SSブログ

ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(1) [商品世界論ノート]

81WQg3h-KXL._SL1500_.jpg
 デヴィッド・ハーヴェイは多作である。専門は経済地理学だというが、マルクスの『資本論』を再評価し、現在の経済社会に大きな疑問を投げかけたことでも知られる。拙ブログでも、これまでかれの『資本の〈謎〉』、『〈資本論〉入門』、『〈資本論〉第2巻・第3巻入門』を紹介してきた。
 今回取りあげるのは、かれが82歳のときに出版した『経済的理性の狂気』である。本書も『資本論』にもとづいて現代経済社会を批判しているといってよいが、その緻密な論理をたどるのは、ぼくにはいささか荷が重い。あまり深入りせず、できるだけ軽く紹介するにとどめたい。毎回読めるのはわずかのページにすぎないだろうが、ぼくの頭ではついていけない懸念もある。
 それにしても、ハーヴェイの切れ味はなかなかのものだ。日本では、マルクス・ルネサンスといえば、斎藤幸平の名前が挙がるが、ぼくにはデヴィッド・ハーヴェイやナオミ・クライン、トマ・ピケティのほうが、より本格的な気がする。
 なにはともあれ最初から少しずつ読んでみよう。
「マルクスは第一級の理論家、研究者、思想家であるだけでなく、活動家であり論客であった」とハーヴェイは書いている。
 これにはほとんどだれも異論がないだろう。だが、マルクスはけっして過去の理論家ではない。「資本」を研究し尽くしたマルクスは、資本がますます重要性を帯びる21世紀のいまも大きな「問い」を投げかけているのだ。

〈マルクスは、資本の運動法則とその内的諸矛盾、その根底的な非合理性について予見に満ちた解釈を示したが、これは、現代経済学の皮相なマクロ経済諸理論よりも、はるかに鋭敏で洞察力のある説明であることがわかっている。……その洞察は取り組まれるに値するし、まったくしかるべき真剣さをもって批判的に研究されるだけの価値がある。〉

 ハーヴェイはマルクスの『資本論』が、いまでも真剣かつ批判的な研究に値すると書いている。
 そもそもマルクスの資本概念と資本の運動法則とは、いったいいかなるものだったのか。
 マルクスの功績は、「運動する価値」として資本をとらえたことにある、とハーヴェイはいう。
 資本の運動の流れは、簡単にいうとこうだ。

(1)資本は生産手段(原料や半製品、機械、道具、設備その他)と労働力を市場から調達する。
(2)資本は調達した生産手段と労働力によって、商品を生産する。
(3)資本によってつくられた商品には、最初に前貸しされたものより多くの価値(剰余価値=儲け分)が含まれている。
(4)資本はその商品を販売して、貨幣を回収するが、そこには利益も含まれている。
(5)資本はその貨幣をふたたび資本として、また商品をつくるという過程を繰り返す。

 これが資本の循環である。資本は貨幣としてはじまり、商品にかたちを変え、それがふたたび貨幣となって戻ってくる。すると、その一部が賃金や利子、地代、税金、利潤などに分配されたあと、また商品をつくる過程が繰り返される。ただ、それが単なる循環と異なるのは、資本の流れが「絶えず拡大するスパイラル運動」となることだ。しかも、資本は少しもじっとしておらず、たえず「変身」をくり返していることがわかるだろう。
 資本は「運動する価値」だという。ここで引っかかるのは「価値」という用語だろう。「価値」とはいったい何か。価値は目に見えない。じっさいそこにあるのは、原料やはたらく人や機械、さらにはできあがった商品、そして商品を売ったお金などである。だが、そのなかには絶えず変身しながらも、一貫して保持され、実現される力の作用がある。それが価値だといってよい。
 価値とは値打ちである。あの材料には値打ちがある。あの男には値打ちがある。あの商品には値打ちがある。お金には値打ちがあるという言い方はふつうになされるだろう。しかし、その値打ちはいったいどこから生まれてくるのだろう。材料がそのまま放置され、男がちっとも働かず、商品がまったく売れず、お金があっても買えるものがなければ、それらにはまったく価値がない。価値は動き関係することによってしか生じない、目に見えない何かだということができる。
 さて、のっけからややこしいことになってきたけれど、価値は経済社会を成り立たせている根源的要素とみることができる。マルクスは価値の根拠を「社会的必要労働時間」ととらえた。とはいえ、ここに労働至上主義的な色彩を感じる必要はないだろう。
 人がはたらかなければ、経済社会は成り立たない。経済社会が成り立つのは、人がはたらいているからである。資源にしても、材料にしても、機械にしても、貨幣にしても、人が存在していなければ、それらはそれ自体、何の価値もない。価値をつくりだすのは人である。資源にしても、原料にしても、労働力にしても、機械にしても、商品にしても、お金にしても、人がそこに価値をみいださなければ、そこに価値はない。人は価値あるものを生みだし(あるいは見いだし)、その価値あるものを使い、用い、味わい、消費することによって経済社会を営んでいる。マルクスはその価値が人のはたらきによってしかつくられないことを、あらためて確認したといえるだろう。
 近代を動かしてきたのは「資本主義」だと言われれば、そのことにだれもが反対しないだろう。しかし、なぜそれは資本「主義」なのだろうか。端的にいうと、「資本主義」とは、国家が推進する資本のイデオロギーにほかならない。マルクスは『資本論』において、国家を抜きにした純粋資本の論理を追求した。だが、近代のはじめから、資本は国家の支援を受けていたといってよいのではないだろうか。
 資本には「近代」をつくりだす力があった。ハーヴェイは資本を「運動する価値」と理解し、それがなぜ「推進力」をもっているのかを説明しようとしている。
 資本が「運動する価値」であるのは、それが貨幣から商品、そしてまた貨幣へとたえず変身を繰り返し、やむことなくみずからを再生し、しかもその再生によって強化、拡大されていくという「推進力」をもつからである。
 資本の拡大は資本を擁する一企業にとどまらない。資本はたえず変身しながら、無数の新たな分身をつくり、社会全体(ならびに国家)を巻きこみ、社会そのものを変えていく。資本のつくりだす先兵は商品にほかならないが、そのかずかずの商品こそが、その同行者である貨幣とともに、人の生活や生き方、時間と空間、環境などをはじめとして、社会そのもの、さらには国家のかたちまでを変えていくのである。
 マルクスははじまったばかりの近代において、資本の尽きることのない推進力に直面し、その脅威と困難を克服する方向を探ろうとして、『資本論』を書いた。『資本論』は未完のままに終わり、「資本の時代」を克服するという課題もまだ達成されていない。強権的な政治によって、「資本主義」をねじ伏せようとした「社会主義」のこころみは、資本の返り討ちにあってしまった。それでもマルクスの課題は、いまも残されたままだ。ハーヴェイはおそらくそんなふうに考えている。
 本書の第1章では、資本が変身を繰り返し、拡大しつづけることが大きなテーマになっている。
 資本はまず貨幣(資金)として登場する。その貨幣は生産手段(原材料や半製品、機械、道具、工場、設備など)と労働力に姿を変え、貨幣としては消滅する。この段階では資本は生産手段と労働力に変身している。
 次に資本は生産手段と労働力を使って、商品を生産する。重要なことはこの商品に剰余価値が含まれていることである。資本はもうからない商品はつくらない。そのもうけがどこからでてくるかというと、労働力によってでしかない。この段階では資本は商品に変身している。
 そして、資本が変身した商品は、市場に回され、販売されて、貨幣となって戻ってくる。このとき資本によってつくられた商品は消費財(賃金財)とはかぎらない。奢侈財や生産手段でもありうる。だが、いずれにしても、市場に流れることによって、資本は商品から、ふたたび貨幣へと変身するのである。
 無事、貨幣へと環流した資本は、その一部を労働力と生産手段の購入に回し、ふたたび商品の生産に着手する。だが、商品の販売によって獲得された貨幣にはすでに剰余価値が含まれていた。その剰余価値は、税金や利子、賃貸料、使用料、地代、利潤、さらには賃金や生産手段の追加分などに回される。ここで重要なのは、環流した貨幣が資本の分身として、社会全体にちらばっていくことである。
 以上はごくごく簡略化した資本のモデルにすぎない。だが、経済的理性はなぜ狂気へと変わっていくのか。ようやく第1章がはじまったばかりである。

nice!(9)  コメント(0) 

ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(2)──大世紀末パレード(9) [大世紀末パレード]

img20240120_16353877.jpg
 引きつづきポール・ジョンソンの『現代史』を再読しながら、1980年代を振り返ってみる。
 前回は宗教について論じたが、いつの時代も変わらぬテーマとしては、人口問題と食糧問題がある。いずれも歴史を動かす大きな要因にはちがいない。
 世界人口は1900年に12億6200万人。それが1950年には約25億、60年に30億、75年に40億、87年に50億、99年に60億、2011年に70億、2022年に80億となった。その増加率は次第に低くなっているが、世界の人口はまだまだ増えていきそうだ。
 ここでジョンソンは「人口変移説」なるものをもちだしている。
 第1段階では、医学と公衆衛生により、乳児死亡率と感染症死亡率が下がって、人口が急速に増加する。第2段階では、生活水準の向上が出生率を下げる。ところが、第1段階から第2段階に移行する途中で、危機が生じて、政治が過激化することが多いというのだ。
 ジョンソンは現代の課題は、世界全体を第2段階へと移行させることだという。そのためには発展途上国の経済成長率を改善し、生活水準の向上をはからねばならない。インドはまだ懸念があるものの、中国の人口は安定してきた。しかし、アフリカでは、まだ大きく人口が増えつづけている状況だ。
 食糧問題に関しては、1945年以降、科学的な農法が導入されたことにより、1980年代には米国、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、西ヨーロッパで膨大な食糧余剰が生まれた。これにたいしソ連はもとより、ソ連型の集団農場体制をとる国の農業は、概してうまくいかなかった。1980年代に食糧自給を達成したのは、ソ連型農業を鵜呑みにしなかった中国とインドだけだという。
「マルクス主義的集産主義の農業への影響は、その魔力のとりこになった第三世界諸国のほとんどすべてに悲惨な結果をもたらした」とジョンソンはいう。ここで例として挙げられるのは、イラク、シリア、イラン、ビルマ(ミャンマー)、ガーナ、タンザニア、モザンビーク、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリア、ソマリアなどである。なかには干魃と飢餓による国内不安が内戦や隣国との戦争を招いたケースもある。
 アフリカの優等生だったコートジボワール、ケニア、マラウイなども80年代には深刻な経済的困難と社会不安に襲われ、リベリアは3つの私兵軍団に引き裂かれて、激しい内戦におちいり、民衆は餓えに苦しむことになった。
 しかし、重要な変化をみせたのは南アフリカ共和国だ。1989年以降、南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)に別れを告げた。南アは世界の縮図だ、とジョンソンはいう。1990年段階で、南アでの白人と非白人の比率は1対6で、これは世界での比率と等しい。しかも、ここでは第一世界の経済と第三世界の経済が併存している。その国がどうなっていくか注目すべきだとしている。
 だが、経済面において、もっとも注目すべき地域は、東アジアの企業国家群、すなわち日本、香港(イギリスの直轄地)、シンガポール、台湾、韓国であり、とりわけ日本だったと述べている。この時点で、巨大な中国は経済的にはまだ恐るべき存在とはなっていない。
 ジョンソンによれば、日本の経済発展を支えたのは新憲法だった。

〈マッカーサー司令部で作成された1947年の新憲法は、最大公約数の合意にもとづく政党間の妥協の産物ではなかった、英米憲法の長所を統合した均質な概念の上にたち、行政と司法、中央集権と地方分権のあいだの中庸をめざして巧みに舵を取っている。自由な労働組合、出版の自由、警察の民主化(軍備に類するものは撤廃された)を保障した他の占領諸法規と相まって、新憲法と、そこに具現される「アメリカの時代」は、国家がそれまで日本国民に対して行使していた抗しがたい支配力を粉砕することに成功した。アメリカの日本占領は、戦後の全時期にわたるアメリカの対外政策のなかで、おそらく最大の建設的業績だろう。〉

 この見方には異論があるかもしれない。複雑な思いをもつ人もいるだろう。だが、西洋の歴史家に戦後日本が「アメリカの時代」になったと意識されていることは否定しがたいのである。
 占領改革をへて、日本は1953年に戦後復興をはたす。そして、その後、20年間の高度成長期にはいる。自動車、時計、テレビ、カメラの生産量でアメリカを追い越し、世界の先頭をいく工業大国となった。先進技術分野でも躍進は著しかった。
 1980年代になると、金融部門でも大躍進をとげ、やがて世界最大の金融大国となった。アメリカの貿易赤字と財政赤字を支えたのは日本である。80年代末の段階で「日本はすでに世界第二の経済大国として、ソ連をはるかに追い抜いており、先端技術、最新設備、そして教育と訓練に多額の投資を続けていた」。
 ジョンソンは1970年代から80年代にかけ、日本の賃金率がどの先進国よりも速く上昇し、しかも失業率がきわめて低かったことに注目している。労働組合の役割は大きかったが、そこには日本ならではのユニークな企業風土も存在した。

〈日本ならではのユニークな、またおそらく現代世界へのもっとも創造的な貢献は、企業が商品を人間と見立てる考え方に立ち、集産主義[つまり命令型]とはちがって新しく家族主義的な経営を導入したことである。それにより階級闘争の破滅的な衝撃を減らすことができた。〉

 世界じゅうで「日本的経営」がもてはやされた時代である。
 経済が発展したのは日本だけではない。やがて、市場経済の刺激は太平洋地域全体に広がっていく。韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンへと。そして、ついに中国が覚醒し、潮目が変わる。それを先導した日本の役割は大きい、とジョンソンはみている。
 太平洋地域の東岸ではチリの経済発展がめざましかった。チリは戦後、根強いインフレに悩まされつづけていた。1970年には社会主義者のサルバドル・アジェンデが大統領となるが、その足元では左翼陣営が分裂し、対立を繰り返していた。アジェンデが政権の座についてもインフレは収まらないどころか、超インフレとなった。1973年9月、国じゅうが混乱するなか、軍のアウグスト・ピノチェト将軍がクーデターをおこし、政権の座につく。すざまじい弾圧がつづく。
 それでもジョンソンはピノチェト政権の功績を認めている。それはインフレを押さえこみ、経済を成長の軌道に乗せたことだ。しかし、経済が成長し、市場の自由が強まるにつれて、政治的な自由が求められるようになる。1983年6月には政権に抗議する全国的な暴動がおこり、89年12月の国民投票で、ピノチェトは退陣し、独裁政治に終止符が打たれる。民主主義回復後に発表された公式報告では、1973年から89年にかけ、政治警察により1068人が殺され、957人が「行方不明」になったことがあきらかになった。
 この時期、アジアでも独裁政権が立て続けに崩壊している。フィリピンでは1986年にマルコス政権が崩壊し、台湾では1988年に国民党独裁体制が崩れて、李登輝政権が生まれ、韓国では1990年に長い民主化闘争の末、金泳三による文民政権が発足している。
 こうした流れは、市場の自由を求める世界的な経済の動きとけっして無縁ではなかった、とジョンソンはみている。

nice!(11)  コメント(0) 

産業革命──ヒックス『経済史の理論』を読む(8) [商品世界論ノート]

71nPfKaNpDL._AC_UL320_.jpg
 19世紀末に産業革命がはじまる前段階の経済を、ヒックスは農業経済プラス商人=職人経済ととらえている。農業はすでに市場化しており、都市にはプロレタリアート(過剰労働力)があふれていた。
 市場向けの商品をつくる職人は同時に商人でもある。職人と商人のちがいは、「純粋の商人の場合は買い入れるものと売るものとが物理的に同一の形態であるが、職人は買ったものを形を変えて売っている」ところが異なるにすぎない。したがって、「経済的には手工業と商業とはまったく一致している」とヒックスはいう。
 そこに「産業革命」がやってくる。産業革命は「近代工業の勃興」を意味するけれども、それは商人=職人経済とは根本的に異なっていた。そのちがいを、ヒックスは「固定資本」の巨大化に求めている。もちろん、商人も店舗や倉庫、事務所、運輸手段などの固定資本をもっているけれども、商人の資本の大部分は大量の商品からなる「流動資本」、言い換えれば「回転資本」である。これにたいし、企業家の資本で中心を占めるのは、固定資本、すなわち機械装置そのものだ、とヒックスはいう。
 産業革命がおこったとき、ヨーロッパは商人経済のピークに達していた。交易網は国内だけではなく非ヨーロッパ地域にまで広がっていた。だが、多くの利益を生む商品はなくなっていたのだ。例外は、アフリカ−アメリカ間の奴隷交易や、インド−中国間のアヘン貿易くらいだった。そのため「交易が不断に成長し続けるためには、ヨーロッパは自ら輸出品を生み出さなければならなかった」。ヒックスはそこに産業革命にいたるひとつの動機を求めている。
 さらに、産業革命を促した要素として挙げられるのが、金融の発展と利子率の低下だった。多額の資本を固定資本(機械装置)として据え置くためには、みずから巨額の資金をもっているならともかく、たいていは銀行や商人から資金を借り入れなければならなかっただろう。イギリスではそうした余裕資金が存在し、それが利子率の低下をもたらしていた。
 そこに、産業革命の肝心の要因がつけ加わる。産業革命とは近代工業の勃興にほかならないが、それは「単なる新しい動力源の発見の所産ではなく科学の所産なのである」とヒックスはいう。つまり新たなエネルギー源と科学的発明が結合することによって産業革命が誕生するのだ。
 その代表ともいえる装置が蒸気機関だった。蒸気機関は炭坑の排水、紡績、織機などに用いられたほか、機関車や蒸気船を生みだすことになる。
 工作機械の発明も忘れてはならない。工作機械は金属や木材、石材の加工に用いられたが、それは人間の手によるよりはるかに精密に、かつ早く作業をおこなうことを可能にした。
 産業革命を代表する機械としては、繊維機械が挙げられるだろう。だが、それは古い産業の延長であって、その規模はさほど大きくなかったという。
 ヒックスは科学の役割を強調する。

