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タケちゃんマン──大世紀末パレード(2) [大世紀末パレード]

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 テレビの話をつづけると、吉崎達彦の『1985年』には、70年代にお笑いの頂点を極めたザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」が、この年9月28日に最終回を迎えたという話がでてくる。
 TBSのザ・ドリフターズを食ったのは、同じ土曜8時台の枠で放送されていたフジテレビの「オレたちひょうきん族」(1981年から89年まで放送)だったという。そういえば、わが家もこの品のない番組を大笑いしながら見ていたような気がする。10歳と7歳になる子どもたちも一緒にみていたとはとても思えないのだが、はっきりした記憶がない。「8時だよ!全員集合」は終盤期のころ、すっかりマンネリになっていた。
「ひょうきん族」のメインキャストは、一貫してタケちゃんマン(時折、鬼瓦権造も登場)を演じるビートたけし、ブラックデビルやパーデンネン、アミダばばあ、ナンデスカマンと次々キャランクターを変える明石家さんま、ほかに島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子、島崎俊郎(アダモちゃん)など。ホタテマンとして大暴れする安岡力也も強烈だった。プロデューサーは横沢彪(たけし)で、本人も「懺悔室」の神父役で画面に登場していた。
 番組の中心は、変身したたけしとさんまによる即興的な掛けあいである。変身しているからこそ、恥ずかしげもなく、しらふではいえない、おふざけギャグが炸裂する。それが、ふだん会社で抑圧されているサラリーマンの夫たちや、毎日忙しく家事や子育てに追われる妻たちの笑いを誘い、ストレス解消をもたらしたのかもしれない。
 タケちゃんマンのテーマソングはめちゃくちゃで、いまの時代ならとても流せないものだった。

遠い、星からやってきた
ひょうきんマントをなびかせて
今日は吉原堀之内 中洲すすきのニューヨーク
強きを助け 弱きを憎む
TAKEタケちゃんマン TAKEタケちゃんマン
ゆくぞわれ〜ら〜の タケちゃんマン

 吉原(東京)、堀之内(川崎)、中洲(福岡)すすきの(札幌)は、日本有数の歓楽街で、ソープランド[80年代半ばまでは「トルコ風呂」と呼ばれていたが、トルコ人留学生の抗議により名称変更]が数多いことで知られていた。
 タケちゃんマンは女好きだが、女にもてないおっさんで、「強きを助け、弱きを憎む」ふつうの日本人の特性を兼ね備えている。それがスーパーマンのように、「マントをなびかせて」、さんまが現れるところなら、どこにでもやってきて、好き放題、じつにくだらない(そしてかなりえげつない)コントの応酬をくり広げる。そして、いまのテレビコードでは、とても放映できないエネルギッシュな笑いを炸裂させていた。
 そのころ吉本隆明は漫才を抜けだしたビートたけしの芸風の変貌について、こう書いている。

〈謎が現在でもあるとすれば、性根のわるいいじめっ子風イメージを異化的にかき立て、共演の芸人や素人たちと一緒に、痛ましい笑いのゲームをブラウン管にくりひろげている意味である。もうひとつあるとすれば、タケちゃんマンの創造に象徴されるような、野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像がもっているすぐれた現在的な意味である。〉

 吉本はなぜこんな「痛ましい笑いのゲーム」が受けているかは「謎」だと言っている。さらに「野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像」が、どのような意味をもっているのかを問わなければならないと結んでいる。タケちゃんマンの登場を評価し、その意味を考えようとしていたといってよい。

「オレたちひょうきん族」がはやりはじめたころ、関西では世間をわきたたせる大きなできごとがあった。阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズでも西武ライオンズを破って、日本一の栄冠を勝ちとったのだ。
 吉崎の『1985年』にもとづいて、その状況を再現する。
 優勝を逃した1973年以降、阪神は暗黒時代におちいっていた。監督はしょっちゅう入れ替わり、主力の投手、江夏豊と打者、田淵幸一が放出され、トレードで入団した江本孟紀が「ベンチがあほやから」と言い放って、引退してしまう。その後もずっと低迷がつづき、1985年にすったもんだの末、元名遊撃手の吉田義男がふたたび監督に就任したときは、ファンのあいだからため息がもれていた。ところが、奇跡がおこるのだ。
 それはシリーズが始まってすぐの4月17日の甲子園での対巨人2回戦のことだ。阪神は7回裏ツーアウトまでは1対3と巨人にリードされていた。そこに、3番ランディ・バースが3ランを放って試合をひっくり返す。
 マウンドで呆然とする巨人のピッチャー槇原敬之に追い打ちをかけるように、4番掛布雅之がバックスクリーンにホームランをたたき込む。それだけで終わらない。つづいてバッターボックスに立った5番岡田彰布(あきのぶ)がよっしゃとばかりにホームランを放つ。
 こうして勢いづいた阪神は、長年の低迷から脱して、優勝への道を歩みはじめる。
 阪神優勝の立役者は何といってもバースだった。この年、バースは三冠王に輝いた。だが、吉崎はこうつけ加える。

〈ひとつだけ悲しいのは、85年の本塁打数は54本で、王選手が残した年間記録である55本にあと一歩届かなかったことだ。いや、届かせなかったのである。セ・リーグの投手陣は、シリーズ終盤の消化試合でバースを四球攻めにした。当時はまだ、偉大な王選手の記録を外国人選手が破ってはいけない、というケチなことを考える人が多かったのだ。そんな仕打ちに対し、バースは哲学者のような静かな表情で耐えた。〉

 バースのえらさがよけいに伝わってくる。このバースがひとつの大きな牽引力となって、阪神は日本一の座を勝ちとった。
 こうしてみると、ひょうきん族といい、阪神優勝といい、1985年という年は、にぎやかで、はしゃいだ雰囲気のなかにあったようにみえる。だが、はたしてそうだったのか。

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金曜日の妻たちへ──大世紀末パレード(1) [大世紀末パレード]

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 暇つぶしといえば語弊があるかもしれないが、これはたしかに暇なじいさんの、まるで緊張感のないブログにはちがいない。それでも、ますますぼんやりしていく頭の片隅で、漠然と「大世紀末パレード」というテーマをひねりだしてみた。どうでもいい話かもしれない。
 ここでいう「大世紀末」とは、およそ1985年から2000年までの時期をさしている。21世紀からは新しいミレニアム(千年紀)である。そのため、千年に一度の大世紀末だというのに、そこにキリスト教でいう世界の終末といった意識は感じられず、むしろあのころ時代は漫然と過ぎていったように思われる。
 たしかに何かが終わったという雰囲気が世界を包んでいた。そして、何かおかしいという不安感が膨らんでいくのは、むしろ21世紀という新しい世紀にはいって、しばらくたってからである。だとすれば、気づかぬうちに大世紀末にすでに歴史的な地殻変動がはじまっていたのではないか。
 何かが終わり、何かがはじまるのは、いつの時代も同じである。だが、それはふだんあまり意識されず、日々の仕事のなかで一瞬驚きをもたらすニュースとして流れるだけで、たちまち消え去っていく。大きなできごとは少しずつ時間をかけて人を包みこんでいくのだが、自身はそれに気づくことなく、流されていく日常を必死にもがきながら前に進もうとしていたのではないか。
 1985年から2000年にかけても、そんな時代だった。ぼくも会社の片隅で本の販売や編集という地味な仕事をしていたが、無能な人間なりに、一生懸命、与えられた目の前の仕事に励んでいた。あのころの自分のことを書くのは気が進まない。冷や汗の出る思いがする。要するに自慢できることはほとんど何もないのだ。
 それよりは、むしろ、あのころちらっと垣間見ただけで通り過ぎたできごと、そして、あのころの本などを取りあげて、遅まきながら、あのころ自分のまわりで何が起こっていたのかをたしかめてみたい。
何かえらそうなことを論じようというのではない。大きな歴史を書こうというのでもない。自分がサラリーマンとして中年を過ごした時代の回想である。
 本を取りあげるのは、これまで本とかかわることが多かった職業柄による。とはいえ、ここで扱うのは、自分に関心のあるごくわずかな本にかぎられてしまうだろう。教養のなさを痛感せざるをえない。
つまらぬ前置きはおしまい。だらだらと書いていく。はたして最後までいきつくか、先のことはわからない。

