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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(1) [歴史]

 日本国の歴史でもなく、日本人の歴史でもなく、日本列島における人間社会の歴史というのがユニークだ。その日本列島は、よく見れば「アジア大陸の東に大きな湖を抱いて海に接する長大な陸橋」だという。そのことは、地図を逆さにして眺めてみると瞭然とする。かつては大陸とつながっていた。
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[逆さ日本地図。富山県が作成したもの]
 これも読み残しの本。岩波新書の3冊本で、あわせると600ページ足らず。残された時間にくらべて、買いこんだだけで目を通していない本があまりにも多いのだが、いまさらあせってもしょうがない。それらを暇にまかせて、のんびり読んでいる。読めなくなったら、読めなくなったで、ちっとも構わない。
 この本が扱っているのは、主に原始時代から17世紀までだ。そのあとの歴史はごく簡略にしかふれられていない。記述は教科書風といってよいだろう。途中でほうりだしてしまう可能性もあるが、あまり気張らずに、さっと斜め読みすることにする。以下は雑駁なメモにすぎない。最近は何でもすぐ忘れてしまうようになったので、ブログをメモ替わりとする。

 日本列島と大陸は1万8000年から1万7000年ほど前まで、南北で陸つづきになっていたという。日本で日本海と呼ばれる海は内陸湖だった。
 日本列島には南や北からさまざまな動物がやってきた。ナウマンゾウやオオツノジカもそうだ。4万年から3万年ほど前には、石器を使う人類がこの列島にいたことが確認されている。
 この人類はホモ・サピエンスの特徴を備え、洞窟やテントのような住居に住み、槍などを使って狩猟をおこなっていた。遺跡からは石刃やナイフ型の石器が出土している。かれらは北と南からそれぞれ日本列島に入ってきた。フォッサマグナを境とする東と西では、文化的に大きな地域差があったとするのが、網野の見方だ。
 しかし、1万8000年から1万7000年前に、温暖化にともなう海進がはじまり、日本列島が大陸から分離され、巨大な内陸湖はいわゆる日本海となった。さらに北海道が生まれた。本州、四国、九州はまだつながっている。しかし、千島列島と琉球列島、伊豆七島はすでに誕生していた。
 約1万年前、氷河期が終わり、完新世がはじまる。このころ氷河期の大型哺乳動物は姿を消し、森の中ではシカやイノシシが暮らしていた。人間社会では、このころ、石槍がより進化し、小型のやじりも開発された。ドングリやクリを保存したり、煮炊きするための土器もつくられている。こうして、時代は次第に縄文時代に移行していく。
 ほぼ8000年前、瀬戸内海が形成され、本州から九州、四国が分離される。それ以前から狩猟や果実の採集に加え、漁撈もはじまっていた。竪穴式住居や貝塚もみられるようになり、日本列島全域に縄文土器が現れる。
 網野は交通路としての海と、沖縄、九州から朝鮮半島にかけ活動した海民の存在を忘れてはならないという。「縄文人は海を通じて広い範囲の地域間を活発に交流しながら生活を営んでいた」
 縄文時代は成立期、発展期、成熟期、終末期の4つの時期にわけられる。列島の東と西とのあいだには、大きな地域差があった。身分や階級などはまだなかった。縄文人の平均寿命は30歳あまりと短かった。
 この列島では、牧畜の要素がない代わりに漁撈が発達していた。貝や海藻の採集、内海での網漁、釣りや銛での漁も盛んだった。
 家畜化された犬がシカやイノシシなどの狩猟に用いられるようになっている。やじりと弓矢も発達する。照葉樹林地帯ではドングリ、クルミ、クリ、トチなどが豊富にとれた。
 縄文時代の人口は列島全体で26万人あまり、そのうち西部には2万ほどしかいなかった。中心は東部だ。
 土器は主に煮炊きに用いられた。果実を採集するための籠、盆や鉢、漆器の皿なども大量につくられていた。クリなどはすでに栽培されており、樹木の繊維が衣類や履物に用いられていた。はすでにさまざまな生産技術があったとみてよい。
 発展期にはいると、広い台地や丘の裾野に大きな集落がつくられるようになった。そのひとつが三内丸山遺跡である。ここには最大で500人くらいの人が暮らしていたと推測されている。
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[三内丸山遺跡。ウィキペディアより]
 狩猟や漁撈、家造りなどは集団でおこなわれていた。いわゆる贈与と互酬が人びとを集団として結びつけている。
 驚くのは、集落がすでに交易によって結びついていたことだ。伊豆諸島の神津島でとれる黒曜石が、遠く能登半島まで行き渡っていることをみても、そのことがわかる。とはいえ、伊豆諸島と能登半島のあいだに直接の交易があったとも思えない。それは交易のネットワークで、流れ流れていったのだろう。
 塩も焼かれ、各地に運ばれていた。海の産物と山の産物の交換も活発だったことがわかる。秋田や新潟でしかとれないアスファルトが、北海道や東北で使われていた痕跡もある。
 このことは、すでに商品が集団的に生産され、流通のネットワークを通じて、各地に流れていたことを意味している。
 マルクスの価値形態論は、よく誤解されるように、商品から貨幣が生まれることを論証することが本義ではなかった。商品が商品を生みだすこと、そして、商品は次々と増えていく性格をもつことを証明したところに、画期性があった、とぼくなどは考えるのだが、それはよけいな話。
 そんなことはどうでもよろしい。
 縄文の成熟期には海進が終わり、気候がふたたび寒冷化して、現在のような海岸線がつくられたという。人びとの採集、狩猟・漁撈生活はさらに活発になり、土器や木器、漆器も多様化し、建築の技術も高度化していった。
 祭祀や呪術、習俗が人びとの精神と行動を支えている。「人びとはさまざまなタブーを守り、多彩な呪術によって自然の脅威から自分自身とその社会を守ろうとしていた」と、網野はいう。まだ階級や身分の分化はみられなかった。
 縄文文化は列島の東と西で異なっていたという指摘がおもしろい。土器をみても、東では「複雑な器形、文様をもち、ときに華麗とまでいわれる」土器が生まれる。これにたいし西では「凸帯文(とったいもん)を残すのみで、ほとんど文様はなくなり、その形も深鉢と浅鉢に単純化してくる」。
 東では狩猟・漁撈の活発化にともない、すぐれた銛や弓も登場し、奇怪ともいえる土偶もつくられる。しかし、西の遺物は全体として貧弱で、すべてが単純・簡素化の方向に向かっている、と網野は指摘する。
 縄文の晩期、朝鮮半島南部と深いかかわりをもつ西北九州で、水田がつくられるようになった。「アワ、ムギなどの畑作とともに、穀物を中心とする本格的な農耕が紀元前四世紀ごろの列島の一隅で開始されたことは確実である」
 縄文時代は数千年つづいた。しかし、大陸や朝鮮半島との交流から、次第に列島西部に農耕技術がはいってくる。そして、その影響は次第に東部に及び、縄文時代が終わりを迎えることになる。
 ひきつづき、のんびり読んでいくことにしよう。