〈科学は技術者に刺激を与え、新しい動力源を開発し、その力を通じて人間の手にまさる精密さをつくり出し、機械コストを低下させて機械利用の範囲を拡げる。このような科学の影響こそが、広大な変容を生み出す真の革新、真の革命なのである。なぜなら、科学の影響は繰返しあらわれ、いわば無限に反復されるからである。〉

 こうして産業革命がはじまり、科学技術が進歩するなか、新たな資源の開発によって、次々と新たな商品が生み出されるようになる。だが、産業革命が進展するとき、労働市場はいったいどうなるのか。
 産業革命にもとづく工業化によって、どの国でも実質賃金が上昇したことは事実である。工業化により生産力が増大し、その成果は国民全体に配分された。だが、問題は、工業化の進展よりも実質賃金の上昇が遅れたことだ、とヒックスは指摘する。
 その要因としては、当時の労働市場に過剰ともいえる豊富な労働供給があって、そのため過剰労働力がなくなるまで、多くの時間がかかったということが考えられる。過剰労働力がなくならないかぎり、実質賃金はさほど上昇しない。
 もう一つ考えられるのは、機械が労働にとって代わったために、熟練労働者が職を失ったということだ。長期的にみれば、経済成長率の上昇は、労働需要の増大をもたらすはずだ。しかし、短期的には、労働節約的な発明によって、経済全般にわたって、労働需要の拡大が鈍化した可能性がある。ここからはマルクスのいう労働者の窮乏化理論が導きだされるだろう。
 だが、機械化はかならずしも労働者の窮乏化をもたらさなかった。次々と固定資本、言い換えれば機械設備が更新されていくと、機械設備そのものが低廉化するだけではなく、生み出される商品自体も安くなっていく。いっそうの技術進歩が生産力の増大をもたらす。こうした現象は一企業にとどまるわけではなく、全企業、さらには全産業におよんでいくだろう。そのことが労働需要に有利な効果をもたらす。過剰労働力が吸収されると、実質賃金は上昇していく。こうして産業革命が全体に普及していくと、労働市場が活発化し、賃金の上昇がもたらされることになる。
 産業化にともない、新しい労働者階級が生まれつつあった。労働者は臨時雇いではなくなり、その雇用は一段と恒常的になった。
 近代工業は固定資本の使用に依存するが、耐久設備が継続的に使用されるとすれば、「それを運転するために、多少とも永続的な組織として労働力を必要とする」ようになると、ヒックスは記している。そうしたなかで、工業労働者は徐々に大きな「集団」となり、やがて「組合」や「政党」を結成していく。賃金の上昇は、労働者の組織化と無関係ではなかった。

 最後にヒックスがつけ加えるのは「国家」の役割である。
いつか国家はなくなるかもしれないが、少なくとも現時点では国家はまだなくてはならない存在だと書いている。
 19世紀の「自由貿易」の時代には、発展する国が次第に増加することが期待されていた。それ以前の17、18世紀は「重商主義」の時代だった。重商主義は経済を国益の手段とすることをめざしたが、それは失敗し、自由貿易の時代へと移っていったのだ。
 第1次世界大戦後になって、「行政革命」がおこる。国家は官僚制をつくりあげ、従来まったく手の届かなかった「福祉」に手をつけるとともに、国益のために貿易や経済活動全般を規制することができるようになった。
 自由貿易時代に商人経済を発展させるもう一つの手段が植民地主義だったことは否定できない。だが、植民地主義は被支配地域のナショナリズムと、国内のリベラリズムによって、次第に否定されていった。
 自由貿易はどこにでも利益をもたらすわけではなかった。産業革命によって、イギリスの手織工はその職を奪われたものの、苦難の末、国内で再雇用の機会を見いだすことができた。これにたいし、インドの職工は職を奪われたあと、仕事がないまま長期間の打撃をこうむることになった。
 保護主義が復活する可能性は常にある。国家による保護は、ある程度打撃を軽減するかもしれないが、それは経済成長の促進を阻害し、国民経済全体に利益をもたらさない。「動機がなんであろうと、保護主義は一つの障害である」とヒックスは断言する。
 行政革命が政府を強化し、国民へのサービスを充実させてきたことはまちがいないが、それが逆効果をもたらす場合も存在する。保護主義もそのひとつだ。経済の逼迫は、インフレーションや国際収支の赤字、貨幣と為替の混乱などのかたちであらわれるけれども、それは貨幣政策などの技術的調整によっては解決できず、単にそのかたちを変えるだけにすぎない。重要なのは、川の流れの変化をつかむことだとヒックスは述べて、それを本書の結論としている。

nice!(8)  コメント(0) 

ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(1)──大世紀末パレード(8) [大世紀末パレード]

img20240120_16353877.jpg
 ここで、方向を変えて、1980年代を鳥瞰してみることにする。ぼく自身が編集を担当したポール・ジョンソン(1928〜2023)の『現代史』(別宮貞徳訳)を紹介してみたい。著者はイギリスの保守派で毒舌の歴史家、ジャーナリスト、評論家として知られる。
 原著はもともと1983年に出されたものだった。その原著に、日本語版のためにぼくが依頼して、ソ連崩壊までの章を書き下ろしてもらった。翻訳され、日本で発行されたのは1992年のことだ。その最終章は「自由の復権」と名づけられ、こんなふうにはじまっている。

〈1980年代は現代史の分岐点の一つである。民主主義は自信を取り戻し広がった。法の支配が地球上広範囲に確立され、国際的な略奪行為は阻止され処罰を受ける。国際連合、とくに安全保障理事会は、はじめてその創立者の意図に沿って機能しはじめるようになった。資本主義経済は力強く繁栄し、市場経済こそ富を増し生活水準を向上させるためのもっとも確実な、また唯一の道であるという認識があらゆるところで定着していった。知的な綱領としての集産主義は崩れ去り、それを放棄する動きがその拠点においてさえ始まった。最後の植民地コングロマリット、スターリンの帝国は解体される。ソヴィエト体制そのものが歪みを増し、諸問題が幾重にもかさなって、超大国としての地位も危うくなれば冷戦の継続を望む意志も衰えを見せた。1990年代のはじめにはもはや核戦争の悪夢は薄れ、世界はより安全に、安定度を加え、そしてなによりも希望に満ちてきた。〉

