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籠の鳥からの飛翔──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(4) [われらの時代]

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 藤圭子を支えたのは、天性の素質と歌である。しかし、彼女のなかには、いつもおびえと不安、だれかにすがりたいという気持ち、不信感、どこかに飛んでいきたいというような思いが、からみあって渦巻いていた。

 沢木耕太郎のインタビューで、藤圭子は父親のことを話している。

「子供の頃、恐いものは何だった? あなたにとって、恐怖の的みたいなものだったのは」
「…………」

 圭子はしばらく黙っていたが、ようやく父親が恐かったと話しはじめる。

「実の父親なら……恐いといったって、タカが知れてるじゃない?」
「そんなんじゃないんだよ。そんなどころの恐さじゃないんだよ。カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった……」
「どうして、そんな……妻や子に……」
「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」

 そのあと、父親がどんなふうに殴るかを圭子は具体的に語り、沢木が「そいつは凄まじい」と相づちをうつと、さらにこう話している。

「殴るだけじゃなくて……よく水をぶっかけるんだ。冬でもなんでも、子供たちに、水をぶっかけるの。バケツなんかの水をかけるんだ」
「旭川の、冬に?」
「うん。逆らうと、どんどん荒れるから、泣きべそかきながら、部屋の畳の水を拭いたりして、しずまるのをただ待つんだ」

 父親は酒を飲まない。それなのに何かの拍子で荒れはじめ、子どもたちに暴力をふるう。母親が子どもたちをかばうと、こんどは目の不自由な母を殴ったり蹴とばしたりする。

「どうして、どうしてそんなことをするの、お父さんは」
「理屈なんかないんだ」
「理解できないわけか、あなたには」
「あの人を理解するなんて、そんなことできないよ。できたら、こっちがおかしくなるよ」
「なぜそんなふうな人になっちゃったの?」
「さあ……」
「自分の境遇に不満があって、生活に苛立っていたのかなあ……」
「病気だったんじゃない」
「病気?」
「そういう病気だったんだよ、きっと」
「そうか……そうとでも思わなければ、子供にとっては理解できないことだったのかもしれないね」
「あたしは病気だと思ってた。兵隊に行って、いつも殴られてたって聞いていたから、だから……殴られすぎて病気になったと思ってた」
「血を分けた親子なのにね……」
「親子だったから、恐怖なんだよね。他人だったら、別れられるじゃない。でも血がつながっているから、怯えながらでも、一緒にいなくちゃならないじゃない」

 いまでいうドメスティック・バイオレンスである。家族はなにかの拍子で突然はじまるこの暴力に抗うことができない。ただ凍りつくしかない。
 そんな父親も人前ではニコニコして、いいお父さんねなどといわれていた。
圭子はもし母親が逃げるつもりだったら、一緒に逃げようと思っていたという。だが、母親はずっとがまんしていた。
 圭子がスターになって、そんな両親が離婚したのは、何も圭子の稼ぎをめぐって両親が争ったためではない。暴力をふるう父親から母親を救うためだったという。あたしが離婚させてあげたと話している。
 父親の家庭内暴力が圭子に深い心の傷を与えていたことはまちがいないだろう。その傷は消えることがない。ときどきうずくように広がって、彼女の心をむしばんでいく。

 父親の暴力に怯えながら、圭子(本名、純子)は自分がしっかりしなければと思い、歌手の道を突きすすみ、大成功を収めた。だが、彼女のまわりには、スター(そして、そのカネ)をめぐって人が群がる、華やかで虚飾に満ちた芸能界という世界がひろがっていた。
 28歳で引退する1979年ころでも、藤圭子という名前には年商数億のカネが集まっていた。それだけで、事務所は最低10人を養うことができた。
 お金はあればあるだけ使うし、なければないでいいというのが、彼女の金銭感覚だった。
何十人もの人に、合わせて1000万円以上貸したが、おカネを返してくれた人はたったひとりだったという。ちなみに、そのころの物価はいまの半分強とみていいだろう。
 詐欺師も近づいてきた。この人物はネズミ講のような仕組みでおカネを集めて、銀座の一流のクラブで豪遊していた。カルーセル麻紀の紹介で、会ったことがある。
 3年間、無名の男性歌手と同棲していたことも認めている。
 だれかがいないと、寂しくてしょうがない人なのだ。
 別れた理由は同居している母とうまく行かなかったからだという。
「お母さんにしてみれば、気に入らないのは当然だと思う。その彼は、ろくに仕事もしていないのに娘に絡みついて、いわば転がり込んできた男なんだからね。でも、それは当然なんだからあまり気にすることもなかったのに……」
 そんなふうに沢木耕太郎が聞くと、藤圭子はこう話している。
「デビューして、もう2、3年の頃からそうだったんだけど、あたしには収入があるわけ。並のお金じゃない収入があるわけ。あたしっていうのは、どういうんだろ、持っていると人にあげたくなちゃうの。その人が欲しいというものなら、それがいま、自分のうちで使っているテーブルでもあげちゃう。人に何かしてあげたくなっちゃうんだよ。それが、相手が男の人でも、そうしちゃう。結果的にはそれが悪いんだって人に言われるんだけど。よくない言葉で言えば、貢いじゃうんだ。男の人に支えられるというより……なまじ生活力があるもんだから、逆にしてあげちゃうわけ。その人の場合にも、好きなものを買ったり、みんな自由にしてもらっていたの。でも、いま考えると、そういうこと……働かないでお金だけ自由になるなんていうことを、男の人にさせてしまったというのは、よくないことだったんだよね。それは、ほんとに、悪かったと思ってるんだ。……」
 若い無名歌手と別れてからも、藤圭子の男性遍歴はつづく。ある野球選手(本では匿名だが、小林繁)ともつきあったが、あまりにも自己中心的で薄っぺらな人間であることに気づく。
 そして、歌うこと自体もだんだんつらくなってくる。

「あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。確かに歌手としてはその通りかもしれないけど、ひとりの女の子としてはどうだったろう。果してよかったかなあ」
「いいんじゃないかな。それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」
「いろいろと悩んだり、迷ったり、考えたり……それが人間として普通だと思わない?」
「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細かいことを気にするのは、やっぱりよくないよ」

 藤圭子は歌っても歌っても満足できなくなっていた。考え考えしながら歌っていると、歌うのがつらすぎるようになってしまった。
 10周年の日劇では、舞台に立つのが恐かった。頭のなかがぼうっとして、歌詞を全部忘れてしまいそうになる。それでも、いざ舞台に立つと、そつなく振る舞えるのが不思議だった。
 しかし、夜になると、別の感情が押し寄せてくる。
「すべてが虚しくなって……もう、どうでもいいっていうような気持になって……ぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて……どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」
 藤圭子産業は巨大会社だった。その意味では、彼女の業務はひっきりなしにつづいていた。
おじいちゃん、おばあちゃんを前にして、いなかの体育館などで歌うのは嫌いではなかった。しかし、ヨッパライがよろよろ倒れかかってくるような地方のクラブなどで歌うのにはうんざりしはじめていた。
 それで、歌をやめることにした。
 藤圭子は1979年に引退を宣言し、その年暮れにハワイに発つことになる。

「歌をやめるというあなたに、もう余計なことを言う必要もなさそうだな。あとは、健康で、頑張って、と言う以外にないんだけど……」
「だけど?」
「だけど、ひとつ、言うことがあるとすれば……というより、心配なことがひとつある、といった方がストレートかな」
「どんなこと?」
「いま、あなたは、とりあえず仕事を持っているでしょ? たとえそれに満足していなくとも、ぼくたちから見れば、歌っている瞬間に、あなたがキラキラするのを感じることができる。しかし、その仕事をやめたとき、あなたが、その、もしかしたら平凡かもしれない、その生活の中で、煌めく何かを持てるだろうかという……」
「そんなこと、少しも心配してないんだ、あたし」
「でも、普通の人たちは、その人なりに、その普通の生活の中に煌めくものを、何か持っているわけじゃないですか……」
「あたしは楽観している、平気だよ」
「それならいいんだけど」
「たとえば、あたしは歌手をやめるけど、やめても藤圭子をやめるわけじゃないんだ……」

 阿部純子(両親の離婚後は竹山純子)は、すでに家の牢獄から抜けだして、藤圭子としての道を歩んでいた。そして、いままた芸能界という籠から飛翔しようとしていたのである。
 その行き先はアメリカだった。そこにはまた別の世界が広がっているはずだった。

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自覚と不安──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(3) [われらの時代]

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 1971年6月、まもなく20歳になる藤圭子はクールファイブのボーカル前川清と婚約し、2カ月後に結婚する。
 ふたりとも寂しがり屋で、なんとなく気があって、つきあっていた。
 そのネタを石坂まさをが話題づくりのために、週刊誌に売ったというから、芸能界というところはおそろしい。
「それであたし、意地になったの。そんなことするなら、絶対にもう結婚してやる、って。ほんと意地になっちゃんたんだ」と藤圭子は沢木耕太郎に語っている。
 ほんとうに準備もなにもなしの勢いだけの結婚だった。前川の知り合いの大工に仲人になってもらい、その大工が改築した家の上に住んだ。ところが、その大工がくわせもので、ふたりをごまかして、カネを吸い取っていた。
 そのころから、圭子は芸能界のいやらしさを強く感じるようになった。
 新しくもらった歌でも、自分の気持ちに合わなかったり、逆にまるで自分のいまの境遇に密着しすぎたりすると、心をこめて歌えなくなってしまった。
 三田の新居でも、忙しいふたりはすれちがいがつづき、そのうちいっしょにいる意味がみいだせなくなってしまったのだろう。
 わずか1年で離婚してしまう。
 離婚後も相変わらず仕事は忙しかった。しかし、仕事以外のときは、毎晩ディスコなどに行って、遊びほうけていたという。テレビのディレクターやフォーリーブズのメンバー、かまやつひろしや郷ひろみなどと、朝の6時、7時まで遊んでいた。
 1973年には両親が離婚した。その年の紅白歌合戦には選ばれなかった。「向こうがださないんっていうんだから、こっちも出るのやめようよ」と圭子はいきどおる。これにはマネージャーが青くなった。
 1975年には紅白にまた選ばれる。だが、とくに感動はなかった。

