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100年前のパンデミック──『グレート・インフルエンザ』を読む(1) [本]

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 著者の科学史家ジョン・バリーは、本書でこう書いている。

〈1918年、人間は完全に近代化し科学知識をきわめ、自然を侵略する戦いにかまけていた。けれども自然は自らの機会を選ぶ。いま、そのときを選んで人間に攻撃をしかけていた。しかも、もの憂げに突っつくようなことではすませなかった。近代の人間、つまり近代の科学的手法を実践する人間は、怒り心頭に発した自然と初めて対決させられたのである。〉

 これはほぼ100年前のパンデミックと、それと闘った人びとをえがいた力作の科学ドキュメントである。
 無論、100年前と今とでは、社会の成り立ちも経済や医学の発展も、それこそ雲泥の差がある。単純に100年前と今とを結びつけて論じるわけにはいくまい。しかし、文明や科学がいくら発展しても、人が自然を押さえつけられないのはいうまでもない。今回の新コロナウイルスがパンデミック(世界的流行)となってひろがったのをみても、そのことがわかるだろう。
 2005年に平澤正夫訳で翻訳出版された本書は、現在のパンデミックについて考えるひとつの鏡となりうる。いろいろなことを考えさせてくれる本である。
 インフルエンザ・ウイルスとコロナ・ウイルスは形状がちがうが、その症状はほぼ同じだと思われる。コロナはふつうの風邪を引き起こすウイルスで、インフルエンザにくらべてこれまで軽視されていた。そのため今回パンデミックを引き起こした新型コロナ・ウイルスの正体についてはまだよくわかっていない。その性格もはっきりとはわからず、治療法も確立されず、ワクチンもできていないのが、こわいところだ。
 例によって、ゆっくりとしか本が読めないので、まとめも少しずつだ。また、医学知識がないので、重要な部分を飛ばし読みしてしまう恐れがある。本書で多くのページを占めている医学者の奮闘についてもあまり触れない(これによりインフルエンザの正体がウイルスであることがわかり、ウイルス学が発達するのだが)。それに翻訳本の性格上、話がアメリカ中心であることもご承知いただきたい。
 このパンデミックによって、1918年の日本がどういう状況におかれたかはまた別のテーマになるだろう。ちなみに、内務省の資料では、「スペイン風邪」と呼ばれたこのパンデミックで、日本では三十数万人が命を落としたとされる。そのなかには文芸評論家で劇作家の島村抱月が含まれていたこと、そして島村のあとを追って松井須磨子が自殺したことを、エピソードとして挙げておいてもいいだろう。
少しずつ読んでみる。

 このインフルエンザは、1918年にアメリカで出現したとみるのが、現在ではほぼ定説になっている。最初に死者を出したのはフィラデルフィアである。
 1920年に終息するまでに、人類史上これまでに発生したいかなる病気よりも短期間で多くの人びとを死にいたらしめた。
 当時の世界人口は現在の3分の1足らずの約20億だ。そのうち最低に見積もっても2100万人がこのパンデミックで死亡したとされる。しかし著者によればこの数字はあまりにも過小評価で、少なくとも5000万人、ひょっとしたら1億人が死亡したという(インドだけでも2000万人が死亡している)。
 ふつうインフルエンザはまず老人や幼児を先に殺すが、1918年のパンデミックは20代、30代の若者を襲った。「彼らは異常なほどの速さとむごたらしさで死んでいった」と、著者も書いている。
 2年以上にわたるパンデミックのあいだ、死者の3分の2は24週間(6カ月)に集中し、その大部分は1918年9月半ばから12月はじめにかけて亡くなっている。
 注目すべきは、このパンデミックが一度だけでは終わらず、3波にわたったことである。
第1波のピークは1918年4月、第2波のピークは10月、そして第3波は12月にやってきた。第2波のウイルスは、第1波よりもはるかに致死性が高くなっていた。人から人に感染するうちに変異したと考えられる。しかし、人もまた次第にウイルスにたいする抗体を身につけるようになった。
 1918年のインフルエンザ・ウイルスが発生した場所は、アメリカ中部のカンザス州ハスケル郡とみて、ほぼまちがいないという。農民が豚や鶏とともに暮らし、牧場主が何万頭もの牛を飼っている農村地帯である。
 ウイルスはカンザス州を東に横断し、広大な陸軍基地にひろがり、船でヨーロッパに渡った。その後、北米、ヨーロッパ、南米、アジア、アフリカ、太平洋の島々へと世界を席捲する。
 最初にこのインフルエンザに気づいたのは、ハスケル郡の医師、ローリング・マイナーだった。こんな凶暴なインフルエンザはこれまで見たこともなかった。1月後半から2月初旬にかけ、健康で頑丈な人たちが、まるで銃で撃たれたかのように、とつぜんバタバタと病に倒れていった。
 地元紙も多くの人が肺炎にかかっていることを報じる。マイナーもまた国の公衆衛生局に警告を発した。しかし、3月になると病気は消滅したかのようにみえた。これで収まれば、インフルエンザは地域的な感染で終わるはずだった。
 しかし、そのころ同じカンザス州で300キロほど離れた広大な軍用地フォートライリーのキャンプ・ファンストンにいた兵士が、インフルエンザにかかった。かれはハスケル郡にほど近いある町に帰省していた。ほかにもハスケル郡で徴兵された大勢の男たちが、キャンプ・ファンストンで訓練を受けていた。このファンストンでインフルエンザ患者が大量発生するのである。