 いま思えば、スターリンの帝国が解体され、民主主義が自信を取り戻し、世界は「希望に満ちてきた」という感覚は、いっときの幻影だったのではないかとさえ思えてくる。なにかが終わったのはたしかだ。だが、その後の世界の歩みはむしろ戦争と苦難と抑圧に満ちていたのではないか。だとすれば、終わりは終わりではなく、はじまりははじまりではなかったことになる。
 ポール・ジョンソンが1980年代の世界をどのようにみていたかを紹介しておきたい。
 最初に強調されるのは、20世紀にさまざまなイデオロギーがしのぎを削ったにしても、「人類の圧倒的多数の人びとにとっては、宗教が実際にいまでも自分たちの生活の大きな部分を占めている」ということである。宗教が消滅するという考え方は、むしろ古くさくなったとさえ述べている。
 とりわけ、この時代にローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世(1920〜2005、在位1978〜2005)のはたした役割は大きかった。カトリック信仰の強いポーランド出身で、詩人、劇作家、哲学者でもあった。衰退しかかっていた伝統的カトリシズムの復興をやりとげた人物である。1981年5月に暗殺されそうになったが、1980年代から90年代にかけ世界各国を何度も訪れ、2億人の人びとと接した。カトリック信者の数は1978年時点で約7億4000万人だったが、2020年現在では約12億人に増えているといわれる。もともと多かったヨーロッパ、北米に加え、中南米、アフリカで信者数が大きく伸びている。
 もっとも北米やヨーロッパの先進国では、教会の日曜礼拝に出席する人の数は少なくなった。そのいっぽうで、カトリシズムやプロテスタントの教義からはずれた、カリスマ的な根本主義の宗派が勢いを伸ばした。中南米では過激な政治行動を求める「解放の神学」が登場したが、大きな大衆的支持を受けるにいたらなかった。米国では福音主義のプロテスタントがメディアを利用して大躍進し、中南米まで伝道活動を広げている。
 注目すべきはイスラム原理主義が力をつけ、1980年代以降、大きく広がったことだ。これに対抗するかたちで、ユダヤ教超正統派も復活した。ジョンソンによれば、ユダヤ教超正統派は「ダヴィデの王国の『歴史的』国境線を拡大するとともに、イスラエルを神権政治の国に改造することを目標としている」という。
 イスラム世界は西アフリカから地中海南部、東アフリカ、バルカン諸国、小アジア、中東、南西アジア、マレーシア、インドネシア、フィリピンにいたるまで大きく広がっている。2020年時点でその信者数は19億人。
 1970年代以降は、いわば「イスラム復興」の時代となったが、「その一つの支えとなったのは石油によって新たな富を得たことからくる辟易させられるほどの自信である」とジョンソンはいう。
 とはいえ、イスラム教の内部はスンニ派、シーア派、イスマーイール派、ドゥルーズ派、アラウィー派などと分裂しており、それがしばしば対立を呼ぶ原因となっている。
 中東の対立は加えて、何よりもイスラエルという国家の存在によるところが大きい。1980年代までは、イスラエルが結局のところ衰退する、とアラブ側は考えていた。だが、それは大きな誤りだった。
 1979年にはイランで革命が発生し、国王が追放され、アヤトラ・ホメイニのシーア派原理主義者が実権を握った。その後、長年にわたる国境紛争に端を発して、イランとイラクのあいだで大規模な戦争がはじまる。イラクのサダム・フセイン大統領は、シャトルアラブ川とイランの油田を手中に収めるため迅速な勝利を得ようとしたが、そのもくろみは失敗し、戦争は8年もつづいて、両国で100万人以上の死者を出した。宗教が原因の戦争ではなかったが、それでもスンニ派とシーア派の対立が戦争の激しさをあおった面はある。
 そのことはレバノンも同じだ。レバノン内戦は1975年から90年にかけて断続的に発生し、シリア、パレスチナ解放機構(PLO)、イスラエルが介入し、イスラム教の諸宗派がからんで収まりがつかなくなり、「商業都市ベイルートは滅び、レバノンはもはや独立国としては存在せず、古来のキリスト教共同体は優越性を失った」。
 アフガニスタンでは1978年4月にソ連の後押しによりダウド政権が倒された。政権を握った人民民主党はイスラム教の勢力をそごうとして恐怖政治を敷く。その後、政治が混乱するなか、1979年末にソ連がアフガニスタンに侵攻する。ソ連の侵攻はムジャヒディンと呼ばれる反政府民族主義ゲリラによる激しい抵抗をもたらし、1988年5月のソ連軍の完全撤退につながる。
「ソ連指導部が最終的にアフガニスタンからの撤退を切望したのは、一つにはゲリラ戦が近隣のソヴィエト・アジアのイスラム地域にまで拡大するのではないかと懸念したからだった」と、ジョンソンは論じている。事実、ソ連領内でも、1970年代から80年代にかけて、イスラム復興の動きが強まっていた。
 歴史は宗教を抜きにしては論じることができない。宗教と信仰は人びとの生活に深く根ざしている。たとえ、宗教を無視する風潮が強まったとしても、政治を宗教に完全に置き換えることはできなかった、とジョンソンはいう。
 いまも中東地域をはじめ、世界の紛争は収まる気配をみせていない。島国の日本人にとっては遠い彼岸のできごとのようにみえるかもしれない。しかし、それがもはや他人事(ひとごと)ではないことを、『現代史』は教えてくれる。世界のできごとが近所のできごとと変わらない時代がはじまっているのだ。
『現代史』はこれからさらに1980年代の世界を探索していく。もう一度、あのころを思いだしながら、少しずつ読み進めてみる。

nice!(5)  コメント(0) 

労働市場の形成──ヒックス『経済史の理論』を読む(7) [商品世界論ノート]

71nPfKaNpDL._AC_UL320_.jpg
 ヒックスは最初に「仕事」と「労働」を区別している。農民や役人、職人、商人、地主などは、それぞれの「仕事」をもっているが、労働者はそうではない。これにたいし、労働者の特徴は「誰かのために働く」ということだという。労働者は主にたいして「従者」の関係にある。
こうした主従関係は古代から存在した。
 古くから労働は交易の対象(すなわち商品)であり、そこにはふたつのタイプがあった。労働者がすっかりそのまま売られるのが奴隷制、用役(マルクスの概念でいえば労働力)のみが賃貸されるのが賃金支払制だ。
 ヒックスは奴隷制を論じるところからはじめている。
 古代から奴隷は、戦争捕虜や奴隷狩りの産物だった。奴隷はしばしば家内労働や家族の従者として用いられ、家族の一員として厚遇されることもなかったわけではない。しかし、概して奴隷の身分は低く、その主人によって自由に売買される存在だった。
 奴隷はまた店舗や仕事場で使用された。この場合、奴隷の待遇は、主人との関係性によって決まり、責任を与えられることもあれば、牛馬のように酷使されることもあった。運がよければ、事業をまかされ、解放奴隷となった者もいる。
 しかし、奴隷制の暗い面が噴きだすのは、もっぱら大規模に奴隷が使用された場合だ、とヒックスはいう。プランテーションやガレー船、鉱山で使用された場合は、奴隷には苛酷な運命が待っていた。
 近代のプランテーションでは、西インド諸島の砂糖農場やアメリカの綿花農場がよく知られている。南アメリカの鉱山では多くの奴隷がこきつかわれていた。
 ヒックスはこう書いている。

〈奴隷労働をもち、かなり大規模な企業を経営している奴隷所有者にとっては、奴隷は生産用具であって、他の一切の生産用具と同じやり方で奴隷所有者の計算の中にはいってくる。すなわち、近代の製造業者の機械に対する見方と同じである。〉

 奴隷が低廉なときには、奴隷は集団的に大量使用され、死ぬまで酷使され、市場で買い替えられた。ところが奴隷が高価になると、主人にとっては奴隷をだいじに扱うことが得策となり、奴隷の子どもを育てて、次世代の奴隷にすることも有用な選択肢となっていく。
 19世紀はじめに奴隷貿易は廃止された。その理由は、アフリカでの奴隷狩りがあまりにも残酷であるとともに、大西洋航路で失われる奴隷の数があまりにも多かったからである。だが、奴隷貿易が廃止されたあとも、奴隷制そのものは長いあいだ廃止されなかった。
 奴隷貿易の廃止により、奴隷の待遇は農奴並みに向上した。だが、奴隷制が存在するかぎり、奴隷は売られたり、別の地に移されることを免れなかった。家族がばらばらにされることも多かった。
 いっぽう「自由」労働市場も奴隷制が廃止される以前から存在した。人道的な問題は別として、効率面からみると、奴隷労働と自由労働とではさほど差があるわけではない。自由労働が奴隷労働にとって代わった理由は、自由労働のほうが低廉になったからにほかならない、とヒックスは断言する。
 奴隷労働には短期的維持費だけでなく長期的維持費もかかる。これにたいし自由労働の場合は、雇用契約期間が終了すれば、賃金を支払う必要がない。しかし、自由労働の供給が少なければ、賃金は上昇するだろう。したがって、次のようなことがいえる。

〈もし奴隷労働が豊富であれば、それは自由労働を駆逐することになり、逆に自由労働が比較的豊富であれば、それは奴隷を駆逐することとなる。両者は労働の供給源としては互いに競合的であって、両方ともに用いられるときには、一方の利用可能性が他方の価値(賃金ないし資本価値)に影響を与える。〉

 これが奴隷労働と自由労働との経済的選択の論理である。
 歴史的にみれば、ギリシア人やローマ人は戦争捕虜を奴隷としていた。カエサルやアウグストゥスの時代になると、奴隷労働は少なくなり、労働力は大部分が自由労働になった。中世になると、奴隷はさらに希少になり、自由労働制度が確立される。ふたたび奴隷制が活発になるのは、15世紀になってアフリカ航路が開かれてからである。
 西ヨーロッパでは中世以来、自由労働が基本となっていたが、都市の発達が農村人口を引き寄せたことはまちがいない。11世紀から13世紀にかけ西ヨーロッパでは急速な人口増加が生じ、農民の一部が働き口を求めて都市に流入した。
 かれらは商人階級になることをめざすが、昇進をはたせる人はごくまれで、たいていは臨時雇いや半雇いとなり、半ば労働者、半ば乞食の境遇に甘んじ、家庭をもつこともままならなかった。だからといって、もはや農村に戻ることもできない。すると都市は労働不足ではなく、労働過剰の状態におちいる。
 植民地時代のアメリカの場合は例外である。農業用の土地はふんだんにあった。そのため都市ではたらく労働者には高い賃金を払わなければならなかった。そうでなければ、たちまちかれらは都市を離れ、開拓農民として生きる道を選ぶからである。
 こうした特殊事情により、アメリカでは奴隷制度が自由労働制度よりも低廉となり、土地を開くにあたってはアフリカから大量の奴隷がつれてこられたのである。近代になって、奴隷制がふたたびあらわれたのは「ヨーロッパには奴隷に対する需要はなかったが、アメリカにはあった」からだ、とヒックスは記している。
 だが、いまは近代の産業革命以前にもう一度戻ってみよう。そのころ、西ヨーロッパの労働事情はどうだったのだろう。
 理屈上でいえば、産業革命以前でも手工業を含めた商業の発展は、労働需要を増やしたはずである。農村から人口が流入しても、都市では過剰労働が吸収され、労働不足となって、賃金が上昇していく局面がおとずれてもおかしくない。だが、そうした現象は生じなかった。
「当時の経済においては農業部門がきわめて広大な部分を占めていたために、商業に雇用される機会は、それが増大しているときですら依然として規模は小さかった」と、ヒックスは指摘する。
 ところで、一概に都市の労働力といっても、それは同質ではありえない。労働力の質が高く、希少であればあるほど賃金も高くなる。そして、より質の高い労働力をもつ労働者は安定した雇用と生活の保障を求めるようになるだろう。逆に都市プロレタリアートと呼ばれる低い等級の場合は、生活の保障もないし、賃金も低い。
 低級労働から高級労働まで、自由労働は等級別に構成されている、とヒックスはいう。低級労働から高級労働への移動は容易ではない。それを可能にするのは訓練と教育である。だが、それには費用をともなう。
 そうした費用が払えない場合の訓練・教育法としては徒弟制度が存在した。親方に束縛される徒弟は、奴隷の身分とさほど変わりない。かれらは厳しい徒弟期間をすごさなければならない。
 したがって、近代的な労働市場が生まれるのは「産業革命」をまたなければならない、とヒックスは論じている。

nice!(8)  コメント(0) 

