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『毛沢東の私生活』を読む(2) [われらの時代]

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 1966年1月、毛沢東は滞在中の江西省南昌から専用列車で武漢に移動した。同行した著者の指導によって、睡眠薬の過剰摂取がとまった。毛沢東は自分のところにとどまるよう著者に指示した。
 2月、武漢で会議が開かれる。毛沢東は呉晗(ごかん)の『海瑞罷官』を批判した姚文元(ようぶんげん)の論文をほめ、参加者に反論を求めた。北京市長の彭真を含め、だれも反論する者はいなかった。
 後日の報告書で、彭真らの北京グループは『海瑞罷官』をめぐる論議を学術的なものにとどめたがった。だが、毛沢東は承知しない。
 杭州、蘇州へと移動するなか、毛沢東は葉群(林彪夫人)や江青と会った。江青と林彪は上海で会議を開き、人民解放軍の文学・芸術問題を討議した。北京の反毛沢東グループへの攻撃準備は着々と整いつつあった。
 著者は上海ではじめて林彪を診察したとき、それまでの天才的な軍事司令官というイメージが一気に崩れるのを覚えたと記している。

〈林彪と江青には驚くほど共通点が多かった。林国防相もまたヒポコンデリーで神経衰弱症に苦しんでおり、光やすきま風を恐れて決して外出しなかった。江青に似ていざ政治にかかわりはじめると、エネルギーがみなぎってきた。〉

 林彪は1940年代にアヘン中毒になり、その後モルヒネ中毒となり、いったん治療して直ったものの、精神状態は常に不安定だったという。異常なほど水を恐れていた。
『海瑞罷官』攻撃によって、最初に「文化」革命の口火を切ったのは、江青をはじめとする上海グループである。上海に出向いた毛沢東はかれらをひそかに支援し、自分に従わない北京グループを解体しようとした。
66年4月には陳伯達、江青、張春橋らをメンバーとする中央文革小組が結成される。5月には中国共産党中央委員会通知が出され、プロレタリア文化大革命がはじまった。
 このころ毛沢東はまだ杭州にいた。ダンスパーティーに興じ、山に登ったかと思うと、一転して無言のまま本と思索にふけるという毎日がつづく。しかし、そのかんも政治の動きをじっと見つめていた。不安を覚えた劉少奇と鄧小平は、このころご機嫌うかがいに毛沢東のもとを訪れたりしている。
 6月、毛沢東は生まれ故郷の湖南省韶山を訪れた。北京ではすでに学生たちがデモに繰り出し、町じゅうを荒しはじめていた。
韶山で10日過ごしたあとは武漢におもむく。
「武漢から文革を見まもりながら、毛沢東はみずからの運動が盛りあがり、北京では爆発しているのを存分に楽しんだ」と、著者は記している。
 文革にシナリオなどなかったという。目標は共産主義の思想を根づかせることだった。
 毛沢東自身は林彪による毛主席礼賛キャンペーンに不快感をいだいていたし、林彪を完全に信頼していたわけでもなかった。妻の江青には「勝利に酔うな」、「しょっちゅう自分の弱点と欠点、誤りを思い出せ」と警告を発していた。
 7月下旬になって、毛沢東はようやく北京に戻る。
 その前に、長江で水泳を披露した。73歳の老人がオリンピック選手より早く泳ぐのを知って、海外のメディアは驚く。しかし、じつは「毛沢東は仰向けになり、太鼓腹を風船よろしく浮きにして浮遊しながら、流れにまかせて川をくだっているだけだった」。
 北京では学生たちによる大学当局攻撃が盛んになっていた。社会主義に忠実でない者を追放することが目的だった。日本の大学闘争とはまったく異なる性格をもっていたが、その後、日本でも文革のスタイルは真似されることになる。
 劉少奇は学生たちの動きを支持するかのようにみせかけ、手のひらを返すように、かれらを反革命派と名指しし、造反運動の収拾をはかろうとした。毛沢東はそれに気づいて、学生たちをさらにあおった。
 毛沢東はいう。
「われわれは造反、すなわち革命をおこすには若者たちにたよらなければならん。そうでなければ、あの牛鬼蛇神どもを倒すことはできないだろう」
 7月29日、毛沢東は北京の人民大会堂に1万人の学生を集め、造反派学生の名誉を回復した。学生たちを抑え込もうとした劉少奇と鄧小平は自己批判にさらされることになる。
 8月1日、北京の清華大学付属中学の若者が、毛沢東の指示にしたがい、「紅衛兵」という造反グループを結成する。紅衛兵はたちまち全国に広がった。
 大学のキャンパスでは「司令部を砲撃せよ」という壁新聞が張られた。これは毛沢東の指示によるものだったが、ブルジョア的な立場をとる指導部の打倒が公然とかかげられていた。かれらはやがて「走資派」と呼ばれるようになる。
 8月10日、毛沢東は天安門の楼上で数百万の紅衛兵を観閲したあと、ジープに乗って、広場の学生たちに手をふった。
「勝利をおさめて胸をはるためならば、毛沢東は全土を混乱におとしいれるのもいとわなかった」と著者は書いている。
 紅衛兵による全国的な破壊行動がはじまった。社会主義に反するとみられる事物は破壊され、党エリートや知識人はくり返し攻撃にさらされた。劉少奇や鄧小平はいうまでもなく、周恩来までが標的となった。
「あらゆるレベルの党幹部が攻撃の対象になっていた。多くは失脚し、大半は職務の遂行が不能の状態になっていた」と、著者はいう。
 著者の後ろ盾といえる汪東興(おうとうこう)は中央弁公庁主任として毛沢東らの警備にあたっていた。造反派はその汪東興をも告発しようとするが、毛沢東の鶴の一声で立ち消えになる。著者自身も造反派の攻撃をまぬかれた。
 じつは、毛沢東は文革のあまりの盛り上がりにおびえていたのだという。北京でも、最初は別荘が汚染されていると言いだして、人民大会堂内の一室へと移り住み、最後は中南海の屋内プール付きの建物にはいって、ようやく落ち着く。
 上海から江青が戻ってきた当座は、大好きなダンスパーティーもあきらめ、「おれは坊主になってしまったよ」とぼやいていたが、やがて若い女たちをふたたび周囲にめぐらすようになった。
 著者はこう記している。

〈文革の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである。〉

 なるほど、中国では発禁本になるはずである。

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