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『マルクスと商品語』を読みながら思うこと(3) [商品世界論ノート]

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 商品の集合を想定し、そこで交わされる商品のことばに耳を傾けてみる。マルクスの価値形態論はそのような作業から生まれた、と著者は考えている。それは歴史的な考察ではないし、単純に貨幣の必然性を論証したものでもない。
 マルクスの価値形態論は三つの形態からなる。

  単純な価値形態(形態Ⅰ)
  展開された価値形態(形態Ⅱ)
  一般的価値形態(形態Ⅲ)

 問われるのは、労働生産物がいかにして商品になるのかということである。
 形態Ⅰは、まず異種の二商品を等値するところからはじまる。

  a量の商品A=b量の商品B

 数学の等式であらわしはしたが、実際には数学の等式ではない。
 むしろ

  a量の商品A⇒b量の商品B

 という感覚に近い。
「リンネルは、他の商品を自分に価値として等値することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる」というのが、マルクス自身の言い方である。
 商品はみずからの価値を自分だけで示すことはできない。他の商品を媒介することによってしか、みずからの価値をあらわすことができない。
 そのさい、商品Aは相対的価値形態にあり、商品Bは等価形態にある。そして、等値される価値の実体は抽象的人間労働である。
 しかし、重要なのはみずからを商品として示そうとする商品Aの振る舞いだ、と著者はいう。その振る舞いで商品Aは何を語ろうというのか。
 商品Aはみずからと異なる商品Bを自分に等値することによって、はじめて商品となる。なぜこんなややこしい回り道を必要とするのだろう。
 もう一度繰り返しておこう。
 商品は単独ではみずからが商品だと名乗りを挙げられない。商品は他の商品のからだを借りてしか、みずからの価値をあらわせない。
 マルクスが価値形態論で示したのは、このことである。
 商品Aは商品Bのなかにみずからと同じ抽象的人間労働の凝固体をみいだす。それによって、商品Aは商品Bの使用価値において、みずからを定立するという転倒をやってのける。
 ここでは、物々交換のように、商品Aと商品Bが交換可能になるということが示されているわけではない。商品Aは商品Bを等価形態として示すことによって、はじめて商品になるというところがポイントであって、その意味では商品Bはあくまでも受け身である。
 ただ、受け身の商品Bこそがくせ者といわねばならない。商品Bは、ある意味で貨幣の原形態なのだ。

 価値形態論は、次に形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態へと移る。
 次のような図式が展開される。

  a量の商品A⇒b量の商品B
        ⇒c量の商品C
        ⇒d量の商品D
        ⇒e量の商品E
        …………

 この図式では、商品Aの価値表現の列が、いくらでも延長される。商品Aはありとあらゆる商品体と関係する。それによって、商品Aはより社会化されて、抽象的人間労働を実体とするその価値も広く認められることになる。
 この段階では、相対的価値形態をとる商品Aがますます饒舌になるいっぽう、等価形態にある諸商品はいまだに沈黙している。その意味では、この図式はまだ不安定である。
 そこで、形態Ⅱを転倒した形態Ⅲ、すなわち一般的価値形態が展開される。

  b量の商品B
  c量の商品C
  d量の商品D ⇒a量の商品A
  e量の商品E
  f量の商品F

 ここでは直接的な交換可能性をもつ等価形態に商品Aだけが座り、ほかの商品はそこから排除されている。
 つまり、さまざまな商品は商品Aと交換関係にはいることによってのみ、交換可能性と社会性をもつ商品となるのである。
 マルクスはさらに形態Ⅳとして、商品Aが何か別の姿をとるにいたる過程を提示している。ここでは商品Aが別の何かに置き換わるだけで、形態そのものの論理的発展はない。しかし、この別の何かは『資本論』第二版は、はっきり貨幣と名指しされるようになる。
 ここで著者は、貨幣の問題は歴史的発展を扱う交換過程論でとりあげればよいのであって、商品語の場を扱う価値形態論にいれる必要はなかったと主張する。「総体としては、第二版の価値形態論に、『論としての後退』という影が、色濃く落ちているのである」
 以下は感想である。
 価値形態論の形態Ⅰ、すなわち単純な価値形態では、商品は単独では商品でありえないことが示されていた。これはマルクスの卓見といわねばならない。商品には商品を呼びさます性格があるということだ。ひとつの商品は別の生産物を商品化しないかぎり、けっして売り物としての商品にはなりえない。
 しかし、単純な価値形態は、たちどころに形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態に移行する。ひとつの商品が呼びさますのは、別の生産物だけでない。サービスを含め、ほとんどあらゆる生産物を商品として社会化していくのである。
 こうして、あらゆる生産物が商品に転じていくならば、複雑化した商品の流れを整理していく基準商品が求められるようになる。これが形態Ⅲ、すなわち一般的価値形態で示された図式である。その商品が次第に商品と切り離された社会的基準として自立するようになったときに、貨幣が誕生する。貨幣を導入するのは社会統合体である。
 商品があらゆる労働生産物を商品に変え、生産を商品生産のための生産に、消費を商品消費のための消費へと迂回させていくなかで、商品世界は次第に膨張していく。迂回はかならずしも待忍を意味しない。むしろ商品化の特質は、生産と消費の時間と空間を圧縮し、飛び越えていくところに求められるだろう。
 共産主義革命には大きな誤解がともなっていた。
 そのひとつは労働の神聖化である。これは商品と貨幣の物神化にたいする反動として生じた傾向にちがいないが、むしろ強制労働を強いる結果となった。それだけではない。労働の名のもとに、知識人を含む反体制派は排除され、独裁政権が強化された。
 もうひとつは、商品と貨幣の否定こそが共産主義革命の目標と考えられたことである。それによって物資の配給制と共同生活が強制されるようになったが、これはあきらかに歴史を過去に戻す試みだった。
 マルクスの価値形態論のなかに、そのような示唆は含まれていない。歴史を過去に差し戻すのではなく、むしろよりよい方向に発展させていくことが、かれのめざしたことである。すると商品世界の先には、いったいどのような展開があるのかが問われなければならないということになる。

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