 まずは、はじまりの年、1985年を取りあげてみよう。吉崎達彦の『1985年』が失われた記憶を呼びさましてくれる。
 そのころテレビでは『金曜日の妻たちへ』がはやっていた。TBSから放送された、いわば不倫ドラマで、85年はシリーズ最後のパート3になる。8月30日から12月6日までの秋から初冬にかけ、毎週金曜日、午後10時から1時間の枠で放送されていた。脚本は鎌田敏夫だった。
 出演は古谷一行、板東英二、奥田瑛二、いしだあゆみ、小川知子、篠ひろ子といったあたり。小林明子が歌った主題歌「恋におちて Fall in love」が大ヒットした。

もしも 願いが叶うなら
吐息を 白いバラに 変えて
逢えない日には 部屋じゅうに
飾りましょう 貴方を想いながら
Darling, I want you 逢いたくて
ときめく恋に 駆け出しそうなの
迷子のように 立ちすくむ
わたしをすぐに 届けたくて
ダイヤル回して 手を止めた
I’m just a woman・・・
Fall in love

 作詞は湯川れい子、作曲は小林明子。英語をはさんだ歌詞もいやみがない。30代後半と思われる人妻の一途な恋が、いますぐにでも逢いたいのに逢えないという状況のなかで、切々と歌いあげられている。
白いバラは純愛をあらわしている。ダイヤル回して手をとめるのは、ためらいのなす業である。
 実年齢でいうと、このとき古谷一行は41歳、板東英二は45歳、奥田瑛二は35歳、いしだあゆみは37歳、小川知子は36歳、篠ひろ子も37歳だった。みんなほぼ団塊世代(戦後第一世代)だといってよい。
 ドラマでの役名を省略していうと、古谷一行は大手建設会社の設計部課長で、その妻が篠ひろ子だ。ふたりは東急田園都市線の町田あたりに住んでいる。小川知子は印刷会社の会社員板東英二と再婚し、長津田で「ソル・エ・マール(太陽と海)」というレストランを開いている。いしだあゆみは映画会社で翻訳字幕の仕事をしているが、かつて古谷一行と下落合のアパートで同棲していたことがある。奥田瑛二はいしだあゆみの務める映画会社の後輩だが、妻との関係はうまくいっていない。
 篠ひろ子と小川知子、いしだあゆみは、仙台のお嬢様学校、青葉女学院で幼稚園から短大までいっしょに過ごした仲だ。しばらく連絡がとれなくなっていたいしだあゆみと小川知子が偶然、銀座で再会したところからドラマは幕を開け、そのあと古谷一行や奥田瑛二がからんで、はらはらどきどきする1時間が展開する。最高視聴率は23.8%に達したという。
 お堅い厚生省もこの現象に注目し、のちに1998年の厚生白書「少子社会を考える」のなかで、「団塊の世代の専業主婦たちの不満と主婦役割からの脱出」というページを設けて、こう論じた。

〈『妻たちの思秋期』にしても、「金曜日の妻たちへ」にしても、今までなら何の不足もないと思われていた生活の中で、主婦たちというのは不満を抱いているものなんだ、ということを前面に押し出しました。これに世間はびっくりした。妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰のはずなのに、なんと不満をもっているらしいぞ、と。〉

 放映から10年以上たっていたのに、このドラマの記憶が残っていたところに、「金妻」の影響力の大きさがあらわれている。しかし、政府の「白書」に、「今までなら何の不足もないと思われていた生活」とか「妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰」といった記述があるのが男のホンネを感じさせる。そこに「主婦たちというのは不満を抱いてものなんだ」という「発見」がかぶさる。
 ここから、「白書」が女性の社会参加という政策を打ちだすことも目にみえるようだ。
 ところで、「白書」には「金曜日の妻たちへ」の前に『妻たちの思秋期』という本の名前がでてくる。『妻たちの思秋期』は共同通信の社会部記者、斎藤茂男が1982年に出版したルポで、書籍化にあたっては、ぼくが編集を担当した。
 このルポは、都市中流家庭の中高年の女性たちを登場人物にして、アルコール依存症におちいっていく主婦や、自分から離婚を宣言して夫と別れる妻たちの生の声が集められている。
「ごめんね、こんなになって。でももう少し飲ませて、お願い。手が震えてどうしようもないんだもの……」
「なにさ、よくもよくもほったらかしやがって! 25年間も! 25年もほうっといて! なにが仕事よう、聞きあきたよもう……」
 斎藤(さん)が取りあげようとしていたのは、記事として表面化することのない日常のなかにひそんでいる事件だった。
 味も素っ気もなくいってしまえば、事件記者から離れたあとの斎藤(さん)のテーマは、一貫して日本資本主義論だったといってよい。経済至上主義で突っ走る男たちの世界から侮蔑され、切り捨てられた、そのじつ経済社会を支える根源になっている女たちや子どもたちや虐げられた人たちの世界を抽象としてではなく、生の事実としてえがくこと。ぼくはすくなくとも、彼のテーマをそうとらえていた。
 じっさい『妻たちの思秋期』の「まえがき」にも、こう書かれている。

〈どうやら女たちは、男が疑うことなく営々と構築作業に精を出しているこの現代資本主義社会の、そのありように対して、夫という存在を通して本能的ともいえるような感性で疑問を感じとり、心と体のナマ身の表現で男たちに何かを呼びかけはじめている──この取材を通じて私はそのことを感じとった。〉

 しかし、現代資本主義論といってしまえば、いかにもおもしろくない。斎藤ルポの迫力は、あまり表にはでてこない、経済至上主義では片づかないナマの現実を、当事者の声としてそっくりそのまま読者に伝えるところから生まれていた。

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與那覇潤『平成史』を読む(5) [大世紀末パレード]