日航123便に何がおこったのか──大世紀末パレード(7) [大世紀末パレード]

81ZVOhtj0qS._AC_UL320_.jpg81bwjgd-9RL._AC_UL320_.jpg
 1985年を語るうえで避けて通れない「大事故」がある。
 8月12日月曜日の18時、東京羽田空港を離陸して大阪伊丹空港に向かった日航ジャンボ機123便が相模湾上空で非常事態におちいり、群馬県上野村の御巣鷹山尾根に墜落したのだ。
 墜落位置の特定には時間がかかり、翌朝になってようやく判明した。地元の消防団員が機体を発見し、生存者の救助にあたった。乗客乗員524人のうち、生存者はわずか4人。犠牲者のなかには歌手の坂本九さんや阪神球団社長の中埜肇さんなども含まれていた。
 生存者発見の通知をうけた日赤の医師と看護婦が、警視庁のヘリコプターで現場に到着したのが12時13分。その後、自衛隊の救援ヘリが到着し、13時5分にようやく生存者の収容がはじまった。
 生存者は川上慶子さん(12歳)、吉崎美紀子さん(8歳)、吉崎博子さん(35歳)、落合由実さん(26歳)の4人だった。4人とも機体後部の座席に座っていた。
 事故原因については、その後、断片的にさまざまな報道がなされたが、しばらくたって、事故調査委員会が次のような結論を出した。
 事故機の機体は7年前に「しりもち事故」をおこしていたが、ボーイング社の修理がふじゅうぶんだったため、「後部圧力隔壁」に疲労亀裂を生じていた。その圧力隔壁が破壊されたため、機内に急減圧が生じ、突風が吹いて、垂直尾翼が吹き飛ばされ、機体のコントロールが不能になった。
 要するに、ボーイング社の修理ミスによる「後部圧力隔壁」の破壊が事故原因だというわけだ。そのとき、圧力隔壁ということばが頭にインプットされたことを、ぼくも覚えている。そして、ほとんどだれもが、公表された事故原因に何となく納得し、二度とこうしたことがないようにと、このとき犠牲になった人びとを毎年追悼するようになった。
 ところが、圧力隔壁破壊説に疑問をもちはじめた人がいる。みずからも日本航空の客室乗務員(当時の呼び名はスチュワーデス)を務めた経験のある青山透子さんである。彼女はこの墜落で何人かの同僚を亡くしている。
 圧力隔壁はほんとうに破壊されたのだろうか。これははたして「事故」だったのだろうか。
 彼女はこう書いている。

〈生存者の座席の位置は、最後尾周辺に集中している。特に当時、多くの人々の記憶に残った川上慶子さんは最後尾の列である。圧力隔壁の前にあるトイレを挟んだその座席は、乗客の中で最も後部圧力隔壁に近い位置だが、彼女は、頑強な垂直尾翼を吹き飛ばすほどの急減圧による空気圧の影響は全く受けなかった。現実に吹き飛ばされたわけでもなく、耳鼻咽喉もダメージを受けず、他の生存者を含めてみても、誰も鼓膜すら破れていない。〉

 事故調査報告では、修理不十分な圧力隔壁が壊れ、客室内を突風が突き抜けて、内側から垂直尾翼を吹き飛ばしたことになっている。
 ところが、川上慶子さんの事例をみても、客室内に突風が突き抜けた形跡はまったくみられないのだ。飛行機がコントロールを失って飛びつづけるあいだも、乗客は座席についたままで、心を平静に保ち遺書を書き残した人もいる。
 飛行機が異常な爆発音をとらえたのは、伊豆半島と大島のあいだを飛行していた18時24分39秒のことだという。このとき急減圧は生じていない。急減圧が生じたなら機内で爆風が発生し、物が飛び散り、人も飛び上がり、鼓膜も破れたはずだが、そうした事態は生じていない。
 だが、すでにこのとき垂直尾翼は吹き飛ばされていた。垂直尾翼を失った飛行機が操縦不能になることは容易に想像できる。機長は無事に着陸することだけを願って、必死に操縦桿を握っていた。御巣鷹の尾根に墜落したのは18時56分のことである。
 事故の原因は圧力隔壁が壊れたことだとされるが、それはあくまでも経過説明の(しかも根拠の乏しい)仮説であって、垂直尾翼が吹き飛んだことこそが致命的な問題だった。たとえ圧力隔壁が壊れたとしても、そのとき生じた内圧で垂直尾翼が吹き飛ぶとは考えにくい。もし、そんなものすごい内圧が生じていたなら、最後部の座席に座っていた4人も機外に飛ばされていたかもしれない、と青山さんは指摘する。
 じっさいには何がおきていたのか。いちばん可能性が強いのは、垂直尾翼が「外力」によって破壊されたということである。その垂直尾翼は相模湾に落下し、現在も一部しか回収されていない。
垂直尾翼を破壊した「外力」とはいったい何だったのだろう。
 相当大きな破壊力をもつものがぶつからないと、頑丈な垂直尾翼がこわれるはずはない。しかも、損傷を受けたのは、垂直尾翼の横側である。
 隕石がぶつかったという説は却下される。なぜなら真横から隕石が当たるとは考えにくいからだ。
 いちばん可能性が高いのは、空中を飛ぶ何かの物体が、垂直尾翼の側面にあたったということである。ひょっとするとミサイルだったのではないかという疑念がわく。
 青山さんによると、日航123便が墜落した日には、防衛庁が護衛艦「まつゆき」の試運転を実施していた。自衛隊と米軍との合同訓練がおこなわれた前々日には、国産ミサイルのモデルとなった米国製ミサイルが飛ばされたという記録がある。すると、日航機が墜落した日も、何かのミサイル実験がおこなわれていたのではないか。
 どこから発射されたかは別として、「練習用のオレンジ色の物体[模擬ミサイル]を誤って発射させて外力を発生したことによって垂直尾翼が破壊され、それが墜落の原因を作った」と、青山さんは確信するようになった。
 しかも、当日は「航空自衛隊戦闘機のファントム2機が墜落前の日航機を追尾したことが目撃されて」いた。米軍も情報をつかんでいた。墜落現場はすぐに特定できたはずだ。にもかかわらず、それが発表されず翌朝まで延ばされ、人命救助が遅れた背景には、自衛隊による何らかの隠蔽工作があった可能性が否定できない、と彼女はいう。
 後部圧力隔壁破壊説には大きな疑問が残る。日航123便墜落「事故」の真相はまだ謎に包まれているのだ。

nice!(11)  コメント(1) 

農業の市場化──ヒックス『経済史の理論』を読む(6) [商品世界論ノート]