 第1次世界大戦は1914年にはじまったが、アメリカは1918年まで参戦しなかった。
 1915年にドイツの潜水艦がイギリスの豪華客船ルシタニア号を撃沈し、その船に乗っていた多くのアメリカ人が死亡した。
 1917年には、ドイツが中立国の船舶や商船への無制限潜水艦戦を宣言した。それでもアメリカは参戦しなかった。
 その後、ツィンマーマン・メモが発覚する。これはドイツの外相ツィンマーマンがメキシコに対米戦を促すものだったが、アメリカの世論はこれに憤激する。そこで、ウィルソン大統領はついに1917年4月2日、議会に参戦の決意を表明する。
 いったん参戦を決意すると、正義の人ウィルソンにとって、この戦争は聖戦となった。ウィルソンはアメリカを徹底した戦時体制下においた。
 宣戦布告とともに、徹底的な報道検閲がはじまり、非愛国的な記事を書いた者を逮捕することも可能になった。新聞や出版物は自己検閲をはじめるようになる。士気を損なう恐れがある歌も禁止された。
 ウィルソンが戦争への道を選んだ途端、挙国一致の戦争がはじまり、アメリカ陸軍は増強された。訓練のため、兵舎には徴集された若い男たちがぎゅう詰めでひしめきあっていた。
 インフルエンザは、そんなとき思いがけず発生したのである。

 キャンプ・ファンストンの病院がはじめてインフルエンザの兵士を受けいれたのは1918年3月4日のことである。それから3週間もしないうちにファンストンでは1100人の兵士の体調が悪化し、かなりの数の兵士が入院せざるをえなくなった。
 ファンストンで最初の患者が出てから2週間後の3月18日、こんどはジョージア州のふたつのキャンプでインフルエンザが発生し、部隊の10%の兵士が病気にかかった。
 その後、ドミノ倒しのように、ほかのキャンプでもインフルエンザが発生、陸軍キャンプ36カ所のうち、じつに24カ所がインフルエンザに見舞われた。だが、初期の病状はさほど深刻ではなかった。
 ヨーロッパでは4月初旬からインフルエンザが異常発生する。最初に発生した場所はアメリカ軍兵士が上陸したフランスのブルターニュ半島西端にある軍港ブレストだった。
 そのあとブレストを起点にして、病気はたちまち同心円状にひろがっていった。症状は概しておだやかで、兵士は一時的に衰弱したものの、やがて回復していった。
 インフルエンザは4月遅くにパリを襲い、ほぼ同時にイタリアに到着する。イギリス陸軍で最初の患者が出たのは4月中旬で、そのあと爆発的にひろがり、数万人が入院する事態となった。
 事情は敵方のドイツ陸軍も同じだった。戦場のドイツ軍兵士も4月以降、インフルエンザの流行に悩まされた。そのため、大規模攻撃が延期されることもあったという。
 このインフルエンザには当初、名前がなかった。スペインで、はじめて、「スペイン風邪」という名前がつく。
 それには理由がある。
 当時、アメリカでも、フランス、イギリス、ドイツでも報道管制が敷かれており、兵士の士気を損ないかねない報道はいっさいなされなかった。ところが、中立国のスペインでは報道管制がなされず、新聞がインフルエンザの記事で埋めつくされたのである。
 そのため、このインフルエンザは「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。
 実際に、スペインで突如発生したわけではなかった。あくまでもウイルスの発生源はアメリカであり、アメリカ軍がこのウイルスをヨーロッパに運んだのだ。
 その後、インフルエンザはたちまち世界へひろがっていく。5月にはインドのボンベイ(ムンバイ)やカルカッタ(コルカタ)、中国の上海にも到達した。
 8月になって、それはいったん終息したかにみえた。
 だが、ほっとしたのもつかの間、10月になって、それは猛烈な致死性をもつウイルスに変異して、ふたたび世界を襲うのである。

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