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貨幣の力──ヒックス『経済史の理論』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 都市国家の時代はゆっくりと終わりに向かい、代わってスペイン、オランダ、フランス、イギリスなど、領域国家の時代がはじまる。
 しかし、都市国家を動かしていた商人経済はすっかり解体されたわけではない。ある意味ではそれはたしかに解体だった。ヴェネツィアはゴーストタウンになってしまう。だが、領域国家は商人経済を吸収することを忘れなかった。いまや商人経済を保護し、商業センターを発展させるのは「国家」の役割になる。その局面をヒックスは「中期の局面」と名づけている。
 ヒックスのいう「中期の局面」を、われわれは「近世」と呼んでもいいだろう。
「中期の局面」の特徴は、商人共同体の内部に限られていた商人経済が、いわば周辺にはみだしていくところに求められる、とヒックスは書いている。「従前の非商業的な周辺部分はさまざまな側面において、市場に対して開放的となる」
 すなわち領域国家が商人経済を取り込むことによって、国家のなかに市場が浸透していくことになる。やがて、国家が外部に拡張していくにつれて、市場も外部に広がっていくことになるだろう。
 ヒックスは近代(産業革命)以前の「中期の局面」(近世といってもよい)における市場の浸透を4つの分野にわたって考察する。すなわち貨幣(金融)、財政(国家)、農業、労働の4つの分野だ。これらの4つの分野はもちろん相互にからんでいるが、これをあえて4つに分けることによって、市場が浸透するプロセスがより明らかになってくる、とヒックスは考えている。
 これをいっぺんに説明するのは骨が折れる。そこで、きょうはテーマを貨幣(金融)にかぎって、第5章の「貨幣・法・信用」を読んでみることにする。
 貨幣はだいたいが鋳造された金属片で、国家によってつくられたもののように思われている。それはけっしてまちがいではないが、貨幣は鋳造貨幣がつくられる前から存在した。貨幣はそもそもが商人経済の創出物で、国家はそれを継承したにすぎない、とヒックスはいう。
 たとえば村落に商人がいるとしよう。かれはいつでも商品を仲介できるように交換性のある財貨を保存しなければならなかった。そして、保蔵と隠匿が容易で、しかも損耗しにくい財貨といえば、けっきょくは金や銀などの貴金属に落ち着くというわけだ。
 貴金属が「価値保蔵」機能をもつと、それは次第に均質化されて、「価値尺度」や「支払手段」としても利用されるようになる。国家が介入してくるのはこの時点だ。
 国家は貨幣鋳造所をつくり、金属貨幣に王の刻印を押すようになる。それによって、貨幣には保証が与えられ、より受けとりやすいものになった。最初、リュディアやイオニア(ともに小アジア)でつくられた鋳貨はたちまちのうちにギリシア世界に広がっていった。
 初期の金属貨幣は比較的大型のもので、これは貨幣が価値保蔵物だったことを示している。ところが紀元前5世紀ごろに支払手段として小型貨幣がつくられるようになり、さらに代用貨幣として青銅貨幣が登場すると、貨幣はより使用しやすくなった。ギリシアは次第に貨幣経済社会へと移行する。
 金属貨幣はギリシア世界の外部にも広がっていく。ペルシアからインド、バルカン諸国、さらにローマへと。ケルト人も貨幣を鋳造するようになった。商業が衰退すると、一時的に貨幣が使われなくなることもあったが、「商業活動が行われるかぎり、どこにおいても貨幣は恒常的に使用されてきた」と、ヒックスはいう。
 そして、貨幣は中世都市国家後の「中期の局面」(近世)においても継承された。王は貨幣を放棄しなかった。貨幣の鋳造によって、直接、間接に利益を得ることができたためでもある。加えて、貨幣を媒介とする交易は王にも多くの財貨をもたらしていた。
 都市国家のもうひとつの遺産が「法」だった、とヒックスは説明する。それは中国や日本におけるような商業を規制する法ではなく、むしろ商業を促進し、商人の権利を守る都市国家の法にほかならなかった。
 ローマ法は古代ギリシアでつくられた「商人法」を受け入れ、発展させた。ローマ帝国は貨幣による評価と支払いに依存していた。ローマ帝国が滅亡したあと、貨幣経済は収縮するが、完全に消えることはなく、やがて新しい都市国家の興隆がふたたび貨幣経済を盛り返し、同時に「商人法」も維持されることになる。
 都市国家が衰退し、「中期の局面」すなわち近世の領域国家の時代にいたっても、貨幣制度と法律制度は継承され、発展することになる。
 こうして貨幣と「商人法」を論じたあと、ヒックスが強調するのが、都市国家時代につくられた「信用」制度の継承である。
ルネサンス時代、貨幣は信用および金融と結びつき、その性格を変えようとしていた。
 古代ギリシア人とローマ人は利子を取ることに良心のとがを感じなかったが、キリスト教は利子をとることを罪悪と考えていた。しかし、いかなる時代も商業取引がおのずから金融取引に発展していくことは避けられなかった。
 当初、商品の取引は「代理人」に委託されていた。貨幣が普及するようになると、現物を委託するよりも、貨幣を貸し付けるほうが取引としてはずっと楽になる。
 貨幣の貸付によって債務者は負担を負う。債権者に元金を返済するだけではなく、利子も支払わなければならないからである。債権者は債務不履行の危険度が大きければ大きいほど、高い利子を求める。これはとうぜんのことだった。
 ギリシア・ローマ時代には、借金を払えない債務者は、制裁を受け、しばしば「債務奴隷」の地位におとされていた。だが、こうした残酷な制度に代わって、次第に貸付にたいして担保を求める慣習が定着するようになる。この場合、債務者は債権者にたいし、負債以上の価値を持つ物件を預託し、借金返済後にその物件を返却してもらうことになる。
 しかし、担保物件つきの貸付が成立する場合はごく限られている。そこで、物件を預託しなくても、抵当権を設定するだけで借り入れができる方式が生まれる。この場合は、貸付の担保は債権者の手にわたらず、債務者の手元に残され、債務不履行の場合にかぎって、債権者が担保を手に入れることになる。
 担保貸付にたいして無担保貸付も存在した。無担保貸付は貸し手にとって危険度が高いため、ふつうは高利がともなう。しかし、商人仲間のあいだでは、借り手の信用に応じて、質物や担保をとらずに、低い利子で貸付がなされる場合もあった。商人経済の発展にとっては、こうした信用にもとづく低利子の融資が大きな役割を果たした、とヒックスは指摘する。
 だが、信用を確保するには、相手の経営状態を知っているだけではじゅうぶんではない。そこで信用を拡大するため、保証人や金融仲介人が求められるようになる。銀行が登場するのは、こうした金融仲介を専業とする者のなかからだ。そのころキリスト教においても、ある程度の利子を認める考え方が定着するようになっていた。
 危険分散を可能にするには、加えて保険の導入が求められた。中世に都市国家を営んでいたイタリア人は、保険契約に精通していたことで知られる。14世紀にはすでに海上保険が存在していたし、万一の事態に備えるためのさまざまな方策も考え抜かれていた。
「中期の局面」としての近世は、こうした金融制度や保険制度を都市国家の経験から受け継ぐことになる。さらに加えて、証券市場や有限責任会社(株式会社)制度が確立されるようになると、「中期の局面」は終了し、「近代の局面」の展開がはじまる、というのがヒックスの基本的な見取図だといってよい。
 だが、先走るのはやめておこう。近代を語るには、その前提として、貨幣(金融)に加えて、国家(財政)や農業、労働の分野への「市場の浸透」を論じなくてはならないからである。

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プラザ合意と中曽根政権──大世紀末パレード(4) [大世紀末パレード]

