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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(3)──大世紀末パレード(10) [大世紀末パレード]

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 1980年代の人物として印象的なのは、やはりサッチャー、レーガン、ゴルバチョフだ。ポール・ジョンソンは『現代史』で、この3人をドラマチックにえがいている。
 まず最初に登場するのが、1979年にイギリス初の女性首相となったマーガレット・サッチャーだ。めざしたのは資本主義の再生だったといってよい。
 サッチャーが最初に手がけたのは、それまで強い法的権限をもっていた労働組合の活動を制限することだった。そのため、議会での立法がなされ、行き過ぎたストライキやピケは取り締まられるようになった。
 これに反発したのが、全国炭鉱労組(NUM)である。イギリスの炭鉱産業は1946年から国有化されていたが、炭鉱の多くが大きな損失をかかえていた。経営側は1984年3月に20炭鉱の閉鎖を宣言する。
これにたいし、組合委員長のアーサー・スカーギルは戦闘的な特別代議員だけを集めて、ストライキを宣言。その結果、炭鉱の閉鎖は174炭鉱のうち131炭鉱におよぶことになった。
 炭鉱ストにたいし、サッチャー政権は絶対に妥協しない態度で臨んだ。警察は新たに制定された法律にもとづき、徹底的な取り締まりを実施した。
 組合側は粘り強く闘ったが、大ストライキを1年以上つづけるのはさすがにむずかしかった。1985年3月、組合側は事実上、無条件降伏し、ストは終結する。多くの従業員が解雇や失職に追いこまれ、当時ヨーロッパ最大の労働組合だったNUMはわずか8万人の組合に縮小してしまう。
 ストライキを実施したのは炭鉱労組だけではなかった。イギリスの労働組合は企業組合ではなく、ユニオンショップ制をとっているのが特徴だ。植字工労組(NGA)は70年代から80年代にかけ、しばしばストを実施し、全国紙を休刊に追いこんでいた。1983年には植字工のストによって6月1日から8月8日までフィナンシャルタイムズ社が閉鎖され、11月25日から27日にかけ、すべての全国紙が休刊になっている。
 経営者と組合のあいだで激しい闘争がくり広げられた。だが、けっきょく植字工労組と印刷労組のほうが全面的に敗北し、多くの労働者が解雇されることになる。経営側はそのかん、ひそかに手作業の植字や割付に頼らなくてもすむハイテクの印刷工場を建てていた。
 サッチャーによる資本主義再生のための政策は成功を収めた、とジョンソンはいう。イギリスの生産性はヨーロッパ最高の水準まで回復し、1981年から88年にかけ、経済成長率は4%台を保つことになった。
 なかでもサッチャー政権の最大の業績が、国営事業を「民営化」したことだ、とジョンソンは指摘する。
 国際電信電話会社、英国鉄鋼公社、英国航空、英国電気通信公社、英国ガス公社、水道・電気供給産業などが、サッチャー政権時代に民営化された。民営化は株式取引所を通じておこなわれ、株式の「放出」は株式取引を活発化させる効果をもたらした、とジョンソンは「民営化」を絶賛している。
 サッチャーは1979年から3回の総選挙を勝ち抜き、90年に退陣するまで、11年半にわたって首相を務めた。人気があったのは事実だが、敵も多かった、とジョンソンはいう。権威をもって君臨したことが党内外で反発を呼んだ。
 いっぽう、米国では1980年11月にロナルド・レーガンが新大統領に選出された。ジョンソンは「レーガンが、サッチャーの勝利と先例に導かれたことはまちがいない」と記している。レーガンは「真の敵は大きな政府だ」と広言していた。だが、小さな政府をつくるのはむずかしかった。
 公約のなかで実現できたのは減税である。減税によって、経済が刺激され、税収も増えたが、同時に財政支出も増えた。その結果、財政赤字が増大し、貿易不均衡にともなって貿易赤字が拡大する。このふたつの赤字を埋めるために国債と民間企業資産が売りに出される。それを積極的に買い取ったのが日本だった。だが、皮肉なことに、それにより米国内では日本への懸念が高まっていくことになる。
 双子の赤字に悩まされたといえ、レーガンの政策、とりわけレーガノミクスと呼ばれた経済政策は成功を収めた。1982年から87年にかけての6年間で、米国の実質GNPは27%、工業生産高は33%、平均所得は12%伸び、2000万人分の雇用がつくりだされた。こうして、米国はベトナム戦争の失敗以来失われていた自尊心を回復した、とジョンソンは記している。
 1982年4月2日には、アルゼンチン軍がフォークランド諸島のイギリス直轄植民地を占領する事件がおきていた。イギリス軍はただちに反攻を開始し、諸島を奪還し、6月14日にアルゼンチン軍を全面降伏に追いこむ。イギリスの勝利はアルゼンチンの軍政を終わらせることとなった。
 1983年10月19日には、西インド諸島の小国グレナダで、モーリス・ビショップ首相が左翼勢力によって暗殺された。キューバの大軍がグレナダに配置されたとの報告を受けて、レーガン大統領はただちに軍事介入を決意した。米軍は10月25日にグレナダに上陸し、左翼勢力を排除したあと、11月2日にただちに撤収する。
 ジョンソンによると、レーガン大統領がめざしていたのは、ソ連に奪われていた勢力を回復することだったという。とくに物騒だったのは、ソ連が東ヨーロッパで中距離核弾頭ミサイルSS20を大規模に配置したことだ。これに対抗して、レーガンとサッチャーはイギリスをはじめとするNATO諸国に巡航ミサイル網を配備するよう提案する。これにたいし西ヨーロッパでは1983年に激しい抵抗運動が巻き起こったが、計画はそのまま推し進められた。
 レーガンは就任当初から包括的な軍備拡張計画に着手していた。軍事予算が拡大され、軍備が増強され、スターウォーズ計画と称して、対弾道ミサイル兵器も開発された。さらに米軍全体の戦略計画と戦術訓練のあり方が練りなおされた。
 いっぽうソ連では1980年代はじめから経済的大混乱がはじまっていた。侵攻したアフガニスタンではおそろしく費用がかかったうえ、反政府ゲリラの抵抗に悩まされていた。ソ連がアフガニスタンから完全に撤退するのは1989年のことである。
 1982年11月にブレジネフが亡くなったあと政権の座についたアンドロポフ、チェルネンコはいずれも1年ほどで病死し、1985年3月に52歳のミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に選出された。
 ソ連共産党の基準からすれば、ゴルバチョフは自由主義者だった、とジョンソンは記している。だが、ソ連を複数政党体制にするという考え方は受けつけなかった。
 ゴルバチョフは党の改革に着手し、経済に市場原理を導入し、グラスノスチ(公開性)政策によって新聞や放送にある程度の自由を認め、KGBの活動に制限を加えた。その結果、かえって政治のタガが外れてしまう。「ソ連の難問の根源は、スターリン主義という上部構造ではなくて、レーニン体制そのものなのである」と、ジョンソンは書いている。
 こうして、政府の命令はしばしば黙殺され、ゴルバチョフに知らされないまま、もろもろの活動がおこなわれるようになる。店頭で買える物資は少なくなり、個人間、企業間の直接バーター取引や闇市場での取引が増えた。ストライキが蔓延し、ウォトカ密造と酒にからむ犯罪が激増する。1986年4月26日にはウクライナのチェルノブイリ原発が爆発する。
 ペレストロイカと称されるゴルバチョフの計画は、むしろ事態を悪化させた。そうしたなか、米国の軍備拡張を前にして、ゴルバチョフはレーガンとの軍縮交渉に応じるようになった。1985年11月には、ジュネーブで1回目の首脳会談が開かれる。このトップ会談はその後、何度も開かれることになる。
 そのころ東ヨーロッパも経済危機におちいっていた。指令経済の失敗がますます痛感されるようになる。加えて1987年10月以降、西側の景気拡大期が終わりを告げたことにより、東側の景気も後退していく。
 東側に貸付をしていた銀行は、その信用価値に疑念をいだき、返済を求めはじめた。東欧各国の政府は物価を値上げすることによってこれに対応しようとするが、かえって民衆の怒りを招いた。
 中国では1989年4月15日に、元共産党幹部で2年前に解任された胡耀邦が亡くなる。すると、胡耀邦の葬儀を機に学生たちが立ち上がって大々的なデモをくり広げ、4月27日に天安門広場を占拠した。
 当初、政府当局は「改革」をめぐって学生たちと話し合いをつづけていた。だが、6月4日にそれを打ち切って戦車と歩兵を投入、天安門広場を掃討した。これにより2600人が死に、1万人が負傷したといわれる。弾圧はさらに全国におよび、数千人が逮捕された。
 しかし、ヨーロッパでは話がちがった。ハンガリーは5月2日にオーストリア国境の鉄条網を撤去し、東西の国境を開放した。さらに9月10日には東ドイツとの国境を開放した。これにより、東ドイツの人びとは自由に西側に脱出できるようになる。
 ポーランドでは6月の選挙で共産党が壊滅的な打撃を喫し、9月には非共産党政権が誕生する。東ドイツでは大衆デモが広がり、10月にホーネッカー政権が倒れる。そして11月9日、ついにベルリンの壁が崩壊する。
 ベルリンの壁崩壊後、チェコスロバキアでもブルガリアでも一斉にデモがはじまり、まもなく共産党政権が瓦解する。こうした大変革はほとんど非暴力のうちにもたらされた。
例外はルーマニアである。チャウシェスク大統領は逮捕され、銃殺刑に処された。ブルガリアとアルバニアは変革が遅れる。ユーゴスラビアは分裂し、戦闘が各地域に広がった。
 1992年の時点で、ジョンソンの見方は楽観的だった。ポーランド、チェコスロバキア(のちふたつの国に分離)、ハンガリーの変革は根本的で、民主主義がしっかり確立されるだろう。東ドイツは存在しなくなり、ドイツ国民は統一することで意見の一致をみた。EC(のちEU)は拡大し、欧州統合に向かって進み、場合によってはロシアまでもがECへの加盟を検討するようになるかもしれない、というように。