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 2011年から2019年までを一気に飛ばし読みしよう。
 2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9.0の地震と津波が発生。死者1万5899人、行方不明者2526人の惨事をもたらした。福島第一原発では、原子炉建屋が爆発するという大事故がおこった。
 このとき危機対応のため、民主・自民で「挙国一致内閣」が生まれる可能性がなかったわけではない。しかし、両党の調整はつかず、与党民主党内の混乱がつづく。
 福島原発事故から2カ月後、菅直人内閣はとつぜん浜岡原発(静岡県)の停止を要請する。それ以降も脱原発デモは収まらず、全原発の停止へとエスカレート。これに答え、政府は玄海原発の再稼働を阻止した。
 2012年3月に亡くなる戦後思想界の巨人、吉本隆明は1982年ごろから左派と決別し、核と原発を容認する方向に舵を切っていた。
 著者自身も脱近代や脱原発に批判的な姿勢を示している。
 菅直人政権は粘り腰を発揮して、内閣不信任案の危機を乗り越え、10%の増税案と東京電力支援を決定したうえで、2011年8月10日に退陣を表明。民主党代表に就任した野田佳彦に内閣を引き継ぐ。
 野田は党内の不協和音をかかえながら、消費増税と原発ゼロという難題を解決するため、自公民大連立の可能性を探っていた。だが、それは実らない。
 竹島・尖閣問題が浮上し、韓国、中国との外交関係が悪化する。さらに石原都知事が尖閣諸島を東京都が買い上げると公言したことから、野田は2012年9月11日に尖閣諸島の国有化に踏みこむ。それにより中国全土で激しい反日デモが発生した。
 このころ雑誌『Voice』はポピュリズムを肯定する論陣を張り、橋下徹の維新の会をもちあげるようになっていた。
 2012年10月には石原慎太郎が都知事辞職を表明し、「太陽の党」を結成、さらに「日本維新の会」との合流を決める。だが、危機に乗じて、このさい一挙に総理の座を狙うという野望は、たちまちついえることになる。
 自民党では9月の総裁選で安倍晋三が劇的なカムバックを遂げた。すでに解散の覚悟を決めていた野田首相は11月14日の衆議院党首会談で、安倍自民党総裁と対決する。
 12月16日に総選挙がおこなわれる。その結果、自民党は単独で294議席と圧勝、民主党はわずか57議席と完敗。第3党の日本維新の会との議席差はわずか3議席。民主党政権に代わって自公連立の安倍政権が誕生し、左右連携の可能性は消えた。
 安倍政権がかかげたアベノミクスは株価の急騰や大幅な円安をもたらした。長期不況は終わるかのようにみえた。
 2013年にはAKBブームがおこり、「恋するフォーチュンクッキー」がヒットする。
 だがアベノミクスの熱狂は1年半ほどで去る。その間、賃金所得はあまり増えなかった。消費拡大も消費税率アップを見越した駆け込み需要が後押ししたにすぎなかった。
 安倍政権では、日本銀行の金融政策で政権を好転させるリフレ発想が注目を浴びた。それは日銀が市中の国債を買い上げることで、マーケットに資金を供給し、大幅な金融緩和を実施するものだ。
 だが、賃金が上がらないため、株価だけ上がっても景気が良くなったという実感はわかない。日本経済は平成期を通じて、海外依存体質になっていた。海外からは安い商品がはいってきて、物価を引き下げる。しかし、デフレになるからといって、海外からの輸入品を締めだすわけにはいかなかった。
 安倍首相の就任当時は、強力な首相が日銀総裁に命令して、人為的に好景気をつくるというような雰囲気が生まれ、国民もそれを喝采した感があった。だが、それはたちまち馬脚をあらわす。
 外国人投資家の動きもあって株価は急上昇したあと、すぐに低迷し、日銀が目標とした2%の物価上昇もなかなか実現しない。アベノミクスの成果とされたGDPの増加も、算出基準の改変によって、かさ上げされていることがわかった。
 日本発のメッセージを求める声は、過去の再構成へと流れこんでいく。2013年には映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットし、百田尚樹の『永遠の0』が映画化にともないベストセラーとなる。宮崎駿の『風立ちぬ』もそうした歴史修正主義の一翼を担っていた。白井聡の『永続敗戦論』も裏を返せば反米ナショナリズムのあらわれだった、と著者はいう。
 2013年5月、大阪市長となっていた橋本徹は慰安婦制度は必要なものだと発言してひんしゅくを買い、維新旋風に水を差した。石原慎太郎とも決別して、党は分裂、その2年後、大阪都構想の是非を問う住民投票でも反対派に敗れ、政界引退を表明することになる。
 いっぽう、7月の参院選で、自民党は31議席増の歴史的大勝をとげ、公明党と合わせ、参議院でも与党で過半数を回復する。渡辺喜美を代表とする「みんなの党」は分裂し、翌年解党する。
 野党が低迷するなか、安倍政権は国家主義的な色彩を強め、年末に特定秘密保護法を成立させ、2014年7月には集団的自衛権容認を閣議決定する。
 石原都知事の後継となった猪瀬直樹知事がスキャンダルで辞任したあと、2014年2月には東京都知事選がおこなわれ、舛添要一が自公推薦で当選する。「反原発」をかかげて立候補した元首相の細川護熙は、共産・社民が推薦する宇都宮健児にも競り負けて、3位となる惨敗を喫した。
 2015年5月に安倍内閣は集団的自衛権を行使する条件や手続きを定める安保法制を国会に提出し、9月に成立させた。
 このときSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)を名乗る若者たちが街頭に現れて抗議デモをくり広げた。だが、さして大きな広がりはなく終わった。
 2016年7月10日の参院選では自民・公明・維新が勝利し、改憲勢力は、衆参あわせて3分の2を突破した。
 参院選から3日後の7月13日、NHKは天皇が生前退位する意向であることをスクープする。8月8日に天皇自身がビデオメッセージを通じて、退位の趣旨を国民に説明した。
2017年には退位のための特例法が成立する。その前年から、言論界では天皇制への礼賛が相次いだ。「批判的な知識人たちは、ここに及んでちにこと切れた」と、著者は評している。
 2016年6月にはイギリスが国民投票でEU脱退を決定、11月にはドナルド・トランプが米大統領選に勝利する。国際社会は地すべり的な急変を遂げようとしていた。
 2017年5月には、韓国で左派系の文在寅(ムンジェイン)が大統領に就任。加速する韓国ナショナリズムを制御できず、日韓関係は悪化する。
 中国では第2期習近平体制が発足し、「習近平思想」のもと個人崇拝傾向が強まる。2018年3月には、憲法改正によって、国家主席の任期が撤廃された。
 ポスト冷戦期の民主世界が揺らぎはじめた。
 2016年7月には、政治資金問題で辞職した桝添要一に代わって、自民党を離党した小池百合子が東京都知事の座を射止める。翌年7月の都議選でも新党「都民ファーストの会」を立ち上げ、自民党に圧勝。
その勢いをかって、小池は10月の衆院選でも「希望の党」を結成し、自民党を倒すと宣言した。これに前原誠司を代表とする民進党が乗って、合流することを発表。
 ところが、小池が民進党左派は「排除いたします」と表明したことにより、小池支持は急落。悲壮な表情でリベラル結集を訴えた枝野幸男の立憲民主党が希望の党を抑えて野党第1党の座を確保した。とはいえ、バラバラになった野党に自民党が圧勝するのはあきらかだった。
 このころ注目されたのが、安倍官邸との蜜月を保っていた右派団体の日本会議だ。著者によると、その思想は素朴な前近代への郷愁にほかならなかった。
 2016年には『シン・ゴジラ』と『君の名は。』が映画館をわかせていた。ともに5年前の震災と原発事故を主題としたものだが、題名からして昭和の郷愁をただよわせながら、ハッピーエンドで終わる。
 小説では村田紗耶香の『コンビニ人間』、又吉直樹の『火花』が話題になった。壊れてしまった社会のなかで、どう生きていくのかが問われるようになっていた。
 2017年には国分功一郎の『中動態の世界』が話題になる。中動態とは、強制されたわけではないが、かといって能動的でもない状態を指す。映画は『この世界の片隅に』がロングランをつづけていた。原爆投下前後の日常を、受け身の主人公が生き抜く姿をえがく。
 2018年にはいると改元が目前に迫っていた。メランコリーな気分が世の中をおおう。1月21日には評論家の西部邁が命を絶った。
 3月、アメリカのトランプ大統領がとつぜん北朝鮮の金正恩委員長との首脳会談を発表し、世界はあっけにとられる。だが、それはトランプ一流のはったり外交で、けっきょく会談は物別れに終わる。
 平成の30年間は、マクロ的にみれば、「アメリカの衰退」と「中国の台頭」(そして日本の没落)の時代だった、と著者はいう。そうしたなか中国への警戒感が強まっていった。
 もはや中国を叩き潰すことはできない。その代わり、フェイクと「やってる感」の政治が横行する。いっぽうリベラル派はほとんど対抗軸をもたず、次々とおこるできごとに目先で対応することに追われるばかりだった。
 AKBグループにかげりがみえ、韓国のK-POPがはやるようになる。日本はGAFAどころか、ファーウェイやサムソンさえ生みだせなくなっていた。
 2019年4月1日、安倍政権の菅義偉官房長官によって新元号「令和」が発表される。
 2018年から19年にかけては、平成と昭和というふたつの元号が同時に幕を下ろすかのような「別れの季節」になった、と著者はいう。
 2018年9月には歌手の安室奈美恵が引退した。2019年はじめには作家の橋本治が亡くなる。さらに5月には評論家の加藤典洋が世を去る。
 著者は平成史の記述を終えるにあたって、過去からの歩みをなぞることが、人類や社会の「進歩」を描くことと等価だった時代はとうに去ったと書いている。
過去に向かってボールを投げ込んでみることは、子どもじみた遊びみたいなようなものかもしれない。しかし、そこから模索の果ての成熟のようなものがもたらされるのではないかとも述べている。
 平成史は日本没落の歴史でもある。だが、同時にそれは未来への成熟した思想をもたらす熱源となりうるのだ。