「しかし、紅白歌合戦自体には、何の魅力も感じなかったのかな、あなたは」
「うん」
「初めて出たときも嬉しくなかった?」
「うん」
「無感動?」
「うん、初めて紅白に出たときも、ずいぶんシラけた番組だなあと思ってた。……紅白って、いつ出てもくだらないことをやらせるんだよね」

 このころ藤圭子は沢ノ井(石坂まさを)の事務所を出て、新栄プロダクションに移っている。新栄プロダクションは石坂に三千万か四千万の移籍料を払ったといわれている。
 だが、そのころ圭子はヒット曲にめぐまれなかった。阿木耀子作詞、宇崎竜童作曲の「面影平野」もなぜかヒットしなかった。

「あなたは、あの曲が好きじゃなかったのか……」
「好きとか嫌いとかいうより、わからないんだよ、あの歌が」
……
「わからないって、さっきあなたが言ったのは、どういう意味なの?」
「心がわからないの」
「心?」
「歌の心っていうのかな。その歌が持ってる心みたいなものがわからないの。あたしには。あたしの心が熱くなるようなものがないの。だから、曲に乗せて歌っても、人の心の中に入っていける、という自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局、わからないんだよこの歌が、あたしには、ね」
「なるほど、そういうことか……」

 藤圭子が自信を失っていたのは、そのころ喉の手術をして、声が変わってしまったと感じていたためでもある。これはほとんど本人しかわからない感覚だろう。

「切ったのね、実際に」
「切ったんだ。切っちゃったんだ。思うんだけど、あたしのは結節[ポリープ]なんかではなかったんじゃないだろうか」
(中略)
「先天的な、結節のようなものが、あなたの喉にはあった……」
「歌手になってから、使いすぎて急にできたっていうはずもない。だって、その前の方が、むしろいっぱい歌ってたんだから。あのときも、ただ休めばよかったんだ」
「そう思う?」
「そう思う」
「あなたは、あまり後悔しない人のように思うけど、それは別なんだね」
「別だね、残念だね。自分の声に無知だったことが、口惜しいね」

 このころから、藤圭子は人に聞かれること、人に見られることに敏感になっていく。スター歌手の自覚と裏腹に、自分への不安が頭をもたげていく。自分で歌っていても、つまらない、どこかちがうと感じるようになり、歌に陶酔できなくなっていた。
 沢木耕太郎はもっと気を楽にもったらと話しかけるのだが、藤圭子にはプロの歌手としてのプライドがある。

「この五年、歌うのがつらかった」
「いつでも? どんなときでも?」
「うん……」
「あなたなりに、悪戦苦闘していたわけだ」
「どうやったらいいのか、どう歌ったらいいのか。いろいろやってみたけど、駄目だった。……」

 沢木耕太郎を前に、藤圭子はじつに素直に、そしてめずらしく雄弁に語っている。
 こんなに素直に語るスター歌手がほかにいるだろうか。

「あたしは、やっぱりあたしの頂に一度は登ってしまったんだと思うんだよね。ほんの短い期間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。一年で登った人も、十年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。ゆっくり降りるなんていうことはできないの。もう、すごい勢いで転げ落ちるか、低くてもいいからよその頂に跳び移るか。うまく、その傍に、もうひとつの頂があればいいけど、それが見つけられなければ、転げ落ちるのを待つだけなんだ。……」

 このとき、藤圭子は歌謡界を引退して、別の頂に跳ぼうとしていた。その頂とは結婚することではなかった。

「じゃあ、どこに跳び移るの、結婚じゃないとしたら」
「笑わないでくれる?」
「もちろん」
「勉強しようと思うんだ、あたし」
「そいつは素敵だ」
「二十八にもなって、遅いかもしれないけれど、やってみようと思うんだ」

 藤圭子はアメリカに行って、英語を勉強しようとしていた。一途なのである。

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一気にスターに──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(2) [われらの時代]

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 藤圭子が東京に行くきっかけは、中学3年のとき岩見沢市民会館の雪祭り歌謡大会で、北島三郎の「函館の女(ひと)」を歌ったことだという。東京から来るはずだった歌手が急に来られなくなったため、岩見沢のきらく園で歌っている彼女に代役が回ってきたのだ。
 たまたま歌を聴いていた八洲秀章という作曲家が、プロになる気があるなら、東京に出ていらっしゃい、と言ってくれた。
 その話に両親が乗って、圭子は東京に出ることになった。
 旭川を出たのは中学の卒業式当日。卒業証書をもらってから、汽車に乗って、母親といっしょに東京に向かった。
 母と西日暮里にアパートを借りて、それから父もでてきて、八洲先生のところでレッスンがはじまった。
 しかし、ビクターでのオーディションには落ちてしまう。
 そば屋のバイトをしたり、髪型のモデルをしたりしたあと、両親といっしょに錦糸町や浅草で流しをはじめた。

「どんな歌を歌ってた?」
「いろいろ……言われて歌えないのも口惜しいし、歌詞カードを見ながら歌うのもいやだから、家で懸命に覚えたな、いろんな歌を」
「しかし、あなたみたいな女の子がギター抱えて店に入ってきたら、これはびっくりするだろうな」
「そんなことないよ。そんなことで驚くような世界じゃないよ。夜の世界なんて」
「でも、あなたみたいな女の子の流しなんて、錦糸町にも、浅草にもいなかっただろうからなあ」
「そりゃ、そうですよ。だから、どんな不景気でも、仕事はあったんだから」
「やっぱり、びっくりするよ。……錦糸町までは国電で通っていたの?」
「うん。西日暮里の駅から電車に乗って……そう、よく通ったなあ。親子三人で、ギターと三味線を抱えて……錦糸町まで……」

 オーディションに落ちたあと、圭子は八洲先生のところを離れて、別のところでレッスンを受けていた。そのとき知り合ったのが沢ノ井龍二という27歳の売れない作詞家だった。沢ノ井は浅草の裏町で流しをしている圭子を見つけて、スカウトする。
 けっきょく、圭子は新宿の沢ノ井の家に下宿することになった。その家には沢ノ井の母とネコがいた。
 圭子は小さなプロダクションにも所属していた。そこからキングのオーディションを受けたら、何と受かってしまった。
 困ったことに、沢ノ井は東芝専属の作詞家だった。しかたなく、キングのほうは父に断りにいってもらった。
 ところが、東芝を受けたら、落ちてしまった。
 下宿している1年間は、レッスンやオーディションを受けたりしているうちに、あっという間にすぎていく。
 コロムビアにも受かったが、それを断ってRCAからデビューすることになったのは、RCAに熱心なディレクターがいたからである。
 初アルバム「新宿の女」が発売されたのは1969年9月25日。ほんとうは18歳になって2カ月だったが、パンフレットでは1年サバを読んで、17歳と記されていた。
 最初は売れなかった。キャンペーンで新宿のいろんな店を回って、1日50回以上歌ったりもした。

「〈新宿の女〉が売れ出したのは、翌年?」
「次の年の二月に〈女のブルース〉を出したんだよね。出したら、それはすぐ売れて、それに引きずられて、また〈新宿の女〉が売れたっていう感じかな」
「ぼくは正直いうと、〈新宿の女〉があまり好きじゃなかった。好きじゃない、というより嫌いだったな、はっきりと。アクの強い、ザラッとするような……そのアクの強さに、アレルギーを起こしたのかもしれないね」
「あの歌はね、本人が余計なことを何も考えず、ただの歌と思って歌っていたところに、いいとこがあったと思うの。あたしが男になれたなら、あたしは女を捨てないわ、なんて、考えはじめたら歌えるような歌詞じゃないよ、実際」
「しかし、〈女のブルース〉っていうのは、いい歌だと思った。歌詞が変っててね」

 おそらく「新宿の女」は、まだ少女っぽい女の子が、いきなりハスキーな声で夜の女の話を歌うというギャップの妙に受けをねらっていたのだろう。
「女のブルース」はこんな歌だ。

  女ですもの 恋をする
  女ですもの 夢に酔う
  女ですもの ただ一人
  女ですもの 生きて行く

 藤圭子は「初めてこの歌詞を見たときは……震えたね。すごい、と思った。衝撃的だったよ」と語っている。
 さらに

  何処で生きても 風が吹く
  何処で生きても 雨が降る
  何処で生きても ひとり花
  何処で生きても いつか散る

 単純なことばをくり返しながら情感は次第に高まっていく。
 作詞は石坂まさを、すなわち沢ノ井龍二だった。
 女の、いや藤圭子の「独立宣言」みたいな歌である。強さとはかなさが同居している。
「女のブルース」につづいて、2カ月後に立て続けに「圭子の夢は夜ひらく」がでる。
 何といっても有名なのは二番の歌詞だ。

  十五、十六、十七と
  私の人生暗かった
  過去はどんなに暗くとも
  夢は夜ひらく

 だれもが、この歌詞に藤圭子の人生を重ね合わせた。
 沢木耕太郎も聞いている。

「この歌詞に抵抗感はなかった?」
「なかった」
「これ、自分のことを歌っているとは思わなかった?」
「思わなかった。ただの歌の、ただの歌詞だと思ってた」
「でも、聞く人は、その歌詞をあなたそのものに投影して、感動してたわけだよ」
「人がどう思おうと関係ないよ」
「それでは、そうおもわれることに対する抵抗感は?」
「ぜんぜん、なかった。思うのはその人の勝手だから」
「十五、十六、十七と、あなたの人生、暗くはなかった?」
「暗くないよ、とりあえず、いまの人生が、幸せなんだから」
「でもさ、そのときはどうだったの?」
「食べて、生きてこられたんだもの、それが暗いはずないよ」
「あなたは……実に意地っぱりですね。呆れるというより、感動するくらい」
「フフフッ。そんな意地っぱりかなあ、あたし」