〈ゴルバチョフはくり返しロシアはヨーロッパに属すると言明していた。ド・ゴールはまたイギリスが加盟国になる以前の1960年代には、共同体とは経済、政治上の概念ではなくてむしろ文化の問題であり、「ダンテ、ゲーテ、シャトーブリアンのヨーロッパだ」とも主張している。イギリスの加盟後はそれに「そうしてシェイクスピアの」を加えるのが公平だろう。しかし、ヨーロッパが文化連合なら、リスト、ショパン、ドヴォルザーク、カフカを生んだ国ぐにを排除するのがまちがいであるのはもちろん、長い目で見れば、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、チャイコフスキー、ストラヴィンスキーの故国を拒むのも容認できない。〉

 だが、ジョンソンの楽観がついえた最大の要因は、おそらくソ連の解体のされ方に紛争の根が取り残されたことだろう。
 とはいえ、ソ連邦が崩壊したのは事実である。
 地域民族問題が浮上してきたのは、ゴルバチョフによる市場経済への移行が失敗するのと同時だった。
中央アジアのいくつかの共和国は事実上KGBが君臨していた。しかし、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は、以前の完全独立をめざして運動をくり広げる。グルジア(ジョージア)も独立を要求した。ウクライナでも自治権要求の流れがおきる。南カフカズではキリスト教徒のアルメニア人とイスラム教徒のアゼルバイジャン人が戦闘を交えていた。
 ロシア国内では、ゴルバチョフの人気が急速に下がっていくなか、元党幹部のボリス・エリツィンの人気が高まっていく。エリツィンはモスクワ市の第一書記を務めていたときにペレストロイカの進み方が遅いと批判したためにゴルバチョフにより解任された。しかし、1989年3月の人民代議員選挙に立候補して返り咲き、90年5月にロシア共和国の実質大統領に選出されたのだった。
 こうして、ゴルバチョフが連邦中央を、エリツィンがロシア共和国を代表する二重体制ができあがる。そうなると、連邦と共和国との関係を定める新連邦条約をまとめなければならなくなる。
 そうしたなか軍やKGB、軍が政府を無視して動きはじめる。1991年8月17日から18日にかけ、クリミア半島の別荘で短い休暇をとっていたゴルバチョフは拘束され、軟禁状態に置かれた。
8月19日、病気によりゴルバチョフは任務が遂行できなくなり、国家非常事態委員会が結成されたとの放送が流れる。
 だが、クーデターは失敗に終わる。クーデターの発表を聞いたエリツィンがロシア共和国政府庁舎、通称「ホワイトハウス」に陣取り、クーデターの首謀者を逮捕するよう命令をだしたからである。
モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)の軍司令官も国家非常事態委員会の指示に従わなかった。数日のうちに、クーデター騒ぎは収まり、その首謀者は自殺、ないし逮捕に追いこまれた。エリツィンが政権を掌握し、ゴルバチョフは無事解放される。
 8月23日午後、エリツィンとゴルバチョフはロシア共和国最高会議で事件の経緯を説明することになった。その様子はロシアだけでなく、全世界にテレビで生中継された。このとき、ゴルバチョフはもはや自分が無力であることを思い知らされる。エリツィンはロシア共和国全土における共産党の活動を停止すると発表した。
 バルト三国は独立を認められた。つづいてウクライナを筆頭として、ソ連邦を形成している共和国が次々と独立を宣言する。12月21日には独立国家共同体(CIS)を発足させるという条約が11カ国によって結ばれた。その翌週、ソ連邦は正式に消滅する。クレムリンには最大の後継国家であるロシア共和国政府がおさまった。
 ロシアはもはや超大国ではなくなった。
「アメリカ合衆国だけが、事実上の超大国となった」と、ジョンソンは書いている。
だが、はたしてそうだったのか。楽観論が崩れていくまでに、さほど時間はかからなかった。

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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(2)──大世紀末パレード(9) [大世紀末パレード]

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 引きつづきポール・ジョンソンの『現代史』を再読しながら、1980年代を振り返ってみる。
 前回は宗教について論じたが、いつの時代も変わらぬテーマとしては、人口問題と食糧問題がある。いずれも歴史を動かす大きな要因にはちがいない。
 世界人口は1900年に12億6200万人。それが1950年には約25億、60年に30億、75年に40億、87年に50億、99年に60億、2011年に70億、2022年に80億となった。その増加率は次第に低くなっているが、世界の人口はまだまだ増えていきそうだ。
 ここでジョンソンは「人口変移説」なるものをもちだしている。
 第1段階では、医学と公衆衛生により、乳児死亡率と感染症死亡率が下がって、人口が急速に増加する。第2段階では、生活水準の向上が出生率を下げる。ところが、第1段階から第2段階に移行する途中で、危機が生じて、政治が過激化することが多いというのだ。
 ジョンソンは現代の課題は、世界全体を第2段階へと移行させることだという。そのためには発展途上国の経済成長率を改善し、生活水準の向上をはからねばならない。インドはまだ懸念があるものの、中国の人口は安定してきた。しかし、アフリカでは、まだ大きく人口が増えつづけている状況だ。
 食糧問題に関しては、1945年以降、科学的な農法が導入されたことにより、1980年代には米国、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、西ヨーロッパで膨大な食糧余剰が生まれた。これにたいしソ連はもとより、ソ連型の集団農場体制をとる国の農業は、概してうまくいかなかった。1980年代に食糧自給を達成したのは、ソ連型農業を鵜呑みにしなかった中国とインドだけだという。
「マルクス主義的集産主義の農業への影響は、その魔力のとりこになった第三世界諸国のほとんどすべてに悲惨な結果をもたらした」とジョンソンはいう。ここで例として挙げられるのは、イラク、シリア、イラン、ビルマ(ミャンマー)、ガーナ、タンザニア、モザンビーク、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリア、ソマリアなどである。なかには干魃と飢餓による国内不安が内戦や隣国との戦争を招いたケースもある。
 アフリカの優等生だったコートジボワール、ケニア、マラウイなども80年代には深刻な経済的困難と社会不安に襲われ、リベリアは3つの私兵軍団に引き裂かれて、激しい内戦におちいり、民衆は餓えに苦しむことになった。
 しかし、重要な変化をみせたのは南アフリカ共和国だ。1989年以降、南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)に別れを告げた。南アは世界の縮図だ、とジョンソンはいう。1990年段階で、南アでの白人と非白人の比率は1対6で、これは世界での比率と等しい。しかも、ここでは第一世界の経済と第三世界の経済が併存している。その国がどうなっていくか注目すべきだとしている。
 だが、経済面において、もっとも注目すべき地域は、東アジアの企業国家群、すなわち日本、香港(イギリスの直轄地)、シンガポール、台湾、韓国であり、とりわけ日本だったと述べている。この時点で、巨大な中国は経済的にはまだ恐るべき存在とはなっていない。
 ジョンソンによれば、日本の経済発展を支えたのは新憲法だった。

〈マッカーサー司令部で作成された1947年の新憲法は、最大公約数の合意にもとづく政党間の妥協の産物ではなかった、英米憲法の長所を統合した均質な概念の上にたち、行政と司法、中央集権と地方分権のあいだの中庸をめざして巧みに舵を取っている。自由な労働組合、出版の自由、警察の民主化(軍備に類するものは撤廃された)を保障した他の占領諸法規と相まって、新憲法と、そこに具現される「アメリカの時代」は、国家がそれまで日本国民に対して行使していた抗しがたい支配力を粉砕することに成功した。アメリカの日本占領は、戦後の全時期にわたるアメリカの対外政策のなかで、おそらく最大の建設的業績だろう。〉

 この見方には異論があるかもしれない。複雑な思いをもつ人もいるだろう。だが、西洋の歴史家に戦後日本が「アメリカの時代」になったと意識されていることは否定しがたいのである。
 占領改革をへて、日本は1953年に戦後復興をはたす。そして、その後、20年間の高度成長期にはいる。自動車、時計、テレビ、カメラの生産量でアメリカを追い越し、世界の先頭をいく工業大国となった。先進技術分野でも躍進は著しかった。
 1980年代になると、金融部門でも大躍進をとげ、やがて世界最大の金融大国となった。アメリカの貿易赤字と財政赤字を支えたのは日本である。80年代末の段階で「日本はすでに世界第二の経済大国として、ソ連をはるかに追い抜いており、先端技術、最新設備、そして教育と訓練に多額の投資を続けていた」。
 ジョンソンは1970年代から80年代にかけ、日本の賃金率がどの先進国よりも速く上昇し、しかも失業率がきわめて低かったことに注目している。労働組合の役割は大きかったが、そこには日本ならではのユニークな企業風土も存在した。

〈日本ならではのユニークな、またおそらく現代世界へのもっとも創造的な貢献は、企業が商品を人間と見立てる考え方に立ち、集産主義[つまり命令型]とはちがって新しく家族主義的な経営を導入したことである。それにより階級闘争の破滅的な衝撃を減らすことができた。〉