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 あのころのことを少しずつ思い出してみる。
 薄らいでしまった記憶を導いてくれるのは、引きつづき吉崎達彦の『1985年』だ。
 1985年は戦後40年にあたる。1950年以降、日本は驚異的な経済成長を遂げ、この年までにGNPは80倍になり、一人あたり国民所得は50倍、輸出は140倍、輸入は90倍になった。自動車を中心に日本の対米輸出は増大し、1985年のアメリカの対日赤字は500億ドル近くまで膨らんでいた。
 当時、アメリカ大統領はロナルド・レーガン、日本の首相は中曽根康弘だった。日本の経済進出を受けて、アメリカでは「ジャパン・バッシング(日本叩き)」の動きが強まっていた。
 日本政府は大慌てで、外国製品輸入のキャンペーンを張る。4月20日には中曽根首相がみずから日本橋の高島屋を訪れ、開催中の「輸入商品フェア」で7万1000円の買い物をする。ところが、首相が買い上げたのはイタリア製のネクタイとブルゾン、フランス製のスポーツシャツ、孫のためのイギリス製ダートゲームで、肝心のアメリカ製品はひとつもなかったという笑い話が残っている。
 とってつけたような外国製品輸入促進策は、容易に進むはずがなかった。
 いっぽう「強いアメリカ」を標榜してレーガン政権が打ちだした「レーガノミックス」は、財政赤字と金利上昇、ドル高、貿易赤字を招いた。アメリカにとっては、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が大きな課題となっていた。
 日米通商摩擦が浮上する。これを解決するうまい手が考えられた。それが通貨調整だった。
 1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の財務大臣(大蔵大臣)、中央銀行総裁が集められた(日本からは竹下登蔵相が参加)。そして、わずか20分ほどの会議で、ドル安に向け各国が外国為替市場で協調介入をおこなうことが決定された。
 いわゆる「プラザ合意」である。
 プラザ合意の効き目は絶大だった。東京市場では合意前に1ドル=242円だった為替相場が、85年末には1ドル=200円まで上昇した。その勢いは止まらない。86年2月に相場は1ドル=180円をつけ、5月には165円、8月には154円となった。
 そうなると、これから先どうなっていくのかという恐怖が襲ってくる。日本政府は景気後退を予測して、強力な景気対策を打った。鉄道や道路を中心に大型のインフラ投資が発注され、1985年に5%だった公定歩合は87年2月までに2.5%まで段階的に引き下げられていった。それが結果的にバブル経済を生むことになる。株価と地価が急速に上昇していく。
 ここで中曽根政権について論じるべきなのだろうが、手元に詳しい資料がない。図書館に行くのも面倒だ(近くの図書館は改修工事のため9カ月近く休館になっている)。
そのため手近なところで、いつも世話になっている中村隆英『昭和史』の記述を借りることにする。
 中曽根康弘は、鈴木善幸首相が突然辞任したあと、田中角栄の率いる田中派の支援を受けて、1982年11月に総理の座についた。その政権は3次にわたり、1987年11月まで5年間つづくことになる。
 1985年はまだその中間期にあたっている。
 世界を眺めると、そのころアメリカではロナルド・レーガン(1981〜89)、イギリスではマーガレット・サッチャー(1979〜90)、フランスではフランソワ・ミッテラン(1981〜95)、西ドイツではヘルムート・コール(1982〜98)、中国では鄧小平(1978〜97)、韓国では全斗煥(1981〜88)、北朝鮮では金日成(1948〜94)、台湾では蒋経国(1978〜88)、フィリピンではフェルディナンド・マルコス(1965〜86)、インドネシアではスハルト(1968〜98)が政権を握っている。それこそ錚々(そうそう)たるメンバーだといってよい。
 そこにミハイル・ゴルバチョフが1985年3月にソ連共産党中央委員会書記長の座につくところから、世界史の激動がはじまる。
 複雑な国際環境のなか、中曽根が最重視したのが日米関係だったことはいうまでもない。首相就任から1カ月後、中曽根は韓国につづき、アメリカを訪問し、レーガン大統領に日米は「運命共同体」であり、日本列島は「不沈空母」であると語った。
 レーガンといわゆる「ロン・ヤス関係」を結ぶとともに、親米反ソの立場を鮮明にしたのである。三木武夫内閣が決めた防衛費のGNP比1%枠を突破し、防衛費増大を実現したのも中曽根だった。
 内政面では、中曽根内閣は、前内閣の臨時行政調査会答申を実行に移そうとしたといえるだろう。臨時行政調査会は財政再建と行政改革をめざして、鈴木内閣時代の1981年3月に設置され、経団連名誉会長の土光敏夫が会長を務めた。そのため「土光臨調」とも称される。
 戦後の赤字国債は1965年にはじめて発行され、2度の石油危機をへた1981年にいたって、その累積額は増え、80兆円を超していた(2023年現在は1068兆円)。このままの勢いでは増税が避けられなかった。
 だが、土光臨調はあえて「増税なき財政再建」を旗印にかかげた。
 答申は5次までおこなわれ、政府は徹底した行政の合理化と簡素化を求められた。
 その提言内容は、政府は「小さな政府」をめざし、(1)1984年までに赤字国債発行額をゼロにする、(2)コメ、国鉄、健康保険の3K赤字を解消する、(3)特殊法人を整理し、民営への移管をはかる、(4)省庁の統廃合をはかる、(5)国鉄、日本電信電話公社(電電公社)、日本専売公社を民営化する、などといった厳しいものだった。
 土光は答申がでたら、かならずこれを実行してほしいと政府に強く求めていた。
 しかし、と中村隆英は書いている。

〈しかし、政府側はいわば総論賛成各論反対の昔ながらの姿勢を変えず、各省庁はいずれも激しい抵抗を繰り返したため、行政機構の改革はほとんど実現しないままに終り、臨調の担当部局であった行政管理庁が解消されて総務庁に切り替えられた程度の改革しかできなかった。〉

 国債発行はつづく。行政改革もほんの小手先でしかおこなわれない。
 ただひとつ積極的に実施されたのが、公共部門、とりわけ国鉄、電電公社、専売公社の民営化だった。
 電信・電話事業を担っていた日本電信電話公社は1985年4月に民営化され、NTTグループとなる。タバコと塩の専売事業を担っていた日本専売公社も同じ時に民営化され、日本たばこ産業が誕生する。
 難関は国鉄の分割民営化だった。国鉄は自動車時代におされて、大赤字を抱えていたうえに、その内部では1970年以来、激しい労使間対立がつづいていた。
 分割民営化案にたいしては、国労や動労の組合側はもちろんのこと、国鉄幹部のあいだでも強い抵抗がみられた。
 その経緯を中村はこう解説する。

〈国鉄幹部は、民営化はやむをえないとしても全国一社体制を残そうと抵抗したが押し切られたのである。明治以来の国鉄がこのような形で終焉をつげたことは、政治家や特権企業が鉄道を食い物にしてきたこと、古い大家族主義の労使関係の破綻をはじめ多くの理由が指摘されている。そのいずれもが誤りではあるまいが、同時に、石油危機以後の古典的な自由経済論の復活が、その底流として存在したことを忘れるべきではないであろう。第二次石油危機のあとで発足した臨調は「小さい政府」の発想を打ち出し、大赤字を出しつづける国鉄を、ともかく民間企業として再編することに成功したのである。〉

 多くのコメントが必要かもしれないが、それはあとに回そう。
 いずれにせよ、国鉄分割民営化法案は難航したものの1986年11月に成立し、87年4月からJRグループ(6つの旅客事業会社と日本貨物鉄道)が誕生することになる。
 そして中曽根内閣は国鉄分割民営化を最大の功績として、1987年11月に「禅譲」によって退陣する。そのあとを継いだのは、田中派から抜けて、「経世会」を結成した竹下登だった。
 きょうはこのあたりで終わりとしよう。ぼんやりとしか覚えていなかったが、ほんとうにあのころはいろいろなことがあったのだと思う。

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都市国家をめぐって──ヒックス『経済史の理論』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 ここで都市国家の経済理論を述べてみたい、とヒックスはいう。モデルとされているのは、古代のアテナイだけではなく、中世のヴェネツィアやフィレンツェ、ジェノヴァなどだといってよい。
 都市国家の中核は、対外商業に従事する商人の団体である。商人たちは都市国家の外にある地域と取引をし、商人経済が都市国家を支えている。その意味で、都市国家はひとつの商業センターになっている。
 たとえばAという商品をもつA地域とBという商品をもつB地域があるとする。A地域は商品Bをほしがっており、B地域は商品Aをほしがっている。すると、都市国家の商人たちはA地域とB地域の仲立ちをすることによって利益を得、同時にA地域もB地域もみずからが持たない商品を手に入れることで潤うことになる。ただし商品A、商品Bが貢納によるものであるとすれば、利益を得るのは領民全体ではなく領主にとどまる可能性が強い。
 だが、通常、商業が拡大すると、その利幅は少なくなっていく。商人の利潤率は取引量に比して下落し、商業の拡大テンポも鈍っていく。そこで商人は新しい商品や新しい販路を求めて、商業の多様化をはかることを迫られる。
 一口に商業の多様化といっても、それは楽なことではない。そこで、都市国家が重要性を発揮することになる。都市国家は商人の取引に安全保障を与え、商業の多様化という困難な課題解決を後押しすることになる、とヒックスは書いている。
 商業が多様化するとしても、その拡大にはおのずから限界がある。だが、それにいたるまでに多くの余地が残されている。
 取引量が拡大するにつれて、組織が合理化され、その結果、取引費用が減少し、それによって商人の利益はむしろ増えるかもしれない。都市国家の拡大が全体の利益の拡大をもたらす可能性もある。商人数の増大は競争の激化をもたらすが、そのいっぽうで商業活動に一種の棲み分けをもたらし、商業をより効率的にすることも考えられる。
 商人経済の拡大と充実は危険の減少にもつながる。商業活動のありかたについての知識が深まり、無知に起因する損害を減らすからだ。取引が増えるにつれて、財産や契約を保護する制度も確立するようになり、さまざまな取り決めがなされるようになる。それが可能になるのは商業センターとしての都市国家が存在するからだ、とヒックスは断言する。
 また都市国家には海外に交易の根拠地を設け、植民地をつくるという強い誘因が存在することをヒックスは強調している。フェニキア人しかり、古代のギリシア人しかり、中世のイタリア人も地中海や黒海に植民都市をつくった。
 植民地がつくられるとなると、それは先住民や敵対者から守られなくてはならない。そのさい往々にして武力が発動されることになる。都市国家による植民地化は近代国家による植民地化とは大きく異なるが、それでも都市国家が植民地形成の初期モデルとなったことはまちがいない、とヒックスは考えている。
 都市国家は商業経済と植民地化によって、内的にも外的にも拡大していく。競争はより激化し、利潤率は下がっていくものの、組織はより効率的になるために、全体としての利益は拡大する方向にある。ただし、それを阻害するものがあるとすれば、地理上の新しい地域で、商品の新しい供給源が開発されたときである、とヒックスはいう(たとえばアメリカ新大陸の発見やインド航路の開発を考えてみよう)。
 だが、その前に商業の成長が限界に達する。

