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網野善彦『日本社会の歴史』を読む(5) [歴史]

 天皇の位は血統によって継承される。継承に決まりがあったわけではない。そこに政治の意志がはたらく。
 持統上皇は702年に死ぬ。文武天皇は病弱だった。だが、朝廷の実力者、藤原不比等(ふひと)の娘とのあいだで生まれた首(おびと)皇子が、いずれは天皇になると目されていた。
 文武は707年に病死し、首皇子が即位するまでの中継ぎとして、文武天皇の母が元明天皇として即位した。藤原氏の血をひく首皇子が天皇になることに、天皇一族や貴族のあいだから強い反発があったことも影響している。
 そのころ日本では天災や疫病がつづき、社会不安が増大していた。不比等はこの危機を減税や綱紀粛正によって乗り越えた。
 708年、武蔵から銅が献上されたのを機に、2番目の貨幣、和同開珎(かいちん)が鋳造される。最初の富本銭に儀礼的色彩が強かったのにたいし、和同開珎は本格的な流通貨幣となった。
 710年、都は平城京に移される。奈良の都である。
 ヤマト政権は勢力を拡大していた。712年には蝦夷を討って日本海側に出羽国をつくり、713年には隼人を討って南九州に大隅国をたてた。
 712年には『古事記』が完成する(『日本書紀』は720年)。そのころ、平城京には新羅の使節がたびたび訪れ、日本も唐につぎつぎと遣唐使を派遣していた。
 714年に元明は退位し、その娘で文武の姉にあたる元正が天皇となり、首皇子が皇太子となった。藤原不比等にとって、本命はあくまでも藤原家の血をひく首皇子である。不比等は娘の安宿媛(あすかべひめ、のちの光明皇后)を首皇子の妃に送りこんだ。
 社会不安が収まらないなか、不比等は律令制を維持し、これに違反する者の取り締まりを強化した。逃散する平民や乞食(こつじき)僧も厳しく処罰した。大宝律令はやがて養老律令へと改正される。しかし、律令制への反発は根強いものがあった。
 720年に不比等が死ぬと、天武の孫にあたる長屋王が大きな力をもつようになる。長屋王は律令制の緩和をはかり、豪族や富豪による私的な水田開発を認めた。
 722年に元明上皇が死に、724年に元正天皇が退位し、首皇子がようやく即位した(聖武天皇)。光明子とのあいだに生まれた男子は夭折する。藤原氏の野望はついえたが、新たな目標は長屋王追い落としに向けられた。729年、長屋王は謀反の疑いをかけられ、自殺する。その後、藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合[うまかい]、麻呂)は政権の中枢を握り、光明子を皇后にたてることに成功した。4兄弟はそれぞれ藤原の南家、北家、式家、京家の祖となる。
 藤原氏の政府は、律令制を引き締めようとしたが、とりわけ班田制にたいする世間の反発は強かった。諸国に盗賊や海賊が出没し、遊行僧のまわりに人びとが集まった。こうした不穏な風潮にたいし、政府は宥和策と強硬策の組み合わせで臨んだ。
 各地では天災と飢饉が相次いでおこった。735年ころから天然痘が流行する。737年には天然痘によって藤原4兄弟が死に、藤原政権は一気に崩壊した。
 このときヤマト政権の再建につとめたのが、光明皇后の異父兄、橘諸兄(たちばなのもろえ)である。諸兄は貴族や豪族の規律をただし、東国の防人を郷里に帰すなどして、大胆な負担軽減策を実施した。
 738年、聖武天皇は光明皇后とのあいだに生まれた娘、阿倍内親王を皇太子とし、唐から戻った吉備真備らを重用した。
 こうした動きにたいし、九州に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ、宇合の子)が反発し、740年に叛乱をおこした。だが、まもなく鎮圧される。
741年、聖武は諸国に国分寺建立の詔(みことのり)を発する。ここに仏教は鎮護国家の宗教として、大きな力をもつようになった。
 743年、墾田永年私財法がだされる。これまでの班田収受の法をあらため、貴族や豪族、寺院が開発した水田を一定限度で私財化することを認めるものだった。