 世界じゅうで「日本的経営」がもてはやされた時代である。
 経済が発展したのは日本だけではない。やがて、市場経済の刺激は太平洋地域全体に広がっていく。韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンへと。そして、ついに中国が覚醒し、潮目が変わる。それを先導した日本の役割は大きい、とジョンソンはみている。
 太平洋地域の東岸ではチリの経済発展がめざましかった。チリは戦後、根強いインフレに悩まされつづけていた。1970年には社会主義者のサルバドル・アジェンデが大統領となるが、その足元では左翼陣営が分裂し、対立を繰り返していた。アジェンデが政権の座についてもインフレは収まらないどころか、超インフレとなった。1973年9月、国じゅうが混乱するなか、軍のアウグスト・ピノチェト将軍がクーデターをおこし、政権の座につく。すざまじい弾圧がつづく。
 それでもジョンソンはピノチェト政権の功績を認めている。それはインフレを押さえこみ、経済を成長の軌道に乗せたことだ。しかし、経済が成長し、市場の自由が強まるにつれて、政治的な自由が求められるようになる。1983年6月には政権に抗議する全国的な暴動がおこり、89年12月の国民投票で、ピノチェトは退陣し、独裁政治に終止符が打たれる。民主主義回復後に発表された公式報告では、1973年から89年にかけ、政治警察により1068人が殺され、957人が「行方不明」になったことがあきらかになった。
 この時期、アジアでも独裁政権が立て続けに崩壊している。フィリピンでは1986年にマルコス政権が崩壊し、台湾では1988年に国民党独裁体制が崩れて、李登輝政権が生まれ、韓国では1990年に長い民主化闘争の末、金泳三による文民政権が発足している。
 こうした流れは、市場の自由を求める世界的な経済の動きとけっして無縁ではなかった、とジョンソンはみている。

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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(1)──大世紀末パレード(8) [大世紀末パレード]

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 ここで、方向を変えて、1980年代を鳥瞰してみることにする。ぼく自身が編集を担当したポール・ジョンソン(1928〜2023)の『現代史』(別宮貞徳訳)を紹介してみたい。著者はイギリスの保守派で毒舌の歴史家、ジャーナリスト、評論家として知られる。
 原著はもともと1983年に出されたものだった。その原著に、日本語版のためにぼくが依頼して、ソ連崩壊までの章を書き下ろしてもらった。翻訳され、日本で発行されたのは1992年のことだ。その最終章は「自由の復権」と名づけられ、こんなふうにはじまっている。

〈1980年代は現代史の分岐点の一つである。民主主義は自信を取り戻し広がった。法の支配が地球上広範囲に確立され、国際的な略奪行為は阻止され処罰を受ける。国際連合、とくに安全保障理事会は、はじめてその創立者の意図に沿って機能しはじめるようになった。資本主義経済は力強く繁栄し、市場経済こそ富を増し生活水準を向上させるためのもっとも確実な、また唯一の道であるという認識があらゆるところで定着していった。知的な綱領としての集産主義は崩れ去り、それを放棄する動きがその拠点においてさえ始まった。最後の植民地コングロマリット、スターリンの帝国は解体される。ソヴィエト体制そのものが歪みを増し、諸問題が幾重にもかさなって、超大国としての地位も危うくなれば冷戦の継続を望む意志も衰えを見せた。1990年代のはじめにはもはや核戦争の悪夢は薄れ、世界はより安全に、安定度を加え、そしてなによりも希望に満ちてきた。〉

 いま思えば、スターリンの帝国が解体され、民主主義が自信を取り戻し、世界は「希望に満ちてきた」という感覚は、いっときの幻影だったのではないかとさえ思えてくる。なにかが終わったのはたしかだ。だが、その後の世界の歩みはむしろ戦争と苦難と抑圧に満ちていたのではないか。だとすれば、終わりは終わりではなく、はじまりははじまりではなかったことになる。
 ポール・ジョンソンが1980年代の世界をどのようにみていたかを紹介しておきたい。
 最初に強調されるのは、20世紀にさまざまなイデオロギーがしのぎを削ったにしても、「人類の圧倒的多数の人びとにとっては、宗教が実際にいまでも自分たちの生活の大きな部分を占めている」ということである。宗教が消滅するという考え方は、むしろ古くさくなったとさえ述べている。
 とりわけ、この時代にローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世(1920〜2005、在位1978〜2005)のはたした役割は大きかった。カトリック信仰の強いポーランド出身で、詩人、劇作家、哲学者でもあった。衰退しかかっていた伝統的カトリシズムの復興をやりとげた人物である。1981年5月に暗殺されそうになったが、1980年代から90年代にかけ世界各国を何度も訪れ、2億人の人びとと接した。カトリック信者の数は1978年時点で約7億4000万人だったが、2020年現在では約12億人に増えているといわれる。もともと多かったヨーロッパ、北米に加え、中南米、アフリカで信者数が大きく伸びている。
 もっとも北米やヨーロッパの先進国では、教会の日曜礼拝に出席する人の数は少なくなった。そのいっぽうで、カトリシズムやプロテスタントの教義からはずれた、カリスマ的な根本主義の宗派が勢いを伸ばした。中南米では過激な政治行動を求める「解放の神学」が登場したが、大きな大衆的支持を受けるにいたらなかった。米国では福音主義のプロテスタントがメディアを利用して大躍進し、中南米まで伝道活動を広げている。
 注目すべきはイスラム原理主義が力をつけ、1980年代以降、大きく広がったことだ。これに対抗するかたちで、ユダヤ教超正統派も復活した。ジョンソンによれば、ユダヤ教超正統派は「ダヴィデの王国の『歴史的』国境線を拡大するとともに、イスラエルを神権政治の国に改造することを目標としている」という。
 イスラム世界は西アフリカから地中海南部、東アフリカ、バルカン諸国、小アジア、中東、南西アジア、マレーシア、インドネシア、フィリピンにいたるまで大きく広がっている。2020年時点でその信者数は19億人。
 1970年代以降は、いわば「イスラム復興」の時代となったが、「その一つの支えとなったのは石油によって新たな富を得たことからくる辟易させられるほどの自信である」とジョンソンはいう。
 とはいえ、イスラム教の内部はスンニ派、シーア派、イスマーイール派、ドゥルーズ派、アラウィー派などと分裂しており、それがしばしば対立を呼ぶ原因となっている。
 中東の対立は加えて、何よりもイスラエルという国家の存在によるところが大きい。1980年代までは、イスラエルが結局のところ衰退する、とアラブ側は考えていた。だが、それは大きな誤りだった。
 1979年にはイランで革命が発生し、国王が追放され、アヤトラ・ホメイニのシーア派原理主義者が実権を握った。その後、長年にわたる国境紛争に端を発して、イランとイラクのあいだで大規模な戦争がはじまる。イラクのサダム・フセイン大統領は、シャトルアラブ川とイランの油田を手中に収めるため迅速な勝利を得ようとしたが、そのもくろみは失敗し、戦争は8年もつづいて、両国で100万人以上の死者を出した。宗教が原因の戦争ではなかったが、それでもスンニ派とシーア派の対立が戦争の激しさをあおった面はある。
 そのことはレバノンも同じだ。レバノン内戦は1975年から90年にかけて断続的に発生し、シリア、パレスチナ解放機構(PLO)、イスラエルが介入し、イスラム教の諸宗派がからんで収まりがつかなくなり、「商業都市ベイルートは滅び、レバノンはもはや独立国としては存在せず、古来のキリスト教共同体は優越性を失った」。
 アフガニスタンでは1978年4月にソ連の後押しによりダウド政権が倒された。政権を握った人民民主党はイスラム教の勢力をそごうとして恐怖政治を敷く。その後、政治が混乱するなか、1979年末にソ連がアフガニスタンに侵攻する。ソ連の侵攻はムジャヒディンと呼ばれる反政府民族主義ゲリラによる激しい抵抗をもたらし、1988年5月のソ連軍の完全撤退につながる。
「ソ連指導部が最終的にアフガニスタンからの撤退を切望したのは、一つにはゲリラ戦が近隣のソヴィエト・アジアのイスラム地域にまで拡大するのではないかと懸念したからだった」と、ジョンソンは論じている。事実、ソ連領内でも、1970年代から80年代にかけて、イスラム復興の動きが強まっていた。
 歴史は宗教を抜きにしては論じることができない。宗教と信仰は人びとの生活に深く根ざしている。たとえ、宗教を無視する風潮が強まったとしても、政治を宗教に完全に置き換えることはできなかった、とジョンソンはいう。
 いまも中東地域をはじめ、世界の紛争は収まる気配をみせていない。島国の日本人にとっては遠い彼岸のできごとのようにみえるかもしれない。しかし、それがもはや他人事(ひとごと)ではないことを、『現代史』は教えてくれる。世界のできごとが近所のできごとと変わらない時代がはじまっているのだ。
『現代史』はこれからさらに1980年代の世界を探索していく。もう一度、あのころを思いだしながら、少しずつ読み進めてみる。

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日航123便に何がおこったのか──大世紀末パレード(7) [大世紀末パレード]