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與那覇潤『平成史』を読む(4) [大世紀末パレード]

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 平成も後半にはいる2005年(平成17年)から2010年(平成22年)までの動きを追ってみる。
 2005年8月、郵政民営化法案は自民党から大量の造反者を出しながらも衆議院を通過、そのあと参議院で否決されると、小泉純一郎首相はまさかの衆議院解散に踏み切った。このとき、党を追放された造反組は国民新党を結成した(代表、綿貫民輔、代表代行、亀井静香)。
 9月に実施された衆議院選挙(いわゆる郵政選挙)では予想をくつがえして自民党が圧勝、公明党とあわせて、衆院の3分の2を超える議席数を確保した。
 憲法改正が現実味を帯びる。2006年8月15日の終戦記念日、小泉はそれまで避けてきた靖国神社参拝を強行し、中国共産党の反発を買った。だが、著者によれば、そのころから平成の政界は「強い保守」を求める「保守ノスタルジア」に覆われていった。
 小泉政権成立以降、日本の政治は内政的には新自由主義、外交的にはナショナリズムの強化へと転換していったといえるだろう。
 そんななか、ポスト冷戦の軽やかさからはじまった平成の論壇は、暗くて重い論調にトーンを変えていった、と著者はいう。
 中沢新一は、このころ天皇制をグローバリズムに対抗しうるアジール(避難所)ととらえるようになり、「日本回帰」していく(『アースダイバー』シリーズのはじまり)。
 昭和ブームにも火がついた。映画では『ALWAYS 三丁目の夕日』や『パッチギ!』、『フラガール』がはやり、テレビでも山崎豊子や松本清張のドラマが取りあげられ、出版では武士道徳の復権をうたう藤原正彦の『国家の品格』がベストセラーになった。
 2005年3月から9月にかけて愛知県で開かれた愛知万博は、当初、破綻が確実視されていたにもかかわらず2200万人の来場者を集め、成功を収めた。技術重視から環境重視の万博に転換したことが成功のカギだったとされる。
 そこにもどこか昭和ノスタルジアがはたらいていた。だが、吉見俊哉によると、同時にそれはトヨタの文化施設のようでもあり、おいしいところはグローバル企業の経済活動に組み込まれていた面もあったという。
 2006年1月には「風雲児」の名をほしいままにしていたライブドアの堀江貴文が逮捕され、9月には保守派のプリンス安倍晋三が首相の座を手にした。
 堀江の築いたライブドアは「子どもたちの解放区」だったという。服装は自由で、定期採用もなく、いつ入社しても、いつ辞めてもOKだった。その実体はIT事業よりもファイナンスと事業買収に置かれていたという。そのグレーな取引が摘発され、堀江は逮捕されることになる。
 元通産官僚で、投資家の村上世彰も堀江貴文とのからみで、2006年6月にインサイダー取引の疑いで逮捕されている。
 第1次安倍政権(2006年9月〜2007年9月)では、多くの有権者が「安倍さんを好きでもないけど、野党がダメすぎるから支持せざるを得ない」と感じていた、と著者は記している。ともかくもナショナリズムをぎらつかせる子どもっぽい政権だった。
 憲法改正につながる国民投票法や戦後初めての教育基本法の改正は、保守層にアピールしても国民全体の関心とはずれていた、と著者はいう。
 2007年7月の参院選で自民党が大敗したにもかかわらず、続投を表明した安倍政権は内閣改造のあと、投げだし辞任する。
 そのあとを継いだ福田赳夫の長男、福田康夫は民主党に大連立をもちかけるものの、民主党内からの激しい反発にあって断念する。それから1年足らずの2008年9月、不信感をぶつける記者に「あなたとは違うんです」とのことばを残して、またも政権を投げだす。
 このころから日本の政治は、改革よりも「懐かしい戦後」への回帰をめざす雰囲気に包まれていく、と著者はいう。
 2008年には朝日新聞の『論座』、文藝春秋の『諸君!』が休刊、中道左派と中道右派の雑誌が売れなくなり、論よりも主張のほうがもてはやされる傾向が強まった。2004年に創刊された『月刊Will』がヒットする。より右の雑誌が売れ、より左の雑誌が売れなくなった。
 このころ団塊世代は定年を迎えようとしていた。成人するころにバブル崩壊を迎えた団塊ジュニア世代にとっては、団塊世代は逃げ切りの世代で、上野千鶴子が2007年に出版してヒットした『おひとりさまの老後』などには「ふざけるな」と言いたいところ、と著者はいう。「老若格差」が生まれようとしていた。
 2008年には姜尚中の『悩む力』がヒットする。著者によれば、それは養老孟司の『バカの壁』のマネで、処世訓とたわいない話の羅列にすぎない。
 それよりも重要なのは、団塊世代が大量に退職したにもかかわらず、若年層の就職率や正社員比率が改善に向かわなかったことだ。その理由としては、多くの企業が再雇用政策を採用して、事実上の定年延長をはかったこと、競争社会と自己責任の名のもとで社会の上下分断が進んだことが挙げられる。
 言論空間は中道の左右だけではなく、年齢の上下でも引き裂かれていく。社会の全体性の解体が進み、「もはや個体としての自分の周囲にしか関心をもてず、世の中はバラバラで誰も助けてくれないとするドライな認識が広がってゆく」。
 2008年6月には元派遣工の青年が通り魔で多くの人を殺傷する「秋葉原事件」が発生する。
 その1年ほど前、赤木智弘は『論座』に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター 希望は、戦争」というエッセイを発表して評判を呼んでいた。社会が硬直化するなか、就職氷河期世代が発した叫びだった。
 2008年には宇野常寛が『ゼロ年代の創造力』、濱野智史が『アーキテクチャの生態系』でデビューする。ネット社会とのつながり方が問われはじめていた。
「やがて来る一億総SNS時代とは、だれもが・どこでも『薄められた秋葉原事件』を起こし続ける異様な空間──いわば「日常化した非日常」なのかもしれない」と著者はいう。
 2008年9月には、始終放言する豪快さがネットで人気だとされて、麻生太郎が首相に就任する。しかし、それは実体を伴わないネットの虚像で、当初から麻生政権にそれほど人気はなかった。
 いわゆるリーマン・ショックがおこるなか、日本でも金融危機が波及し、内閣支持率は急落する。加えて、内閣の相次ぐ不祥事と首相自身の失言によって、国民が自民党を見限るようになる。
 2008年末には中谷巌の『資本主義はなぜ自壊したのか』が出版され、ベストセラーとなった。かつて政府の「経済戦略会議」の議長代理を務めた中谷が資本主義の限界を指摘したのが印象的だった。
湯浅誠の『反貧困』や堤未果の『ルポ貧困大国アメリカ』にも注目が集まった。アメリカ型の資本主義が貧困を招いている現実が指摘されるようになった。
 麻生政権は支持率低下が止まらないなか、衆議院議員の任期満了に追いこまれた。その結果、2009年8月の選挙で、民主党が政権の座を射止め、9月に鳩山由紀夫内閣が発足する。
 鳩山内閣への期待は大きく、当初の支持率は75%だった。ところが、翌2010年5月には19%に降下、首相が菅直人に交替すると64%に回復する。だが、それもすぐに下がりはじめる。
 民主党政権はなぜかくも不安定だったのか。著者はそれを「遅すぎた祝祭」と名づけている。
2009年3月段階では民主党の代表は小沢一郎だった。その小沢の資金団体「陸山会」に検察のメスがはいったことから小沢は代表を降り、鳩山が代表となった。しかし、党内のたずなはあくまでも小沢が握っていた。そのため党内抗争が絶えず、小沢の力は次第に弱っていく。
 さらに目の前に大きな課題が立ちふさがる。鳩山は米軍普天間基地を「最低でも県外」に移設すると表明した。2006年5月に日米政府は辺野古案で合意している。それを辺野古案は無理筋だとして覆すには、周到な準備が必要だったはずなのに、鳩山は人気を背景に突っ走ろうとする。その結果、混乱を招いた。
 鳩山のうたう情報公開も究極のインターネット・ポピュリズムに道を開くものだったという。開放的な雰囲気のなか、閣僚が自由にしゃべればしゃべるほど閣内の不一致が露呈し、支持率は低下。検察は陸山会事件で小沢一郎を起訴相当と議決、2010年6月に、鳩山代表と小沢幹事長がダブル辞任した。
 このころ平成後期の論客として登場したのが内田樹だったという。その脱力系のスタイルは、「よくも悪くもこれが日本」というとらえ方で、いきりたった改革よりも、ご近所の幸せを求める「『うつ』的とも見える保守の気分」を示すものだった、と著者は言いきる。
 このころの地方自治は「何だか新しそうな」傾向に乗るという傾向が強く、タレント首長ブームが続いていた。2008年には橋下徹が大阪府知事に当選し、2010年には「大阪維新の会」を結成、やがてそれを国政政党に育てていく。橋本はSNSやメディアをフル活用し、庶民感覚で既成政党や官僚を批判し、人気を博した。
 2010年6月には鳩山由紀夫の後を継いで、菅直人が民主党政権2代目の首相となった。鳩山内閣の後半に財務相を体験した菅直人はG7の会合に出席し、ギリシャより日本の財政状況が悪いことにショックを受け、消費増税路線に転じたといわれる。しかし、消費増税を訴えた7月の参院選で惨敗、今度は民主党が参議院で過半数を失うねじれ国会となった。
 その年、9月の民主党代表選で、菅は小沢一郎を破って続投を決め、人気を取り戻した。だが、そのさなかに尖閣諸島沖で中国漁船の衝突問題がおき、その処理をめぐってぎくしゃくし、「弱腰外交」との非難を招く。
 2010年には中国がGDPで日本を抜いた。菅直人政権は米国の対日不信がつづくなか、韓国との良好な関係をつづけた。これにたいし、野党の自民党は顕著にナショナリズム的傾向を強めていく。
 そこに2011年の3・11が襲いかかる。