 聖武天皇はこのころ紫香楽(しがらき)の離宮や難波宮を転々としていた。5年ぶりに平城宮に戻ったのは、大仏建立のめどがついたからだ。
 748年、聖武は退位し、娘の孝謙が即位する。このころ、藤原家はふたたび力を取り戻し、橘諸兄は孤立を深めていた。752年、大仏が完成し、開眼供養がおこなわれた。仏教はいよいよ鎮護国家の宗教という側面を強めていた。
 756年、橘諸兄が官を辞し、聖武上皇も世を去ると、藤原仲麻呂が朝廷の実権を握った。仲麻呂は聖武の定めた皇太子を廃し、みずからに近い大炊王(おおいおう)を皇太子とし、祖父不比等の養老律令をふたたび実施し、班田制の立て直しにつとめた。
 仲麻呂に反対してきた橘奈良麻呂はクーデターを計画するが、事前に知られ、処刑された。
 758年、大炊王が天皇になると(淳仁)、仲麻呂には恵美押勝(えみのおしかつ)の姓名が与えられた。760年、押勝は太上大臣になる。だが、この年、後見人の光明皇太后を亡くなる。
 上皇となった孝謙が道鏡と親しくなり、政治に介入しはじめると、押勝との対立が激しくなった。押勝は次第に追い詰められ、764年に軍事的実権を握ろうとして立ち上がるが、先手を打たれて殺された。
 天皇は廃され(淳仁の諡号を送られたのは明治になってから)、孝謙がふたたび天皇(称徳)の位につき、道鏡を僧形のまま太政大臣に任じた。女帝はさらに道鏡を天皇にしようとした。だが、和気清麻呂によって阻止された。
 770年、称徳が死に、道鏡は追放され、天智の孫、白壁王が天皇(光仁)となる。光仁は百済王の血統をもつ高野新笠(たかのにいがさ)とのあいだに生まれた山部(やまべ)親王を皇太子とした(のちの桓武)。天武の血統は徹底して退けられた。

 8世紀にヤマト政権は東北北部に勢力をひろげた。
 北海道では、漁撈を中心に、採集、狩猟、農耕を組み合わせた擦文(さつもん)文化の時代がはじまっていた。
 渤海は727年から10世紀にいたるまで日本に使者を送り、日本も13回にわたって遣渤海使を送っている。
 日本と新羅との関係は険悪になっていた。そのため、日本が遣唐使を送る場合は、朝鮮半島沿いではなく南シナ海を横断するルートをとり、多くの遭難を招いていた。
 国府や国分寺を通じて、中国風・仏教風の文化が各地に浸透たことはまちがいない。それでも網野によれば、「平民の生活そのものに根ざした習俗はそれによって変容されつつも根強く生きつづけ、支配者自身に影響を与えて」いた。
 さらに、網野は市の重要性を論じる。

〈こうした、人の力の及ばぬ自然、神仏の世界と人間の世界との境界として、河原、中洲、浜や巨木の立つ場所に、人びとは市を立てた。そこは神の力の及ぶ場であり、世俗の人と人、人と物の結びつきが切れるとされており、人びとはそこに物を投げ入れることによって、これを商品として交換しうる物とした。共同体をこえて人びとは市庭(いちば)に集まり、畿内周辺では銭貨も用いたが、米・布・絹などを主な交換手段として、交易を活発に行った。またそこでは神を喜ばせる芸能が行われるとともに、世俗の夫婦・親子の関係も切れるとされており、「歌垣」という歌をともなった男女の自由な性交渉も行われたといわれている。〉

 このあたり、網野史学ならではの記述である。
 国家の統制は市にまではおよばなかった。市では、多くの女性が商業や金融の仕事を担っていた。8世紀半ばには、海上・湖上の交通を利用し、広域にわたって活動する商人も登場した。
 国家は都と各地を結ぶ直線道路をつくり、これによって国司や官人を派遣するとともに、民衆に調や庸を運ばせていた。しかし、8世紀後半にはこうした官道はすたれはじめ、9世紀になると自然の道や海路が復活してくる。
 国家による負担が、多くの平民を苦しめていた。その負担から逃れようとして、逃げだす者も増えていた。かれらは畿内の貴族や寺社、富豪に身を寄せるようになる。
 墾田永年私財法が出されると、大寺院や上層貴族たちは、未開地に荘を設け、富豪や有力者の助けを借りて、土地開発をおこなった。それが荘園となった。
 天智系の新王朝を開いた光仁天皇には、道鏡時代の混乱を収拾する役割が課されていた。だが、社会はいっこうに安定しなかった。