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 1985年を語るうえで避けて通れない「大事故」がある。
 8月12日月曜日の18時、東京羽田空港を離陸して大阪伊丹空港に向かった日航ジャンボ機123便が相模湾上空で非常事態におちいり、群馬県上野村の御巣鷹山尾根に墜落したのだ。
 墜落位置の特定には時間がかかり、翌朝になってようやく判明した。地元の消防団員が機体を発見し、生存者の救助にあたった。乗客乗員524人のうち、生存者はわずか4人。犠牲者のなかには歌手の坂本九さんや阪神球団社長の中埜肇さんなども含まれていた。
 生存者発見の通知をうけた日赤の医師と看護婦が、警視庁のヘリコプターで現場に到着したのが12時13分。その後、自衛隊の救援ヘリが到着し、13時5分にようやく生存者の収容がはじまった。
 生存者は川上慶子さん(12歳)、吉崎美紀子さん(8歳)、吉崎博子さん(35歳)、落合由実さん(26歳)の4人だった。4人とも機体後部の座席に座っていた。
 事故原因については、その後、断片的にさまざまな報道がなされたが、しばらくたって、事故調査委員会が次のような結論を出した。
 事故機の機体は7年前に「しりもち事故」をおこしていたが、ボーイング社の修理がふじゅうぶんだったため、「後部圧力隔壁」に疲労亀裂を生じていた。その圧力隔壁が破壊されたため、機内に急減圧が生じ、突風が吹いて、垂直尾翼が吹き飛ばされ、機体のコントロールが不能になった。
 要するに、ボーイング社の修理ミスによる「後部圧力隔壁」の破壊が事故原因だというわけだ。そのとき、圧力隔壁ということばが頭にインプットされたことを、ぼくも覚えている。そして、ほとんどだれもが、公表された事故原因に何となく納得し、二度とこうしたことがないようにと、このとき犠牲になった人びとを毎年追悼するようになった。
 ところが、圧力隔壁破壊説に疑問をもちはじめた人がいる。みずからも日本航空の客室乗務員(当時の呼び名はスチュワーデス)を務めた経験のある青山透子さんである。彼女はこの墜落で何人かの同僚を亡くしている。
 圧力隔壁はほんとうに破壊されたのだろうか。これははたして「事故」だったのだろうか。
 彼女はこう書いている。

〈生存者の座席の位置は、最後尾周辺に集中している。特に当時、多くの人々の記憶に残った川上慶子さんは最後尾の列である。圧力隔壁の前にあるトイレを挟んだその座席は、乗客の中で最も後部圧力隔壁に近い位置だが、彼女は、頑強な垂直尾翼を吹き飛ばすほどの急減圧による空気圧の影響は全く受けなかった。現実に吹き飛ばされたわけでもなく、耳鼻咽喉もダメージを受けず、他の生存者を含めてみても、誰も鼓膜すら破れていない。〉

 事故調査報告では、修理不十分な圧力隔壁が壊れ、客室内を突風が突き抜けて、内側から垂直尾翼を吹き飛ばしたことになっている。
 ところが、川上慶子さんの事例をみても、客室内に突風が突き抜けた形跡はまったくみられないのだ。飛行機がコントロールを失って飛びつづけるあいだも、乗客は座席についたままで、心を平静に保ち遺書を書き残した人もいる。
 飛行機が異常な爆発音をとらえたのは、伊豆半島と大島のあいだを飛行していた18時24分39秒のことだという。このとき急減圧は生じていない。急減圧が生じたなら機内で爆風が発生し、物が飛び散り、人も飛び上がり、鼓膜も破れたはずだが、そうした事態は生じていない。
 だが、すでにこのとき垂直尾翼は吹き飛ばされていた。垂直尾翼を失った飛行機が操縦不能になることは容易に想像できる。機長は無事に着陸することだけを願って、必死に操縦桿を握っていた。御巣鷹の尾根に墜落したのは18時56分のことである。
 事故の原因は圧力隔壁が壊れたことだとされるが、それはあくまでも経過説明の(しかも根拠の乏しい)仮説であって、垂直尾翼が吹き飛んだことこそが致命的な問題だった。たとえ圧力隔壁が壊れたとしても、そのとき生じた内圧で垂直尾翼が吹き飛ぶとは考えにくい。もし、そんなものすごい内圧が生じていたなら、最後部の座席に座っていた4人も機外に飛ばされていたかもしれない、と青山さんは指摘する。
 じっさいには何がおきていたのか。いちばん可能性が強いのは、垂直尾翼が「外力」によって破壊されたということである。その垂直尾翼は相模湾に落下し、現在も一部しか回収されていない。
垂直尾翼を破壊した「外力」とはいったい何だったのだろう。
 相当大きな破壊力をもつものがぶつからないと、頑丈な垂直尾翼がこわれるはずはない。しかも、損傷を受けたのは、垂直尾翼の横側である。
 隕石がぶつかったという説は却下される。なぜなら真横から隕石が当たるとは考えにくいからだ。
 いちばん可能性が高いのは、空中を飛ぶ何かの物体が、垂直尾翼の側面にあたったということである。ひょっとするとミサイルだったのではないかという疑念がわく。
 青山さんによると、日航123便が墜落した日には、防衛庁が護衛艦「まつゆき」の試運転を実施していた。自衛隊と米軍との合同訓練がおこなわれた前々日には、国産ミサイルのモデルとなった米国製ミサイルが飛ばされたという記録がある。すると、日航機が墜落した日も、何かのミサイル実験がおこなわれていたのではないか。
 どこから発射されたかは別として、「練習用のオレンジ色の物体[模擬ミサイル]を誤って発射させて外力を発生したことによって垂直尾翼が破壊され、それが墜落の原因を作った」と、青山さんは確信するようになった。
 しかも、当日は「航空自衛隊戦闘機のファントム2機が墜落前の日航機を追尾したことが目撃されて」いた。米軍も情報をつかんでいた。墜落現場はすぐに特定できたはずだ。にもかかわらず、それが発表されず翌朝まで延ばされ、人命救助が遅れた背景には、自衛隊による何らかの隠蔽工作があった可能性が否定できない、と彼女はいう。
 後部圧力隔壁破壊説には大きな疑問が残る。日航123便墜落「事故」の真相はまだ謎に包まれているのだ。

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ちっちゃな大論争(2)──大世紀末パレード(6) [大世紀末パレード]

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 1985年1月から4月にかけ、吉本隆明は雑誌「海燕」で埴谷雄高と論争をくり広げた。
 論争の後半で、埴谷は84年9月21日号の雑誌「an an」に掲載された、最新ファッションをまとった吉本の写真に衝撃をうけた。
 埴谷はこう書いている(数字は算用数字で表記した)。

〈最初の写真には、多くの書物に囲まれた広い書斎で、16,000円のセーター、13,800円のダンガリーシャツを着ながら原稿を書いているあなたの横向きの姿が写されていますが、この書斎の天井から垂れているシャンデリアもテーブル、ランプも豪華だと思いながらも、あなたの勉強ぶりに感心しこそすれ、苦言などありません。私が衝撃をうけたのは、次のページの写真でした。〉

 埴谷が衝撃を受けたというのは、外の感じのよい建物を背に腰掛け、微笑する吉本のもう1枚の写真だった。光の関係で、吉本の背後にはまるで後光が射しているかのようにみえた。

〈そして、そのとき、あなたは、62,000円のレーヨンツイードのジャケット、29,000円のレーヨンシャツ、25,000円のパンツ、18,000円のカーディガン、5,500円のシルクのタイ、を身につけ、そして、足許は見えませんけれど、35,000円の靴をはいています。このような「ぶったくり商品」のCM画像に「現代思想界をリードする吉本隆明」がなってくれることに、吾国の高度資本主義は、まことに「後光」が射す思いを懐いたことでしょう。
 吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に「火事場泥棒」のボロ儲けを重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、「ぶったくり商品」の「進出」によって「収奪」を積みあげに積みあげる高度成長なるものをとげました。〉

 左翼の理念をかかげて冷たい皮肉を放つ埴谷の「苦言」に、吉本はことこまかに反論した。
 いま自分が住んでいる家はお寺の借地に建てられた建売住宅で、もとからついていたシャンデリアのぶら下がった応接間を仕事場の書斎に転用しているだけだ。家の広さは埴谷邸の半分もなく、そこに家族4人がくらしている。それをあたかもぜいたくなくらしをしているように記すのは、「最低のスターリン主義者」の卑しさを示す以外の何ものでもない。
 じっさい、売れっ子評論家とはいえ、ほとんど筆一本でくらしている吉本の収入は、ベストセラー作家などとちがって、さほど多くはなかっただろう。もっとも、その点は埴谷も同じである。
 さらに吉本は自分の身につけているものがいかに高価なものかを強調する視線の卑しさに、スターリン主義的な(あるいは毛沢東思想的な、といってもよいが)理念がまとわりついていることを感じた。
「アンアン」で吉本が披露したのはコム・デ・ギャルソンの紳士服だった。ここで、吉本はコム・デ・ギャルソンを主宰する川久保玲のファッション・デザインが世界最高水準をもつ、いかにすぐれたものであるかを強調する。そして、そのモデルを務めた自分に「苦言」を呈する埴谷に、資本主義企業のつくりだす商品それ自体を否定する左翼の類型的視線を覚えるのだった。
 吉本はどこか「アンアン」をさげすんでいるようにみえる左翼インテリの埴谷をさとすように、こうも述べている。

〈「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOL(貴方に判りやすい用語を使えば、中級または下級の女子賃労働者です)を読者対象として、その消費生活のファッション便覧(マニュアル)の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感とは逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。〉