〈もし商人が既存の市場においてもっと効率的に営業するための新しい組織を発見することに失敗したり、新しい市場を発見したりすることに失敗すれば、価格がかれらにとって不利な方向に動いていくことに気付くだろう。というよりはむしろ、取引量を拡大しようとすれば、価格がかれらに不利な方向に動いていくという状況に達するであろう。〉

 もはや組織の効率化もできなくなり、新たな市場も開拓できなくなったときに、むりやり商品の販売量を増やそうとしても、値崩れをおこし、かえって利潤は減少してしまうという状況におちいってしまうのだ。
 それでも都市国家が依然として商業の拡大をめざすなら、都市国家どうしの戦争が勃発する。都市国家どうしの戦争がおこりやすいのは、「まさにこの時点、すなわち商業の成長が限界に近づきはじめる時」である、とヒックスはいう。古代ギリシアのペロポネソス戦争や、1400年ごろのジェノヴァとヴェネツィアの戦争の背景には、こうした商業的要因がひそんでいるという。
 しかし、都市国家どうしが協定を結んで、地域内で棲み分けるようになることも考えられないではない。すると、都市国家の指令のもとで、「商人は慣習的権利・義務の体系の中において、一つの地位を受け入れるようになっていく」。
 商業の拡大が停止したといっても、商業は衰退したわけではない。利潤水準は依然として高いが、利潤を拡大のために再投資しないことが、高利潤を維持するための条件となる。すると、市場の喧噪に代わって秩序がもたらされる時期がやってくる、とヒックスはいう。

〈拡大を特徴づけた活気は直ちには失われないであろうが、いずれ活気は商業の革新から去って他に向かわざるをえない。だが、安全の保障と富があるので、他の分野に転ずることが可能である。商業の拡大は知的刺激を与えていたが、それがもはや知的活力の対象となりえない時点にたちいたると、芸術は芸術のために、学問は学問のために追究することが可能となる。〉

 こうしてアテナイには芸術と学問が興隆し、フィレンツェやヴェネツィアにはルネサンスがもたらされた。「しかし、果実が熟れるときは常に秋なのである」。都市国家はその商業活力を失ったときに、最後の花を開いたあと、危機に陥っていくことになる。

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1985年の経済──大世紀末パレード(3) [大世紀末パレード]

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 少し経済の話をする。タネ本は引きつづき吉崎達彦の『1985年』だ。
 このころは経済指標としてまだGNP(国民総生産)が用いられていた。GDP(国内総生産)が一般的指標となるのは1990年代後半になってからだという。
 ちなみにGNPが1年間で「日本国民が」生みだした付加価値の総額をさすのにたいし、GDPは「日本国内で」生みだされた付加価値の総額を指すという説明は明解だ。たとえば日本企業がアメリカで稼いだ分はGNPに反映されるが、GDPには反映されない。
 1985年の『経済白書』は「新しい成長」の方向として、重厚長大から軽薄短小へ、ハードからソフトへという流れを打ちだしている。太平洋地域が経済成長していくことにも触れている。
1985年当時、日本の高齢化(65歳以上)比率は、まだ10%程度にすぎない(2023年現在は28.4%だ)。
 吉崎は「日本はまだ若い国だった」と書いている。
 国民年金法が改正されたのは、この年4月のことで、サラリーマンとその妻も国民年金に加入することが義務づけられた。こうして、いわゆる2階建ての年金制度ができあがる。
「白書」では、「人口高齢化と経済活力」の項が設けられ、年金と医療の負担が今後の課題となるとされていた。そのとおりとなった。
 だが、吉崎は「白書」が予想していなかったことがあったと指摘する。それが低成長、少子化、低金利だ。
 そのころは、まだ3.5%〜4.5%の経済成長がつづくと考えられていた。団塊ジュニア世代が成人に達すると出生率も上がると思われていた。金利はむしろ高金利になるとみられていた。
 それがことごとくくつがえる。
 ここで1985年の状況を示す統計をいくつか挙げておこう。

人口は1億2105万人(現在は1億2427万人/2023年)。
GDPは名目で329兆790億円(566.5兆円/2022年)。
GDP成長率は名目で6.4%、実質で4.9%の伸び(名目2.3%、実質1.5%/2022年)。
株価は年平均で1万3113円(2万6094円/2022年末)。
経常収支は12兆5731億円の黒字(11.4兆円/2022年)。
一般会計の歳出は52兆4996億円。国債依存度は22.2%(107兆5964億円、国債依存度は31.4%/2022年)。
国債残高は134兆円(1068兆円/2023年)。
労働力人口は5963万人(6667万人/2023年)。
為替レートは年平均で1ドル=200.6円(1ドル=119.1円/2022年)。
長期金利は6.582%(0.25%/2022年)。
外貨準備高は279億ドル(1兆2570億ドル/2023年)。
個人金融資産は495兆7385億円(2121兆円/2023年)。

 これを詳しく説明するときりがないので、やめておく。いまはイメージを膨らませるだけでいいだろう。経済は一見悪くないようにみえるが、その内実はかろうじて持ちこたえているというところか。
 1985年の経済について、吉崎はこう書いている。

〈日本経済はまだ元気一杯である。すでに2度のオイルショックを乗り切った。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」というお褒めの言葉まで頂戴した。なおかつ、プラザ合意以後の円高に耐える体力があったのである。今やかなり落日の感のある2005年の日本経済に比べると、1985年は「午後2時の太陽」とでもいうべき眩しさがある。〉

 この感想が記されたのは2005年のことである。それからさらに20年近くたったいまは、何といえばいいのだろう。日本経済はすっかり眠りについたと言い切るのはさびしい。エンジンを空ぶかしするものの、車は前に進まない状況に陥っているというべきか。
 それはさておき、1985年の状況に話を戻す。
 当時の総理府の「国民生活に関する世論調査」では、1985年の「お宅の生活程度」にたいして、「中の中」と答える人は53.7%もいた。「中の上」、「中の下」と合わせると、88.5%が中流意識をもっていたことになる。
 生活にたいする満足度は高かった。日本はいい国になったと思う人が増えていたのである。
 生活にたいする満足度は政治意識をも変容させる。
「中流社会の長期化と高い生活への満足度は、貧しさに不満を持つ人たちの気持ちを代弁してきた革新政党を弱体化させ、保守政党への支持を強めていた」と、吉崎は記している。
 1985年には茨城県つくば市のエキスポセンターで「科学万博」が開かれていた。ソニーのジャンボトロン、リニアモーターカー、そして数々のロボットショー。ぼくも子どもたちを連れて出かけたが、これといった記憶がないのは、すでに感性が摩滅していたか。
 とはいえ、当時は「ハイテク国家・日本」とか、「ニューメディア元年」ということばが世の中にあふれていた。
 電電公社が民営化されNTTと改称されたのもこの年である。任天堂のファミリーコンピューター、すなわちファミコンがヒットしはじめるようになる。わが家もとうぜんのようにファミコンを購入し、子どもたちは「スーパーマリオ」に熱狂しはじめるが、ぼくはまったくついていけなかった。
 そのいっぽうで、吉崎は「80年代半ば頃の日本は、もはや高度成長期のように、『作れば売れる』という時代ではなくなっていた」と書いている。トレンドなるものが重視され、マーケティングが盛んになる。
 コピーライターが花形職業となり、糸井重里らがもてはやされた。糸井の代表作が82年の西武百貨店のコピー「おいしい生活」である。消費者はもはや「おいしい」ものしか求めなくなった。百貨店業界はこのころまだ元気があった。
 ぼくの生まれた1948年のエンゲル係数は60.4%だった。それが1985年には25.8%まで下がっていた。
 ほとんどの家庭に冷蔵庫、洗濯機、掃除機、カラーテレビが行き渡るようになる。しかし、電子レンジ、ルームエアコン、VTR、ビデオカメラ、ステレオなどはまだ普及しておらず、乗用車もまだ完全に浸透していない。CDプレーヤーやワープロは登場したばかり。デジタルカメラ、DVDプレーヤー、パソコン、ファクシミリ、携帯電話はまだ市場に姿をみせていない。家電や電子機器の裾野は広く、乗用車への憧れもまだ根強かった。
 グルメ時代がはじまろうとしていた。マンガ『美味しんぼ』が大ヒットし、料理評論家の山本益博が脚光を浴びる。
 吉崎はこう書く。

〈思うに生活に余裕ができたとき、何におカネと時間をかけるかはそれぞれの国の文化によるのであろう。紋切り型の分類でいけば、イギリス人は住居を充実させて庭の手入れをし、ドイツ人は家具やクルマにお金をかけ、イタリア人はファッションにこだわる。どうも日本人の場合は、「食べること」が自然の選択肢になるようだ。〉