71nPfKaNpDL._AC_UL320_.jpg
 ヒックスはこんなふうに書いている。
 土地・労働という生産要素、農業・工業という生産形態は、いつの時代にも生産に不可欠なものだ。しかし、それらは当初、市場に包摂されているわけではなかった。市場と金融はあくまでも商人経済の産物だった。土地と労働、農業と工業が市場化(さらには金融化)され、土地市場、労働市場、農業市場、工業市場が生まれると、近代が誕生し、いわば「商品世界」が形成される。
 そうした全体の流れを頭にいれておくとして、今回のテーマは農業の市場化である。
 近代以前の農業は領主−農民体制のもとに成り立っていた。領主は土地を支配し、農民は土地を耕しているが、領主と農民は互いに相手を必要としていた。たとえ農民にかかる負担が大きかったとしても、農民はその見返りとして何かを得ていたのだ、とヒックスはいう。
 その何かとは端的にいえば保護である。農民は村落をつくり、労働を投入して作物をつくるまで、多くの時間を必要とする。しかし、自己の労働の果実を、侵略者や盗賊から守るのは容易ではなかった。これにたいし領主が農民に与えるのは、家臣団による軍事的保護である。
 さらに地域内や隣接地域とのさまざまな紛争も解決されなければならなかった。領主はいわば防衛と司法の役割をはたしていた。その見返りとして、農民は領主に貢租を納めたというわけだ。
 問題は、こうした領主−農民体制に市場がどのようにして入りこんでいったのかだ。その第一歩は農民と行商人との交易だろう。もっと重要なのは領主自身の交易だ。領主と農民は、この地には産しない商品を求めて、行商人との交易をはじめる。
 交易は貨幣があればより便利だろう。領主も農民が貢租を物納でなく貨幣で収めてくれれば手間が省ける。貢租を貨幣で収めるためには、農民が農産物を商人に売って、貨幣を手に入れなくてはならない。そして、その一部を手元に残し、残りを領主に収めるかたちにすればよい。
 農産物が売られるようになると、農業市場が生まれる。しかし、そのうち、農民の貢租に頼るのではなく、耕作地の一部を自分のものとし、直轄地をつくろうという領主がでてくるかもしれない。すると領主はこの直轄地に農民を集め、市場向けの商品をつくらせるようになる。ここでは農民はより身の安全を保障されるものの、領主に直属する「農奴」となっていく。
 それでも領主−農民体制はまだ崩れていない。同じ領地のなかでも領主直轄地ではない農地を耕す農民も多い。農民は市場と関係をもつようになっても、土地と密接に結びついている。
 この時点ではそもそも土地所有権は確立していない。領主も土地に権利をもっており、農民も土地に権利をもっているのだ。
 国王の命令によって領主が変わる場合もあるかもしれない。しかし、その土地は売買されるわけではない。
 領主が商人からより多くの金を借りたい場合はどうだろう。土地の権利は慣習的なもので、もともと担保価値は低い。それでも無理やり土地を担保にして借入をおこなおうとするなら、領主は一定の土地にたいするみずからの財産権を主張する必要に迫られる。
 担保は所有権の移転、すなわち事実上の売却へとつながる。だが、領主が一部の土地を売却し、土地の所有者が変わったとしても、だれかがそこを耕作しなければならない。農産物を生みださない土地は価値がないからである。
 新たに土地財産を手に入れた者は、農民と契約して貨幣地代を受けとる。それに違反する場合は農民に立ち退きを迫らなければならない。だが、そうした取り決めは紛争のもとともなる。
 新たな土地所有者は、農民に年限を決めて土地を貸すこともできる。ここでは借地農業経営が成立する。
 14世紀のヨーロッパでは、黒死病の流行により人口が減少した。それにともない、農民が離散する。こうして、地代の減少と賃金の上昇が生じると、多くの領主が財政困難のため、農地を手放すようになった。その農地を買い取ったのは、農民であり、これにより自由農民制への移行がはじまる。
 いっぽう、貴族からの借地による直接農場経営が、賃金労働者を雇い入れるかたちで、より合理的におこなわれるようになる。
 そのどちらもが、旧来の領主−農民体制を崩していくことになる、とヒックスはとらえている。
 だが、東ヨーロッパでは人口の減少が、これとは逆の事態を招いた。すなわち農民の土地へのしばりつけが強制的におこなわれたのだ。ここでは農民はふたたび「農奴」化されることになる。しかも、この抑圧体制は長きにわたって維持された。
 ここでヒックスは農業の市場化が同時に法と秩序の浸透をともなっていたことを指摘する。すると、これまで農民を保護していた領主の役割を「国家」が引き継ぐことになる。
 権力が領主から国家に移るさいには革命が生じることがある。革命が生じなくても、権力の移行によって貴族は飾り物と化し、自分たちの所有地から生計を支えるだけの収入を得るだけの存在になっていく。
いずれにせよ、近代においては実質的に国家が領主にとって代わるという事態が生じるのだ、とヒックスはいう。
 だからといって、国家と領主の役割が変わるわけではない。国家は農地改革をおこなうことによって、農民に農地の所有権をもたせる場合もあるし、逆に国営農場制度をつくり、その農地に農民を帰属させる場合もある。だが、いずれにせよ国家は農地の保護者として、租税を請求する権利をもつようになる。
 農業は自然の影響に左右されるため、農業経営者による決定が重要な役割をもっている。ただし、国営農場の場合は、どのような作物をつくるか、それをどのように販売するかの決定は、現場の経営者によってではなく、もっと上でなされる。それが往々にして大きな齟齬をきたす。
 借地農は自作農と同じく、独立農場経営者とみなされる。しかし、同じ借地農でも、プランテーションの場合は、その意思決定は所有者との契約に縛られることになる。
 独立農場経営者は、市場向けの農産品を生産し、それをできるだけ多く売らなければならない。地代や租税、負債など対外的な支払もあるからだ。独立農場経営者の経営規模は概して小さい。そのことは資本の不足につながる。
 土地の改良や農業機械への投資は多額の費用を要する。農産物の産出量はかならずしも安定しているとはいえない。自然災害による悪影響も考えられる。市場価格も変動しがちだ。こうした事態に備えるためにも、資本が必要になってくるのだが、資金を借り入れようとしても、土地は不確実な担保にしかならないため、しばしば高利貸に頼ることになり、これまで農民は大きな債務負担をかかえることが多かった。そうした農民の窮状を救おうとしたのが農業信用組合や土地銀行だ。
 いっぽうで、地主が資本を十分にもっているなら、地主が自分の小作人を助けるというケースも考えられた、とヒックスはいう。これはとりわけイギリスの大地主の場合だ。かれらは大きな土地にたいし、資本を長期投資し、生産性を改善する技術を導入することによって、農業からの収益を確保しようとした。
 だが、その場合ももはや領主―農民の関係は存在しない。農業経営者のために資本の供給を保証するのは国家である、とヒックスはいう。
 さらにこう指摘している。

〈今世紀に非常に多くの国々の農業を変えた技術改良によって、農業に従事する人々の割合が減少しつつあることは周知のことがらである。かつてはすべての経済的職業のなかで首位であったものが、いまや他の職業と同様に、一つの「産業」にすぎなくなろうとしている。これらの技術改良がもたらしたもう一つの帰結は、一人の農業経営者がうまく管理できる(少なくとも算出量で計った)単位の規模が著しく大きくなったことである。……さらにもう一つの帰結は、大きな農地の管理が昔に比べて容易になったので、従属農場経営が相対的に有利になったことである。〉

 市場化は農業を大きく変えていった。市場化の進展は領主支配を崩し、それに代わって、国家が大きな役割をはたすようになる。それとともに、農業はひとつの「産業」になっていく。こうした過程をヒックスはえがいたといえるだろう。

nice!(8)  コメント(0) 

ちっちゃな大論争(2)──大世紀末パレード(6) [大世紀末パレード]

81i25IWrmIL._AC_UF1000,1000_QL80_.jpg
 1985年1月から4月にかけ、吉本隆明は雑誌「海燕」で埴谷雄高と論争をくり広げた。
 論争の後半で、埴谷は84年9月21日号の雑誌「an an」に掲載された、最新ファッションをまとった吉本の写真に衝撃をうけた。
 埴谷はこう書いている(数字は算用数字で表記した)。

〈最初の写真には、多くの書物に囲まれた広い書斎で、16,000円のセーター、13,800円のダンガリーシャツを着ながら原稿を書いているあなたの横向きの姿が写されていますが、この書斎の天井から垂れているシャンデリアもテーブル、ランプも豪華だと思いながらも、あなたの勉強ぶりに感心しこそすれ、苦言などありません。私が衝撃をうけたのは、次のページの写真でした。〉

 埴谷が衝撃を受けたというのは、外の感じのよい建物を背に腰掛け、微笑する吉本のもう1枚の写真だった。光の関係で、吉本の背後にはまるで後光が射しているかのようにみえた。

〈そして、そのとき、あなたは、62,000円のレーヨンツイードのジャケット、29,000円のレーヨンシャツ、25,000円のパンツ、18,000円のカーディガン、5,500円のシルクのタイ、を身につけ、そして、足許は見えませんけれど、35,000円の靴をはいています。このような「ぶったくり商品」のCM画像に「現代思想界をリードする吉本隆明」がなってくれることに、吾国の高度資本主義は、まことに「後光」が射す思いを懐いたことでしょう。
 吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に「火事場泥棒」のボロ儲けを重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、「ぶったくり商品」の「進出」によって「収奪」を積みあげに積みあげる高度成長なるものをとげました。〉

 左翼の理念をかかげて冷たい皮肉を放つ埴谷の「苦言」に、吉本はことこまかに反論した。
 いま自分が住んでいる家はお寺の借地に建てられた建売住宅で、もとからついていたシャンデリアのぶら下がった応接間を仕事場の書斎に転用しているだけだ。家の広さは埴谷邸の半分もなく、そこに家族4人がくらしている。それをあたかもぜいたくなくらしをしているように記すのは、「最低のスターリン主義者」の卑しさを示す以外の何ものでもない。
 じっさい、売れっ子評論家とはいえ、ほとんど筆一本でくらしている吉本の収入は、ベストセラー作家などとちがって、さほど多くはなかっただろう。もっとも、その点は埴谷も同じである。
 さらに吉本は自分の身につけているものがいかに高価なものかを強調する視線の卑しさに、スターリン主義的な(あるいは毛沢東思想的な、といってもよいが)理念がまとわりついていることを感じた。
「アンアン」で吉本が披露したのはコム・デ・ギャルソンの紳士服だった。ここで、吉本はコム・デ・ギャルソンを主宰する川久保玲のファッション・デザインが世界最高水準をもつ、いかにすぐれたものであるかを強調する。そして、そのモデルを務めた自分に「苦言」を呈する埴谷に、資本主義企業のつくりだす商品それ自体を否定する左翼の類型的視線を覚えるのだった。
 吉本はどこか「アンアン」をさげすんでいるようにみえる左翼インテリの埴谷をさとすように、こうも述べている。