「アンアン」に載っているような商品は、あくまでもあこがれであり、目標であっても、それを楽々と買えるOLは少なかっただろう。それでも、レーニンやスターリンの唱える「社会主義」のもとでは、「アンアン」のようなファッション・マニュアル誌の存在自体が認められなかったはずである。
 ここで吉本は、いまや大衆がみずからを「解放する方位」は、スターリン主義的な「社会主義」の「まやかしの倫理」の先にではなく、資本主義の転位する延長上にあるはずだ、とはっきり宣言している。先進資本主義「国」の労働者が豊かな生活ができる賃金を確保しつつ、週休3日制を獲得できる方向をめざさなければならない。そのときこそ、むしろ資本主義の延長に、自由な社会主義という理想が実現されるというべきではないか。
 吉本は「日本の資本制を、単色に悪魔の貌に仕立てようとして」いる埴谷にレーニン-スターリン主義に同調する「まやかしの偽装倫理」を感じた。そして、現在克服すべき思想的課題は、資本主義そのものよりも、ポルポトによる虐殺や反対派への弾圧などをもたらしているレーニン-スターリン主義的な社会主義の側にあると考えていた。
 ここで吉本は「重層的な非決定へ」をみずからの理念としたいと述べている。それはどういうことか。
 埴谷は、経済進出する日本を「悪魔」と呼んでいる「タイの青年」をもちだして、ファッション雑誌に写真姿をさらしている吉本のていたらくを非難した。それは「疑似倫理」にもとづくあまりにも短絡的な思考だ、と吉本は反論する。資本主義にも否定面がないわけではない。しかし、自然破壊や公害、環境問題など資本主義を批判する材料をかき集め、ひっくるめて資本主義そのものを「悪の根源」とする決定論的なやり方は空虚だと論じた。
 はっきり言ってしまうと、ここで吉本はマルクス主義的な決定論(決めつけ)から脱出しようとしていたのである。そこから「重層的な非決定へ」という視座が打ち出される。

〈私の場所からみえる「現在」は、モダンやポスト・モダンに単層的に収束できるようにおもわれないのです。ここでは「重層的な非決定」がどうしても不可避であるようにおもわれてなりません。……破片はどれも浅薄で取るにたりないものですし、核心というのもそれを寄せあつめたガラクタにしか視えないかもしれません。でもそれで「現在」が終りだとおもったら間違うようにおもわれます。〉

 いまおきている諸現象を、外在的な物差しではなく、内在的、かつ重層的にとらえていかなければならない。
 とはいえ、これ以降、吉本が反「社会主義」の立場をむしろ決定的にしていったのは確かである。そのぶん、資本主義には甘くなった。じっさい、日本資本主義は1980年代をピークとして、吉本の期待した「超資本主義」に転位することなく、低迷をつづけることになる。

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ちっちゃな大論争(1)──大世紀末パレード(5) [大世紀末パレード]

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 そのころ吉本隆明と埴谷雄高(はにや・ゆたか)のあいだで大論争がくり広げられた。
 全共闘の端っこにいたぼくにとって、吉本、埴谷といえば、あこがれの思想家、文学者で、その思いは中年サラリーマンになっても変わらなかった。
 1985年春、そのふたりが、じつにくだらないと思われることをきっかけに、大論争をおっぱじめるのだ。吉本はその論争をへて、みずから定めた方向性を「重層的な非決定へ」と名づけ、それをタイトルとする重厚な単行本を出版する。
 ことの発端は前年に岩波書店から、大岡昇平と埴谷雄高がふたりの対談集『二つの同時代史』を刊行したことにある。そのなかに60年安保で全学連とともに闘い、警察に逮捕された吉本をからかった部分があった。
 その部分を引用しておこう。

埴谷 吉本も押し出されて敗走したんだが、追われた道路のはしでやっと塀を越えて逃げ込んだところが警視庁の中だったんだ(笑)。それで吉本は捕まっちゃったんだが、それを花田清輝は戯文詩に書いた。「逃げた先が警視庁」というようにね。花田も、吉本・花田論争をまだ根にもっていてね。
大岡 あれはおもしろいね、ケチのつけ方が。吉本はスパイで、だから警視庁の玄関から降りて来た、とかね(笑)。
埴谷 そうだったかな。
大岡 釈放されて出てくるんなら、玄関から出て来たっていいと思ったけれどね。あの論争は、ちょっと花田に分がなかったからな。

 文学界の巨匠といえる大岡と埴谷のふたりが、60年安保での吉本の闘いぶりがいかにドジなものであったかをからかっているようにみえる。
 こうしたからかいにたいし、吉本は内心怒った。あのとき、全学連とともに安保闘争を必死で闘った吉本は、国会周辺で機動隊から襲撃され、素手のままぬかるみと暗黒のなかを潰走した。そして、三十数名の学生、市民とともに、警視庁の構内に追い詰められ逮捕されたのである。けっして、笑える話ではなかった。
 加えて、埴谷は、1956年から60年にかけて吉本と花田清輝とのあいだで繰り広げられた(文学者の戦争責任などをめぐる)論争で押され気味だった花田が、戯文詩のなかで、吉本の「逃げた先が警視庁」と皮肉ったことを紹介する。それにおいかぶさるように、大岡が、花田は吉本がスパイで警視庁からでてきたとまで言ってるぜ、と知ったかぶりの発言をした。
 花田が、吉本は警視庁に逃げこんだなどと諷刺したのはまちがいない。しかし、吉本がスパイなどといった発言をした事実は確認されなかった。日本共産党が全学連をおとしいれるために、全学連主流派(共産主義者同盟)はスパイで、だから警視庁に逃げこんだという作り話を流していたことは伝わっていた。だからといって、花田が吉本は警視庁のスパイなどと評したことはなかったのだ。
 実際には吉本は6月15日に(警視庁への)「建造物侵入現行犯」の疑いで逮捕され、高井戸署に移され、数日にわたる取り調べのあと釈放されている。警視庁の玄関から降りてくること自体ありえなかった。
 吉本は大岡昇平と埴谷雄高、並びに版元の岩波書店に、花田の発言とされる事実誤認を訂正するよう求めた。
 埴谷と吉本とのあいだで「論争」が巻き起こったのは、それからである。埴谷が雑誌「海燕」に二度の公開書簡を発表したのにたいし、吉本は同じ誌上で二度にわたり反論を加えた。
 そこで明らかになったのは、吉本と埴谷の立場(考え方)が完全にわかれつつあったということである。
 埴谷は大岡の発言が不用意だったとエッセイに記すことで、ことを収めるつもりでいた。ところが、吉本はそれでは腹が収まらない。スターリズムと対決していたはずの埴谷が、1982年にヨーロッパへのアメリカの核兵器配備に反対する文学者の「反核宣言」に署名したことを蒸し返して、埴谷がレーニン-スターリン主義者の同調者に成り果てていると批判した。
 現在の「社会主義」国家がもたらしてきた現実は、理念にとはほど遠いものだ、と吉本はいう。ソルジェニーツィンの『収容所群島』、ソ連のアフガニスタン侵略、ポル・ポト派による大虐殺、中ソ国境紛争、中国・ベトナム戦争、さらにはポーランドの「連帯」にたいする鎮圧をみても、それは「ファシズムとおなじ国家社会主義のヴァリエーション」であって、その根底にはレーニン-スターリン主義にもとづく政治的暴力があると指摘した。
 さらに吉本は、大衆にとっては、現在の「社会主義」国よりも「先進資本主義体制」のもたらした成果のほうが、はるかに大きいと断言する。ソルジェニーツィンは「いま、われわれは、せめて資本主義のもとでプロレタリアートが享受している程度に、わが国のプロレタリアートに食べるものと着るものとを与え、余暇を恵んでやりたいと思うだけである」と述べたが、吉本はそのソルジェニーツィンに共感を示すようになっている。
 吉本が埴谷を批判するのは、スターリン主義を厳しく糾弾する埴谷のなかにレーニンの思想を称揚する古い左翼性が強固にこびりついているようにみえることだった。そこから話はレーニン批判へと移る。
 ここで取りあげられるのはレーニンの『国家と革命』だ。吉本はそれを執拗に批判しているが、ことこまかにそれを点検するのは気が重い。
 要点だけを記す。

〈レーニンがエンゲルスの国家観を集約した理念のうち、国家の本質規定である「だから、あらゆる国家は非自由で非人民的な国家である。」(『国家と革命』)は「現在」レーニン-スターリン自身の理念国家であるソ連国家をはじめ、あらゆる社会主義諸「国」や資本主義諸「国」の本質的な欠陥を照し出す鏡になっております。またレーニンの論理的な短絡と狭窄の産物である「国家」は「監獄その他を自由にすることのできる武装した人間の特殊な部隊にある。」(『国家と革命』)という理念の当然の報いとして、資本主義諸「国」よりも、もっと自由度の少ない、賃労働者(階級)の生活水準も低い「強制収容所その他を自由にできる武装した人間の特殊な部隊」であるソ連その他の社会主義「国」の権力を創り出しています。〉

 レーニンの国家論はきわめて幅の狭いもので、国家を暴力装置ととらえるものだといってよい。党が国家を領導することによって「国家」を乗り越えようとしたレーニンとスターリンの共産党が、まさに強制収容所などに代表される「非自由で非人民的な」監獄国家をつくりあげたことを吉本は批判した。
 さらに吉本は「革命やその世界の概念を、理念を仕込んだ支配したがりの、陰謀好きな知識人のせまく暗く、快活でない党派のものにしてしまった」のも、レーニンにほかならなかった、とも述べている。
 レーニン-スターリン主義の根本的な問題は、「正しい」思想をもつ唯一の党(指導者)が国家の上に立って国家を指導し、党に反対する者は徹底して排除していくという発想にあった。そうした考え方は、21世紀のいまも中国にかぎらず多くの権威主義的国家に引き継がれている。
 このあと、吉本と埴谷の論争は思わぬ方向に広がっていく。いわゆるコム・デ・ギャルソン論争である。長くなったので、そのつづきはまたにしよう。