 774年には陸奥で叛乱が発生し、これが38年間つづくことになる。780年には、陸奥の郡司、伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が立ち上がり、胆沢(いさわ)での築城を阻止し、多賀城を焼いた。
そのさなか光仁は亡くなり、桓武が即位した。782年、桓武は反対派の天武系皇族を謀反の疑いで流罪に処し、これにより天武系の血統は完全に途絶えた。
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[桓武天皇。ウィキペディアより]
 桓武は天智の定めた法で統治すると宣言し、藤原氏北家の左大臣藤原魚名(うおな)を排除し、藤原氏南家を中心に朝廷を組織した。
 784年にはいきなり山背国(やましろのくに)の長岡に遷都した。長岡周辺には、秦氏出身の母と同じ朝鮮半島からの移住民が多かったという。新都の建設は、それらの人びとの協力によって進められた。
 長岡京の建設には、それを指揮した藤原種継が暗殺されるなど、暗雲がただよっていた。だが、桓武は早良(さわら)親王ら反対派を粛清し、新都建設を続行する。
 788年には東北の乱を収めるため、5万の大軍を派遣した。だが、北上川で首長阿弖流為(あてるい)の反撃にあい、あっけなく敗北。それでも桓武はあきらめず、東北攻略を進めていった。
 791年には征夷大使に大伴弟麻呂(おとまろ)、副使に坂上田村麻呂を任じた。それまでの平民軍団に代わって、選抜された強力な軍団が組織され、794年、東北に10万の軍が投入された。
 そのころ都の周辺では凶事が相次いでいた。飢饉と疫病が広がり、桓武の母や皇后まで死亡し、皇太子まで病気で倒れた。早良親王の怨霊だといううわさまで広がって、桓武はついに長岡京を放棄した。
 新しい候補地はすぐに見つかった。793年に桓武は山背国の宇太(うだ)に遷都すると発表、翌年、みずからその地に移り住んだ。山背国は山城国とあらためられ、新都は平安京と名づけられた。
 そこに東北の坂上田村麻呂が圧勝したという知らせが伝わる。796年には新銭として隆平永宝が鋳造され、翌年には『続日本紀』が完成した。
 797年、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられ、801年にふたたび東北に侵攻、アテルイを投降に追いこんだ。アテルイは都に連行され斬られた。それで東北の動揺がおさまったわけでなかった。
桓武は平安京に仏教の新しい風を吹きこもうとしていた。804年、最澄と空海が唐に送られた。最澄は翌年帰国して天台宗を開き、さらにその1年後、空海が密教の教えを携えて戻った。
 東北での戦争と新都の建設は民衆に多くの負担を強いていた。桓武の独裁にたいする貴族の反発も強まっていた。そうしたさなか、806年に桓武は70歳で生涯を閉じることになる。
 桓武の位を継いだ平城(へいぜい)天皇は、藤原南家を後ろ盾とする異母弟の伊予親王を自殺に追い込み、藤原式家の藤原仲成とその妹薬子(くすこ)を重用した。だが、伊予親王を自殺させた自責の念にかられ、情緒不安定となり、わずか3年で弟の嵯峨に天皇位をゆずり上皇となった(809年)。
 だが、まもなく嵯峨天皇と平城上皇のあいだが不仲となる。平城は兵を率いて、薬子、仲成とともに東国に向かおうとするが、嵯峨側に阻止される。仲成は射殺され、薬子は毒を仰いで死んだ。平城上皇は剃髪し、出家した。
 嵯峨天皇の権力が強まった。嵯峨は藤原北家の藤原冬嗣を重用し、天皇と太政官とのあいだを取り次ぐ蔵人頭とした。南家や式家が没落しても、今度は北家が台頭するなど、藤原家の持続力には恐るべきものがあった。
 嵯峨は823年に異母弟の淳和(じゅんな)に譲位し、淳和は833年に嵯峨の息子、仁明(にんみょう)に位を譲った。そのかんも嵯峨は上皇として権威を保持していたが、国政に関与することはなかった。
 東北では811年、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が本州最北部まで軍を進め、38年にわたる東北戦争に終止符を打った。
 嵯峨には50人におよぶ子女がいたが、上級の皇族を除き、そのほとんどに源の姓を与えて、臣籍に下ろした。