「夢は夜ひらく」はもともと東京少年鑑別所(通称ネリカン)で伝わっていた歌だ。さまざまなアレンジがあり、園マリも歌っていた。しかし、圧倒的なのはやはり石坂まさを作詞、曽根幸明作曲の藤圭子版である。
 受験戦争を終えたあとの大学闘争も収拾され、どこか廃墟に残されていたように感じていたぼくらは、あのころ藤圭子の「夢は夜ひらく」に出会ったのだった。熾火のような夜の夢をかかえながら。
 1969年9月に「新宿の女」でデビューして、1970年の藤圭子は2月に「女のブルース」、4月に「圭子の夢は夜ひらく」、7月に「命預けます」を出して、まさに歌謡界を駆け抜けていった。
 そして、強烈な光を放ったあと、突然、枯れてしまったようにみえた。
 どうしてだったのだろう。

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藤圭子、心の奥底からの声──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(1) [われらの時代]

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 藤圭子と藤純子、ひとりは歌手、ひとりは女優である。共通するのは、ふたりとも1960年代末が生み落としたスターだったことだ。そう、あのころだ。あのころが終わると、ふたりともきらきらした輝きを失っていくように思えたのは、どうしてだろう。
 コロナで休館前の図書館で借りた沢木耕太郎の『流星ひとつ』を読んでみた。
 2013年8月22日に藤圭子が自死した直後に出版された本である。
 中身は沢木耕太郎による1979年のロングインタビューで、このとき28歳の藤圭子は歌謡界から引退しようとしていた。
 ずっとお蔵入りになっていた。その理由はわからないでもない。いったん引退して渡米した藤圭子は、2年後に帰国して、歌手に復帰したからである。
 そのあと宇多田照實と結婚し、以降、同じ人物と7回の離婚・結婚を繰り返す。1983年には娘、光(宇多田ヒカル)が生まれた。
 宇多田ヒカルがデビューする1998年までは、アメリカと日本を行ったり来たりしながら、ときどき日本のテレビにも出て、歌っていた。
 だから、引退宣言したときの沢木のインタビューは、出版しにくくなり、お蔵入りになっていたのだと思われる。
 ところが、2013年8月22日に、藤圭子が新宿のマンションの13階から投身自殺したというニュースが報じられる。
 宇多田ヒカルは母の死について、自身のオフィシャル・サイトでこうコメントした。その一部を引用する。

〈彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。……
幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族を含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
母が長年の苦しみから解放されることを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。〉

 切々としたコメントだった。
 沢木は藤圭子の面影をしのびながら、お蔵入りになった原稿のコピーを読み返してみた。
「そこには、『精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性』という一行で片づけることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた」
 沢木はその「輝くような精神の持ち主」の姿と心の声を忘れてほしくないと思って、本書の出版を決意したのだという。
 そう、あのころ藤圭子は輝いていたのだ。

 沢木耕太郎のインタビューで、藤圭子は自分の出自をこんなふうに語っている。

「あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって? 岩手県の一関……旅興行の途中だったとか」
「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ。子供の頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるぐらいだから」
「お母さんは曲師(きょくし[三味線をひく人])だったの?」
「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんも、お母さんも」
「しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」
「うん」

 その話しぶりがよみがえってくる。
 藤圭子(本名は純子)は1951年7月に生まれた。父は阿部壮(つよし)、母は竹山澄子。両親はドサ回りの浪曲師で、しょっちゅう旅巡業をしていた。
 圭子は学校に上がる前から字を読めたという。汽車が駅に止まるたびに、駅の名前を読んで、字を覚えた。
「いつも汽車に乗っていた。そういう気がするなあ」と話している。
 小学校のころ住んでいたのは旭川市旭町の市場横の家、その2階を間借りしていた。2間に親子5人がくらしていた。
 浪曲師の仕事があまりこなくなった父はパチプロみたいなことで食べていた。圭子も床に落ちている玉をひろって、弾いているうちに、うまくなって、いろんなものをもらった。
 両親が旅に出て、なかなか帰ってこないと、お金がなくなって、留守番する子どもたちは困窮した。近所のおばさんが、アワとかヒエを差し入れてくれることもあったが、鶏のエサみたいで、とても食べられなかったことを覚えている。
 残ったお金で、近くの豆腐屋さんに納豆を分けてもらって、それを売って生活していたこともある。
 小学校5年のころでカムイ(旭川市神居町)に引っ越し、家を建てた。
 母親の実家からお金を借りて、知り合いの大工さんに土台だけつくってもらい、あとはみんなで建てたのだという。父親は一年くらい左官をやったこともあるので、何とか家をつくることができたのだ。
 転校先の神居小学校では、明るくなったし、勉強もできるようになったと語っている。友達もいなかったし、ひとりでじっとしているだけの前の小学校とは大違いだった。
 勉強はよくできた。しかし、体育はまるでだめ、ハスキーボイスなので唱歌もぜんぜんだめだったというのがおかしい。
 神居中学でも成績はよかった。クラスでいつも3番以内にはいっていた。得意なのは数学。一回の試験で珠算の2級検定もとっている。
 歌をはじめるきっかけは、家でこまどり姉妹か畠山みどりの歌をくちずさんでいたら、母親からうまいじゃないといわれたことだったという。
 それまでは変な声で、音痴だと思っていた。
 そして、あるとき、お寺の法事の余興で歌うことになった。お祭りでも歌った。両親の仕事がらみだった。
 土曜と日曜は、浪曲をやる父と母といっしょに、あちこちの舞台に立つようになった。伴奏もマイクもなしで、畠山みどりの「出世街道」や「浪曲子守唄」、「刃傷松の廊下」を歌ったという。とつぜん出てきた小さな子がいきなり大人の唄をみごとに歌うのを聞いて、客席はやんやのかっさいだったという。
 学校はほとんど休まなかったが、両親と山の奥の飯場とか海岸の漁師町に仕事で2、3週間行くこともあった。
 家庭は貧しく、生活保護を受けていた。
 中学卒業の半年ほど前、両親と岩見沢に引っ越した。

「中学三年のときだっけ、岩見沢に引っ越したんだったよね、旭川から」
「うん」
「それはどうしてなの?」
「岩見沢にね、きらく園というヘルス・センターがあって、そこに仕事があったの。住み込みで」
「芸人さんとして?」
「そう、三人、芸人として」
「三人と言うと、お父さんとお母さんとあなた?」
「そう」
「お姉さんとお兄さんは?」
「もうバス会社で働いていたから、旭川に残ったの」
「あなたが一緒に行くことも、条件のひとつだったのかな」
「そうなんだって。北海道といっても結構狭いから、どこにどんな芸人がいるとか、あそこに子供で歌うのがいるといったことは、すぐわかるんだね」
「転校するの、いやじゃなかった?」
「しばらく、岩見沢に来てからも、泣いてたな。毎日、クラスの友達に手紙を書いてた。でも、卒業まで、あと半年くらいだったから我慢できそうだったし……」

 このころになると、客の目当てはすでに天才少女歌手の圭子だったことがわかる。
 中学を卒業してから先のことは、あまり考えていなかったという。

「毎日、毎日、その日、その日を送っていたのかな、ほんとうに」
「その中で、ただ喜んだり、悲しんだりしていただけ」
「それじゃあ、何が嬉しかった、あなたは」
「おいしい物を食べられたら嬉しいし……見る物すべて食べたかった」
(中略)
「それじゃあ、何が悲しかった」
「お父さんに怒られれば悲しいし……お母さんに怒られたことは一度もないんだよね」
「どんなことで、お父さんに怒られるの?」
「うーん。その話はしたくない、あんまり」
「そうか。問題は、いつも……悲しいことは、お父さんなんだね」

 いまでいうDVがあったことが想像される。目が悪い母親はいつも父親にひどく扱われていた。本人も虐待されていたのかもしれない。
 そんな圭子が東京に行くことになるのは、ひょんなきっかけからである。
 つづきはまた。

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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(5) [われらの時代]