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與那覇潤『平成史』を読む(3) [大世紀末パレード]

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 世紀をまたぐころ、1998年(平成10年)から2004年(平成16年)にかけての流れをみていく。
 1999年4月、石原慎太郎が東京都知事に当選する。保守派の論客として25年間国会議員を務めた石原は、自民党内ではどちらかというと浮き上がった存在だった。東京都知事への挑戦は一種のリベンジだった。
 その高校時代の同級生で、竹馬の友ともいえる江藤淳は99年7月に自宅の浴室で自殺する。妻の死とみずからの病気により、いささか情緒不安定になっていたようだ。
 日本を「母性優位の社会」ととらえる江藤にたいし、国家を人格とみて、「俺のようなマッチョな男こそが政治の中枢を担い、国家に活を入れなおさなくてはならない」というのが石原の思想だった、と著者はいう。石原の都知事当選は、「あたかも平成に対する『昭和の帰還』を見せつけた感」があったと。
 99年3月には宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』が発売され800万枚の大ベストセラーになる(デビュー曲は前年の「Automatic」)。プロダクションやレコード会社を通さないスタイルで、いきなりのホームランだった。
 1998年には小林よしのりが『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』を刊行していた。このなかで、小林は左派系の知識人を罵倒しながら、「国民は軍部にだまされていただけ」と主張してきた「敗戦後の日本人」にも厳しい目をむけていた、と著者はいう。
 だいじなのは国家であり、国家を守るプロの政治なのだという意識が浮上していく。
 この年には「つくる会」の教科書、西尾幹二の『国民の歴史』が産経新聞から出版され、ベストセラーとなった。
 そのころ『批評空間』グループからデビューしたのが団塊ジュニア世代の東浩紀(あずま・ひろき)で、98年に最初の著書『存在論的、郵便的』が出版され、注目を浴びた。
 著者によれば、ベタなフロイト型の精神分析ではもう説明できない時代がはじまっているのに、既成の文壇や思想界はあいかわらずで、想像力が追いついていないというのが、東の感性の出発点だったという。
 2000年には福田和也が『作家の値うち』を出版し、小説に点数をつけて、大いに物議をかもした。
 同じ年、Amazonが日本に上陸。読者が本のレビューに☆をつけて採点する方式が導入された。巨大匿名掲示板としての「2ちゃんねる」も、この年に発足している。
 1998年7月から2000年2月にかけては小渕恵三が日本の首相だった。小渕の急死を受けて、森喜朗が首相を継ぐ。このころ議会は、衆参で多数派が異なる「ねじれ」状態にあった。
 世界をみると、イギリスでは労働党のトニー・ブレア、ドイツでは社会民主党のゲアハルト・シュレーダー、イタリアでは「オリーブの木」のロマーノ・ブロディ、アメリカでは民主党のビル・クリントンが政権を担っており、どちらかというと中道左派の勢いが強かった。韓国でも民主化運動の象徴とされてきた金大中が大統領となり、台湾でもそれまでの国民党に代わって、民進党の陳水扁が政権を奪取した。
 そんななか、相変わらずの派閥重視の姿勢をつづける日本の自民党政治はいかにも古くさく感じられた。
 しかし、この時期にこそ、平成政治の方向性が定まった、と著者はいう。
 ひとつは自民党と公明党の連立がはじまったこと、もうひとつは共産党が「最左派の野党」として定着したこと(それにより野党は常に分裂する)。
 こうして、小選挙区時代に自民党が延命できる仕組みがつくられた。
 公明党は都市部での組織票を自民に回すかわりに、「選挙区は自民、比例は公明」にと訴え、みずからの議席を確保した。
 いっぽうの日本共産党は前の自社さ連立政権への失望と、それ以降の社民・さきがけの凋落により、政権批判票をつかんだ。それ以降、妥協を拒否し「左バネ」をきかせることが、共産党のモラルとなっていく。
 1975年に社会・共産・公明が組んで、美濃部亮吉都知事の3選を実現した時代は遠い過去になりつつあった。

