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水野和夫『次なる100年』を読む(6) [本]

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 中世の中心はイコン(聖像)だった。これにたいし、近代の中心はコイン(おカネ)である。しかし、21世紀の中心はイコンでもコインでもない。コインはもはや石になりつつある。資本主義からポスト資本主義へ。そのためには何が求められるか、と著者はいう。
 資本主義からポスト資本主義への指標となるのが、財政状況の急激な悪化である。これは日本だけの現象ではないが、とりわけ日本が最悪の状況にある。2020年段階で、日本の公的債務残高は対GDP比率で270.4%になっている。つまり、GDPの2.7倍、公的債務が積み上がっていることになる。アジア太平洋戦争の末期でも、公的債務残高はGDPの2倍だったから、それよりもはるかに高い割合だ。
 しかし、国債をこれだけ発行しても、国債の利率が上がらないのは、いかに貯蓄(家計の金融資産と企業の資金余剰)が過剰になっているかにほかならない。
 PB(基礎的財政収支)が均衡すれば、公的債務残高は減らないにしても、いま以上には増えなくなる。だが、それがいつになるかは、なかなか見通せない。
 コロナ禍でも企業は設備投資を抑制し、手元流動性(手元資金)を増やしている。家計も同様で、2021年3月末の個人金融資産は過去最高の1945.8兆円となった。それが日本の財政をかろうじて支えている。
 現在求められているのは、課税(とりわけ法人税課税、さらには消費税)によってPBを均衡させること、そのうえで格差・貧困問題を是正するため資産課税を強化することが求められる、と著者はいう。
 日本の財政当局が恐れているのは、長期金利が上昇することである。
貿易収支がどうなっていくかも懸念材料だ。現在、日本の貿易黒字を支えているのは車と電気製品だといってよいが、電気製品の力は次第に衰え、自動車産業だけが頼みの綱になりつつある。これにたいし、石油価格の高騰が貿易収支を悪化させている。
 2021年度の貿易収支は赤字となった。とはいえ経常収支が黒字を保っているのは、所得収支の黒字幅が貿易収支の赤字幅をいまのところ上回っているからだ。しかし、これからも原油価格は上昇する可能性があるので、貿易収支の赤字幅は拡大する恐れがある。経常収支が黒字のうちに、PBを均衡させていかないと、長期金利が上昇する可能性がある、と著者は懸念する。
 現在、「石」と化している個人と企業の膨大な金融資産を動かさなくてはならない、と著者はいう。
 世帯でいうと、2021年3月段階で、60−69歳の世帯の金融資産は平均で4985万円、70歳以上は4500万円前後、50−59歳は3000〜3500万円前後だという。もちろん、この数字は平均で、同じ年代でもばらつきがある。年金だけでほとんどじゅうぶん生活している人もいるし、少ない年金で生活に苦しんでいる人もいる。
 なぜ、日本人はこれだけの金融資産を残しているのか。教育資金や結婚資金を含め、子どもに遺産を残すという動機も根強い。しかし、老後の生活資金、病気や不時の災害の備えというのがいちばん大きいという。
 高齢者人口比率は2055年には36.7%になり、ピークを迎えると予想される。現在の高齢者の金融資産は使い切れない。そのため、それは遺産相続されて、次の世代の高齢者に引き継がれ、金融資産がそのまま「石化」していく可能性が強い、と著者はいう。
 おカネは使ってこそ価値がある。相続税を強化(たとえば4000万円超に45%)して、資産を分配すべきだ。親子の関係を日本人全体に広げるという気持ちをもつことがだいじだ。そうすれば、保育園・幼稚園から大学まで無償化して、教育格差を縮めることができる。加えて、大学に行かない選択をした若者に一律500万円を支給するようにすればいいという。
 国家がもっともだいじにしなければならないのは正義であり、公共の利益である。中間層が弱体化すると国家は崩壊する。救済こそが国家の役割である。「石」となっている金融資産は、ほんとうの富ではない、と著者はいう。
 貧富の格差にともない社会秩序の安定性が失われようとしている。社会の安定化に、あり余る金融資産は寄与すべきである。
 近代における所有権は、国家の正当性と結びついてきた。国家は所有権、すなわち「わたしのもの」を保証する仕組みを法的に整えていった。
 国家は所有と自由を保護するからこそ、国家として認められる。それはさらに個人の「固有権」、すなわち自由権と社会権という固有の権利を国家が保障するという考え方へと発展していったという。
もちろん、人間は社会的動物として自然法を守らなければならない。人類の保全を目的とするのが自然法だ。
 著者は、近代に生まれたロックに代表されるこうした考え方が、今後も継承されなくてはならないと考えている。
 そうした観点からすれば、気候変動への対処や、公共善の実現、格差是正、権利侵害への補償は今後とも国家のなすべき義務なのである。
 ケインズは「慈愛の義務」を果たさず「財産としての貨幣愛」だけを追求している人は半ば犯罪者だといったという。過剰な富(石と化した貨幣)は困窮者に移転してこそ生きた貨幣となる。そうした役割を果たせるのは国家だけだ、と著者は考えている。
 現在の日本でいえば、法人企業利益への課税、消費税引き上げ、相続税の強化、高額所得者へのサーチャージがなされなければならない。そして、それらによって得られた30兆円前後の財源は、最低賃金の引き上げ、低年収世帯やひとり親世帯への支給、大学までの授業料無償化、芸術・文化振興予算、社会保障関連費の自然増などに回されるべきだという。
 それらは単におカネの配分を意味するのではない。政治や経済は、善い社会(精神性の高い社会)をつくるための手段にすぎないのだ、と著者は強調する。
 近代において、会社は法人格を有するようになり、「永遠の命を獲得した株式会社が利潤の蓄積である資本の所有者となった」。
 だが21世紀になると、資金主義者による株式会社支配が露骨になると同時に、株式会社による資本蓄積がますます盛んになっている。そうした必要以上の富(石としての富)は抑制されねければならない、と著者はいう。
 パンデミック下において、低所得国では絶対的貧困者が拡大するいっぽうで、先進国では少数のビリオネアの資産が膨張している。こうした状況は、どうみても善い社会の状態とは思えない。ビリオネアたちは少なくとも、パンデミック基金などをつくって、全世界の貧困者救済に寄与すべきではないか、と著者は提言する。
 日本でも相対的貧困率の割合が(だいたい年間所得が200万円程度の家庭を想定すればいい)、1985年の12.0%から2018年の15.4%に増えている。なかでも、ひとり親世帯の子どもの貧困率が高い。2018年段階で、ひとり親世帯(とりわけ母子世帯)の子どもは二人に一人が貧困におちいっている。 2090万人の非正規労働者(雇用者全員の37.2%)の生活も苦しい。かれらにたいして、「日本株式会社」はけっして手を差し伸べようとはしていない。
 企業の堕落は数多くの粉飾決算や不正行為にあらわれている。それは資本家や企業が貨幣愛に固執する結果である。それによって公共性が踏みにじられ、多くの固有権が侵害されている。
「日本においては、政治家、官僚そして企業経営者は品格がなく、『倫理的な力』が欠けている」。それにたいして、健全な権利感覚を取り戻すべきだ。
 人間がつくりあげた秩序を常に正しい方向に是正するには、倫理的な力が求められる。モラル・サイエンスとしての経済を考えるには、倫理学、政治学も視野にいれなければならない。
「20世紀の主流派経済学は効率的な資源配分という名のもとに賃金、利子、利潤について決定してきたが、21世紀の経済学は、『価値判断』を捨象することなく『社会的公正』の観点から分配問題として考え直す必要がある」
 かつて、ケインズはこう書いたという。