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 1970年1月、第3次佐藤内閣が発足する。主要閣僚が留任するなか、通産相には大平正芳に代わって宮沢喜一、防衛庁長官に中曽根康弘が就任した。予想外に難航した日米の繊維交渉は、年明けに決裂していた。
 この年、日本は西側で国民総生産(GNP)世界第2位に躍進する。
 2月、日本は核兵器不拡散条約に調印する。
 国会の施政方針演説で、佐藤は沖縄の本土並み復帰決定により戦後に終止符が打たれたこと、国際的地位の上昇により今後は内における繁栄と外に対する責務との調和をはかることが課題だと表明した。
 3月14日、大阪で万国博覧会がはじまる。
 3月31日、赤軍派によるよど号ハイジャック事件が発生した。
 6月には1960年に結ばれた日米新安保条約が10年の固定期限を終え、自動延長されることになった。無事、自動延長されたことに、佐藤は胸をなでおろした。
 佐藤の秘書官、楠田實はこのころ、佐藤内閣のもと、憲法を守るという方向が年ごとに強まっていると感じていた。いっぽう、憲法改正に取り組まず、「平和国家」を打ちだす佐藤政権に、岸信介などは不満をいだいていた。
 著者によれば、佐藤がめざしていたのは、「先の大戦への反省と日米関係を基盤に、豊かさと平和が結びついた『非核専守防衛大国』」だった。
 佐藤は10月18日から27日まで訪米し、国連総会でこう演説する。
「いわゆる経済大国になれば、軍事大国になるのが今までの世界の常識だったが、日本は決して軍事大国にはならない。日本の憲法にしたがって平和を維持していく」
 2度目のニクソンとの会談もおこなわれた。その会談では、沖縄や安保の問題が再確認されるとともに、国際情勢についても意見が交わされた。繊維交渉は混迷していたが、佐藤は積極的に解決することを約束した。
 これからは「日本が、国内の産業構造を整備し、調整し、国際社会に協力しなくてはならない」とも発言している。だが、繊維交渉は日本の業界の反発も強く、なかなか決着をみない。
 帰国直後の10月29日の自民党総裁選で、佐藤は対抗馬の三木を大きく引き離して4選をはたした。しかし、そろそろ次の世代をどう育成するのかが問われていた。佐藤自身の頭にあったのは福田赳夫である。
 11月9日には、佐藤政権を支えていた副総裁の川島正次郎が亡くなった。
 秋からの国会は「公害国会」と呼ばれた。12月には公害対策基本法が改正され、それまでの経済調和条項が削除され、はっきりと公害防止をめざす方向が示された。
 そのさなかの11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で割腹自殺する事件が発生する。三島は、自衛隊を国軍とするため自衛隊員が決起するよう呼びかけていた。佐藤はこの考えを否定する。
 沖縄では11月15日に、施政権返還を前にして戦後初の国政参加選挙が実施されていた。
 12月20日にはコザ暴動が発生。米兵の乱暴な振る舞いに民衆の怒りが爆発した。佐藤としては、頭の痛いできごとだった。
 1971年3月に佐藤は70歳を迎えた。
 繊維交渉は難航していた。日本側は自主規制というかたちで決着をはかろうとしたが、ニクソンはあくまでも政府間協定を求めた。
 4月11日の統一地方選の知事選では、東京・大阪・京都で共に革新系が勝利した。東京都では美濃部亮吉が再選をはたした。
 4月28日の「沖縄デー」の集会には、沖縄で約2万人の参加者が集まり、佐藤政権打倒の声も挙がった。
 6月15日には沖縄返還協定が閣議決定され、17日に日米の衛星テレビを通して、批准書交換式が開かれた。
 6月27日の参議院選挙で自民党は63の改選議席を62に減らしたものの、まずまずの安定を保った。7月の内閣改造では、外相に福田赳夫、通産相に田中角栄、蔵相に水田三喜男、法相に前尾繁三郎、官房長官に竹下登が就任した。党三役は幹事長に保利茂、総務会長に中曽根康弘、政調会長に小坂善太郎という布陣だった。
 そこにふたつのニクソン・ショックが襲いかかる。
 7月15日、ニクソン大統領は全米向けのラジオとテレビで、来年5月までに北京を訪問すると発表した。
 さらに8月16日、ニクソン大統領は米ドルと金との交換を停止するなどのドル防衛策を発表した。これにより戦後の世界貿易を支えてきたIMF体制が終わりを迎える。
 9月1日、大平正芳は宏池会議員研修会で「潮の流れを変えよう」というスピーチをおこない、政治不信の解消と自主平和外交の精力的展開を訴えた。ポスト佐藤に向けて、旗幟を鮮明にしたのである。
 新任の通産相に就任した田中角栄の動きは俊敏だった。10月15日にニクソン政権の要求に沿って日米繊維協定を仮調印し、国内の繊維業者にたいする救済措置をまとめた。協定は翌年1月に正式に締結され、その間、沖縄返還協定もアメリカ上院で批准された。
 国連では10月25日に中国招請・国府追放の決議案が大差で可決された。そのころには中華人民共和国を承認する国が増え、中華民国が劣勢に追いこまれていた。日本は国連代表権の変更を阻止しようとしたが、世界全体の流れには逆らえなかった。
 日米繊維紛争が決着したあと、11月からはいわゆる「沖縄国会」がはじまった。沖縄では11月10日に、核も基地もない沖縄を求めて、返還協定に反対するゼネストがおこなわれていた。
 しかし、衆議院特別委員会は、11月17日に沖縄返還協定と関連法案の質疑を打ち切り、強行採決に踏み切る。野党は18日以降の審議を欠席、19日には大々的なデモがおこなわれ、日比谷公園内の松本楼が焼き討ちされた。
 自民党の保利幹事長は、野党にたいし、非核三原則と沖縄米軍基地縮小を確認する決議案を上程することを約束。これにより、公明党と民社党が軟化して、審議に復帰する。
こうして11月24日、本会議において沖縄返還協定が承認され、同時に非核三原則の決議も成立した。
 参議院でも混乱がつづいたが、自然承認を待たず、12月22日に沖縄返還協定は承認される。
 12月19日、ワシントンのスミソニアン博物館で10カ国蔵相会議が開かれていた。この会議で決められたのが1ドル=308円の新たな為替レートである。
 だが、このスミソニアン体制も長続きしない。1973年に通貨は完全に変動相場制に移行することになる。
 1972年1月6日から、カリフォルニア州のサンクレメンテで、日米首脳会談が開かれた。これにより5月15日の沖縄返還が決まった。
 1月10日、羽田に出迎えた沖縄の屋良朝苗主席と握手し、佐藤は「精いっぱいやったが、あれだけの結果しか出なかった」と述べている。基地縮小は無理だったのである。
 2月2日の日記に、佐藤は「いつ迄もこの仕事をやってもおられない。適当な処で退陣を決すべきかと思う」と記した。
 2月21日、ニクソン大統領が訪中し、毛沢東や周恩来と会見、27日に上海コミュニケが発表された。
 日本の学生運動は追い詰められ、尖鋭化していた。2月19日から28日にかけ軽井沢町のあさま山荘に立てこもった連合赤軍は機動隊と銃撃戦をくり広げた。5月にはイスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍が銃を乱射する事件がおきた。
 3月15日、佐藤をはじめ、多くの閣僚が立ち会うなか、首相官邸で、福田外相とマイヤー駐日大使とのあいだで、沖縄返還協定の批准書が交換された。
 マイヤーはのちに著書のなかで、「日本は巨大な軍事力を持たなくても大国たりうる」という「雄大な実験」に乗り出したのだ、と記している。だが、その実験はいつ崩れないとも限らない、微妙なバランスの上に成り立っていた。
 3月27日、社会党の横路孝弘議員が国会で、沖縄返還にともなう密約の存在を問いただした。アメリカが支払うべき軍用地の復元補償費を日本側が肩代わりする密約があるのではないかというのだ。政府はこれを否定するが、それは事実だった。
 この情報を横路の耳に入れたのは、毎日新聞記者の西山太吉である。この外務省機密漏洩事件は、のちに取材にともなう男女スキャンダルが明らかになって、興味は別の方向へそらされていった。
 日米間に財政処理にからむ秘密合意があったことはまちがいない。核の持ち込みについても秘密合意があった。しかし、国会での答弁で、政府はそれをあきらかにすることなく、虚偽に虚偽を重ねて、ひたすら国会を乗り切ることに専念し、沖縄返還の日に向けて突っ走った。
 5月15日、沖縄は日本に復帰した。
 東京の日本武道館と那覇の那覇市民会館で沖縄復帰記念式典が開催された。
 武道館の式典で佐藤は「大戦の末期に戦場となり、尊い多くの人命を失った沖縄の地は、戦後長きにわたって米国の施政権下に置かれてきたのでありますが、今日以後、私たちは同胞相寄って喜びと悲しみを共に分かちあうことができるのであります」と、力強く式辞を読んだ。
 社会党、共産党議員は式典に参加せず、夜遅くまで沖縄返還協定に反対するデモがつづいた。
 沖縄返還は足かけ7年つづいた佐藤政権の終幕をかざる花道となった。
 国会が閉幕した6月17日、佐藤は辞意を表明する。テレビで引退会見をおこなうつもりだったが、記者会見室に行くと新聞記者が大勢押し寄せていた。
 突然、佐藤は怒りだし、「国民に直接話したいんだ。……偏向的新聞は大きらいだ」と叫んで、部屋を飛びだす。秘書官に説得されて戻ってきた佐藤は、一人テレビカメラに向けて、不機嫌な顔であいさつをすることになった。
 佐藤が次期首相にと望んでいたのは福田赳夫だった。だが、7月5日の自民党臨時大会で勝利したのは田中角栄だった。
 佐藤派はふたつに分裂し、いつのまにか田中派ができていた。田中は三木、大平とも反福田三派連合を結成し、福田を破った。
 7月7日、田中角栄内閣が発足し、佐藤は首相公邸を去った。
9月、田中政権のもとで日中国交回復が実現する。
 首相退任後も政界では大きなできごとが相次いだが、佐藤はわりあい穏やかな生活を送った。
 11月には大勲章菊花大綬章を受けた。
 1973年1月には訪米、再選したニクソンの大統領就任式に参加、その直後に急逝したジョンソン前大統領の葬儀にも参列した。
 田中角栄内閣の支持率は急速に落ちていた。日本列島改造論が狂乱物価を招いていた。
 10月には石油危機が勃発。日本の高度成長の時代が終わる。
 1974年、日本の政局は不安定になり、7月の参院選で三木武夫が田中の金権政治を批判し、閣僚を辞任する。田中と福田の反目も激しくなっていた。
 そんななか、10月に佐藤のノーベル平和賞受賞が決定する。「エッ、あの人が」という朝日新聞の見出しに見られるように、メディアはどちらかというと意外な受け止め方をした。
 金脈問題で信頼を失った田中内閣は11月26日に退陣する。田中の意向を受けて、党内では椎名悦三郎副総裁の斡旋により、次期総裁の座に三木武夫がつくことになった。
 福田を推す佐藤は、福田に「棚からぼたもちは落ちてこない」と忠告した。
 12月10日のノーベル賞授賞式で、佐藤は「核時代の平和の追求と日本」と題して講演し、日本国憲法第九条を引用しながら平和への日本の歩みについて話し、多様な存在が相違点を認めつつ平和的に世界が共存していくことの重要性を強調した。
 1975年4月5日に蒋介石が亡くなると、佐藤は台湾に弔問にでかけた。
 4月30日には、ベトナム軍によってサイゴンが陥落し、ベトナム戦争がついに終わった。
 5月18日、新橋の料亭喜楽で開かれた宴席で、佐藤は倒れた。くも膜下出血だった。そのまま昏睡状態となり、6月3日、東京慈恵会医大病院で亡くなった。享年75歳。
 6月16日、日本武道館で国民葬が営まれた。
 本書は政党政治家、佐藤栄作の生涯を丁寧にたどった力作である。