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プラザ合意と中曽根政権──大世紀末パレード(4) [大世紀末パレード]

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 あのころのことを少しずつ思い出してみる。
 薄らいでしまった記憶を導いてくれるのは、引きつづき吉崎達彦の『1985年』だ。
 1985年は戦後40年にあたる。1950年以降、日本は驚異的な経済成長を遂げ、この年までにGNPは80倍になり、一人あたり国民所得は50倍、輸出は140倍、輸入は90倍になった。自動車を中心に日本の対米輸出は増大し、1985年のアメリカの対日赤字は500億ドル近くまで膨らんでいた。
 当時、アメリカ大統領はロナルド・レーガン、日本の首相は中曽根康弘だった。日本の経済進出を受けて、アメリカでは「ジャパン・バッシング(日本叩き)」の動きが強まっていた。
 日本政府は大慌てで、外国製品輸入のキャンペーンを張る。4月20日には中曽根首相がみずから日本橋の高島屋を訪れ、開催中の「輸入商品フェア」で7万1000円の買い物をする。ところが、首相が買い上げたのはイタリア製のネクタイとブルゾン、フランス製のスポーツシャツ、孫のためのイギリス製ダートゲームで、肝心のアメリカ製品はひとつもなかったという笑い話が残っている。
 とってつけたような外国製品輸入促進策は、容易に進むはずがなかった。
 いっぽう「強いアメリカ」を標榜してレーガン政権が打ちだした「レーガノミックス」は、財政赤字と金利上昇、ドル高、貿易赤字を招いた。アメリカにとっては、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が大きな課題となっていた。
 日米通商摩擦が浮上する。これを解決するうまい手が考えられた。それが通貨調整だった。
 1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の財務大臣(大蔵大臣)、中央銀行総裁が集められた(日本からは竹下登蔵相が参加)。そして、わずか20分ほどの会議で、ドル安に向け各国が外国為替市場で協調介入をおこなうことが決定された。
 いわゆる「プラザ合意」である。
 プラザ合意の効き目は絶大だった。東京市場では合意前に1ドル=242円だった為替相場が、85年末には1ドル=200円まで上昇した。その勢いは止まらない。86年2月に相場は1ドル=180円をつけ、5月には165円、8月には154円となった。
 そうなると、これから先どうなっていくのかという恐怖が襲ってくる。日本政府は景気後退を予測して、強力な景気対策を打った。鉄道や道路を中心に大型のインフラ投資が発注され、1985年に5%だった公定歩合は87年2月までに2.5%まで段階的に引き下げられていった。それが結果的にバブル経済を生むことになる。株価と地価が急速に上昇していく。
 ここで中曽根政権について論じるべきなのだろうが、手元に詳しい資料がない。図書館に行くのも面倒だ(近くの図書館は改修工事のため9カ月近く休館になっている)。
そのため手近なところで、いつも世話になっている中村隆英『昭和史』の記述を借りることにする。
 中曽根康弘は、鈴木善幸首相が突然辞任したあと、田中角栄の率いる田中派の支援を受けて、1982年11月に総理の座についた。その政権は3次にわたり、1987年11月まで5年間つづくことになる。
 1985年はまだその中間期にあたっている。
 世界を眺めると、そのころアメリカではロナルド・レーガン(1981〜89)、イギリスではマーガレット・サッチャー(1979〜90)、フランスではフランソワ・ミッテラン(1981〜95)、西ドイツではヘルムート・コール(1982〜98)、中国では鄧小平(1978〜97)、韓国では全斗煥(1981〜88)、北朝鮮では金日成(1948〜94)、台湾では蒋経国(1978〜88)、フィリピンではフェルディナンド・マルコス(1965〜86)、インドネシアではスハルト(1968〜98)が政権を握っている。それこそ錚々(そうそう)たるメンバーだといってよい。
 そこにミハイル・ゴルバチョフが1985年3月にソ連共産党中央委員会書記長の座につくところから、世界史の激動がはじまる。
 複雑な国際環境のなか、中曽根が最重視したのが日米関係だったことはいうまでもない。首相就任から1カ月後、中曽根は韓国につづき、アメリカを訪問し、レーガン大統領に日米は「運命共同体」であり、日本列島は「不沈空母」であると語った。
 レーガンといわゆる「ロン・ヤス関係」を結ぶとともに、親米反ソの立場を鮮明にしたのである。三木武夫内閣が決めた防衛費のGNP比1%枠を突破し、防衛費増大を実現したのも中曽根だった。
 内政面では、中曽根内閣は、前内閣の臨時行政調査会答申を実行に移そうとしたといえるだろう。臨時行政調査会は財政再建と行政改革をめざして、鈴木内閣時代の1981年3月に設置され、経団連名誉会長の土光敏夫が会長を務めた。そのため「土光臨調」とも称される。
 戦後の赤字国債は1965年にはじめて発行され、2度の石油危機をへた1981年にいたって、その累積額は増え、80兆円を超していた(2023年現在は1068兆円)。このままの勢いでは増税が避けられなかった。
 だが、土光臨調はあえて「増税なき財政再建」を旗印にかかげた。
 答申は5次までおこなわれ、政府は徹底した行政の合理化と簡素化を求められた。
 その提言内容は、政府は「小さな政府」をめざし、(1)1984年までに赤字国債発行額をゼロにする、(2)コメ、国鉄、健康保険の3K赤字を解消する、(3)特殊法人を整理し、民営への移管をはかる、(4)省庁の統廃合をはかる、(5)国鉄、日本電信電話公社(電電公社)、日本専売公社を民営化する、などといった厳しいものだった。
 土光は答申がでたら、かならずこれを実行してほしいと政府に強く求めていた。
 しかし、と中村隆英は書いている。

〈しかし、政府側はいわば総論賛成各論反対の昔ながらの姿勢を変えず、各省庁はいずれも激しい抵抗を繰り返したため、行政機構の改革はほとんど実現しないままに終り、臨調の担当部局であった行政管理庁が解消されて総務庁に切り替えられた程度の改革しかできなかった。〉

 国債発行はつづく。行政改革もほんの小手先でしかおこなわれない。
 ただひとつ積極的に実施されたのが、公共部門、とりわけ国鉄、電電公社、専売公社の民営化だった。
 電信・電話事業を担っていた日本電信電話公社は1985年4月に民営化され、NTTグループとなる。タバコと塩の専売事業を担っていた日本専売公社も同じ時に民営化され、日本たばこ産業が誕生する。
 難関は国鉄の分割民営化だった。国鉄は自動車時代におされて、大赤字を抱えていたうえに、その内部では1970年以来、激しい労使間対立がつづいていた。
 分割民営化案にたいしては、国労や動労の組合側はもちろんのこと、国鉄幹部のあいだでも強い抵抗がみられた。
 その経緯を中村はこう解説する。

〈国鉄幹部は、民営化はやむをえないとしても全国一社体制を残そうと抵抗したが押し切られたのである。明治以来の国鉄がこのような形で終焉をつげたことは、政治家や特権企業が鉄道を食い物にしてきたこと、古い大家族主義の労使関係の破綻をはじめ多くの理由が指摘されている。そのいずれもが誤りではあるまいが、同時に、石油危機以後の古典的な自由経済論の復活が、その底流として存在したことを忘れるべきではないであろう。第二次石油危機のあとで発足した臨調は「小さい政府」の発想を打ち出し、大赤字を出しつづける国鉄を、ともかく民間企業として再編することに成功したのである。〉

 多くのコメントが必要かもしれないが、それはあとに回そう。
 いずれにせよ、国鉄分割民営化法案は難航したものの1986年11月に成立し、87年4月からJRグループ(6つの旅客事業会社と日本貨物鉄道)が誕生することになる。
 そして中曽根内閣は国鉄分割民営化を最大の功績として、1987年11月に「禅譲」によって退陣する。そのあとを継いだのは、田中派から抜けて、「経世会」を結成した竹下登だった。
 きょうはこのあたりで終わりとしよう。ぼんやりとしか覚えていなかったが、ほんとうにあのころはいろいろなことがあったのだと思う。

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1985年の経済──大世紀末パレード(3) [大世紀末パレード]

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 少し経済の話をする。タネ本は引きつづき吉崎達彦の『1985年』だ。
 このころは経済指標としてまだGNP(国民総生産)が用いられていた。GDP(国内総生産)が一般的指標となるのは1990年代後半になってからだという。
 ちなみにGNPが1年間で「日本国民が」生みだした付加価値の総額をさすのにたいし、GDPは「日本国内で」生みだされた付加価値の総額を指すという説明は明解だ。たとえば日本企業がアメリカで稼いだ分はGNPに反映されるが、GDPには反映されない。
 1985年の『経済白書』は「新しい成長」の方向として、重厚長大から軽薄短小へ、ハードからソフトへという流れを打ちだしている。太平洋地域が経済成長していくことにも触れている。
1985年当時、日本の高齢化(65歳以上)比率は、まだ10%程度にすぎない(2023年現在は28.4%だ)。
 吉崎は「日本はまだ若い国だった」と書いている。
 国民年金法が改正されたのは、この年4月のことで、サラリーマンとその妻も国民年金に加入することが義務づけられた。こうして、いわゆる2階建ての年金制度ができあがる。
「白書」では、「人口高齢化と経済活力」の項が設けられ、年金と医療の負担が今後の課題となるとされていた。そのとおりとなった。
 だが、吉崎は「白書」が予想していなかったことがあったと指摘する。それが低成長、少子化、低金利だ。
 そのころは、まだ3.5%〜4.5%の経済成長がつづくと考えられていた。団塊ジュニア世代が成人に達すると出生率も上がると思われていた。金利はむしろ高金利になるとみられていた。
 それがことごとくくつがえる。
 ここで1985年の状況を示す統計をいくつか挙げておこう。