〈「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOL(貴方に判りやすい用語を使えば、中級または下級の女子賃労働者です)を読者対象として、その消費生活のファッション便覧(マニュアル)の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感とは逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。〉

「アンアン」に載っているような商品は、あくまでもあこがれであり、目標であっても、それを楽々と買えるOLは少なかっただろう。それでも、レーニンやスターリンの唱える「社会主義」のもとでは、「アンアン」のようなファッション・マニュアル誌の存在自体が認められなかったはずである。
 ここで吉本は、いまや大衆がみずからを「解放する方位」は、スターリン主義的な「社会主義」の「まやかしの倫理」の先にではなく、資本主義の転位する延長上にあるはずだ、とはっきり宣言している。先進資本主義「国」の労働者が豊かな生活ができる賃金を確保しつつ、週休3日制を獲得できる方向をめざさなければならない。そのときこそ、むしろ資本主義の延長に、自由な社会主義という理想が実現されるというべきではないか。
 吉本は「日本の資本制を、単色に悪魔の貌に仕立てようとして」いる埴谷にレーニン-スターリン主義に同調する「まやかしの偽装倫理」を感じた。そして、現在克服すべき思想的課題は、資本主義そのものよりも、ポルポトによる虐殺や反対派への弾圧などをもたらしているレーニン-スターリン主義的な社会主義の側にあると考えていた。
 ここで吉本は「重層的な非決定へ」をみずからの理念としたいと述べている。それはどういうことか。
 埴谷は、経済進出する日本を「悪魔」と呼んでいる「タイの青年」をもちだして、ファッション雑誌に写真姿をさらしている吉本のていたらくを非難した。それは「疑似倫理」にもとづくあまりにも短絡的な思考だ、と吉本は反論する。資本主義にも否定面がないわけではない。しかし、自然破壊や公害、環境問題など資本主義を批判する材料をかき集め、ひっくるめて資本主義そのものを「悪の根源」とする決定論的なやり方は空虚だと論じた。
 はっきり言ってしまうと、ここで吉本はマルクス主義的な決定論(決めつけ)から脱出しようとしていたのである。そこから「重層的な非決定へ」という視座が打ち出される。

〈私の場所からみえる「現在」は、モダンやポスト・モダンに単層的に収束できるようにおもわれないのです。ここでは「重層的な非決定」がどうしても不可避であるようにおもわれてなりません。……破片はどれも浅薄で取るにたりないものですし、核心というのもそれを寄せあつめたガラクタにしか視えないかもしれません。でもそれで「現在」が終りだとおもったら間違うようにおもわれます。〉

 いまおきている諸現象を、外在的な物差しではなく、内在的、かつ重層的にとらえていかなければならない。
 とはいえ、これ以降、吉本が反「社会主義」の立場をむしろ決定的にしていったのは確かである。そのぶん、資本主義には甘くなった。じっさい、日本資本主義は1980年代をピークとして、吉本の期待した「超資本主義」に転位することなく、低迷をつづけることになる。

nice!(8)  コメント(0) 

国家の財政基盤──ヒックス『経済史の理論』を読む(5) [商品世界論ノート]

71nPfKaNpDL._AC_UL320_.jpg
 第6章「国家の財政」を読んでみる。
 ここでは都市国家を引き継いだ近世(ヒックスのことばでいえば「中期の局面」)の領域国家としての「君主国家」が、常に財政危機に悩まされ、それを克服する過程で近代の「国民国家」へと変成していく内的必然性が論じられている。
 近世の君主国家は常に貨幣不足を経験していた、とヒックスはいう。このことは王が困窮していたことを意味している。そのため、王は身近なところから財産を没収しようとして、たびたび内乱を招いた。
 王が困窮していた原因は、租税収入が慢性的に不足していたからである。王の財政は農業に依拠していたが、近世にはいると商業が国富の大きな部分を占めるようになる。ところが、王は商人階級の富を完全に捕捉することができなかったため、商人階級への有効な課税ができなかったのだ、とヒックスはいう。
 たとえば、商品の取引にたいしては、二、三の港で関税を徴収することができた。だが、それは全体のごく一部を把捉したにすぎず、しかも徴収に手間もかかった。かといって、直接税として所得税をとることもむずかしかった。効率のよい所得税のための条件ができたのは、ごく最近のことで、近世においてはまだ所得という概念すら普及していない、とヒックスは記している。
 商人の利潤を把握して、それに課税する仕組みもできていなかった。それがようやくできるようになるのは、ひとつに有限責任会社、すなわち株式会社が登場してからである。株式会社には利潤を確定し、そこから配当金を支払う義務がある。利潤が確定されると、課税が可能になる。
 所得税がないときは財産税に頼らなければならないが、そもそも財産の大きさを評価するには煩雑な作業を必要とした。そのため、それは(たとえば日本における検地にしても)頻繁にはなされず、過去の評価に頼らざるを得なかったため、いくらでも課税を逃れる抜け道があった。
 そのため、近世の政府は必要とする税収を確保することが、きわめて困難だった、とヒックスはいう。徴収は手間がかかるだけでなく、きわめて不公平だった。しかも支配者が新しい税を課そうとすると、「暴君」への反乱を招く恐れすらあった。アメリカ独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件(1773年)もそのひとつだったといえるだろう。
 とはいえ、政府の支出はたえず増大していく傾向にある。とりわけ戦争のような非常事態が生じたさいには、王は臨時的な支出を工面しなければならなかった。そのために取られた方策が借入にほかならない。
 借入はいわば国家にたいする無担保融資である。だが、近世の国家には概して信用がなかった。返済期限がきても王が返済を拒否することはじゅうぶんに考えられ、じっさい王はしばしば借金返済をボイコットした。
 すると、次に考えられるのは、国家にたいする担保貸付である。実際に、戴冠式用の宝石類や土地財産(王領地)、あるいは徴税請負権が「質」に取られることもあったという。さらに国家への貸付にたいしては、債権者の将来の課税を免除するという特権を付与する場合もあった。
 その結果、貧者は依然として税を支払い、富者は大部分の税を免れるという状況を招くことになる。フランスの君主制が崩壊した背景には、こうした財政の末期的症状がみられた、とヒックスは指摘する。
 だが、国家の財政を満たすほかの手段は考えられなかったのだろうか。王は貨幣の鋳造権をもっていたのだから、それを活用して、貨幣供給を操作することもできたはずだ。じっさい王はそれを試みた。
 貨幣の供給は、金・銀貨の時代には貨幣鋳造所に送られてくる金属の供給に依存していた。近世のヨーロッパでは、すでに王は収入の大部分を貨幣で受けとるようになっていた。その貨幣を王は鋳造所に回し、さらに卑金属を混ぜて改鋳し、貨幣の量を増やすことができた。
 金属の最大の供給源は商人だった。交易をおこなう商人のもとには貨幣だけではなく金や銀そのものが集まっている。商人たちは摩耗した鋳貨や金銀の地金を王の貨幣鋳造所にもっていき、手数料や税を払って新しい貨幣を受けとった。政府はそれによって収入を得たが、そのさいあまりに貨幣の品質を落とすならば、商人による金属の供給そのものが途絶えてしまう恐れがあった。
 それは主に国際的に通用する大「通貨」、すなわち正貨について言えることである。だが、国内だけで通用する地方通貨に関しては、それを「法貨」とすることで、かなりの悪鋳が可能だった。そのため、政府は非常事態にさいしては、補助財源を確保するために、地方通貨の操作をおこなったという。
 だが、大量の悪鋳がおこなわれれば、貨幣供給量が増え、物価が上がり、インフレーションが生じる。それによって政府の収入も増えたことはまちがいないが、インフレーションは政府収入の実質的価値を減少させたから、インフレ政策は結局のところ、政府を弱体化させることになった。
 つまり、政府が支出増に対応するには、商人からの借入も貨幣の改鋳も抜本的な対策になりえなかったということだ。
 近世の国家にくらべると、近代の国家ははるかに強力な財政基盤をもつようになった、とヒックスはいう。どうしてか。
 ひとつは政府が政府の借入を短期間ではなく、長期間のものとし、年利を保証することによってである。これにより、比較的信用の高い借入制度(国債発行)が導入されるようになった。
 より重要なのが銀行制度の発展である。銀行はこれまでも商人間の金融を仲介する役割をはたしていたが、それがより信用度の低い国家への貸付をおこなうようになると、逆に国家は銀行を保護せざるをえなくなる。最終的には中央銀行の設立へと向かっていくことになるだろう。
 銀行は預金を受け入れるとともに、小切手や手形を発行するようになる。これによって銀行は実質的に貨幣(紙幣)を生みだすことができるようになった。
 ヒックスはこう書いている。