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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(4) [われらの時代]

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 おうおうにして「待ちの政治」と評されたが、佐藤は政治家にとってだいじなのはリーダーシップであって、決定のチャンス、タイミングをつかむことだと考えていた。
 1967年2月、第2次佐藤政権が発足するが、閣僚は前回の改造からすべて留任。政策ブレーンの楠田實は首相の政務担当秘書官(主席秘書官)となった。
 黒い霧解散を乗り越えた佐藤は、3月の施政方針演説で「心を新たにして議会民主政治の確立に努める」と述べた。いっぽうの社会党は政府への対決姿勢を強めていた。
 4月の統一地方選挙では、東京都知事に美濃部亮吉が当選し、佐藤はショックを受ける。
 佐藤が当初かかげた社会開発論は、一時の華やかさを失っていたが、次第に総合的な都市政策、地域開発へと進んでいった。「人間尊重」という観点では、8月に公害対策基本法が成立したのが見逃せない。
 佐藤は6月30日に韓国を訪問し、朴正熙大統領と会見した。
 1963年にゴ・ディン・ジェム政権がクーデターで倒されて以来、南ベトナムの政局が不安定になっているのが気がかりだった。
 8月16日には首相の諮問機関となった沖縄問題等懇談会の初会合がもたれた。ここで佐藤は、秋の訪米時に沖縄と小笠原諸島の施政権返還について米側首脳部と率直に話し合うことを表明した。佐藤の立場は沖縄の核抜き一括返還論だった。
 アメリカが心配していたのは1970年の日米安保条約自動延長である。もしこの時点でアメリカが沖縄の本土復帰を約束していなかったら、日米関係が大きな危機を迎えることになるとの懸念があった。しかし、米国防省はあくまでもアメリカの安全保障上の利益にこだわりつづけていた。
 9月7日から9日まで、佐藤は台湾を訪問し、総統の蒋介石と首脳会談をおこなう。蒋介石は文化大革命で混乱する中国大陸に反攻すると意欲満々だった。
 9月20日から30日までは、ビルマ、マレーシア、シンガポール、タイ、ラオスの5カ国を訪問。
さらに10月8日からはインドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、南ベトナムの歴訪に出発する。
 このとき、これを阻止しようとする学生たちの闘争により、学生が一人死亡した。だが、佐藤は旅程をつづける。フィリピンを訪れたとき、佐藤は恩師吉田茂の訃報に接し、南ベトナム滞在を短縮して、急遽、日本に帰国した。
 吉田の国葬は10月31日におこなわれ、佐藤は葬儀委員長をつとめた。
 吉田の死が、沖縄返還に賭ける佐藤の思いを強くしていた。極東の安全保障を保ちながら沖縄返還を実現させるというのが、佐藤の引いた路線である。
 佐藤は11月12日から20日まで渡米する。その前に、首脳会議の詰めの作業をおこなうため、国際政治学者の若泉敬を何度もアメリカに派遣し、米政府の高官と接触させていた。若泉は佐藤のいわば密使だった。
 佐藤訪米にあたっては、またも羽田付近で反対闘争が巻き起こった。
 ジョンソン大統領との会談では、いきなりポンド危機の問題がでたが、そのあと佐藤は歴訪した東南アジアの情勢について説明し、さらに沖縄、小笠原問題がいまや国民的願望になっていることを伝えた。
 佐藤はジョンソンに、中国が核武装している最中に沖縄の基地をなくすことは考えられないにしても、この2、3年のうちに沖縄が返せるめどだけでもつけられないかと迫った。
 午後のマクナマラ国防長官との会談で、佐藤はマクナマラから自由世界の防衛に日本が参加するよう求められた。これにたいし、佐藤は日本は経済的財政的援助ならともかく、軍事的援助はいっさいできないと言い切った。また日本は中国に対抗して核をもつことなく、あくまでも「米国の核の傘の下で安全を確保する」と述べている。
 マクナマラは沖縄返還に理解を示し、問題は返還ではなく基地にあると発言した。これにたいし、佐藤は即時返還とはいわないが、日米友好親善のためにも、基地の維持のためにも、返還のめどを示すべきだと主張した。
 翌日、佐藤はラスク国務長官とも会って、沖縄返還を訴えている。
 二度目の首脳会談で、ジョンソンは「米国に戦争を今後2、3年間継続してほしいなら、5億ドルくらいの援助はしてほしい」と述べた。これにたいし、佐藤は最善を尽くすと返答した。
 11月15日の日米共同声明では「沖縄の施政権を日本に返還するとの方針」が確認され、佐藤首相が「ここ両三年内」に双方が返還時期について合意すべきことを強調し、ジョンソン大統領も日本国民の要望を理解していることが明記された。小笠原諸島については早期返還が合意された。
 帰国後の11月21日、佐藤は昭和天皇に内奏し、訪米の成果を説明した。
11月25日には内閣改造がおこなわれた。厚相に天草出身の園田直を任命したのは、水俣病など公害問題に取り組む姿勢を示したかったからである。
 12月の所信表明演説後の質問で、社会党の成田委員長や公明党の竹入委員長にたいし、佐藤は小笠原の復帰に関連して、日本は核兵器の保有はしない、核の持ち込みを認めないとの非核三原則につながる答弁をおこなっている。
 とはいえ、米政府はひそかな抜け道をさぐっていた。

 1968年は激動の年となった。
 1月19日、アメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港。三派系全学連学生との大規模な衝突事件が発生していた。市民のあいだでも学生を支援する声が強かった。
 1月27日、佐藤は核時代に生きる人類をテーマに施政方針演説をおこない、「われわれは、核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります」と述べた。
 この演説は核を製造せず、保有せず、持ち込ましめずの、いわゆる「非核三原則」へと発展する。だが同時に佐藤は、非核三原則が日米安保条約と不可分であることを強調していた。
 だが、核を持ち込まずには、核兵器を掲載した艦船、航空機の一時立ち寄りは認めるという日米間の「暗黙の合意」が隠されていた。無論、非常事態における事前協議による核持ち込みという項目も生きている。
 1月30日、南ベトナムでは南ベトナム民族解放戦線によるテト攻勢があり、米軍は苦境に立たされた。
 3月31日、ジョンソン大統領はベトナムでの緊張緩和措置として北爆の停止を発表し、さらに11月の大統領選挙に再出馬しないことを表明した。
 この発表がなされた日本時間の4月1日には王子野戦病院をめぐるデモで群衆に死者が出た。
 成田闘争も激化していた。学生や農民の抗議活動に共感する市民の声は、けっして少なくなかった。
 4月5日、日米間で小笠原返還協定が結ばれ、6月26日に小笠原は日本に返還された。
 このころアメリカ、フランス、イタリアを含む世界各地で、学生を主力とする学生運動が勢いを増していた。日本では、東大闘争、日大闘争が盛り上がり、いわゆる全共闘が結成されていく。
 4月28日のいわゆる「沖縄デー」でも、沖縄と本土で大規模なデモがくり広げられていた。
 1960年に結ばれた日米安保条約の10年期限が近づいていた。政府と自民党は6月11日に連絡会議を開き、70年には日米安保を自動延長する方針を確認した。
 7月7日の参議院選挙で、自民党は国民の信任を得た。社会党は大きく議席を失っていた。
 8月20日にはチェコスロバキアに20万のワルシャワ条約機構軍が侵入し、「プラハの春」以来の自由化の期待をつぶした。
 9月13日に岐阜県で開かれた「一日内閣」で、佐藤はチェコスロバキア事件を取りあげ、国を守る気概と非核三原則、日米安保条約の重要性を強調した。
「国際反戦デー」の10月21日、新宿では大規模な騒乱が発生し、騒乱罪が適用される事態となった。
 10月23日には明治100年記念式典が開かれた。佐藤は過去百年の経験を省み、新しい百年に向かって新しい歩みを進めようと呼びかけた。だが、式典には批判も強く、社会党、共産党は式典に参加しなかった。
 11月6日、米大統領選挙でリチャード・ニクソンが僅差で勝利を収め、次期大統領に決まった。
 11月10日、沖縄では琉球政府初の行政主席選挙がおこなわれ、基地の即時無条件全面返還を打ちだした革新共闘候補の屋良朝苗が当選した。佐藤は、復帰問題はちょっとむつかしくなるかと感じた。
 11月27日の自民党総裁選挙で、佐藤は圧勝し、3選を勝ちとる。佐藤の政治綱領は、非核三原則を堅持し、自主防衛を充実すること、沖縄の祖国復帰を実現することだった。総裁選の得票2位は、外相を辞任した三木武夫で、これ以降、三木は党内で存在感を増していく。
 11月30日には内閣改造があり、保利茂が官房長官、木村俊夫が官房副長官になった。保利は大学問題を沈静化させつつ、首相を米国に送り、沖縄問題について大統領との会談に持ち込むことをみずからの使命と考えていた。