 うそがほんとかはともかく、類型的な比較としてはおもしろい。なるほどなと思わせる。

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市場の発生と発展──ヒックス『経済史の理論』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 市場はどのようにして発生するのだろうか。王国が存在し、そこに慣習的な農業経済がいとなまれているとする。そこに市場が誕生するとすれば、それはどのような経過をたどるか。ヒックスが想定するのは、そのような原初的な場面である。
 市場発生の前提となるのは、商業の専門化である。もちろん、人類の初期段階から交易は存在し、贈与のやりとりはあった。けれども、それは商業ではない。商人の登場こそが、市場発生のカギになるはずだ。
 そして、商人が商人になるのは、商品を手に入れるからである。だが、商人が山賊や海賊だったわけではない。
 市場が日常化する前には市(いち)があったと考えられる。それは祭の場からはじまり、やがて定期的に開かれる市となる。そこにやってくるのは農民たちだった。
 その農民のなかで豊かな者、あるいは商品(財貨)を多くもつ者が、商人に転化するというのが、商人の発生で考えられるひとつのルートである。そして、すぐに売れなくても、耐久的な商品を安全に保管し、いつでも売れるようにするところから、商店が生まれる。
 やがて、その商品は市にやってくる購買者の要望に合わせて加工されるようになるだろう。そうしているうちに市は発達し、商人の専門化もさらに進むようになる。
市が時間的に連続し、空間的にも広がり、多くの商人が登場するようになると、市場が誕生する。
 これがひとつのルートだ。
 だが、市場の発生には、もうひとつの道筋が考えられる、とヒックスはいう。
 それは王の経済から市場が発生する場合である。
 強大な王は近隣の族長から使節を受け入れ、貢ぎものを受けとる。それによって王は近隣地域との交誼を認め、返礼品として贈りものを渡す。
 そうした交易を実際に担うのは王の廷臣だ。だが、共同体間の対外交易(商品のやりとり)が定着するにつれて、廷臣は独立した商人へと転化する。廷臣が交易の報酬として、ある程度の利益を受けとる(そのためには商品が売られなくてはならない)ようになると、半ば独立した商人が生まれる。
 王の経済は対外交易にとどまらない。王室経済は貢租にもとづき現物で収められる、しかし、王室を支える者は数多くいる。多くの廷臣や軍隊は欠かせない。王室は専門技術をもつ数多くの手工業者や奴隷もかかえている。手工業者は王室だけではなく、次第に市場とのかかわりを深くしていくだろう。
 こうして王の経済のもとでも、対外商業と国内商業が合体して、相互に強めあい、市場化が促進されていくことになる。
 ヒックスはこう書いている。

〈メンフィスやテーベ[いずれもエジプト]、ニネヴェやニルムードやバビロン[いずれもメソポタミア]、長安や洛陽[いずれも中国]などの諸都市は、なによりもまず拡大された宮廷であって、王の従臣、そのまた従臣、さらにそのまた従臣が居住している点を十分考えるべきである。しかしながら、これらの都市に市場があったことについては疑いがない。〉

 こうして、これまでの慣習型経済、指令型経済のなかから、商人的経済が発生し、次第に独自の領域を占めることになる。
 商人経済は指令経済とちがって、上からの絶対命令的な計画にもとづくものではない。あくまでも個人主義的なものだ。だが、商人経済はけっして無秩序なものではなく、組織だっている、とヒックスはいう。
 市場は一種の集会であり、市場が維持されるには一定の秩序が求められる。そのため、政府の保護が必要になってくるだろうとも書いている。
 暴力にたいして財産が保護されなければならないのはいうまでもない。だが、市場において、それ以上にだいじなのは、商人の所有権が確認されることで、それを抜きにしては買い手との商品取引は成り立たない。
 売買契約が成立すると、買い手にたいし商品の所有権の移転が約束される。こうした契約は保護されなければならない。万一、不測の事態が生じた場合にも、それにどう対処するかが双方で合意されているなら、交易は持続し、促進されることになる。
 商人と非商人のあいだならともかく、商人と商人のあいだでは、こうした合意が成立しやすい。しかし、商人間でも商品の取引については、誤解や詐欺がおこらないとも限らない。その場合には紛争が生じるが、契約を保証するためには法的な諸制度が必要になってくる。
 商人経済が定着するには財産の保護と契約の保護がなされなければならない。だが、伝統社会においてはそれは期待できなかった、とヒックスは書いている。
 とはいえ、商人どうしで、ある程度の約束は可能だったし、また、そのために商人どうしが結束することもできた。さらに、第三者の商人によって契約のなかに仲裁条項を含める場合もあったという。
 だが、最終的には国家による法体系の確立が求められた。その点で、市場は国家と無縁に発生したわけではなく、国家による承認や保証とけっして切り離せなかったというのが、ヒックスの見解である。
 国家と市場との関係には紆余曲折があった。たとえばといって、ここでヒックスが例に挙げるのが、中国の明朝初期(15世紀)における海外交易の拡張であり、日本の徳川政権における国内商業の発達である。いずれも国家の保護なしには、その隆盛はありえなかった。
 だが、そうした商業は持続的にみずからを拡大していく成長力をもっていなかった。唯一の例外は、国家の支配者がみずから深く商業、とりわけ対外商業とかかわっている場合だけだ、とヒックスはいう。
 その例外がヨーロッパの「都市国家」だった。
「ヨーロッパ文明が都市国家局面を通過したという事実は、ヨーロッパの歴史とアジアの歴史の相違を解く重要な鍵である」と、ヒックスは論じる。
 ヨーロッパの都市国家をはぐくんだのは地中海である。その代表例が古代ギリシアの都市国家だが、中世イタリアの都市国家とルネサンスがそれを再現することになった。そして、地中海における商業の繁栄は、北海、バルト海沿岸のハンザ都市や、ドイツと低地地方の都市国家(とりわけアムステルダム)の繁栄へとつながっていく。
 ヨーロッパに生まれた典型的な都市国家こそが、商業を発達させる原動力になった、とヒックスはとらえている。

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タケちゃんマン──大世紀末パレード(2) [大世紀末パレード]

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 テレビの話をつづけると、吉崎達彦の『1985年』には、70年代にお笑いの頂点を極めたザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」が、この年9月28日に最終回を迎えたという話がでてくる。
 TBSのザ・ドリフターズを食ったのは、同じ土曜8時台の枠で放送されていたフジテレビの「オレたちひょうきん族」(1981年から89年まで放送)だったという。そういえば、わが家もこの品のない番組を大笑いしながら見ていたような気がする。10歳と7歳になる子どもたちも一緒にみていたとはとても思えないのだが、はっきりした記憶がない。「8時だよ!全員集合」は終盤期のころ、すっかりマンネリになっていた。
「ひょうきん族」のメインキャストは、一貫してタケちゃんマン(時折、鬼瓦権造も登場)を演じるビートたけし、ブラックデビルやパーデンネン、アミダばばあ、ナンデスカマンと次々キャランクターを変える明石家さんま、ほかに島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子、島崎俊郎(アダモちゃん)など。ホタテマンとして大暴れする安岡力也も強烈だった。プロデューサーは横沢彪(たけし)で、本人も「懺悔室」の神父役で画面に登場していた。
 番組の中心は、変身したたけしとさんまによる即興的な掛けあいである。変身しているからこそ、恥ずかしげもなく、しらふではいえない、おふざけギャグが炸裂する。それが、ふだん会社で抑圧されているサラリーマンの夫たちや、毎日忙しく家事や子育てに追われる妻たちの笑いを誘い、ストレス解消をもたらしたのかもしれない。
 タケちゃんマンのテーマソングはめちゃくちゃで、いまの時代ならとても流せないものだった。

遠い、星からやってきた
ひょうきんマントをなびかせて
今日は吉原堀之内 中洲すすきのニューヨーク
強きを助け 弱きを憎む
TAKEタケちゃんマン TAKEタケちゃんマン
ゆくぞわれ〜ら〜の タケちゃんマン

 吉原(東京)、堀之内(川崎)、中洲(福岡)すすきの(札幌)は、日本有数の歓楽街で、ソープランド[80年代半ばまでは「トルコ風呂」と呼ばれていたが、トルコ人留学生の抗議により名称変更]が数多いことで知られていた。
 タケちゃんマンは女好きだが、女にもてないおっさんで、「強きを助け、弱きを憎む」ふつうの日本人の特性を兼ね備えている。それがスーパーマンのように、「マントをなびかせて」、さんまが現れるところなら、どこにでもやってきて、好き放題、じつにくだらない(そしてかなりえげつない)コントの応酬をくり広げる。そして、いまのテレビコードでは、とても放映できないエネルギッシュな笑いを炸裂させていた。
 そのころ吉本隆明は漫才を抜けだしたビートたけしの芸風の変貌について、こう書いている。

〈謎が現在でもあるとすれば、性根のわるいいじめっ子風イメージを異化的にかき立て、共演の芸人や素人たちと一緒に、痛ましい笑いのゲームをブラウン管にくりひろげている意味である。もうひとつあるとすれば、タケちゃんマンの創造に象徴されるような、野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像がもっているすぐれた現在的な意味である。〉

 吉本はなぜこんな「痛ましい笑いのゲーム」が受けているかは「謎」だと言っている。さらに「野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像」が、どのような意味をもっているのかを問わなければならないと結んでいる。タケちゃんマンの登場を評価し、その意味を考えようとしていたといってよい。