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鄭周永『この地に生まれて』(金容権訳)を読む(3) [本]

 いかにも鄭周永らしいのは、オイルショックの危機を突破するには中東に進出するしかないと考えたことである。
 鄭周永は社内の反対を押しきって、1975年を中東進出元年と定め、まずバーレーンに造船所を建設、サウジアラビアの海軍基地の工事も引き受け、翌年、サウジアラビアのジュバイル産業港工事に着手した。
 ジュバイルの落札にはかずかずのドラマがある。3年がかりのその工事も苦難の連続だった。だが、ジュバイルの機材を製造する蔚山(ウルサン)の現代造船所はにわかに活気づいた。
 こうした海外での建設経験をへて、現代造船所は「現代重工業」へと発展していく。重工業の背後には「現代建設」とのつながりがあった。
「重工業と建設の、この特異な有機的関係によって、私たちの海外建設の外貨獲得率は他の建設企業のほとんど二倍に達した」と書いている。
 田中角栄はコンピュータ付きブルドーザーと呼ばれたが、鄭周永も同じようなことを言っている。

〈私は、私の「ブルドーザー」で計算して予測する。それはいわば口と手足を持ったコンピュータだ。性能がそれほど悪くない頭をつけて、他人よりも真剣に考え抜いて研究し、努力しながら押し続けてきた。それが仕事人としての私だ。〉

 障害は突破して克服するものだ。固定観念の枠に閉じこめられていてはいけない。人間には無限の潜在能力とアイデアがある。鄭周永はそう信じつづけた。
 その後も現代グループは成長しつづけ、多くの会社や財団をつくりつづけた。1977年には「峨山(アサン)社会福祉財団」をつくり、医療脆弱地域にいくつも病院を建て、研究開発支援や奨学金事業にも乗り出している。
 鄭周永は1977年に全経連(全国経済人連合会)の会長に就任、その会長を10年間引き受けた。そのかん、財界の自律性と独立性を守るため、政府の不当な要求や干渉とも戦った。全斗煥大統領は鄭周永を会長ポストからはずそうとしたが、それに屈しなかった。
 1979年10月には、朴正熙大統領が金載圭中央情報部長に暗殺される事件がおきていた。時あたかもイラン革命が発生し、「現代」もイランから撤退せざるを得なかった。
 全斗煥の軍政のもとで、経済も強制的に改編されていく。政府の命令によって、さまざまな企業が無理やりに統合されていった。経済論理が通じない暗黒時代がはじまった。「現代」も発電設備の製造ができなくなり、企業活動に大きな支障がでたという。
 鄭周永はソウルでの1988年オリンピック開催に向けて、81年に推進委員長を引き受けている。その誘致のために、全力を尽くした。名古屋の勝利が決定的だと思われていた。だが、IOCの委員に猛烈なアピールをくり広げて、ついにソウル開催を勝ちとったのだ。
 1982年から84年までは大韓体育会長の会長も引き受け、そのかんにも「現代電子」という新会社を設立している。
 ここでも試行錯誤と試練は避けられなかった。半導体やエレクトロス部門で成果を挙げるのに5年の歳月を要している。
 ほかにも現代グループは干拓事業をおこなうなど、その手がけた事業は数限りない。しかし、着目すべきは金剛山観光だろう。
 ソウル・オリンピックの終わった翌年の1989年1月に、鄭周永は北朝鮮を訪れ、朝鮮労働党の外交委員長と面談し、金剛山の共同開発について話しあっている。鄭周永にとって、金剛山はふるさとの山である。子供のころや青年時代に何度も登ったことがある。
 その金剛山を観光地として南北で共同開発することは、ふたたび民族がひとつになるための第一歩になると思われた。だが、その期待も、政治の荒波にもまれて、しぼんでしまうことになる。
 1992年に、鄭周永はついに政界に乗り出す。政治がまちがっていると、経済がよくなることはありえないと思っていた。そこで統一国民党を結成し、3月の総選挙で31議席を得た。その5月には、大統領選挙に立候補する。だが、選ばれたのは金泳三だった。
 2001年に鄭周永は亡くなる。その後、現代グループでは争いがあり、不幸も重なって、グループはバラバラになってしまい、かつての結束は失われた。
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[1998年、牛500頭をつれ、板門店を通過し、公式に北朝鮮に向かう]
 それでも鄭周永が韓国経済のチャンピオンだったという記憶は、これからも残っていくだろう。

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