 嵯峨の時代、宮廷は唐風に染め上げられ、華やかな宴がくり広げられ、大極殿にかわって内裏が政治の儀式の場となった。弘仁期の貴族文化が花開くことになる。
 仏教界では天台、真言の両宗が立ち、社会に大きな影響を及ぼした。比叡山に大乗戒壇が設立されるのは、最澄の死後である。真言の秘儀を授けられて帰朝した空海は、聖地高野山に金剛峯寺を建て、京都の東寺に拠点を置いて、朝廷から深く信頼されていた。
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[空海。ウィキペディアより]
 弘仁時代の政治は安定していた。班田はおこなわれなくなっている。朝廷は諸国での正税の一部(米や雑物)を京都に運ばせるようになった。受領(現地の行政責任者)が税を請け負う体制が生まれようとしている。
 太宰府管内には大規模な公営田がつくられた。その経営は実際には地元有力者に依存していた。
 富豪による私出挙(すいこ、籾の貸し出し)や田地経営も認められるようになった。天皇家も直属の勅旨田や氷室、薬園などを所有する。すると、貴族や寺院も富豪を取り込んで、墾田を進め、みずからの荘園を拡大する動きを強めていった。
 9世紀半ばに嵯峨が死ぬと、藤原北家の権勢がますます強くなった。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子、良房は陰謀をめぐらせて、仁明(にんみょう)天皇と冬嗣の娘のあいだに生まれた道康親王を皇太子とした。そして、道康が天皇(文徳)になると、良房の孫で9カ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とした。
 858年に文徳は急死、9歳の惟仁が清和天皇として即位し、太政大臣良房が政務を総攬し、やがて摂政となった。そのかん、伴氏、紀氏、橘氏などの有力氏族は追い落とされ、藤原家がますます政治を掌握するようになった。
 良房の時代、すなわち貞観期は、さまざまな紛争や葛藤はあったものの、政治経済や文化はそれなりに安定していた。
 872年に良房が死ぬと、その地位は基経が継承した。876年に清和は幼少の陽成に位を譲った。しかし、陽成は成長するとともに奇行が目立つようになり、内裏で近臣を殴り殺す事件まで引き起こした。そのため基経は陽成を退位させ、仁明の子ですでに臣籍に下っていた55歳の時康を天皇家に戻して、位につけた(光孝天皇)。光孝のあとは、その子が宇多天皇となる。このとき、基経は関白に任じられた。
 要するに、天皇を握る藤原家が権力を手放すことはないのだった。
 9世紀後半になると、国家機構が揺らぎ、分裂傾向が強まっていく。天皇家、有力貴族、寺院、地方の国司、郡司が、それぞれ経済的地盤を教化しようとして、勝手に動きはじめていた。
 各地で混乱や衝突が発生し、治安が悪化し、群盗や海賊が出没する。政府の武力機構や天皇直属の検非違使(けびいし)はこれに対応することができず、その取り締まりは次第に国司にゆだねられるようになった。
 対外関係では、唐が衰亡の道をたどっていた。しかし、大陸、半島との交流は活発で、9世紀には多くの新羅人が日本に住み、唐の商人もしばしば来航していた。
 9世紀後半になると、西日本では新羅人と結んだ国司や郡司が派手な動きをみせて、謀反の疑いを招いている。869年には新羅の海賊船2隻が博多湾に襲来する事件もおこった。瀬戸内海でも貢納船を襲う海賊が増え、朝廷はほとほと手を焼いた。
 馬の飼育が盛んな東国では、騎馬の武装集団が登場した。貢納物を輸送する運送業者は、機会さえあれば貢納物を奪う群盗に早変わりした。
「俘囚」や「夷俘」と呼ばれてさげすまれていた東北人が叛乱をおこし、東北の自立を求めるようになるのも9世紀後半からだ、と網野は指摘する。
 国司と地域の有力者の衝突も激しくなった。海賊や群盗が横行しはじめた。各地を遍歴遊行して民衆を教化する僧も増えてきた。
 京は都として成熟していく。だが、そこには光だけではなく影もあふれていた。それが9世紀後半の状況だった、と網野はいう。

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