「オレたちひょうきん族」がはやりはじめたころ、関西では世間をわきたたせる大きなできごとがあった。阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズでも西武ライオンズを破って、日本一の栄冠を勝ちとったのだ。
 吉崎の『1985年』にもとづいて、その状況を再現する。
 優勝を逃した1973年以降、阪神は暗黒時代におちいっていた。監督はしょっちゅう入れ替わり、主力の投手、江夏豊と打者、田淵幸一が放出され、トレードで入団した江本孟紀が「ベンチがあほやから」と言い放って、引退してしまう。その後もずっと低迷がつづき、1985年にすったもんだの末、元名遊撃手の吉田義男がふたたび監督に就任したときは、ファンのあいだからため息がもれていた。ところが、奇跡がおこるのだ。
 それはシリーズが始まってすぐの4月17日の甲子園での対巨人2回戦のことだ。阪神は7回裏ツーアウトまでは1対3と巨人にリードされていた。そこに、3番ランディ・バースが3ランを放って試合をひっくり返す。
 マウンドで呆然とする巨人のピッチャー槇原敬之に追い打ちをかけるように、4番掛布雅之がバックスクリーンにホームランをたたき込む。それだけで終わらない。つづいてバッターボックスに立った5番岡田彰布(あきのぶ)がよっしゃとばかりにホームランを放つ。
 こうして勢いづいた阪神は、長年の低迷から脱して、優勝への道を歩みはじめる。
 阪神優勝の立役者は何といってもバースだった。この年、バースは三冠王に輝いた。だが、吉崎はこうつけ加える。

〈ひとつだけ悲しいのは、85年の本塁打数は54本で、王選手が残した年間記録である55本にあと一歩届かなかったことだ。いや、届かせなかったのである。セ・リーグの投手陣は、シリーズ終盤の消化試合でバースを四球攻めにした。当時はまだ、偉大な王選手の記録を外国人選手が破ってはいけない、というケチなことを考える人が多かったのだ。そんな仕打ちに対し、バースは哲学者のような静かな表情で耐えた。〉

 バースのえらさがよけいに伝わってくる。このバースがひとつの大きな牽引力となって、阪神は日本一の座を勝ちとった。
 こうしてみると、ひょうきん族といい、阪神優勝といい、1985年という年は、にぎやかで、はしゃいだ雰囲気のなかにあったようにみえる。だが、はたしてそうだったのか。

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ヒックス『経済史の理論』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 ジョン・リチャード・ヒックス(1904〜89)は『価値と資本』、『資本と成長』などの著作で知られる理論経済学の巨匠だ。その巨匠が1969年に経済史に関する本書を出版したことに、経済学者のあいだでは当時、驚きの声が広がったという。ヒックスはそれまでの理論経済学の業績にたいして、1972年にノーベル経済学賞を受賞するが、本人はむしろ『経済史の理論』のほうを評価してほしかったと語っている。
 訳者解説によると、本書は市場社会の発達に主軸を置いて、全世界にわたる人類史全体を取り扱った野心作だという。経済史の事実をこと細かに論じた歴史書ではない。タイトルに「理論」──「セオリー」というほうが、かえってイメージしやすいか──とあるように、あくまでも経済制度(システム)の発展に重点が置かれている。
 これもツンドク本になっていた。もうあまり先がないから、そのまま処分してもいいのだが、それではちょっと心残りだ。本棚の整理と頭の体操を兼ねて、パラパラとページをめくってみる。読んでも、すぐ中身を忘れてしまうから、例によってメモをとることにした。
 最初に強調されるのは、これが特殊な状況や個人の行動を扱った歴史ではなく、あくまでも一般史だということである。歴史上、統計的に扱える一般性をもつ現象に光をあてること、さらに社会の経済的状態について、その標準的な発展を記述すること、世界経済史をひとつの趨勢として取りあげることが強調されている。とりわけ重視されるのが資本主義の勃興に先立つ「市場の勃興」であり、それがいつどのように生じたかである。さらにそれが「工業主義」、すなわち産業革命にいたり、その後、市場にたいする否定的反応(すなわち社会主義)が生じるまでが論じられる。
 経済学者は市場の存在を当たり前と考えがちで、市場をできるだけ完全なものと想定する傾向が強かったと述べている。その後、ソ連の中央計画経済や戦時の統制経済を研究しなければならなくなったことから、非市場経済組織の研究がはじまる。しかし、完全な市場経済が存在しないように、完全な中央計画経済が存在しないこともあきらかだという。ヒックスが本書を出版した1969年は冷戦時代のさなかで、ふたつの政治経済体制が存在していたことを頭に入れておく必要があるだろう。
 とはいえ、かれが最初に取りあげるのは、歴史の流れからいえば、部族国家をはじまりとして、古代から中世にいたる時代である。
 この時代においても、もちろん商品は存在し、市場もなかったわけではない。しかし、商品や市場はまだ社会の中心となっていたわけではないし、商品世界は成立していない。
 ここで、かれは大なたで割ったように大胆なコンセプトを持ちだす。非市場経済は「慣習経済」と「指令経済」のふたつのタイプによって成り立っていたというのだ。そして、それはもはや消え去ったわけではなく、いまも残っているという。
 出発点となるのは原始的非市場経済である。その経済の特徴は「慣習経済」で、個人の役割は伝統によって定められ、その共同体は長期間、ほかから妨げられることなく存続していた。
 ところが、その共同体が危機に面して軍事的性格をもたざるをえないことがある。このとき共同体は「慣習経済」から「指令経済」へと移行し、軍事的専制主義に向かって直進する。そのきっかけとなる危機は人工の圧力による場合も考えられるし、他部族の侵入による場合も考えられる。
 いずれにせよ、軍事的専制主義は古代帝国への道を切り開くことになるだろう。めざすのは領土の拡張であり、奴隷を基盤とする指令経済である。
 だが、ほとんど純粋な指令経済は、非常事態を別として長くは存続しない。いずれは軍政が民政に移行し、形式上はともかく、中央権力は権力としての実態を失ってしまう。「封建制」はそうした状況をさす、とヒックスはとらえている。
 封建制のもとでは、将軍たちが領国の支配者に任じられ、さらに司令官が一地区の支配者となる。かれらは中央にたいして忠誠の感情をもっているとしても、中央の権力は非常に制限されたものになってしまう。
 指令経済であっても、慣習経済であっても、支配階級を養うのが貢納であることはまちがいない。それらは当初、強制されるようにみえるかもしれないが、次第に慣習化されていく。
 王のもとでの軍事的専制は封建制に移行しやすい。王国が大小の領国からなる場合は、いったん中央政府に税を集め、それを地方に分散するよりも、地方領主が税を集め、残りを中央に収めるほうが合理的だからである。すると、純粋な封建制のもとでは、中央政府は長期的には衰退していく危険性にさらされることになる。
 そこで中央権力は権力の浸食に立ち向かおうとする。その手段となったのが官僚制だ、とヒックスはいう。
 官僚を統制するには、官僚への監察制度と昇進制度、さらには新人登用制度が必要になってくる。早い段階で、こうした官僚制度を活用した文明のひとつが古代エジプトだった。さらに官僚制が成功した国家としては、中国を挙げることができる。
 それでも封建制への移行の芽は常にひそんでいた。官職は世襲になりがちで、加えて地方貴族の出現が中央の権力をおびやかす恐れがあった。
 ヒックスは「非市場経済」を「慣習経済」と「指令経済」、さらにその混合型としてとらえている。古代帝国の官僚制のもとでは「指令経済」の要素が強い。しかし、「指令経済」は世襲的な貴族制や伝統的なカースト制の引力によって、「慣習経済」に引き戻される傾向をもっている。
 しかし、「慣習経済」であっても「指令経済」であっても、「非市場経済」には共通するものがある。つまり、貢納にもとづいていることだ。
 農民は「承認された権威」にたいして貢租を支払う。「承認された権威」は政治的権威とはかぎらない。宗教的権威の場合もある。
 帝国の形態をとる指令経済のもとでは貢租は中央権力に高度に集中され、封建制のもとでは大小さまざまの領主が貢租を収めることになる。
 支配者はこうした貢租を軍隊と官僚を養うためだけに用いるわけではない。非常事態が去れば、みずからの権威を誇示するための豪奢な消費のためにも用いる。それは領民の心をつかむ消費ともなりうる。分業が生まれるのは王の宮廷からである。
 非市場経済は「貢納経済」としてとらえることができる。貢納経済は市場経済とは対照的なもので、経済のひとつの本来的な形態である。貢納経済は市場に先行する。言い換えれば、国家は市場に先行するということだ。
 市場経済は貢納経済を背景として生じる。たが、市場の成立後も貢納経済は残存し、自由放任主義の全盛期においても、けっして消滅することはなかった。租税が消滅することはなかったからである。
 おもしろいことにヒックスは、中央計画経済からなるソ連型の社会主義を、一種の貢納経済とみていた。国民の余剰は企業と政府に分散されるのではなく、中央政府に集中されるからである。
 だが、そのことはともかくとして、いまは次の章、「市場の勃興」、「都市国家と植民地」に焦点を移すことにしよう。非市場経済がどのように市場経済に移行したかが論じられる。

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金曜日の妻たちへ──大世紀末パレード(1) [大世紀末パレード]