人口は1億2105万人(現在は1億2427万人/2023年)。
GDPは名目で329兆790億円(566.5兆円/2022年)。
GDP成長率は名目で6.4%、実質で4.9%の伸び(名目2.3%、実質1.5%/2022年)。
株価は年平均で1万3113円(2万6094円/2022年末)。
経常収支は12兆5731億円の黒字(11.4兆円/2022年)。
一般会計の歳出は52兆4996億円。国債依存度は22.2%(107兆5964億円、国債依存度は31.4%/2022年)。
国債残高は134兆円(1068兆円/2023年)。
労働力人口は5963万人(6667万人/2023年)。
為替レートは年平均で1ドル=200.6円(1ドル=119.1円/2022年)。
長期金利は6.582%(0.25%/2022年)。
外貨準備高は279億ドル(1兆2570億ドル/2023年)。
個人金融資産は495兆7385億円(2121兆円/2023年)。

 これを詳しく説明するときりがないので、やめておく。いまはイメージを膨らませるだけでいいだろう。経済は一見悪くないようにみえるが、その内実はかろうじて持ちこたえているというところか。
 1985年の経済について、吉崎はこう書いている。

〈日本経済はまだ元気一杯である。すでに2度のオイルショックを乗り切った。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」というお褒めの言葉まで頂戴した。なおかつ、プラザ合意以後の円高に耐える体力があったのである。今やかなり落日の感のある2005年の日本経済に比べると、1985年は「午後2時の太陽」とでもいうべき眩しさがある。〉

 この感想が記されたのは2005年のことである。それからさらに20年近くたったいまは、何といえばいいのだろう。日本経済はすっかり眠りについたと言い切るのはさびしい。エンジンを空ぶかしするものの、車は前に進まない状況に陥っているというべきか。
 それはさておき、1985年の状況に話を戻す。
 当時の総理府の「国民生活に関する世論調査」では、1985年の「お宅の生活程度」にたいして、「中の中」と答える人は53.7%もいた。「中の上」、「中の下」と合わせると、88.5%が中流意識をもっていたことになる。
 生活にたいする満足度は高かった。日本はいい国になったと思う人が増えていたのである。
 生活にたいする満足度は政治意識をも変容させる。
「中流社会の長期化と高い生活への満足度は、貧しさに不満を持つ人たちの気持ちを代弁してきた革新政党を弱体化させ、保守政党への支持を強めていた」と、吉崎は記している。
 1985年には茨城県つくば市のエキスポセンターで「科学万博」が開かれていた。ソニーのジャンボトロン、リニアモーターカー、そして数々のロボットショー。ぼくも子どもたちを連れて出かけたが、これといった記憶がないのは、すでに感性が摩滅していたか。
 とはいえ、当時は「ハイテク国家・日本」とか、「ニューメディア元年」ということばが世の中にあふれていた。
 電電公社が民営化されNTTと改称されたのもこの年である。任天堂のファミリーコンピューター、すなわちファミコンがヒットしはじめるようになる。わが家もとうぜんのようにファミコンを購入し、子どもたちは「スーパーマリオ」に熱狂しはじめるが、ぼくはまったくついていけなかった。
 そのいっぽうで、吉崎は「80年代半ば頃の日本は、もはや高度成長期のように、『作れば売れる』という時代ではなくなっていた」と書いている。トレンドなるものが重視され、マーケティングが盛んになる。
 コピーライターが花形職業となり、糸井重里らがもてはやされた。糸井の代表作が82年の西武百貨店のコピー「おいしい生活」である。消費者はもはや「おいしい」ものしか求めなくなった。百貨店業界はこのころまだ元気があった。
 ぼくの生まれた1948年のエンゲル係数は60.4%だった。それが1985年には25.8%まで下がっていた。
 ほとんどの家庭に冷蔵庫、洗濯機、掃除機、カラーテレビが行き渡るようになる。しかし、電子レンジ、ルームエアコン、VTR、ビデオカメラ、ステレオなどはまだ普及しておらず、乗用車もまだ完全に浸透していない。CDプレーヤーやワープロは登場したばかり。デジタルカメラ、DVDプレーヤー、パソコン、ファクシミリ、携帯電話はまだ市場に姿をみせていない。家電や電子機器の裾野は広く、乗用車への憧れもまだ根強かった。
 グルメ時代がはじまろうとしていた。マンガ『美味しんぼ』が大ヒットし、料理評論家の山本益博が脚光を浴びる。
 吉崎はこう書く。

〈思うに生活に余裕ができたとき、何におカネと時間をかけるかはそれぞれの国の文化によるのであろう。紋切り型の分類でいけば、イギリス人は住居を充実させて庭の手入れをし、ドイツ人は家具やクルマにお金をかけ、イタリア人はファッションにこだわる。どうも日本人の場合は、「食べること」が自然の選択肢になるようだ。〉

 うそがほんとかはともかく、類型的な比較としてはおもしろい。なるほどなと思わせる。

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タケちゃんマン──大世紀末パレード(2) [大世紀末パレード]

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 テレビの話をつづけると、吉崎達彦の『1985年』には、70年代にお笑いの頂点を極めたザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」が、この年9月28日に最終回を迎えたという話がでてくる。
 TBSのザ・ドリフターズを食ったのは、同じ土曜8時台の枠で放送されていたフジテレビの「オレたちひょうきん族」(1981年から89年まで放送)だったという。そういえば、わが家もこの品のない番組を大笑いしながら見ていたような気がする。10歳と7歳になる子どもたちも一緒にみていたとはとても思えないのだが、はっきりした記憶がない。「8時だよ!全員集合」は終盤期のころ、すっかりマンネリになっていた。
「ひょうきん族」のメインキャストは、一貫してタケちゃんマン(時折、鬼瓦権造も登場)を演じるビートたけし、ブラックデビルやパーデンネン、アミダばばあ、ナンデスカマンと次々キャランクターを変える明石家さんま、ほかに島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子、島崎俊郎(アダモちゃん)など。ホタテマンとして大暴れする安岡力也も強烈だった。プロデューサーは横沢彪(たけし)で、本人も「懺悔室」の神父役で画面に登場していた。
 番組の中心は、変身したたけしとさんまによる即興的な掛けあいである。変身しているからこそ、恥ずかしげもなく、しらふではいえない、おふざけギャグが炸裂する。それが、ふだん会社で抑圧されているサラリーマンの夫たちや、毎日忙しく家事や子育てに追われる妻たちの笑いを誘い、ストレス解消をもたらしたのかもしれない。
 タケちゃんマンのテーマソングはめちゃくちゃで、いまの時代ならとても流せないものだった。

遠い、星からやってきた
ひょうきんマントをなびかせて
今日は吉原堀之内 中洲すすきのニューヨーク
強きを助け 弱きを憎む
TAKEタケちゃんマン TAKEタケちゃんマン
ゆくぞわれ〜ら〜の タケちゃんマン

 吉原(東京)、堀之内(川崎)、中洲(福岡)すすきの(札幌)は、日本有数の歓楽街で、ソープランド[80年代半ばまでは「トルコ風呂」と呼ばれていたが、トルコ人留学生の抗議により名称変更]が数多いことで知られていた。
 タケちゃんマンは女好きだが、女にもてないおっさんで、「強きを助け、弱きを憎む」ふつうの日本人の特性を兼ね備えている。それがスーパーマンのように、「マントをなびかせて」、さんまが現れるところなら、どこにでもやってきて、好き放題、じつにくだらない(そしてかなりえげつない)コントの応酬をくり広げる。そして、いまのテレビコードでは、とても放映できないエネルギッシュな笑いを炸裂させていた。
 そのころ吉本隆明は漫才を抜けだしたビートたけしの芸風の変貌について、こう書いている。

〈謎が現在でもあるとすれば、性根のわるいいじめっ子風イメージを異化的にかき立て、共演の芸人や素人たちと一緒に、痛ましい笑いのゲームをブラウン管にくりひろげている意味である。もうひとつあるとすれば、タケちゃんマンの創造に象徴されるような、野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像がもっているすぐれた現在的な意味である。〉

 吉本はなぜこんな「痛ましい笑いのゲーム」が受けているかは「謎」だと言っている。さらに「野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像」が、どのような意味をもっているのかを問わなければならないと結んでいる。タケちゃんマンの登場を評価し、その意味を考えようとしていたといってよい。

「オレたちひょうきん族」がはやりはじめたころ、関西では世間をわきたたせる大きなできごとがあった。阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズでも西武ライオンズを破って、日本一の栄冠を勝ちとったのだ。
 吉崎の『1985年』にもとづいて、その状況を再現する。
 優勝を逃した1973年以降、阪神は暗黒時代におちいっていた。監督はしょっちゅう入れ替わり、主力の投手、江夏豊と打者、田淵幸一が放出され、トレードで入団した江本孟紀が「ベンチがあほやから」と言い放って、引退してしまう。その後もずっと低迷がつづき、1985年にすったもんだの末、元名遊撃手の吉田義男がふたたび監督に就任したときは、ファンのあいだからため息がもれていた。ところが、奇跡がおこるのだ。
 それはシリーズが始まってすぐの4月17日の甲子園での対巨人2回戦のことだ。阪神は7回裏ツーアウトまでは1対3と巨人にリードされていた。そこに、3番ランディ・バースが3ランを放って試合をひっくり返す。
 マウンドで呆然とする巨人のピッチャー槇原敬之に追い打ちをかけるように、4番掛布雅之がバックスクリーンにホームランをたたき込む。それだけで終わらない。つづいてバッターボックスに立った5番岡田彰布(あきのぶ)がよっしゃとばかりにホームランを放つ。
 こうして勢いづいた阪神は、長年の低迷から脱して、優勝への道を歩みはじめる。
 阪神優勝の立役者は何といってもバースだった。この年、バースは三冠王に輝いた。だが、吉崎はこうつけ加える。