〈私としては、資本主義は賢明に管理されるかぎり、おそらく、経済的目的を達するうえで、今まで見られたどのような代替的システムにもまして効率的なものにすることができるが、本質的には、幾多の点できわめて好ましくないものであると考えている。〉

 著者も資本主義は賢明に管理されていないとみている。貨幣幻想がいまもこの世をおおっている。貨幣愛にとりつかれたビリオネアはあたかも「不死の幻想」を追い求めているかのようだ。
 金銭欲ははかない。ゼロ金利社会においては、貯蓄、すなわち我慢する必要もなくなった。
「ゼロ金利は最高の生活水準に到達したことを意味する」。これからは精神生活をだいじにし、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」を目標にすべきだ。これからの社会は「成長なくして、分配あり」なのである。
 21世紀にめざすべき方向は「堕落してきた人間の精神の向上」である。そして「自己の精神を向上させるのは芸術である」。
 近代において生活水準はたしかに向上した。しかし、それに伴って人の精神は失われた。豊かな精神を取り戻すには、自由時間を増やすことが必要だ。
 ゼロ金利になって、明日のことなど心配しなくてもいい社会が生まれようとしているいま、毎日を楽しみながら生きる時代が到来しつつある。それが美や芸術、文化に結びつくことはまちがいない、と著者はいう。自然を力ずくで支配するイデオロギーとも訣別しなければならない。
 21世紀は資本よりも「芸術の世紀」となるだろう、と著者はいう。
 資本主義を打倒せよという主張より、はるかに説得力がある。それはやろうと思えば明日からでも着手できる政治課題だからである。

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