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 暇つぶしといえば語弊があるかもしれないが、これはたしかに暇なじいさんの、まるで緊張感のないブログにはちがいない。それでも、ますますぼんやりしていく頭の片隅で、漠然と「大世紀末パレード」というテーマをひねりだしてみた。どうでもいい話かもしれない。
 ここでいう「大世紀末」とは、およそ1985年から2000年までの時期をさしている。21世紀からは新しいミレニアム(千年紀)である。そのため、千年に一度の大世紀末だというのに、そこにキリスト教でいう世界の終末といった意識は感じられず、むしろあのころ時代は漫然と過ぎていったように思われる。
 たしかに何かが終わったという雰囲気が世界を包んでいた。そして、何かおかしいという不安感が膨らんでいくのは、むしろ21世紀という新しい世紀にはいって、しばらくたってからである。だとすれば、気づかぬうちに大世紀末にすでに歴史的な地殻変動がはじまっていたのではないか。
 何かが終わり、何かがはじまるのは、いつの時代も同じである。だが、それはふだんあまり意識されず、日々の仕事のなかで一瞬驚きをもたらすニュースとして流れるだけで、たちまち消え去っていく。大きなできごとは少しずつ時間をかけて人を包みこんでいくのだが、自身はそれに気づくことなく、流されていく日常を必死にもがきながら前に進もうとしていたのではないか。
 1985年から2000年にかけても、そんな時代だった。ぼくも会社の片隅で本の販売や編集という地味な仕事をしていたが、無能な人間なりに、一生懸命、与えられた目の前の仕事に励んでいた。あのころの自分のことを書くのは気が進まない。冷や汗の出る思いがする。要するに自慢できることはほとんど何もないのだ。
 それよりは、むしろ、あのころちらっと垣間見ただけで通り過ぎたできごと、そして、あのころの本などを取りあげて、遅まきながら、あのころ自分のまわりで何が起こっていたのかをたしかめてみたい。
何かえらそうなことを論じようというのではない。大きな歴史を書こうというのでもない。自分がサラリーマンとして中年を過ごした時代の回想である。
 本を取りあげるのは、これまで本とかかわることが多かった職業柄による。とはいえ、ここで扱うのは、自分に関心のあるごくわずかな本にかぎられてしまうだろう。教養のなさを痛感せざるをえない。
つまらぬ前置きはおしまい。だらだらと書いていく。はたして最後までいきつくか、先のことはわからない。

 まずは、はじまりの年、1985年を取りあげてみよう。吉崎達彦の『1985年』が失われた記憶を呼びさましてくれる。
 そのころテレビでは『金曜日の妻たちへ』がはやっていた。TBSから放送された、いわば不倫ドラマで、85年はシリーズ最後のパート3になる。8月30日から12月6日までの秋から初冬にかけ、毎週金曜日、午後10時から1時間の枠で放送されていた。脚本は鎌田敏夫だった。
 出演は古谷一行、板東英二、奥田瑛二、いしだあゆみ、小川知子、篠ひろ子といったあたり。小林明子が歌った主題歌「恋におちて Fall in love」が大ヒットした。

もしも 願いが叶うなら
吐息を 白いバラに 変えて
逢えない日には 部屋じゅうに
飾りましょう 貴方を想いながら
Darling, I want you 逢いたくて
ときめく恋に 駆け出しそうなの
迷子のように 立ちすくむ
わたしをすぐに 届けたくて
ダイヤル回して 手を止めた
I’m just a woman・・・
Fall in love

 作詞は湯川れい子、作曲は小林明子。英語をはさんだ歌詞もいやみがない。30代後半と思われる人妻の一途な恋が、いますぐにでも逢いたいのに逢えないという状況のなかで、切々と歌いあげられている。
白いバラは純愛をあらわしている。ダイヤル回して手をとめるのは、ためらいのなす業である。
 実年齢でいうと、このとき古谷一行は41歳、板東英二は45歳、奥田瑛二は35歳、いしだあゆみは37歳、小川知子は36歳、篠ひろ子も37歳だった。みんなほぼ団塊世代(戦後第一世代)だといってよい。
 ドラマでの役名を省略していうと、古谷一行は大手建設会社の設計部課長で、その妻が篠ひろ子だ。ふたりは東急田園都市線の町田あたりに住んでいる。小川知子は印刷会社の会社員板東英二と再婚し、長津田で「ソル・エ・マール(太陽と海)」というレストランを開いている。いしだあゆみは映画会社で翻訳字幕の仕事をしているが、かつて古谷一行と下落合のアパートで同棲していたことがある。奥田瑛二はいしだあゆみの務める映画会社の後輩だが、妻との関係はうまくいっていない。
 篠ひろ子と小川知子、いしだあゆみは、仙台のお嬢様学校、青葉女学院で幼稚園から短大までいっしょに過ごした仲だ。しばらく連絡がとれなくなっていたいしだあゆみと小川知子が偶然、銀座で再会したところからドラマは幕を開け、そのあと古谷一行や奥田瑛二がからんで、はらはらどきどきする1時間が展開する。最高視聴率は23.8%に達したという。
 お堅い厚生省もこの現象に注目し、のちに1998年の厚生白書「少子社会を考える」のなかで、「団塊の世代の専業主婦たちの不満と主婦役割からの脱出」というページを設けて、こう論じた。

〈『妻たちの思秋期』にしても、「金曜日の妻たちへ」にしても、今までなら何の不足もないと思われていた生活の中で、主婦たちというのは不満を抱いているものなんだ、ということを前面に押し出しました。これに世間はびっくりした。妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰のはずなのに、なんと不満をもっているらしいぞ、と。〉

 放映から10年以上たっていたのに、このドラマの記憶が残っていたところに、「金妻」の影響力の大きさがあらわれている。しかし、政府の「白書」に、「今までなら何の不足もないと思われていた生活」とか「妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰」といった記述があるのが男のホンネを感じさせる。そこに「主婦たちというのは不満を抱いてものなんだ」という「発見」がかぶさる。
 ここから、「白書」が女性の社会参加という政策を打ちだすことも目にみえるようだ。
 ところで、「白書」には「金曜日の妻たちへ」の前に『妻たちの思秋期』という本の名前がでてくる。『妻たちの思秋期』は共同通信の社会部記者、斎藤茂男が1982年に出版したルポで、書籍化にあたっては、ぼくが編集を担当した。
 このルポは、都市中流家庭の中高年の女性たちを登場人物にして、アルコール依存症におちいっていく主婦や、自分から離婚を宣言して夫と別れる妻たちの生の声が集められている。
「ごめんね、こんなになって。でももう少し飲ませて、お願い。手が震えてどうしようもないんだもの……」
「なにさ、よくもよくもほったらかしやがって! 25年間も! 25年もほうっといて! なにが仕事よう、聞きあきたよもう……」
 斎藤(さん)が取りあげようとしていたのは、記事として表面化することのない日常のなかにひそんでいる事件だった。
 味も素っ気もなくいってしまえば、事件記者から離れたあとの斎藤(さん)のテーマは、一貫して日本資本主義論だったといってよい。経済至上主義で突っ走る男たちの世界から侮蔑され、切り捨てられた、そのじつ経済社会を支える根源になっている女たちや子どもたちや虐げられた人たちの世界を抽象としてではなく、生の事実としてえがくこと。ぼくはすくなくとも、彼のテーマをそうとらえていた。
 じっさい『妻たちの思秋期』の「まえがき」にも、こう書かれている。

〈どうやら女たちは、男が疑うことなく営々と構築作業に精を出しているこの現代資本主義社会の、そのありように対して、夫という存在を通して本能的ともいえるような感性で疑問を感じとり、心と体のナマ身の表現で男たちに何かを呼びかけはじめている──この取材を通じて私はそのことを感じとった。〉

 しかし、現代資本主義論といってしまえば、いかにもおもしろくない。斎藤ルポの迫力は、あまり表にはでてこない、経済至上主義では片づかないナマの現実を、当事者の声としてそっくりそのまま読者に伝えるところから生まれていた。

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最後の晩餐──イタリア夏の旅日記(13) [旅]