〈ひとつだけ悲しいのは、85年の本塁打数は54本で、王選手が残した年間記録である55本にあと一歩届かなかったことだ。いや、届かせなかったのである。セ・リーグの投手陣は、シリーズ終盤の消化試合でバースを四球攻めにした。当時はまだ、偉大な王選手の記録を外国人選手が破ってはいけない、というケチなことを考える人が多かったのだ。そんな仕打ちに対し、バースは哲学者のような静かな表情で耐えた。〉

 バースのえらさがよけいに伝わってくる。このバースがひとつの大きな牽引力となって、阪神は日本一の座を勝ちとった。
 こうしてみると、ひょうきん族といい、阪神優勝といい、1985年という年は、にぎやかで、はしゃいだ雰囲気のなかにあったようにみえる。だが、はたしてそうだったのか。

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金曜日の妻たちへ──大世紀末パレード(1) [大世紀末パレード]

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 暇つぶしといえば語弊があるかもしれないが、これはたしかに暇なじいさんの、まるで緊張感のないブログにはちがいない。それでも、ますますぼんやりしていく頭の片隅で、漠然と「大世紀末パレード」というテーマをひねりだしてみた。どうでもいい話かもしれない。
 ここでいう「大世紀末」とは、およそ1985年から2000年までの時期をさしている。21世紀からは新しいミレニアム(千年紀)である。そのため、千年に一度の大世紀末だというのに、そこにキリスト教でいう世界の終末といった意識は感じられず、むしろあのころ時代は漫然と過ぎていったように思われる。
 たしかに何かが終わったという雰囲気が世界を包んでいた。そして、何かおかしいという不安感が膨らんでいくのは、むしろ21世紀という新しい世紀にはいって、しばらくたってからである。だとすれば、気づかぬうちに大世紀末にすでに歴史的な地殻変動がはじまっていたのではないか。
 何かが終わり、何かがはじまるのは、いつの時代も同じである。だが、それはふだんあまり意識されず、日々の仕事のなかで一瞬驚きをもたらすニュースとして流れるだけで、たちまち消え去っていく。大きなできごとは少しずつ時間をかけて人を包みこんでいくのだが、自身はそれに気づくことなく、流されていく日常を必死にもがきながら前に進もうとしていたのではないか。
 1985年から2000年にかけても、そんな時代だった。ぼくも会社の片隅で本の販売や編集という地味な仕事をしていたが、無能な人間なりに、一生懸命、与えられた目の前の仕事に励んでいた。あのころの自分のことを書くのは気が進まない。冷や汗の出る思いがする。要するに自慢できることはほとんど何もないのだ。
 それよりは、むしろ、あのころちらっと垣間見ただけで通り過ぎたできごと、そして、あのころの本などを取りあげて、遅まきながら、あのころ自分のまわりで何が起こっていたのかをたしかめてみたい。
何かえらそうなことを論じようというのではない。大きな歴史を書こうというのでもない。自分がサラリーマンとして中年を過ごした時代の回想である。
 本を取りあげるのは、これまで本とかかわることが多かった職業柄による。とはいえ、ここで扱うのは、自分に関心のあるごくわずかな本にかぎられてしまうだろう。教養のなさを痛感せざるをえない。
つまらぬ前置きはおしまい。だらだらと書いていく。はたして最後までいきつくか、先のことはわからない。

 まずは、はじまりの年、1985年を取りあげてみよう。吉崎達彦の『1985年』が失われた記憶を呼びさましてくれる。
 そのころテレビでは『金曜日の妻たちへ』がはやっていた。TBSから放送された、いわば不倫ドラマで、85年はシリーズ最後のパート3になる。8月30日から12月6日までの秋から初冬にかけ、毎週金曜日、午後10時から1時間の枠で放送されていた。脚本は鎌田敏夫だった。
 出演は古谷一行、板東英二、奥田瑛二、いしだあゆみ、小川知子、篠ひろ子といったあたり。小林明子が歌った主題歌「恋におちて Fall in love」が大ヒットした。

もしも 願いが叶うなら
吐息を 白いバラに 変えて
逢えない日には 部屋じゅうに
飾りましょう 貴方を想いながら
Darling, I want you 逢いたくて
ときめく恋に 駆け出しそうなの
迷子のように 立ちすくむ
わたしをすぐに 届けたくて
ダイヤル回して 手を止めた
I’m just a woman・・・
Fall in love

 作詞は湯川れい子、作曲は小林明子。英語をはさんだ歌詞もいやみがない。30代後半と思われる人妻の一途な恋が、いますぐにでも逢いたいのに逢えないという状況のなかで、切々と歌いあげられている。
白いバラは純愛をあらわしている。ダイヤル回して手をとめるのは、ためらいのなす業である。
 実年齢でいうと、このとき古谷一行は41歳、板東英二は45歳、奥田瑛二は35歳、いしだあゆみは37歳、小川知子は36歳、篠ひろ子も37歳だった。みんなほぼ団塊世代(戦後第一世代)だといってよい。
 ドラマでの役名を省略していうと、古谷一行は大手建設会社の設計部課長で、その妻が篠ひろ子だ。ふたりは東急田園都市線の町田あたりに住んでいる。小川知子は印刷会社の会社員板東英二と再婚し、長津田で「ソル・エ・マール(太陽と海)」というレストランを開いている。いしだあゆみは映画会社で翻訳字幕の仕事をしているが、かつて古谷一行と下落合のアパートで同棲していたことがある。奥田瑛二はいしだあゆみの務める映画会社の後輩だが、妻との関係はうまくいっていない。
 篠ひろ子と小川知子、いしだあゆみは、仙台のお嬢様学校、青葉女学院で幼稚園から短大までいっしょに過ごした仲だ。しばらく連絡がとれなくなっていたいしだあゆみと小川知子が偶然、銀座で再会したところからドラマは幕を開け、そのあと古谷一行や奥田瑛二がからんで、はらはらどきどきする1時間が展開する。最高視聴率は23.8%に達したという。
 お堅い厚生省もこの現象に注目し、のちに1998年の厚生白書「少子社会を考える」のなかで、「団塊の世代の専業主婦たちの不満と主婦役割からの脱出」というページを設けて、こう論じた。

〈『妻たちの思秋期』にしても、「金曜日の妻たちへ」にしても、今までなら何の不足もないと思われていた生活の中で、主婦たちというのは不満を抱いているものなんだ、ということを前面に押し出しました。これに世間はびっくりした。妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰のはずなのに、なんと不満をもっているらしいぞ、と。〉

 放映から10年以上たっていたのに、このドラマの記憶が残っていたところに、「金妻」の影響力の大きさがあらわれている。しかし、政府の「白書」に、「今までなら何の不足もないと思われていた生活」とか「妻の座を得たら女は三食昼寝つきで安泰」といった記述があるのが男のホンネを感じさせる。そこに「主婦たちというのは不満を抱いてものなんだ」という「発見」がかぶさる。
 ここから、「白書」が女性の社会参加という政策を打ちだすことも目にみえるようだ。
 ところで、「白書」には「金曜日の妻たちへ」の前に『妻たちの思秋期』という本の名前がでてくる。『妻たちの思秋期』は共同通信の社会部記者、斎藤茂男が1982年に出版したルポで、書籍化にあたっては、ぼくが編集を担当した。
 このルポは、都市中流家庭の中高年の女性たちを登場人物にして、アルコール依存症におちいっていく主婦や、自分から離婚を宣言して夫と別れる妻たちの生の声が集められている。
「ごめんね、こんなになって。でももう少し飲ませて、お願い。手が震えてどうしようもないんだもの……」
「なにさ、よくもよくもほったらかしやがって! 25年間も! 25年もほうっといて! なにが仕事よう、聞きあきたよもう……」
 斎藤(さん)が取りあげようとしていたのは、記事として表面化することのない日常のなかにひそんでいる事件だった。
 味も素っ気もなくいってしまえば、事件記者から離れたあとの斎藤(さん)のテーマは、一貫して日本資本主義論だったといってよい。経済至上主義で突っ走る男たちの世界から侮蔑され、切り捨てられた、そのじつ経済社会を支える根源になっている女たちや子どもたちや虐げられた人たちの世界を抽象としてではなく、生の事実としてえがくこと。ぼくはすくなくとも、彼のテーマをそうとらえていた。
 じっさい『妻たちの思秋期』の「まえがき」にも、こう書かれている。

〈どうやら女たちは、男が疑うことなく営々と構築作業に精を出しているこの現代資本主義社会の、そのありように対して、夫という存在を通して本能的ともいえるような感性で疑問を感じとり、心と体のナマ身の表現で男たちに何かを呼びかけはじめている──この取材を通じて私はそのことを感じとった。〉

 しかし、現代資本主義論といってしまえば、いかにもおもしろくない。斎藤ルポの迫力は、あまり表にはでてこない、経済至上主義では片づかないナマの現実を、当事者の声としてそっくりそのまま読者に伝えるところから生まれていた。

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