009年、オバマが米大統領に当選、鳩山民主党政権発足。2010年、民主党菅内閣、中国がGDPで世界2位に。2011年、東日本大震災と福島第一原発事故、北朝鮮の金正日総書記死去、「アラブの春」。2012年、第二次安倍内閣発足、欧州債務危機、中国国家主席に習近平。2013年、イラン核合意、日本で特定秘密保護法。2014年、ウクライナ危機、ISが勢力拡大。2015年、フランス全土で連続テロ、日本で安全保障関連法成立。2016年、トランプが米大統領に当選、天皇が退位の意向、イギリスがEU離脱選択。2017年、ISの拠点崩壊、韓国に文在寅政権。2018年、オウム松本死刑囚らへの刑執行、初の米朝首脳会談。2019年、平成の終わりと新天皇即位。そして2020年、コロナ禍と安倍首相ふたたび突然の辞任など。
 ほんとうにさまざまなことがあった。時はあっというまに過ぎていく。世界では穏やかな年は1年とてなかったといってよい。ぼくは、ありがたいことに、そのなかを凡々と生きてきた。
 いまメモしておくのは、1994年に出版された本書でホブズボームが21世紀の世界をどのように展望していたかということである。いいかげんでもメモするのは、書いておかないと、何もかもすぐ忘れてしまうからだ。
 20世紀の終わりになって、世界的ドラマの古い役者たちは、ただ一国、すなわちアメリカを除いて消えてしまった、とホブズボームは書いている。だから、第三次世界大戦はもうおこらないだろう、とも。
 だが、これは戦争の時代の終わりを意味しない。地球規模での超大国の対決とは関係のない戦争がこれからもずっとつづくだろうという。アフリカ、旧ユーゴスラビア、アフガニスタン、中東などにはいまも戦争の火種が残っており、いつ暴発するかわからない。そして、その火種が世界じゅうに飛び火する可能性もある。この予想は残念ながら、あたった。
 非国家的テロリズムの横行もホブズボームは予言していた。テロリスト集団が核兵器を手にいれることも考えられないではない。そして小集団による破壊活動を排除することは、ひじょうに難しくなっている。
 世界でも国内でも、豊かな部分と貧しい部分との緊張が高まり、暴力行為が常に発生するだろう。外国人排撃の動きも出てくるかもしれない。
 先進国と途上国では、武力と富に圧倒的なちがいがある。途上国は先進国に先制攻撃されればひとたまりもないだろう。だが、先進国は戦闘に勝てても戦争には勝てない。敵の領土を無期限に支配しつづけることはできないからだとも書いている。
 世界は戦国時代のように、無秩序で混沌としたままだ。ホブズボームは、世界の危機は深く複雑であり、それを克服する方途はみつかっていないという感慨をいだいていた。
 20世紀は世俗的な宗教対立の時代、言い換えればイデオロギー対立の時代だったとも述べている。
ソ連の崩壊は共産主義のこころみの失敗を印象づけた。もはやこれまでのような定式化されたマルクス主義が生き残ることはないだろう。
 いっぽう、新自由主義の市場ユートピアも、いわば神学的な信仰にほかならなかった。純粋に自由放任的な社会はこれまで存在したことがなく、それを制度化しようとするこころみは、失敗に終わった。
20世紀に経済の奇跡をもたらした混合経済的な方策も、いまや方向感覚を失ってしまっている。
伝統的宗教も人びとの心の空白を埋めることができず、世界の平和と安定に向けての代替策を出し得ないままでいる。イスラム原理主義は反西欧意識をあおっている。
 20世紀の終わりには、知的な無力感が絶望的な大衆感情と結びつき、外国人嫌いとアイデンティティ(民族主義、一国中心主義)、法と秩序を求める政治的傾向が強くなってきた。だが、そうした政治は後ろ向きであり、けっして未来を開くことにはならないだろう、とホブズボームはいう。
 21世紀の課題はなんだろう。
 長期的に重要なのは、人口と環境の問題である。
 世界人口は2060年ごろに100億人のピークに達するとの予測もある(80億がピークという説も。2020年現在は約78億)。はたして、世界がこの人口を維持できるのだろうか。とうぜん貧しい途上国から豊かな先進国への移住も増えてくるだろう。そのときに生じる摩擦をどう解決するかが、これからの政治の大きな課題となってくるだろう。
 環境問題も重要である。もし高度経済成長が無期限につづくなら、地球という惑星の自然環境に壊滅的打撃を与えることはまちがいない。だが、ゼロ成長のような提案は実行不可能だろう。それは現在の世界各国間に存在する不平等な関係を凍結してしまうからである。
 だが、人間と、人間が消費する資源と、人間の活動の環境にたいする影響という三者のバランスを確立することは必至である。そうした環境バランスは無制限の利潤追求という経済の原則とはあいいれないもので、きわめて政治的・社会的な問題なのだ、とホブズボームは述べている。
 次に世界経済についてみていくと、世界経済はまだまだ伸びていく余地がある。問題は豊かな国と貧しい国との格差がますます広がっていることだ。
 黄金時代において、世界経済を引っぱったのは、先進国における実質所得の上昇だった。それによって、ハイテクの耐久消費財を買うことのできる大衆消費者が誕生した。しかし、そうした条件は失われつつある。高度な技術化は、雇用者の数を減らす(あるいは賃金コストを下げる)方向に働き、そのいっぽう社会保障のコストは削減されようとしている。
 世界人口の約3分の2は、経済成長の恩恵をほとんど受けていない。だとするならば、資本主義の構造的欠陥について再考察し、それを除去する方向を探るべきなのではないか、とホブズボームはいう。このあたりはまだマルクス魂が生きているようである。
 ソヴィエト体制の崩壊は、資本主義と自由民主主義の勝利を意味しない。世界の諸国家は冷戦終結以降、かえって不安定になり、たいていの国で政権がくるくると交代するようになるだろうとも予測している。
 国民国家は弱体化した。いっぽうでは超国家的組織が、他方では民間のサービスや活動が国家の権力と機能を奪いつつあるようにみえる。
 国家が無力になっているわけではない。国家が国民の行動を監視したり規制したりする能力は、むしろ技術によって強化されている。国家は国民の財産や企業の活動、さらにはコミュニケーションですら把捉できるようになった。
 それでも国家は必要だろう。社会的不公正をただし、環境問題に対処し、所得の再分配をおこない、経済格差を是正し、万人のために最低限の所得と福祉を保証するのは国家の役割だからである。その意味でも、21世紀における人類の運命は、公共権力がどのような役割をはたすかにかかっている、とホブズボームはいう。だが、その動きは常にウォッチされなければならない。
 EUのような超国家的組織、地球規模で適切な決定をおこなえる機関は、これからもますます求められていくようになるだろう。
 いま、民主主義は深刻な窮地に立たされている。
 ホブズボームはこんな皮肉な言い方をしている。