 1969年1月19日、学生運動家たちによって封鎖されていた東大の安田講堂は、機動隊によって1月19日に強行解除された。その翌日、佐藤は坂田道太文相とともに東大を視察し、「本来教育の場であり研究の場であるべき学園が、反体制的活動、政治闘争の場になっている」ことを嘆いた。
 2月、沖縄ではゼネストが計画されていた。前年11月に嘉手納基地でB52が離陸に失敗して大爆発する事故がおきていた。最終的にゼネストは回避されるが、B52の撤去をはじめとして基地問題にたいする沖縄の関心はますます高まっていた。
 沖縄や大学をめぐって、国会審議も荒れた。3月8日、佐藤は参議院予算委員会で、沖縄返還については「核抜き本土並み」で交渉する姿勢を表明した。
 4月28日の「沖縄デー」も大荒れとなり、学生と機動隊が衝突した。私邸にも学生たちが押し寄せ、危険を感じるようになった佐藤は住まいを首相公邸に移す。
 中央教育審議会の答申を踏まえて、大学臨時措置法案が国会に提出された。紛争の早期収拾と閉校・廃校措置を盛りこんだ5年間の時限付き法案は、大学の自治を損ないかねないと強い反発を受けたが、8月に強行採決の末、可決された。それ以降、大学紛争は目に見えて下火になっていく。大学当局が管理を強化し、機動隊の導入を躊躇しなくなったためである。
 いっぽう、アメリカのニクソン政権は対日政策の見直しを始めていた。ニクソンは、沖縄返還の合意がなされれば、日米安保条約の破棄や修正を求める日本人の感情を抑制できるのではないか、と考えるようになっていた。
 5月28日の国家安全保障会議で、ニクソン政権は1970年以降も日米安保条約を現行のまま継続することを条件としながら、沖縄の施政権返還に踏み切ることを決定した。
 7月25日、ニクソンは訪問先のグアムで、アジア諸国の一層の自助と米国の負担軽減を求めるいわゆるグアム・ドクトリンを発表した。
 佐藤も沖縄返還に向けて、アメリカに積極的にはたらきかけていた。6月には愛知外相を訪米させ、7月にも若泉敬を特使として送りこんだ。
 あくまでも核抜き返還で、秘密協定は結びたくないという佐藤にたいして、若泉は沖縄の核抜き返還を実現するためには秘密協定もやむをえないと考えていた。
 7月末にはロジャーズ国務長官が来日し、愛知外相、佐藤首相と沖縄問題について語りあった。
 国会閉会後の8月6日、佐藤は沖縄返還については明るい希望がもてると話し、大学臨時措置法については、大学自治を守るための最小限度必要な措置だという認識を示した。
 8月26日、佐藤は外国人記者団に「核を保有しない日本は米国の核の傘の下にあり、今後も集団安全保障体制によって安全を確保して行きたい」と語った。さらに2日後のテレビ番組では、沖縄返還の意義は「戦争で失った領土を平和裡に話し合いで復帰させる」ことにあると述べた。
 沖縄返還交渉は詰めの段階にはいった。
 残された問題のひとつは、沖縄での核兵器の撤去と再持ち込みをどうするかということである。核兵器の撤去はいうまでもない。再持ち込みについては、あくまでも事前協議を前提に、非常事態で必要なら再持ち込みを認めるというのが佐藤の考え方だった。
 返還をめぐる費用の問題もあった。沖縄返還にともなう財政措置として、アメリカは資産の買い取りや基地移転費用の負担を求め、日本側はこれをほぼ認め、費用を支払うことになった。
 交渉の過程で、突然、繊維問題が浮上してくる。アメリカは日本に繊維製品の対米輸出を自主規制するよう求めており、ニクソン政権はこれを沖縄返還問題と強引に絡めてきた。
 11月17日から26日まで、佐藤は訪米する。出発の前日と当日、佐藤訪米を阻止しようとする大規模な反対運動がくり広げられ、多くの逮捕者がでた。
 若泉とキッシンジャーのあいだでは、繊維問題をめぐるやりとりがつづいていた。沖縄返還がぶち壊しになることを恐れた佐藤は、若泉にアメリカとの妥協を指示した。善処することを伝えたのだ。
 佐藤・ニクソン会談は19日から21日までの3日間にわたっておこなわれた。
 初日の会談で、佐藤は日米安保条約を堅持すると約束し、沖縄が返還されたうえは日本の自衛力を強化しなければならないと述べた。これにたいし、ニクソンは日本が軍事的により大きな責任を果たすべきだと主張した。佐藤は日本が純軍事的に世界の平和維持に加わることは無理だが、経済協力等で努力すると答えた。
 返還にあたっての日本の負担について確認したあとは、核をめぐる共同声明の文言についてのやりとりがあった。
 文言は最終的に次のようにまとまる。

〈総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、(日米安保条約の事前協議制度に関する米国の立場を害することなく)沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。〉

( )内はアメリカの要求によって、日本側が書き加えた部分である。そこが、抜け道で核持ち込みを可能にするミソの部分だった。
 文言の合意がなされたあと、ニクソンは佐藤を隣接する小部屋に誘い、握手したあと、秘密合意議事録にサインするよう求めた。
 いわゆる「核密約」と呼ばれる文書である。
 アメリカは極めて重大な緊急事態が生じた場合は、日本政府と事前協議したうえで、核兵器をふたたび沖縄に持ち込み、もしくは通過することができるし、日本側は遅滞なく事前協議において、それらの要件を満たす。これが密約の内容である。
 こうして、この「核密約」含みつつも、佐藤によれば、ともかくも「本土なみ核抜き」の沖縄返還が決まった。
 2日目は沖縄返還とからんで繊維問題がもちだされたが、佐藤からみれば、ごくあっさり片づいたように思えた。佐藤が善処すると伝えていたためである。だが、これがあとで問題になってくる。
 3日目、無事に日米共同声明が発表された。日本の安全にとっては、韓国、台湾の安全も重要であることが強調され、沖縄返還までにベトナム戦争が終結していない場合も、日本が米国の努力を阻害しないようじゅうぶん協議することが約束されていた。
 これにより、日米安保条約の堅持と、沖縄の「核抜き本土並み、72年返還」が決まった。
 そのあと、佐藤はナショナル・プレス・クラブで演説、さらに移動先のニューヨークで「沖縄同胞に贈ることば」を発表し、11月26日に帰国した。
 11月28日には昭和天皇に帰朝報告をおこない、屋良朝苗とも会っている。師の吉田茂と伯父の松岡洋右の墓参りをすることも忘れなかった。
 12月2日には衆議院が解散され、12月27日の総選挙で自民党は大勝した。自民党が300議席を獲得したのにたいし、社会党は90議席と大きく議席数を減らした。
 佐藤は日記に「選挙がすんで感ずる事。第二党のない現状の責任の重大さを痛感」と記している。

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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(3) [われらの時代]

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 1964年11月に発足した佐藤政権は、首相の病気で幕を下ろした池田内閣の全閣僚をそのまま引き継ぐかたちで発足した。
 高度成長が日本社会の姿を変えようとしていた。農業など第1次産業の比率が減り、第2次産業、第3次産業の比率が伸びていた。
 家庭では核家族化が進展する。ベビーブーマー(戦後第一世代)が青年期を迎え、1965年の高校進学率は70.7%、大学進学率は12.8%に上昇していた。
家庭には白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及し、さらに「三C」と呼ばれる自動車、カラーテレビ、クーラーが後を追いかけていた。
 東海道新幹線と東名高速道路が開通。そのいっぽうで、農村の過疎化、都市の過密化、大気汚染が進み、交通事故が激増していた。
 はじめての所信表明演説で、佐藤は「人間尊重の政治を実現するため、社会開発をおしすすめる」と表明した。高度成長のひずみをなくすことが求められていた。
 いっぽう外交面では、「世界各国との平和共存の外交」を唱えつつ、アジアの平和と自由を守るという立場をとった。中華人民共和国ともいずれは関係改善をはからなければならないと考えていた。
 佐藤は1965年1月に訪米し、ジョンソン大統領と会談した。この会談では、中国が核武装したにもかかわらず、日本は核をもたず、あくまでも日米安保条約に依存すること、アジアの安全保障のためには朝鮮の38度線、台湾、南ベトナムの線の確保が必要であるという点で、両首脳が合意した。佐藤は沖縄と小笠原の返還問題にも言及している。
 内政面で佐藤政権は、経済開発と社会開発を相互補完的に進めることを目標としていた。
 当時、日本の一人あたり国民所得はヨーロッパ諸国の半分、アメリカの4分の1にすぎなかった。日本はまだ「中進国」という認識だった。
 社会開発として、もっとも意識されたのが住宅政策である。一世帯一住宅のスローガンのもと、第一期住宅建設5カ年計画がスタートし、東京の多摩ニュータウンなどがつくられていった。
 占領期に積み残された課題も処理しなければならなかった。
 65年4月、ILO(国際労働機関)の「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」が国会で批准される。5月には農地改革で土地を失った旧地主に給付金を支給する農地報償法案が可決された。自衛隊は日本国憲法下の軍事組織として明確に位置づけられるようになった。
 日韓国交正常化は、池田政権から引き継いだとりわけ重要な課題だった。日本と韓国との交渉は1951年以来、紛糾に紛糾を重ねながら断続的につづけられてきた。61年に軍事クーデターによる朴正熙政権が樹立されると、両国間でいちおうの合意がなされたが、まだ決着したわけではなかった。だが、佐藤政権になって、65年2月に椎名悦三郎外相が訪韓し、日韓基本条約が仮調印された。
 そのころベトナム戦争が激化し、アメリカは大規模な北爆を開始していた。日本では「ベ平連」が結成され、反戦運動が高まろうとしていた。
 65年6月、佐藤は初の党人事と内閣改造をおこない、自前の体制をつくった。幹事長に田中角栄、蔵相に福田赳夫、通産相に三木武夫、外相に椎名悦三郎(留任)、厚相に鈴木善幸、経企庁長官に藤山愛一郎といった布陣である。この改造内閣が発足してすぐに、日韓基本条約と請求権協定、経済協力協定が東京で正式に調印された。
 日本国内でも韓国国内でも、条約にたいする反対は強かった。韓国では弱腰外交にたいする批判、日本では朝鮮半島の分断固定化と軍事独裁政権への肩入れを批判する声が渦巻いていた。
 7月には政敵の河野一郎が死去する。つづいて、8月には病気療養中の池田勇人前首相が死去した。
前年の大野伴睦につづき、相次いで派閥の領袖が死去したのを受けて、佐藤は派閥解消、党近代化を唱え、みずからの基盤を強化していった。
 8月19日、佐藤は初めて米軍施政下の沖縄を訪問し、那覇空港で有名なスピーチをおこなう。
「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」
 演説の内容は事前に米大使館と協議されていた。
 ライシャワー駐日大使は、日本の左派勢力がベトナム戦争に強く反対していることを危惧し、沖縄の施政権返還に向けた検討を始めるよう国務相に求めていた。
 沖縄から東京に戻ったあと、佐藤は来日したニクソン前副大統領と懇談した。大統領選でケネディに敗れたあと、ニクソンは不遇の時代を過ごしていた。
 9月13日には、大阪での1970年万国博覧会(万博)開催が決定する。これも池田政権の置きみやげだった。
 10月1日、インドネシアで共産党系将校らによる謎のクーデターが発生。これを鎮圧したスハルト少将が実権を握り、スカルノ大統領が権力を失っていく。その後、インドネシアでは共産党勢力の掃討がつづいた。
 日本ではいわゆる日韓国会がはじまり、日韓基本条約の批准をめぐって、与野党が激突した。11月11日、国会周辺をデモが取り巻くなか、衆議院で日韓条約関係法案が成立、12月11日に参議院でも可決された。
 戦後処理の大きな課題がひとつ片づいたあとは不況対策だった。11月には福田赳夫蔵相のもと、戦後初の赤字国債発行が決定される。その後、景気は次第に上向き、1970年7月まで景気拡大局面がつづくことになる。
 1966年1月、佐藤は創価学会の池田大作と会見する。1964年に結党された公明党が徐々に力をつけていた。同月、社会党の委員長には左派の佐々木更三が選ばれた。
 3月には国会で核兵器不拡散条約(NPT)をめぐる論戦が交わされた。椎名外相は、核兵器は抑止力として必要であるが、日本はみずから核兵器を所有することはないという立場をあきらかにした。
 5月9日には、中国が原爆につづき水爆実験に成功する。背景には中ソ対立があった。そのころ文化大革命がはじまる。
 7月にアメリカのラスク国務長官が来日したときも、佐藤はあらためて日本の核保有を否定している。
 8月には内閣改造がおこなわれ、新たに国務大臣ポストとなった官房長官に愛知揆一が就任した。ライシャワーは駐日大使を退任し、ハーバード大学に戻った。アメリカの国防省は依然として沖縄返還に否定的だった。
 いっぽう佐藤政権は、早稲田大学総長大浜信泉を座長として沖縄問題懇談会を発足させていた。
 このころ自民党はさまざまなスキャンダルに見舞われる。
 8月には田中彰治代議士が恐喝と詐欺の容疑で逮捕された。9月には運輸相の荒船清十郎が選挙区に国鉄の急行列車を停車させた事件が発覚した。さらに共和製糖への不正融資が政治献金として自民党議員に流れたのではないかという疑惑が生じる。
これらのスキャンダルは、総称して「黒い霧」と呼ばれた。
 12月1日の自民党総裁選で、佐藤は圧倒的多数で再選をはたした。だが、その前日に発表された佐藤内閣の支持率は4月の30%から25%に低下していた。
 総裁選の結果を踏まえ、12月2日、3日には党役員改選と内閣改造が実施され、福田赳夫が幹事長、三木武夫が外相、水田三喜男が蔵相、宮沢喜一が経企庁長官に任命された。
 そして、12月24日には、自民、社会、民社、公明の4党首脳会談が開かれ、27日に衆議院が解散されることになった。「黒い霧」解散と呼ばれる。
 1967年1月29日の総選挙で、自民党は486の議席のうち277を獲得し、勝利した。2月17日、佐藤はふたたび首相に指名され、長期政権への道を歩んでいく。このつづきはまた。

