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就職の季節──中野翠『あのころ、早稲田で』を読みながら(4) [われらの時代]

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 そして1968年。
 正月は振り袖を着て、自由が丘の「モンブラン」にケーキを食べにいった。著者のきもの好きは、このころからはじまっている。
 東大の医学部では、インターン制度完全廃止と研修医の待遇改善を求めて、無期限ストに突入。大学は一歩も引かず、紛争は長期化し、翌69年1月の安田砦の攻防戦までつづく。
 東大、日大の紛争に引っぱられ、日本各地で大学紛争が起きる。フランスでは5月革命が発生し、中国では紅衛兵が猛威をふるっていた。

〈当時の私は、この一連の騒動をどう見ていたのだろう。心おだやかではなかったことだけは確かだ。学生たちに喝采をおくることも、冷笑することも、どちらもできなかった。私にできることは、自分の中途半端さを、分裂ぶりを、みつめてゆくことだけだった。〉

 そのころ、マルクスやレーニンを読みつづけることに、どこかむなしさを覚え、そろそろ社研をやめようかと思っていた著者は、学生運動にものめり込めず、「自分の中途半端さ」や「分裂ぶり」を感じるようになっていた。
 ぼく自身の記憶からしても、68年の早稲田には闘争後の熾火のような倦怠感がただよっており、それが周囲の熱狂にあおられ、ふたたび燃え盛るまでには、少し時間があった端境期だった。
 学生時代は実験の時代でもある。「社研」から一歩距離をおきはじめた著者も、「文研」の知り合いが「早稲田文芸新聞」という新聞をつくるというのを手伝ったこともある。その新聞も1号だけで終わった。
 女子校時代の親友は東京外国語大学のロシア語にはいっていた。その外語でも、学生寮の建て替えと学費値上げをめぐって、1968年に全共闘が結成されていた。
 それよりも、著者にとって68年はカルチャー・ショックの年だったという。つげ義春のマンガ『ねじ式』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読んだことが、一大衝撃を与えた。
 それは、私の人生を変えたできごとだったと書いている。このころから、中野翠はみずからの五感を広げて、周囲の興味ある世界に一歩を踏み出すのだ。
 このころテレビでは「大きいことはいいことだ」とうコマーシャルが流れ、「昭和元禄」ということばが流行語になっていた。
 横尾忠則が登場したのもこの時代。著者は一時イラストレーターになりたいとさえ思っていた。
 テレビでは「木島則夫ハプニングショー」がはやっていた。その番組に横尾忠則や暗黒舞踏の土方巽までが登場していたというのは、いまとなっては驚きである。
 フォーク・クルセダースの「帰って来たヨッパライ」が大ヒット。大島渚は『新宿泥棒日記』をぶっ飛ばす(封切りは69年2月)。
 そんななか、著者には就職問題が迫ってくる。

〈就職については真面目に考えていなかった。みんなが騒いでいる様子なので、「そうか、就職か。やっぱり出版社がいいかなあ」と思い、就職課とか何とかいうところに行って求人票(?)を観たら、私が入りたいと思った出版社は軒並み女子は試験を受けることすらできないのだった。ガッカリした。世間とはこういうものなのかと、ほとんど初めて知らされた。〉

 大卒の女子は就職がむずかしい時代だったのだ。
 ようやく文化出版局を受けることができ、ペーパーテストに合格して、面接までいったけれど、けっきょくふるいおとされてしまった。最後はコネと思い知った。
 その後、いくつかの出版社を受けたものの、どこも採用してくれない。もうアルバイトでも何でもいいやとフテクサレ気分になり、父の勤める読売新聞社の出版局で、69年3月からお茶くみの仕事をすることになった。
「父のコネを使うことになった自分を情けなく思った」という。
 しかし、ほんとうは就職自体が目標ではなかった。彼女はこのころからすでにコラムニストになりたいと思っていたのだ。そして、実際、念願のコラムニストになって、30年以上、現在もこの仕事をつづけている。
 コラムニストには定年もない。
 1968年ははでな年だったという。大学闘争もそうだが、金嬉老事件や3億円事件も起きた。
 アルバイトも経験した。1969年2月ごろには、大学裏の喫茶店でひと月足らずウェイトレスを経験したという。そのとき小銭を稼ぐのも楽じゃないと思った。
 テレビは大好きだった。当時はまだアメリカのテレビドラマが放映されていて、「それ行けスマート」が大のお気に入り。ベトナム戦争があっても、根っからアメリカを嫌いにはなれない。
68年秋から69年初春にかけ、テレビの連続ドラマで放映された渥美清主演の「男はつらいよ」にもみいった。その後、映画になってからは、だんだん寅さんが鼻についてくる。
グループサウンズも百花繚乱で、著者のお気に入りはタイガースとテンプターズ。ゴールデン・カップスとオックスも好き。
歌謡曲では黛ジュン。映画では『俺たちに明日はない』と『卒業』。
 卒業式の記憶はまったくなし。希望どおりの就職はできなかったけれど、あまり気にしていなかった。何とかなるだろうと楽観していたという。
 大学4年間はこうしてすぎていった。
 しかし、彼女はすでに自分の方向性や生きる楽しみをつかんでいたのだ。
 この本を読んでいると、いろいろ昔のことを思いだす。
 虚弱で対人恐怖症で赤面症のぼくは、自分のコンプレックスを克服するために、あのころいろんなチャレンジ(ウェイトリフティング部に落語研究会、雄弁会)をしたものだが、けっきょくのところ、すべて挫折してしまった。
性格はなかなか直らないものだ。しかし、そんなぼくでも、本を読む楽しみだけは残った。だから、いまも生きているのかもしれない。

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