〈政治家は有権者に向かって彼らが聞きたいとは思っていないことを告げるのを恐れるようになり、政治はますます言い抜けを行使する場になっていった。冷戦の終結以後、公言できないような行動を「国家の安全」という鉄のカーテンの背後にかくすのはもはやそう簡単ではなくなった。このような言い抜けの戦略が今後も広まっていくことは、ほとんど確実であろう。〉

 20世紀の終わりには、脱政治現象が生じつつあった。国民の多数が政治に無関心になり、国家のことがらを「政治的階級」、すなわち政治家や官僚、ジャーナリスト、評論家にゆだねつつあると、ホブズボームは書いている。政治から何も得られないと思った人びとは選挙に背を向けた。いっぽう、マスメディアの影響力も大きくなり、人びとの意見はそれに左右されている。
 政治を動かすのは、いまや人民主義(ポピュリズム)になりつつある。政治の正統性は、国民の積極的な服従のうえにしか成り立たなくなった。
「政府はますますあいまいな言葉遣いの雲の後ろにかくれ、ぬらりくらりとまるでタコのような言動で有権者を混乱させることになるであろう」
 そして、そこに真実を隠された政治的決定がなされる。
 歴史は「人類の犯罪と愚行の記録である」とホブズボームはいう。もし世界が過去の歴史を学んで、自らを破壊してしまうことがなければ、未来がよりよい世界になる可能性はきわめて大きい。
 だが、そのためには、何らかの社会の変革が必要だ、というのがホブズボームの見方である。

〈われわれの済んでいる世界は、過去2、3世紀を支配してきた資本主義の発展という巨大な経済的、技術−科学的過程によって捕えられ、根こそぎにされ、転換されてしまった世界である。その世界が無限に続くわけがないということをわれわれは知っている。少なくともそう考えるのが合理的であろう。〉

 答えは先に残されている。

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