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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(2) [われらの時代]

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 1957年6月に岸首相は訪米してアイゼンハワー大統領と会見し、日米安保条約の再検討を求めた。7月の内閣改造で佐藤は入閣せず、のち12月に党の総務会長に就任する。
 1958年の第2次岸内閣で、佐藤は蔵相として入閣する。日本は高度成長の道を歩みはじめていた。
 佐藤は主要閣僚として安保改定の一翼を担った。アメリカ側とのひそかな交渉がつづくなか、岸内閣は警察官の権限を強化する警察官職務執行法案を国会に提出した。しかし、いかにも政治的反対派の規制をめざしたこの法案は、激しい反発を招いて、廃案となった。
 1960年1月、岸はワシントンに飛び、新日米安保条約と日米地位協定に調印した。旧条約とちがい、新条約では米国の日本防衛義務が明記され、その期限が10年とされ、その後はどちらか一方の政府が終了の意思を通告すれば1年後に終了するという規定が設けられた。日本は集団的自衛権をもつが、憲法上、それを行使できないという立場を示した。条約には日米の経済協力もうたわれていた。
 また条約とは別に事前協議制が定められた。米軍が新たな配備をおこなったり、在日米軍基地から戦闘作戦行動を実施したり、核兵器を持ち込んだりする場合は、日本政府と事前に協議するというものである。だが、現実には多くの抜け道が残されていた。
 保革対立が高まるなか、国会審議は長引いた。5月19日、衆議院議長の清瀬一郎は警官隊を導入し、自民党単独で会期延長と新安保条約の強行採決がおこなわれた。この日を境に、国会外では「議会制民主主義を守れ」という声が高まり、安保反対デモが連日国会を取り囲むようになる。6月15日には全学連が国会に突入し、樺美智子が死亡した。
 6月19日、参議院での承認のないまま、安保条約が自然承認される。22日にアメリカでの承認が済み、翌日、批准書の交換が終わると岸は退陣を表明した。
 7月19日、池田勇人内閣が発足する。池田は政治の焦点を政治から経済に移した。「寛容と忍耐」をスローガンに低姿勢に努めたが、これに佐藤は批判的だった。11月の総選挙で自民党は勝利する。佐藤、岸とも山口2区で当選をはたした。
 池田政権には安保闘争で傷ついた日米関係を修復するという課題もあった。1961年1月にケネディ政権が発足するとともに、駐日大使にライシャワーが就任する。池田は6月に訪米し、7月に内閣改造を実施。佐藤は通産大臣となった。
 62年の総裁選で佐藤は立候補を見送り、池田は再選をはたした。改造内閣では閣外にでて、無役となり、秋に45日にわたる外遊にでた。すでに派閥の長として、隠然たる勢力を誇るようになっている。
イギリスではマクミラン首相、労働党党首(のち首相)のハロルド・ウィルソン、フランスではドゴール大統領、西ドイツではアデナウアー首相、アメリカではケネディ大統領と会っている。
 佐藤はイギリス労働党のウィルソンが、一国の繁栄の裏には一国の安全があり、安全のために最善を尽くすことは社会主義政党であろうが保守政党であろうが、何ら変わらないと述べたことに感銘を受けている。またアメリカ滞在では「自立」ではなく、「日米緊密化、提携のもとにおける日本経済」の繁栄こそがだいじだと、あらためて認識した。日米緊密化のもとでの経済繁栄が、師、吉田茂以来の佐藤の基本的政治路線といってよい。その点は、池田勇人とも何ら変わるところはなかった。
 このころ、かならずしも自民党は圧倒的な優位を占めていたわけではなかった。ライシャワーも社会、民社、共産の革新政党が今後伸びてくるだろうと予測していた。
 1963年4月の統一地方選挙では、大阪市と横浜市に革新市長が誕生していた。
 7月の第2次池田内閣で、佐藤はオリンピック担当国務相となり、北海道開発庁長官と科学技術庁長官を兼務した。この人事を仲介したのは吉田茂だった。
 佐藤は秋にパリで開催されるOECD科学閣僚会議に出席するため欧州各国を再訪問し、ドゴールやポンピドゥーとも会見している。
 11月にはケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に昇格した。
 1964年7月には自民党総裁選が予定されていた。佐藤は政権奪取に向けて準備をはじめる。政策通の愛知揆一、元通産官僚の山下英明、産経新聞の楠田實、共同通信の麓邦明らをブレーンとして、政策ビジョンを練りあげていった。もちろん派閥のさらなる結束もはかっている。
 6月27日に佐藤は閣僚を辞任する。すでに政策ビジョンはまとまっていた。内政の柱としては、人間尊重、歩行者優先、経済開発とバランスのとれた社会開発がうたわれていた。中道よりやや左寄りの政策である。
 岸の弟ということもあって、佐藤は往々にして池田より右寄りの政治家と見られていた。この政策ビジョンは、そのイメージを払拭するためでもある。ともあれ、池田とのちがいを鮮明に打ちだす必要があった。
 佐藤の経済政策は高度成長論ではなく、安定成長論であり、高度成長のひずみを改善することがうたわれていた。住宅政策も大きな課題だった。外交面では、ソ連に対し南千島の返還を、アメリカに対し沖縄の返還を求めるという姿勢が打ちだされた。憲法については、むやみに改正をめざさず、憲法の精神を「静思」するという立場だった
 だが7月の総裁選では池田が3選され、佐藤は敗れ去る。
 8月には、幻のいわゆるトンキン湾事件が発生し、ベトナム戦争はいよいよエスカレートしていく。
 9月、IMF総会が日本ではじめて開かれた。だが、その最中に池田首相は入院する。10月10日からは東京オリンピックが開催された。
 東京オリンピックが無事終了した翌日の10月25日、池田首相は辞意を表明する。後継新総裁については、話し合いによる選出を求めた。
 11月9日、党内の意向を受けて、池田は佐藤を後継総裁に指名した。こうして佐藤政権が発足することになる。
 佐藤政権が発足したとき、新たに官房長官となった橋本登美三郎は「日米安保条約が自動継続となる(昭和)45年6月まではやりたい」と述べて、記者団の失笑を買ったという。しかし、実際には佐藤政権は70年安保どころか72年7月7日まで、約7年8カ月におよぶ長期政権となった。

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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(1) [われらの時代]