8月22日(火)〜24日(木)
 われわれの泊まったホテルは、ミラノ中央駅から歩いてすぐのところにあった。
 朝、ミラノ中央駅で地下鉄の切符を買い、M2でカドルナ駅まで行き、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。「地球の歩き方」の地図にしたがって歩くと、教会の後陣(アプス)がみえてくる。四角と円形を組み合わせた優雅な建物だ。レンガ色とクリーム色の構成も悪くない。気持ちが落ち着く。
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 ここにやってきたのは、この教会の大食堂にえがかれたレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」をみるためだ。見学には予約が必要で、その時間も15分と限られている。幸い、日本からネットで予約をとることができたので、チケット売場に並ぶ必要はない。
 教会の正面にやってくる。横にはトラム(路面電車)が走っている。国旗の立っているクリーム色の建物が「最後の晩餐」のえがかれた修道院大食堂の入り口だ。
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 予約時間まで少し間があったので、教会のなかを見学する。ここにも人の心を楽しませてくれるルネサンスの空間が広がっていた。
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 時間になった。30人ほどが建物のなかにはいり、案内されるままに控えの部屋に通され、ついに最後の自動ドアが開かれる。そして、その北側の壁に、「最後の晩餐」があらわれた。たいしたことはあるまいとタカをくくっていたぼくも感動を覚えた。なぜか心を吸いこまれるような絵だった。この感じは実物を見ないとわからない。
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 フラッシュをたかなければ写真をとってもいいというので、われわれもご多分にもれず、絵に近づいて写真を撮らせてもらった。だが、プロではない悲しさ。あとで眺めると絵の深みがいまひとつ伝わってこない。
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 作品の詳しい説明は不要だろう。まさにイエスが十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の一場面がえがかれている。
 イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、弟子たちのあいだにさざ波のように動揺が広がっていく。
 人物の仕草からは心の様子までが伝わってくる。イエスの左側3番目のユダはテーブルに肱をついたまま、右手に銀貨を握りしめている。すぐ左のヨハネは悲しそうにうなだれている。右側には何やら議論する弟子たちも。
 イエスは穏やかで、すでに諦観した表情をしている。12人の弟子たち、それぞれについて、もっと詳しく知っていれば、絵を鑑賞する視点はもっと深まるだろう。だが、残念ながら、ぼくにその知識がない。
『最後の晩餐』は、ミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、1495年から97年にかけてえがかれた。レオナルドのいつもながらの遅筆ぶりに苛立った修道院長がミラノ大公に苦情を訴えたとき、宮廷に呼ばれたレオナルドはこう答えたという。
 キリストとユダの顔がなかなか決まらない。修道院長が作業をせかすようなら、ユダの顔のモデルを修道院長にしてもよいのだが……。
 これには修道院長がうろたえ、ミラノ大公は大笑いし、それ以降、修道院長はレオナルドの仕事に口を出さないようになったとか。
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 南側の壁にえがかれた、十字架にかけられたキリストの絵も、なかなか見応えがある。このふたつの絵に囲まれて修道士たちは、さぞかし敬虔な面持ちで沈黙を守ったまま食事をしていたのだろう。そう思うと、ちょっと笑えてくるのは、ぼくの不謹慎だ。
 見学時間の15分はあっという間にすぎていった。いささか厳粛な面持ちで、部屋をでる。もし神が幻想でしかないとしたら、イエスは何を信じようとしていたのかという思いが渦巻く。これも東洋的無神論者の勝手な思いにすぎない。
 これでミラノにやってきた目的は達したようなものだ。あとは、明日マルペンサ空港からチューリヒ空港をへて、日本に帰るまでの時間をどうすごすかである。
せっかくミラノにいるのだからと、まずは近くのスファルツァ城まで歩いていった。
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 城内の広場をぐるっと回ったあと、ピエタ美術館にはいり、ミケランジェロが89歳で死ぬ直前まで手がけていたピエタ像をみる。ヴァチカンのピエタ像は息を呑むほど美しいが、この像はそれとはだいぶちがう。途中での断念は何を意味したのだろう。それでも、この像からは老いた母の悲しみと慈しみが伝わってくる。母を思わないわけにはいかない。
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 昼近くになって、城を後にする。イタリア統一の立役者ガリバルディの像が立っている。
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 どこで食事をとるか迷ったが、けっきょく、延々と歩いて、ミラノを代表するアーケード、「ガッレリア」までやってくる。
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 20年ほど前に来たときと変わらない相変わらずのにぎわいだ。コロナが明けたことを実感する。
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 リストランテではピザとパスタを頼み、ついでにビールとワインを飲んだだけだが、お値段は相当なものだった。
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 夕方まで、まだ時間はある。ガッレリアを出る前に、もう一度、光の差しこむガラスの天井を写真に収める。
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 ガッレリアを出ると、すぐにレオナルド・ダヴィンチ像が立つ広場と出会う。
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 その広場の前にあるのがスカラ座だ。いまはオフシーズンのせいか閑散としている。
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 そのあと、お定まりのようにドゥオモまでやってきた。昔は自由にドゥオモのなかにはいれたのだが、いまは入場券を買わなければならない。チケット売場の列に並んだところで、どっと疲れがでて、ふたりとも顔を見合わせて、もういいかという話になった。そこで、ドゥオモ見学はとりやめに。
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 猛暑のなか、地下鉄でミラノ中央駅まで戻り、夜食用のすしを駅地下のコンビニで買って、ホテルの部屋に倒れこんだ。
 こうして、われわれは熱中症にもならず無事ミラノ見学を終え、翌日ミラノの空港から1日がかりで日本に戻ってきた。帰りの飛行機は、ロシア上空を避け、南回りで、ブルガリア、トルコ、中央アジア、中国の上空を通過し、成田に朝9時半ごろ到着。
 コロナ禍を乗り越えて4年ぶりの海外旅行だった。アメリカもギリシアもイランもオーストラリアも行ってないし、中国も50年行ってないと考えると、まだまだ行きたい場所は残っているが、はたしてあといくつ行けるか。残り時間は風の吹くままにということだろう。

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『儀礼としての消費』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 日常生活を営むうえで必須となる、労力を含む財が貨幣によってしか手に入らない世界を商品世界と名づけるならば、そうした商品世界が生まれたのは、19世紀以降といっていいだろう。もちろん、それ以前にも貨幣は存在し、貨幣が存在するところには商品もあったから、歴史的にみると商品世界の発生ははるか古代にさかのぼる。
 だが、それが近代の商品世界と異なるのは、近代以前においては貨幣と商品があくまでも非日常的で特別の授与物であり、日常生活からは相対的に切り離されていた点にある。しかし、近代になるにしたがって、貨幣と商品は次第に日常生活に浸透し、いまや貨幣と商品がなければ、日常生活が営めない時代となった。生産と消費が分離され、貨幣によってしか媒介されないのが商品世界の特徴だともいえる。
 著者のメアリー・ダグラスはここで野生(未開)社会と商品世界の比較をもちだしている。
 カリフォルニア州北部太平洋岸には先住民のユロック族がいる。1920年代にまとめられたその民族誌によると、かれらは村落集団をつくり、漁と狩りで暮らし、貝殻貨幣による財のやりとりをおこなっていた。統治機構はなく首長もいない。親類や仲間で暮らし、豊かな人も貧しい人もいる。貨幣がともなうのは結婚のときである。殺人や姦通にたいする代償も貨幣で支払われる。儀式では高い価値をもつ財が見せびらかされるように用いられる。ユロック族の人口は5つの村を合わせて600人ほどだ(現在はもう少し増えている)。
 ユロック族の日々の生活は漁や狩猟、採集による食べ物、そのための道具、さらには医療、住まいの整備などによって営まれる。これらはみずからの努力に加えて、親戚や仲間との協力によって確保される。貨幣が支払われるとすれば医療ぐらいのものである。
 ところが、宝物となると話は別になる。黒曜石の首飾り、珍しい毛皮、色鮮やかな羽根、ボートなど、これらは貝殻貨幣によってしか取引されない。そのため、人びとはこぞって貝殻貨幣を蓄積していた。
 財は日常的な財と非日常的な財に分かれている。そして、使われる頻度は少ないけれど、より立派な非日常的な財をもつ者こそが、その社会での影響力をもつ存在とみなされたのだ。ユロック族は自由な社会をつくっていたが、それでも富は均等に分配されていたわけではない。宝物をもつ金持ちは最初から優位な立場にあった、と著者はいう。
 ナイジェリアのティブ族は長老たちによって支配されていた。長老たちの最大の役割は、村を監督することと結婚を取り決めることだった。
 ここでの財も、家事用の財と威信にかかわる財にわかれていた。
 農地で生産されるヤムイモやシコクビエ、モロコシ、飼われているヤギやヒツジ、犬、鶏、それに、ものを運んだり貯めたりする籠や壺、鍬などの道具は、家事用の財である。これにたいし、金属の棒や布、銃、奴隷などは威信を示す財となった。こうした威信財は戦争か交易によってしか手に入らず、若者たちはこうした宝を手に入れることで名声を得、長老へとのしあがった。
 日常財と威信財とのあいだに交換関係は存在しない。威信財をもつ者は政治的に優位な立場を確保し、村の情報を制御し、女たちを統制することができた。ティブ族のあいだでは、婚姻は商取引とは無縁で、嫁資などというものは軽蔑されていた。ヨーロッパから貨幣が到来するまでは、こうした社会システムが維持されていたという。
 未開社会では、流通(商品取引)が制限されている。ナイジェリアのハウサ族はイスラム教徒で、女性は隔離状態に置かれ、外での仕事といえば、食事にかかわるものくらいだった。女性たちは輸入されたカラフルな壺や椀などを熱狂的に収集することがある。だが、それらは日常品というのではなく、宝として手元にとどめられ、自分の娘や養女が結婚するときに分け与えられる。こうした宝は、女性たちにとっての威信財なのである。
 宝は社会的信用ともつながっている。宝の収集は飽くことを知らなかった。しかも、それらは最新の流行や高度の専門化をあらわすもので、いわばブランド品でなければならなかった。
 ハウサ族の女性たちが収拾したのはチェコスロバキア製の釉薬のかかった壺に限られていた。トロブリアンド島のクラ交易で受け入れられる品目も、赤い貝殻の数珠と白い貝殻の腕輪だけだった。こうして未開社会においても、消費は単に欲求の充足をめざすだけでなく、威信の発揮と結びついていたことがわかる、と著者はいう。
 ここでの目的は未開社会も現代社会も人の消費行動は変わらないことを示すことになる。現代社会を批判する視座として未開社会をもちだしているわけではない点は理解しておく必要があるだろう。
 そのため、部族社会においても消費の格差があり、排除の力がはたらいていることを指摘したあと、著者はそれは現代の社会、国際関係でも同じだと述べることになる。
 現在、産業活動は3つの部門に分けられるのが通例になっている。第1次産業は農業、林業、漁業、第2次産業は鉱業、製造業、建設業、第3次産業は商業、運輸、金融、サービス業というように。
経済発展にともない、労働人口は第1次産業部門から第2次、第3次産業部門へと移行し、現在、先進国では第3次部門が最大の雇用割合を占めるようになっている。
 著者は産業部門のアナロジーから、家計も3つの水準にわけられるという定式を導きだす。
 第1の水準は食べることに追われ、それがやっとの段階。第2の水準は労働節約的な用具が導入され、家計に新しい技術が備わった段階。第3の水準は、掃除にしろ料理にしろ家での仕事がさまざまなサービスに委ねられ、家計の消費が衣食住だけではなく、教育やレジャー、保険、金融にまで広がっている段階だ。
 第2次世界大戦前と後をくらべると、イギリスでも労働者階級の実質所得は高くなった。それでも、所得格差はなくなっていないし、労働人口の大きな割合が低賃金労働に甘んじている。さらに、貧富の格差は所得や富の格差にとどまらず、いわば生活様式そのもののちがいとなってあらわれている。
 ひとつの国のなかに社会階級が厳然と存在するように、国際関係においても豊かな国と貧しい国の格差が存在する。その格差は経済の活動規模の大きさにもとづく。
 著者はいう。