〈重要なのは、貨幣創出の経路が銀行によって提供されていることである。「国家」が自分自身の通貨で表わされている負債の支払を履行しないという危険はもはやなくなる。「国家」はいつでも銀行制度を通じて借入を行なうことが可能となったからである。〉

 中央銀行による紙幣の発行は、金融の幅を広げるとともに、国家による貨幣供給の統制を可能にした。それにより国家は「貨幣に対する支配力」をもつことになり、政府の財政基盤はより強化されるようになった。
 だが、もうひとつ肝心なことが残っている。それは国家が課税力を著しく強化したことである。いまや国家は所得税、利潤税、販売税、それに相続税、固定資産税などの財産税をも収入源とするようになっているが、それらはすべて金融の発展、すなわち貨幣による評価が可能になったからこそである。
 財政基盤の強化は、強力な行政を生みだす。大規模でこまかい行政は、金を投じないかぎり実現できない。ヒックスは「産業革命」になぞらえて、これを近代における「行政革命」と名づけている。
 歴史的にみれば、もともと商人経済は政治的権威から逃避する傾向をもっていた。しかし、近代の特徴は、国家が商人経済を基盤としながら、商人経済を統制することができるようになったことだ、とヒックスは論じている。

nice!(9)  コメント(0) 

ちっちゃな大論争(1)──大世紀末パレード(5) [大世紀末パレード]

81i25IWrmIL._AC_UF1000,1000_QL80_.jpg
 そのころ吉本隆明と埴谷雄高(はにや・ゆたか)のあいだで大論争がくり広げられた。
 全共闘の端っこにいたぼくにとって、吉本、埴谷といえば、あこがれの思想家、文学者で、その思いは中年サラリーマンになっても変わらなかった。
 1985年春、そのふたりが、じつにくだらないと思われることをきっかけに、大論争をおっぱじめるのだ。吉本はその論争をへて、みずから定めた方向性を「重層的な非決定へ」と名づけ、それをタイトルとする重厚な単行本を出版する。
 ことの発端は前年に岩波書店から、大岡昇平と埴谷雄高がふたりの対談集『二つの同時代史』を刊行したことにある。そのなかに60年安保で全学連とともに闘い、警察に逮捕された吉本をからかった部分があった。
 その部分を引用しておこう。

埴谷 吉本も押し出されて敗走したんだが、追われた道路のはしでやっと塀を越えて逃げ込んだところが警視庁の中だったんだ(笑)。それで吉本は捕まっちゃったんだが、それを花田清輝は戯文詩に書いた。「逃げた先が警視庁」というようにね。花田も、吉本・花田論争をまだ根にもっていてね。
大岡 あれはおもしろいね、ケチのつけ方が。吉本はスパイで、だから警視庁の玄関から降りて来た、とかね(笑)。
埴谷 そうだったかな。
大岡 釈放されて出てくるんなら、玄関から出て来たっていいと思ったけれどね。あの論争は、ちょっと花田に分がなかったからな。

 文学界の巨匠といえる大岡と埴谷のふたりが、60年安保での吉本の闘いぶりがいかにドジなものであったかをからかっているようにみえる。
 こうしたからかいにたいし、吉本は内心怒った。あのとき、全学連とともに安保闘争を必死で闘った吉本は、国会周辺で機動隊から襲撃され、素手のままぬかるみと暗黒のなかを潰走した。そして、三十数名の学生、市民とともに、警視庁の構内に追い詰められ逮捕されたのである。けっして、笑える話ではなかった。
 加えて、埴谷は、1956年から60年にかけて吉本と花田清輝とのあいだで繰り広げられた(文学者の戦争責任などをめぐる)論争で押され気味だった花田が、戯文詩のなかで、吉本の「逃げた先が警視庁」と皮肉ったことを紹介する。それにおいかぶさるように、大岡が、花田は吉本がスパイで警視庁からでてきたとまで言ってるぜ、と知ったかぶりの発言をした。
 花田が、吉本は警視庁に逃げこんだなどと諷刺したのはまちがいない。しかし、吉本がスパイなどといった発言をした事実は確認されなかった。日本共産党が全学連をおとしいれるために、全学連主流派(共産主義者同盟)はスパイで、だから警視庁に逃げこんだという作り話を流していたことは伝わっていた。だからといって、花田が吉本は警視庁のスパイなどと評したことはなかったのだ。
 実際には吉本は6月15日に(警視庁への)「建造物侵入現行犯」の疑いで逮捕され、高井戸署に移され、数日にわたる取り調べのあと釈放されている。警視庁の玄関から降りてくること自体ありえなかった。
 吉本は大岡昇平と埴谷雄高、並びに版元の岩波書店に、花田の発言とされる事実誤認を訂正するよう求めた。
 埴谷と吉本とのあいだで「論争」が巻き起こったのは、それからである。埴谷が雑誌「海燕」に二度の公開書簡を発表したのにたいし、吉本は同じ誌上で二度にわたり反論を加えた。
 そこで明らかになったのは、吉本と埴谷の立場(考え方)が完全にわかれつつあったということである。
 埴谷は大岡の発言が不用意だったとエッセイに記すことで、ことを収めるつもりでいた。ところが、吉本はそれでは腹が収まらない。スターリズムと対決していたはずの埴谷が、1982年にヨーロッパへのアメリカの核兵器配備に反対する文学者の「反核宣言」に署名したことを蒸し返して、埴谷がレーニン-スターリン主義者の同調者に成り果てていると批判した。
 現在の「社会主義」国家がもたらしてきた現実は、理念にとはほど遠いものだ、と吉本はいう。ソルジェニーツィンの『収容所群島』、ソ連のアフガニスタン侵略、ポル・ポト派による大虐殺、中ソ国境紛争、中国・ベトナム戦争、さらにはポーランドの「連帯」にたいする鎮圧をみても、それは「ファシズムとおなじ国家社会主義のヴァリエーション」であって、その根底にはレーニン-スターリン主義にもとづく政治的暴力があると指摘した。
 さらに吉本は、大衆にとっては、現在の「社会主義」国よりも「先進資本主義体制」のもたらした成果のほうが、はるかに大きいと断言する。ソルジェニーツィンは「いま、われわれは、せめて資本主義のもとでプロレタリアートが享受している程度に、わが国のプロレタリアートに食べるものと着るものとを与え、余暇を恵んでやりたいと思うだけである」と述べたが、吉本はそのソルジェニーツィンに共感を示すようになっている。
 吉本が埴谷を批判するのは、スターリン主義を厳しく糾弾する埴谷のなかにレーニンの思想を称揚する古い左翼性が強固にこびりついているようにみえることだった。そこから話はレーニン批判へと移る。
 ここで取りあげられるのはレーニンの『国家と革命』だ。吉本はそれを執拗に批判しているが、ことこまかにそれを点検するのは気が重い。
 要点だけを記す。

〈レーニンがエンゲルスの国家観を集約した理念のうち、国家の本質規定である「だから、あらゆる国家は非自由で非人民的な国家である。」(『国家と革命』)は「現在」レーニン-スターリン自身の理念国家であるソ連国家をはじめ、あらゆる社会主義諸「国」や資本主義諸「国」の本質的な欠陥を照し出す鏡になっております。またレーニンの論理的な短絡と狭窄の産物である「国家」は「監獄その他を自由にすることのできる武装した人間の特殊な部隊にある。」(『国家と革命』)という理念の当然の報いとして、資本主義諸「国」よりも、もっと自由度の少ない、賃労働者(階級)の生活水準も低い「強制収容所その他を自由にできる武装した人間の特殊な部隊」であるソ連その他の社会主義「国」の権力を創り出しています。〉

 レーニンの国家論はきわめて幅の狭いもので、国家を暴力装置ととらえるものだといってよい。党が国家を領導することによって「国家」を乗り越えようとしたレーニンとスターリンの共産党が、まさに強制収容所などに代表される「非自由で非人民的な」監獄国家をつくりあげたことを吉本は批判した。
 さらに吉本は「革命やその世界の概念を、理念を仕込んだ支配したがりの、陰謀好きな知識人のせまく暗く、快活でない党派のものにしてしまった」のも、レーニンにほかならなかった、とも述べている。
 レーニン-スターリン主義の根本的な問題は、「正しい」思想をもつ唯一の党(指導者)が国家の上に立って国家を指導し、党に反対する者は徹底して排除していくという発想にあった。そうした考え方は、21世紀のいまも中国にかぎらず多くの権威主義的国家に引き継がれている。
 このあと、吉本と埴谷の論争は思わぬ方向に広がっていく。いわゆるコム・デ・ギャルソン論争である。長くなったので、そのつづきはまたにしよう。

nice!(8)  コメント(0)