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 政治とは縁が薄いほうである。というか、どちらかというと、政府を批判する側を応援してきた。いまもそれは変わらない。
 佐藤栄作(1901〜75)については、このブログでも何度か書いてきた。ぼくが大学にいたころを「われらの時代」というなら、1964年から72年まで首相を務めた佐藤栄作はまさに「われらの時代」の総理大臣である。
 この人の政治的業績は大きい。日韓基本条約、沖縄返還、経済大国の実現を3大業績とみてよいだろう。もちろん、その業績には負の部分がつきまとっていて、その後の日本の政治はその影によってかき乱されてきた。いまもそうかもしれない。
 ぼくらは自分らの力だけで佐藤政治を止めようとして、むなしく空中分解する。あまりにもばかだったとしか言いようがない。まるで敵の大きさと強さがわかっていなかったのだ。世の中のことを知らぬまま、やたら突っ走っていた。
 佐藤栄作とは、どのような政治的存在だったのかをふり返ってみよう。
 日本の社会は縁でできている。縁はいろいろ、血縁もあれば地縁もあるし、結縁もある。良縁に悪縁。ともかく、縁が人を結び、人の関係をつくっている。政治もビジネスも家庭も、それは同じ。
 民主主義の基本は、民衆との契約にもとづいて代表者による政治行動がなされることだと思うのだが、日本ではそれはタテマエで、ほんとうは日本の政治は何らかの縁のつながりで動いているのではないかという気がする。もっともさすがに縁のつながりだけではだめで、政治家として大成するには本人の資質や才覚も必要になってくる。
 その点、佐藤栄作はまことに日本的な縁と才覚をいかした政治家だった。
 その縁はまず血縁から生じている。
 山口県田布施村の佐藤家は、もともと長州藩の家臣で、村で造り酒屋を営んでいた。長州の地縁も手伝って、佐藤家は明治になってからも政治とのかかわりが深かった。栄作の父親も以前は山口県庁に勤めていた。
 父の秀助は岸家から婿養子として佐藤家にはいった。そのため1901年生まれの栄作の兄、信介は岸の名を継いで、岸信介と名乗っていた。5歳年上の兄である。
 栄作は山口中学5年生のとき、いとこの寛子と婚約した。高校進学をめざして受験勉強をするさいには、東京帝国大学に進んでいた兄信介の下宿に居候した。
 希望した名古屋の第八高等学校には入れなかった。しかし、名古屋の下宿では、のちに首相となる池田勇人と同宿になった。
 佐藤は第二志望の熊本の第五高等学校(五高)をへて、東京帝国大学法学部に進む。学費の面倒をみてくれたのは、伯父にあたる松岡洋右である。
 東大時代は吉野作造のデモクラシーなど見向きもせず、保守的な上杉慎吉の憲法論などをよく聞いていたという。
 1923年、22歳のときに高等文官試験に合格したが、当初は官界ではなく伯父の勧める日本郵船に入社するつもりでいた。しかし、日本郵船がその年の採用を見送ったため、1924年に鉄道省に入省することになった。
 門司駅で研修を受けたときは、改札や切符売り、運転助役、車掌見習のほか、機関区での投炭までやったという。
 1926年にはいとこの寛子と結婚、福岡県二日市の駅長になった。
 そのころ伯父の松岡洋右は、南満洲鉄道の理事をしていたが、1930年に政友会から出馬し、当選。松岡は1933年2月、ジュネーブの国際連盟総会に全権として出席し、国連脱退演説をおこない、一躍有名となった。
 門司鉄道局時代の1934年6月、佐藤は在外研究員を命じられ、1年8カ月にわたって、アメリカを中心に、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどを歴遊した。
 帰国してからは本省に移り、1936年7月から監督局業務課で民間業者の行政指導をおこなう仕事についた。翌年6月からは陸運管理官となる。
 1938年8月には監督局鉄道課長となり、私鉄の監督をおこなった。その前後、中国に出張し、中国の鉄道管理や沿線運送業の整備にあたったりしている。
 1940年7月に伯父の松岡は、第2次近衛内閣の外相となるが、1年後、閣外に去った。そのとき、すでに日独伊三国同盟と日ソ中立条約が結ばれていた。
 1941年10月に成立した東条英機内閣で、兄の岸信介が商工大臣に就任する。その前に岸は満州国の国務院で辣腕をふるい、満州の産業開発を推し進めていた。1942年4月の総選挙で、岸は山口二区から立候補して、当選し、代議士になる。
 1941年12月、41歳の佐藤は鉄道省監督局長、更に翌年9月に監理局長に就任する。やがて鉄道省と逓信省は統合され、運輸通信省となる。佐藤は自動車局長として戦時輸送の監督を担った。
 1944年4月、本省から大阪鉄道局長への転出がきまる。佐藤はこれを左遷と感じていた。このころ労働界出身の代議士、西尾末広と懇意になる。
 終戦直前の1945年5月に運輸通信省は運輸省と名前を変えた。大阪でも空襲がつづいていた。佐藤の家族は東京の岸信介の家から、丹波篠山に疎開する。
 終戦の日、篠山にいた佐藤はしばらく前から病気で寝込んでおり、ようやく回復して11月に大阪に帰った。これからは民主政治の時代だと思ったという。
 1946年2月、佐藤は運輸省鉄道総局長官として東京に戻る。もし大阪に「左遷」されていなければ、官界から追放されていただろう。後年、人間何が幸いになり不幸になるかわからないと語っている。
1947年2月には運輸事務次官となる。このころ運輸大臣を打診された。しかし、戦犯容疑者、岸の弟だからだめだとGHQが認めなかったため、この人事は沙汰止みとなった。
 佐藤は片山内閣のときも、官房長官を務めていた西尾末広から官房副長官就任を求められている。そのときは社会党入りを考えたこともあるという。
 1948年2月に片山内閣が倒れ、3月10日に中道連立の芦田均内閣が発足する。3月15日に吉田茂を総裁とする民主自由党(民自党)が結成された。このとき、佐藤は運輸事務次官を辞任し、すぐさま民主自由党に入党し、選挙準備をはじめた。このとき48歳。吉田茂は遠縁にあたる。敗戦がなければ、政治家になることもなかっただろう、と後年、回想している。
 当時野党の民自党は官僚の入党を積極的に進めていた。佐藤とともに、大蔵事務次官の池田勇人、同じく大蔵官僚の橋本龍伍(橋本龍太郎の父)なども民自党に入党した。
 行政事務がわからなくては政治にならない、加えて、学者の意見や専門家の話も尊重する、というのが吉田の姿勢だった。
 芦田内閣が昭和電工事件で倒れると、10月に第2次吉田内閣が発足する。佐藤はまだ議員ではないのに内閣官房長官に抜擢された。本人の弁によると、政界のことなど何も知らないのに、いきなりの官房長官で、ことごとくつまずいて苦労ばかりしたという。GHQにも翻弄された。
東条英機らが絞首刑になった翌日の12月24日、佐藤は官房長官邸で巣鴨拘置所から釈放された兄、信介と会った。
 1949年1月の総選挙で佐藤ははじめて立候補し、当選する。このとき大蔵省出身の池田勇人や新聞記者出身の橋本登美三郎も民自党から初当選している。
 第3次吉田内閣で、佐藤は党の政務会長となる。翌1950年、民自党は民主党の一部と合同して、自由党を結成し、佐藤は幹事長となった。朝鮮戦争がはじまった。
 1951年7月、佐藤は郵政大臣として初入閣を果たす。9月、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、日米安保条約が締結される。このとき、奄美諸島、琉球列島、小笠原諸島は依然としてアメリカの支配下にあった。
 1952年4月、対日平和条約と日米安保条約が発効し、日本は独立を回復する。台湾の中華民国政府とのあいだで日華平和条約が結ばれた。
 戦後、保守派内では根深い対立がつづいていた。吉田茂と鳩山一郎の対立である。吉田は抜き打ち解散をはかり、そのことがさらに両派の対立を激化させた。10月の総選挙でも佐藤は当選し、第4次吉田内閣で建設大臣に就任している。
 1953年2月には、大もめのすえふたたび幹事長となる。だが、すぐ吉田の「バカヤロー解散」となった。4月の総選挙で、佐藤は中選挙区5人区でトップ当選、兄の岸信介は3位にはいった。自由党は第1党になったが、過半数にはおよばなかった。保守協力がならないまま第5次吉田内閣が発足する。12月には奄美諸島が返還された。
 1954年3月、アメリカによるキニ環礁での水爆実験で、マグロ漁船福竜丸が被爆し、死者がでた。
政治の混乱がつづいていた。そんななか、自由党幹事長の佐藤、政調会長の池田は、いわゆる造船疑獄で検察の取り調べを受ける。党の裏金づくりが発覚したのである。4月20日に佐藤逮捕の許諾を求められた犬養健法相は指揮権を発動、逮捕は取りやめとなった。
 政治資金規正法違反でも起訴された佐藤は7月に幹事長を辞任する。
 政治の表舞台から一時離れた佐藤は2カ月にわたる長期外遊に出る。タイ、インド、パキスタンをめぐって渡欧し、フランスで吉田茂と合流、西ドイツ、イギリス、アメリカをめぐり、多くの政治家と会った。帰国したときにも、党内の情勢は混乱をきわめていた。12月7日、吉田内閣が倒れると同時に、吉田は自由党総裁をも辞任した。
 首相の座を射止めたのは、民主党の鳩山一郎だった。鳩山は吉田政治を批判し、憲法改正や日ソ国交回復を唱え、日本の独立の完成を目指した。
 鳩山ブームのなか1955年2月の総選挙で、民主党は第一党となった。だが、過半数には届かなかった。造船疑獄の批判を浴びていたとはいえ、佐藤は自由党から出馬して、5人中1位で当選をはたした。
10月13日に社会党が再統一されたのを受けて、11月13日には民主党と自由党が合同し、自由民主党(自民党)が誕生する。これにより鳩山は安定多数を確保する。だが、党内はぎくしゃくしている。このとき、吉田らとともに佐藤は無所属の立場を貫いた。
 1956年7月の参議院選挙で、自民党は3分の2の議席を得られず、憲法改正は先送りとなった。10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印した。これを花道に鳩山は引退。自民党総裁選がおこなわれ、石橋湛山が総裁に選ばれた。12月23日に石橋内閣が発足する。だが、1カ月後に石橋は病気となり、岸信介が臨時首相代理に任命された。
 1957年2月、佐藤は吉田とともに自民党に入党する。岸内閣の時代がはじまっていた。

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