 2001年4月には、小泉純一郎が総理の座を射止め、5年半にわたる長期政権をスタートさせる。
 小泉政権は民間人の竹中平蔵を重要閣僚に任命するなど「サプライズ人事」をおこなった。しかし「小泉政権が採用した政策は、多分に平成初頭の細川護熙非自民政権がめざした路線を、むしろ自民党の再生のためにリサイクルしたもの」だった、と著者はいう。
 前年11月、不人気な森喜朗内閣を倒そうとした「加藤(紘一)の乱」は切り崩しにあって挫折していた。小泉の登板は、いわばその憤懣を継承するかたちとなった。
 小泉政権で記憶に残るのは道路公団民営化と郵政民営化だろう。「官から民へ」というスローガンは、世論受けして、「抵抗勢力」を排して実行されることになる。
 小泉の懐刀となった経済学者の竹中平蔵は、ネオリベラリズムの代表とみられがちだが、じつはしばしば意見を変えていた。2001年に入閣した時点でも、竹中は小泉の公約である「国債30兆円の枠」堅持に懐疑的だったという。竹中はもともと増税プランを支持していたが、小泉が任期中の消費税増税を封印すると、それに追随していく。
 小泉─竹中路線でよく知られるのは、バブル崩壊後、銀行に累積していた不良債権を強行処理したことだ。2003年5月のりそな銀行危機にあたって、政府は2兆円の公的資金を投入する代わりに、経営陣を入れ替え、事実上の国有化をはかった。
 2001年9月には、アメリカで9・11テロ事件が発生していた。これにたいし、アメリカは翌月からアフガニスタン空爆に踏み切る。小泉政権はアメリカを全面的に支持、テロ対策特措法を成立させる。
 そこから2003年末のイラク戦争への自衛隊派遣までは一直線だった。憲法との整合性は無視され、秩序をもたらすのは結局は力だという乾いた現状認識が突出するようになる。
「反左翼・反戦後」を掲げる、「新しい歴史教科書」グループは分解する。西部邁と小林よしのりは、憲法改正を唱えながら自民党の対米従属を批判する反米保守の隘路へとはいっていく。
 柄谷行人らの『批評空間』も現実の政治情勢に翻弄されながら、終焉を迎える。柄谷が立ち上げた社会運動NAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント)の失敗が引き金となった。
 柄谷がこの運動をはじめたきっかけは、1999年末に事実上日本が法的にいつでも戦争ができる体制を完成し、それにたいし議会政治があまりに無力だったからだという。うむをいわさず法整備を進め、それを国民に押しつけていく保守政治のスタイルが生まれつつあった。だが、柄谷の運動はこれに抗しえない。
 ウェブ空間が広がるようになったのは、このころからだ。それは当初、反独占と自由を志向するメディアのようにみえたが、しだいに多くの人から反響を集めるための扇情的メディアに代わっていく。
キャラと感情が論理よりも優位になる。何と2001年9月には小泉首相の個人写真集までが発売される。そんななか、論壇空間は衰弱していった。歴史の重みも消えようとしていた、と著者はいう。

 2003年10月には、イラク戦争への自衛隊派遣がはじまる。しかし、反戦デモはいまひとつ盛り上がらない。「いいことだとは思わないけど、まあしかたないかな」というのが平均的な世論だった、と著者はいう。
 そのころ、民主党は小沢一郎の自由党を吸収して、勢力を拡大しつつあった。11月の衆院選では比例区の得票数で自民党に競り勝ち、2004年7月の参院選でも1議席ながら自民党の議席数を上回った。これにたいし、社民、共産は大敗し、いわゆる「左翼」は衰退していく。
 養老孟司の『バカの壁』がベストセラーになったのは、このころだ。著者によれば、この本があたったのは、厳密な論理よりも、わいわい盛り上がろうという空気感をすくいあげることができたためだ。歴史の重みにとらわれない、軽く右寄りのスタイルが人に安心感を与えたのかもしれないという。
 理性でははかりしれない事件が頻発していた。1997年の酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)、99年の桶川ストーカー事件、2000年の西鉄バスハイジャック事件、2001年の附属池田小事件。『バカの壁』がヒットした背景には、こうした異常としか思えない事件への不安も横たわっていた。
 そうしたなか、精神科医の斎藤環は、「心」を問うことなく、すべてを脳内物質の働きに還元し、マニュアル化した治療法や投薬で問題を解決しようとする傾向を批判している。
 家庭内にもインターネットが浸透していた。東浩紀はインターネットを「環境管理型権力」と名づけ、人間をコントロールする新しい力ととらえた。FacebookやYou Tube、Twitter、iPhoneなどが登場するのは2003年から2007年にかけてだ。
 2000年代前半、日韓関係が政府間レベルで悪化するのとは裏腹に、日本では韓国ドラマを中心に韓流ブームが巻き起こった。『冬のソナタ』は『宮廷女官チャングムの誓い』などが評判を呼んだ。
 日本はイラクへの派兵を拒みとおすことはできなかったものの、国内では、政府の方向性とは別の反米自立への志向も芽生えつつあった。
 とはいえ、景気は悪くなっていたから、「攻撃的な排外主義」(ネット右翼)の勢いも強くなっていく。韓流ブームと裏腹に「嫌韓」が流行しはじめる。さらに中国の台頭に反発する「反中」も広がっていく。
 日本のインターネットは「これまで表では言えなかった、どす黒い本音」を吐き出しあって、同志をつのる場所になっていった、と著者はいう。
「戦後の雰囲気」にしたりきっている文化左翼は、そうした勢いに対抗する方向性を打ちだすことができない。
 2003年には日本でもアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『〈帝国〉』が邦訳出版された。『〈帝国〉』はポスト9・11のアメリカ帝国を批判する本として受けとめられていくが、それはあきらかに誤読だった、と著者はいう。帝国はのちのGAFAに代表されるようなメガ・プラットフォームのことだ。
 時代を引っぱっていく理念をどこにも見つけられなくなっていた。平成の半ばはそんな状況になっていた、と著者はいう。
 こんなふうにまとめてみると、ずいぶん昔のできごとのようにみえて、それはついきのうのことなのだとわかる。

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與那覇潤『平成史』を読む(2) [大世紀末パレード]