〈最も豊かな国々は、輸出品の販路も生産パターンも最も多様化されており、最大のサーヴィス部門(金融・研究・教育・管理などを含む)を持っている。最も貧しい国々は、ほとんどの場合、たった一つの生産物、それもたいていは効率の低い農業に、全エネルギーを注ぎ込んでいる。〉

 開発途上国では農業部門の生産性が低く、そのため人口の大部分が土地に縛りつけられ、非農業部門の成長する余地が残されていない。そのため、先進国と開発途上国とのギャップはますます広がりつづける。それは一国内における豊かな世帯と貧しい世帯の関係と同じだという。
 消費者は個人として財を選択するわけではない。みずからの属する階層にふさわしく、みずからが置かれた社会関係のなかで財を選択する。貧困の問題は、生活者が孤立し、そうした社会関係と情報システムからさえも切り離されてしまうことにある、と著者は考えている。
 ここで、著者は消費が産業連関によって広がっていくことを示そうとする。
 産業が連関することはよく知られている。たとえばマレーシアでは1次産品(ゴム、スズ、パーム油)の輸出が軽工業を生みだす要因となった。それと同じように、新しい技術が産業連関を通じて、新たな消費を生みだしていく、と著者は考える。
 1948年から1970年にかけ、イギリスでは電力の消費者が増え、電力消費量が増えた。これは、都市人口の増大と新技術の普及(テレビ、冷蔵庫、掃除機、洗濯機、エアコンなど)にともなう現象である。これは技術と消費の連関が実現されたケースだという。
 社会と消費の連関もみられる。旅行や電話、レジャー、社交、さまざまな行事のための支出は、技術というよりも、世間とのかかわりと関係している。社会的な消費は、家族内から世代間、地域へと広がっていく。とはいえ、その消費には、社会階級のランクによるちがいがみられる。
 さらに社会と消費の連関でいえば、移住が社会的孤立をもたらす場合もあるけれども、血縁集団から切り離されて、新たな地域共同体に暮らすことが、別の利点をもたらす場合も多いという。よりよい所得と生活条件が与えられる地域で暮らせるようになるなら、まちがいなく消費能力は向上し、物質的生活水準が向上する。逆に地域に閉じこもってしまうなら、強い集団的アイデンティティから抜けだすことができず、低い消費水準に甘んじてしまうケースもある。
 最後に情報と消費の連関がある。
 労働者階級のあいだでも、パブの仲間どうしのつき合いが情報を得る重要な手段となっている。得られた情報のもたらす報酬が大きいほど、それを得るためにいっそう多くの時間と資源を支出することが正当化される。
 とはいえ、概して規模の利益を得ることができるのは、いちばん有利な立場にある者だ。専門的情報への接近は、社会階級のランクによって異なっており、ここには一種の障壁が築かれていることを認めざるをえない、と著者はいう。
 ハイランクの社会階級の消費が、より大きな利益をもたらす情報と結びついているという話は腹立たしいが、これも商品世界の現実なのだろう。
 著者はこう書いている。
 開発途上国においては、消費階級ははっきりと3つの層に分かれる。まず大地主・支配者階級があり、次に農民がつづき、最後に土地のない労働者となる。これらの階級がみずからの立場に応じて、財(商品)のセットを使っている。
 これにたいし、先進国の場合は社会構造の区分けがむずかしく、もっと漠然としている。職業と所得に応じたグループ分けはある程度有効だが、富そのものは評価しにくく、職業分類もあてにならない。
 ここで著者は先進国の消費パターンを探るために、商品を3つのセットに分類する。(1)第1次生産物のセット、(2)技術的なセット、(3)情報関係のセット。(1)が食品、(2)が耐久消費財、(3)が教育や教養、社交などに代表されることはいうまでもない。
低レベルの消費階層では、支出の多くが食品に向けられ、中レベルでは食品の割合が相対的に下がって、耐久消費財が購入され、高レベルでは食品の割合がさらに下がって、より値段の高い耐久消費財が購入され、情報関係の商品により関心が向けられることがわかる。
 低レベルと高レベルの消費のちがいは、あきらかに所得に制約されている。とはいえ、すべての商品(サービス)がすべての人に開かれているのが身分制社会とのちがいだ。だれもが医者にかかったり、ゴルフをしたり、スポーツを見学したり、コンサートを楽しんだりすることができるからである。
 とはいえ、所得は仕事内容や職業と結びついており、所得の高い階層はより高度な消費活動を実現する。消費にはランクづけされたヒエラルキーがある。彼らは人より豊かであることによって需要をリードし、活動に価値を与える、と著者はいう。つまり、消費階級は厳然と存在するといってよい。
 消費階級は職業にほぼ対応する。職業としては、管理・経営職、専門・技術職、教育者がほとんどトップの階級を占める。事務職や営業職がこれにつづき、熟練労働者、肉体労働者、無職者の順に階級が形成される。
 ここで著者は自動車と電話、銀行口座を財のサンプルとして持ちだし、1973年段階の消費階級のヒエラルキーを分類する。高い階級は自動車も電話も銀行口座ももっている。これにたいし、階級が低くなるにつれて、そうしたセットをもたない家計が増えてくる。ここにみられる消費パターンのひらきをみても、消費にもとづく階級構造が存在することが実証できる、と著者はいう。
 トップの消費階級には、低い消費階級にたいする強い排他性がみられる。所得の大きさは、食べ物から服装、住まい、家具、装飾にいたるすみずみにまで反映される。しかし、その排他性は先端的な消費をリードするもので、下層階級にとっても憧れの的となり、それが大衆文化に変容し、次第に広がっていくことも、著者は認めている。
 さらに著者は、専門職階級のほとんどが電話をもつのに、労働者階級の多くが電話をもたない(いっぽうテレビはどの階級ももっている)のはなぜかという興味深い問いを発し、「貧しい人はいつでも時間を持ち合わせているけれども、それを使ってなすべきことは豊かな人より少ない」という結論に達している。電話はコミュニケーション・ツールだが(その点、スマホは遊びの道具として進化した)、労働者階級の多くはそうしたものを無駄とみているというわけだ。こうした指摘をはたしてどうとらえるべきだろうか。いずれにしても電話(あるいはスマホ)という商品が消費学の大きな対象となりうることを示唆している点はおもしろい。
 貧しい人びとは、その生活条件によって長期的な視野をもつことができないとも書いている。時間がないわけではなく、時間は浪費されているというのだ。これにたいし、カネのある有閑階級は、多くの空き時間を必死に埋めようと、熱に浮かされたように突進しているという。このように社会階級によって、時間の過ごし方は大いに異なる。
 官僚組織にせよ、第3次産業にせよ、その管理と財務には費用節約的な技術革新の余地がたぶんに残されている。
 芸術も第3次産業の部門である。ここに入り込むには、名前の定まった人びとの列に挑戦し、新しいアートに置き換えなければならない。新たな流行を作りだすためには、競り合いに勝って、ゲームをスピードアップする必要がある。そうした競り合いのなかで、トップ階級と最下位階級とのあいだのランクはますます広がっていくことになる。
 消費には熱力学の法則が成り立ち、熱源のエネルギーがいくつもの仕切りを突破して徐々に広がっていく、というたとえも持ちだされている。その広がりは富の分布に応じながら、少しずつ世界を変容させていく。
 その熱源となるのは変動しつづける技術である、と著者はいう。さらに、そこには資源の要素を組み込まなければならない。
 われわれは社会階級の存在を意識しなければならない。豊かな特権階級に注目するだけで、貧しい人びとがどのように生活しているかを知らなければ、厳密な消費理論など築けるわけがない、と著者は述べている。
 ここには商品世界にたいする鋭い批判はみられない。商品世界の生みだすさまざまな軋轢、おカネでは解決できない問題の指摘、さらに脱商品世界に向けての構想が述べられているわけでもない。それでも、これまで人類が普遍的に築いてきた、財(商品)の世界の構造を冷静にとらえることの重要性を本書は指摘しているのである。


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