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 1993年(平成5年)8月、日本の政治に大きな転機が訪れる。自民党一党支配が崩れ、非自民8党派による細川護熙連立内閣が発足するのだ。
 著者は「政治改革を掲げて成立した細川非自民政権にもまた、メディアが先行してイメージを作り出した側面」があったと述べている。とはいえ、イメージが政治を動かすのは、この時代にはじまったわけでもあるまい。
 細川政権待望論は早くから盛り上がっていた。『文藝春秋』は1992年6月号に細川の「『自由社会連合』結党宣言」(実際の執筆は学習院大学教授の香山健一)なる寄稿を掲載、その勢いのまま「日本新党」が結成される。7月の参院選選挙で、日本新党は細川自身と小池百合子ら4人の当選をかちとった。それがあっという間に、翌年の細川内閣成立にいたるのである。
 細川を首相にかついだのは、自民党を離党して「新生党」を結成した小沢一郎だった。小沢は衆院選前の1993年5月に『日本改造計画』(実際の執筆は御厨貴、北岡伸一、飯尾潤、竹中平蔵、伊藤元重)を出版する。小選挙区制の導入が強く打ちだされていた。ゆるい選挙改革をめざす細川の考え方とは、あきらかにちがっていたという。
 その結果、小沢一郎がリードする細川政権は「大胆な改革」へと歩みだし、瓦解していくことになる。
 1993年には幻冬舎が設立される。社長の見城徹は慶応大学出身で、熱心な全共闘参加者だった。規範破りというべきその大胆な出版は「平成前半のアナーキー(なんでもあり)な文化環境に貢献した」と、著者はいう。
 そのいっぽうで、90年代初頭は「ベタな物語回帰」の時代だったというのがおもしろい。「愛は勝つ」という歌がヒットしたり、テレビでは禁断のドラマ『高校教師』やストリートチルドレンが生き抜く『家なき子』がはやったりと、うそっぽいのにまじめくさった虚構の雰囲気がもてはやされた。
 そのころ花田紀凱(かずよし)が編集長を務めていた『週刊文春』が美智子皇后をバッシングし、そのせいかどうか、皇后が倒れ、失語症になったというできごともあった。
 1991年に日本初のヘアヌード写真集を出した篠山紀信は、引きつづき宮沢りえの写真集を出し、大反響を呼んだ。平成初頭には性の解放の空気があった、と著者はいう。
 宮台真司や上野千鶴子が注目されるようになる。
 宮台によれば、革命によって「絶対の正義」が実現するなどというのは幻想にすぎない。それでも、これまでの世間のまなざしに代わる新しい何か(いわば脱近代の共通感覚)が求められていた。
 1994年6月にはオウム真理教が「松本サリン事件」を引き起こし、さらに翌年の「地下鉄サリン事件」へと突き進んでいく。
 1995年10月、テレビ東京で『新世紀エヴァンゲリオン』の初回が放送される。エヴァンゲリオンを著者は人類全体の浄化(革命)をめざす空虚な父と、父と対決しながら成長していく息子の物語としてとらえている。端的にいえば、全共闘の父殺しの話だ。
 このとらえ方が正しいかどうかわからない。少なくとも著者が「革命ごっこ」に反発を感じていることはたしかだ。江藤淳はそうした「革命ごっこ」=成熟しない政治意識の裏に、日本の対米依存と裏返しの安直な対米反発とがあるととらえていたという。
 1994年から95年にかけては社会党左派の村山富市を首班とする自社さ連立政権が成立した。その官房長官、五十嵐広三は元旭川市長で、社会党の衆院議員。日韓基本条約によってカバーしきれない元慰安婦への償いをおこなうため財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を創設する。だが、正式の国家賠償ではないということで、韓国の運動家から強い反発を受ける。
 韓国では軍事政権が終わり、最後の軍人大統領、盧泰愚のもとで1987年に民主化宣言が発表された。翌年のソウルオリンピック成功にもとづき、韓国にも雪解けが訪れる。だが、そのとき長らく抑圧されてきた記憶が火を吹き、慰安婦問題が浮上してくるなどとはだれも思わなかったという。
 著者いわく。「それを包みこむ共通の歴史観を提示する準備は、誰にもできていなかった」。
 自社さ連立政権とは何だったのか。それは小沢一郎らを政権から放逐するために成立した「日本史上稀な大連立政権だった」という。首相の座に就く社会党の村山は、このとき「日米安保容認・自衛隊合憲」へと立場を180度転換した。
 村山政権は多難に襲われる。1995年1月17日には阪神・淡路大震災、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生する。
 このとき現実的な対応を求められるなか、昔ながらのマルクス・レーニン主義は完全に求心力を失い、社会党は完全に分解していく。それに代わるものとして出てきたのが、なんとなく「保守」と対立する「リベラル」という看板だったという。
 そのころ、暗い雰囲気を吹き飛ばすような音楽がはやりはじめる。ユーロビートに乗った、カラオケ重視のメロディ。作曲家・プロデューサーの小室哲哉のつくる歌がヒットする。華原朋美とTRFの時代。それにつづきモーニング娘もデビューを果たす。
 著者は1995年にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが自殺したことにもふれている。流動する全体社会のなかで人がサンプルかデータになってしまいかねない状況において、知識人の存在も危機にさらされていた。
 1996年には丸山眞男、高坂正堯、司馬遼太郎が亡くなる。
 晩年の丸山は民主主義といい、社会主義といい、マスコミが理念と現実をごっちゃにして論じていることを批判していた。大学人に収まらない反骨の思想があった。戦後日本の「一国平和主義」を超えた国連の改組も構想していたという。
 いっぽう、当初憲法9条の価値を認めていた高坂は、次第に憲法9条が日本人の思考を停止させていると考えるようになり、その改正をうたうようになる。
「明治の栄光」を描いたかのようにみえる司馬遼太郎は、実際には「越境的な想像力を発揮して、国民の概念をむしろ相対化しようとしていた」というのが著者に見方だ。
 1997年にはこうした3人のもっていた歴史との緊張感が失われ、のっぺりした「歴史らしきもの」=民族一丸史観が頭をもたげる。それが「右傾化の原点」だった、と著者はいう。
「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、「日本会議」が結成されたのは、この年だ。
 自民党は衆院で単独過半数を回復し、橋本龍太郎内閣(1996年1月〜98年7月)のもと、社民党とさきがけの存在感はすでに薄くなっていた。小沢一郎の新進党は極端にタカ派化していた。
沖縄特措法改正が成立する。これにより沖縄県知事が代理署名を拒否した場合も米軍が基地として土地利用を継続できるようになった。
 背景には1995年9月に発生した米海兵隊員による女子小学生輪姦事件があった。沖縄県民の怒りが爆発するなか、知事の大田昌秀は沖縄の基地固定化に危機感を覚え、米軍基地縮小に政治生命を賭していた。
 日本政府は沖縄県の対応を退け、沖縄特措法を改正した。そのうえで96年4月に、アメリカ側と移設先を準備するという条件付きで、普天間基地の返還に合意する。
 1993年に細川護熙首相は先の大戦を「侵略戦争、間違った戦争」と明言していた。これにたいし、自民党からは猛烈な反発が巻き起こった。
 とはいえ、このころまでは自民党内の一般的な見方は、国際的に侵略戦争と批判されているのは承知しているが、現在の日本は憲法9条を掲げることで、過去への反省を示しているというものだった。それが次第に変わりはじめる。
 1995年には、村山政権のもと、閣議決定にもとづいて、いわゆる「村山談話」が発表された。談話には「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という見解が示されていた。この談話には閣僚だった橋本龍太郎、河野洋平、亀井静香、野中広務も賛同していた。
 ところが、1997年を曲がり角として、次第に右旋回がはじまるのだ。
「新しい歴史教科書をつくる会」の発足にあたり、当時、東大教育学部教授の藤岡信勝は自由主義史観を唱え、歴史修正主義へと踏みだした。
 その動きは「表立っては主張できなかった『昭和のホンネ』を、一挙に噴き出させる蟻の一穴になった」と、著者は評する。
 だが、当初の意気込みとは異なり、「つくる会」はまもなく極右と同義となり、国民運動になるまでにはいたらなかった。「歴史の『修正』というよりも衰弱、皮相化がはじまってゆく」というのが、著者の見方である。
 マルクスと天皇がなきあとの平成ゼロ年代を、著者はしばしの無邪気でアナーキーな時代ととらえているようにみえる。やがて「現実」の報復がはじまる。
 1996年にアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』を刊行した。『文明の衝突』はフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を批判したもので、異なる文明とは対決するほかないというニヒリズムの書物として受容される。
 1995年にはジェフ・ベゾスがオンライン書店としてAmazonを開業、96年末にはスティーブ・ジョブズがAppleに復帰。いわゆるGAFAの時代がはじまろうとしていた。
 1997年7月にはタイを起点として、アジア通貨危機が発生する。危機は周辺地域におよび、年末には韓国がIMFの管理下にはいる。
 日本では4大証券のひとつ、山一証券が廃業するにいたる。「社員は悪くありませんから!」という悲壮な社長会見が語り草となった。日本のバブル崩壊が実感されるようになるのは、株価が暴落する89年からというより、このころからだ。
 ロシアでは、通貨危機の余波で、1999年にエリツィン大統領が政権を投げ出し、ウラジミール・プーチンが大統領代行に指名された。
「無秩序とともにある自由を棄て、力の支配による安全を求め出すポスト冷戦期の方向転換が、2001年9月11日の米国に先んじて、姿を露わにしつつあった」という。
 こうして並べてみると、意外に忘れていることが多い。

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與那覇潤『平成史』 を読む(1) [大世紀末パレード]

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 人には人の歴史があるというけれど、歴史の見方も人さまざまだろう。とくに同時代史に関しては、人びとの経験の多様さに応じて、その見方は千差万別だと思われる。その点、これは與那覇潤の個性あふれる『平成史』である。早いもので、平成(1989年から2019年にかけて)の時代も、はや遠くに過ぎ去った感がある。いま、それをふり返るときに、本書は多くのシーンを喚起させてくれる。
 奥付によると、與那覇潤は1979年生まれで、2007年に東京大学大学院を修了し、地方公立大学で教鞭をとった。その代表作『中国化する日本』を読んだことがある。とても面白かったが、「中国化」という概念が多義的で、すんなり理解できなかったという印象が残っている。
 與那覇はその後、重度のうつ病にかかり、2017年に大学を退職し、現在は歴史学者としてではなく、在野の文筆家として活躍している。
 ぼくより30歳以上、若い人だ。この時代を生き、いまも何とか生きているぼくは、いまでは毎日をぼんやりとすごし、何もかもすぐに忘れてしまうありさまだ。人の名前はとくに出てこなくなった。
 そんな自分でもあの時代をふり返れば、これまで気づかなかった新たな発見があるかもしれない。脳の刺激になること、まちがいなし。そんなせこい了見から、この本を読んでみることにした。ほんの少しずつだ。

 著者ははじめに、平成期は「まるで霧のなかに迷い込んだかのように、全体像を見渡しにくい時代だ」と述べている。情報があふれているという点では、この時代の見晴らしはいい。でも、どうも全体像がうまくえがけないという。
 人はばらばらに分断化され、異なる人どうしの対話がなりたたない。そのくせ、ますます社会の画一化が進み、人は与えられた全体に順応することを強いられている。
 ほんとうは全体像など知らないほうが、幸せに生きていけるのではないか、全体は「機械じかけの新たな神」にまかせて、人は目の前に提示された楽しい現実を選びとっていくほうが楽しいのではないか。著者はどこかにそんな疑いも覚えている。
 霧はますます濃くなっている。それでも「昨日の世界のすべて」を知りたいという激しい思いが、この本を書かせたといえる。
 全体は15章、全部で550ページ以上の大著だ。世紀をまたいで、1989年から2019年にかけて31年間の心象がほぼ2年ごとに順につづられている。それを少しずつ読むことにした。
 まずは1989年から1990年にかけて。
それは「静かに、しかし確実に社会のあり方が変わっていった21世紀への転換点」だったという。
 昭和天皇が亡くなったのが1989年1月7日。この年、ポーランドでは「連帯」が選挙で圧勝し、ハンガリーが社会主義を放棄し、チェコスロヴァキアでビロード革命が発生し、ルーマニアで独裁者チャウシェスクが処刑された。
 天皇とマルクス主義というふたつのモデル(師範、あるいは芯棒)が失われたところから、平成元年(1989年)がはじまる、と著者はいう。
 ふたりの父が死んだ。天皇とマルクスという父が……。それにより、世界のタガがはずれ、タブーは消えたかのようにみえる。
 父なき時代はすでに1970年前後からはじまっていた。いわゆる全共闘の時代だ。だが、平成にはいると、「最初に父を否定した世代の人びとが、今度は糾弾される側の父の座に就き」、その役割を問われるようになる。
 時代の転換点は世代の転換点でもある。
 天皇とマルクスが死んだことにより、中心は空洞化し、だれもがバラバラな「自由」を求めはじめ、社会主義は嫌われるようになった。
 1989年7月の参院選で自民党は大敗し、90年初頭からバブル崩壊がはじまる。
 1989年には、漫画家の手塚治虫、実業家の松下幸之助、歌手の美空ひばりも亡くなっている。ひと時代を築いた多くのカリスマが世を去った。
 民俗学者の大塚英志は、昭和末期に病中の天皇への記帳に訪れた制服姿の少女たちが「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」という声を聞いた。それは、これまでの日本社会にはない天皇観だった。
 これまでないといえば、1989年には宮崎勤事件がおこった。「文字どおりオタクグッズに囲まれて私室に籠っていた青年が連続幼女殺人を犯した」という事件だった。
 不安な時代が幕をあけた。

 1991年から92年にかけて。
 著者が注目するのは、このころ柄谷行人と浅田彰による『批評空間』が創刊されたこと、そして漫画家の小林よしのりが『SPA!』で『ゴーマニズム宣言』の連載を開始したことだ。
 残念ながら、ぼくはこの両方とも関心がなかった。仕事に追われ、すでに感性が摩滅していたのだろう。
 浅田彰は学者の領域を超えて、軽やかに社会事象に切りこんでいく。小林よしのりはギャグマンガを武器に自由な発言の場を確保し、次第に右旋回していく。
 著者によると、柄谷行人や浅田彰が政治化するのは、1991年の湾岸戦争に際し、「湾岸戦争に対する文学者声明」を発表してからだという。
 このとき日本政府は自民党の海部俊樹首相—小沢一郎幹事長の体制。イラクへの多国籍軍派遣にあたり、それを積極的に支援するかどうかをめぐって、もめにもめていた。これにたいし、柄谷行人らはあらゆる戦争への加担に反対することを表明した。
 その後、柄谷と浅田は平和憲法擁護で共闘するようになる。しかし、平和憲法の意義が「よその地域での紛争に巻きこまれない」ことだとすれば、こうした「閉ざされた戦後」のシンボルである憲法9条を「世界史的理念」にまで格上げするのは、どこかちぐはぐではないか。著者はそんな疑問を投げかけている。
 こうした「反戦」の子供っぽさを批判したのが、評論家の加藤典洋だ。それ以降、平成期を通じて、柄谷、浅田の『批評空間』グループと、加藤をはじめとする吉本隆明の継承者たちは、「仇敵と呼べる関係」になり、思想的な対立軸を形成していくようになったという。
 1990年にはいると、大学が変わりはじめ、学際化と大学院重点化の波が広がっていった。慶應義塾大学には総合政策学部と環境情報学部ができ、湘南藤沢キャンパスが開設される。多くの大学で教養学部が解体され、専門化による大学院重視の姿勢が強まる。
 このあたり、ついぞ大学と接触のなかった(摩擦はあったけれど)ぼくには、事情がよくのみこめない。
 そして、「情報」の時代が幕を開ける。それはどんどんスピードを上げ、やがて日常のなかに情報が浸透していくことになる。
 1991年には評論家の山本七平が亡くなる。右派論壇人とみられがちな山本を、著者は国家主義にきわめて批判的だった人物ととらえている。
 1992年に出版された本としては、村上泰亮の『反古典の政治経済学』が忘れがたいという。
「ナショナリズム」、「経済的自由主義」、「技術オプティミズム」を重視する村上の立場は、新保守主義といっていいが、そこにはみずから一貫した筋道を追求する姿勢が貫かれている、と著者は高く評価している。
 天皇とマルクスなき時代のはじまりは、のっけから混沌とした様相を呈している。

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