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タシケントを駆け足見学──ウズベキスタンの旅(14) [旅]

 帰国まで、タシケントのあちこちを駆け足で見学です。
 日本人抑留者がつくったといわれるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場をみました。もっともなかにははいれません。
_DSC0996 2ナヴォイ劇場.JPG
 正面はこんなふうです。
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 なかにはいれないので、せめて入り口天井の写真をとっておきましょう。なかなか立派な劇場です。
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 劇場側面の壁には「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、この劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」旨の銘板がかかげられていますた。ガイドさんによると、最初は「日本人捕虜」となっていたのを「日本国民」と直させたのは、カリモフ前大統領だといいます。
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 おなじみのテレビ塔もありました。
_DSC1009 2テレビ塔.JPG
 日本庭園も訪れます。その由来も聞いたような気がするのですが、すっかり忘れてしまいました。コウノトリがいます。
_DSC1010 2コウノトリ日本庭園.JPG
 水辺では睡蓮が顔をのぞかせます。
_DSC1025 2スイレン日本庭園.JPG
 バラク・ハン・メドレセです。16世紀にバラク・ハンによって建てられた神学校です。ソ連時代はここに中央アジアのイスラム本庁が置かれていたといいます。
_DSC1042 2バラク・ハン・メドレセ/タシケント.JPG
 その向かいにあるのが、ハズラティ・イマーム・モスク。このなかにはコーラン博物館があり、ティムールが遠征から持ち帰ったという世界最古(7世紀)のコーランをみることができます。ほかにも世界各国で翻訳されたさまざまなコーランが展示されており、井筒俊彦訳の岩波文庫版コーランも飾られていました。
_DSC1043 2ハズラティ・イマーム・モスク/タシケント.JPG
 短い時間ですが、チョルスー・バザールにも寄りました。
_DSC1046 2チョルスー・バザール/タシケント.JPG
 チョルスー駅から地下鉄に乗ります。
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 2駅目で乗り換え。
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 ムスタキリク・マイダニ駅にやってきました。これはティムール朝の政治家で詩人のアリシェール・ナヴォイ(ナヴァーイ)の像ですね。先ほどのナヴォイ劇場は、この人物を記念してつけられています。
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 広大な独立広場を歩きます。かつてここはレーニン広場と呼ばれていました。
_DSC1059 2独立広場/タシケント.JPG
 レーニンの巨大な像は取り払われ、そこには母子像が据えられています。
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 広場の一角には、第2次世界大戦の犠牲者を慰霊する場所がありました。そこには帰らない息子をいつまでも待つ「嘆きの母」の像が置かれ、消えることのない火がともされていました。人の死を悲しみ、平和を祈る気持ちは、どの国の人も変わりません。それなのに一瞬、靖国の発想とのちがいを思ったりもしました。
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 ウズベキスタンの旅もこれで終わりです。遠かった中央アジアが、多少なりとも身近に感じられるようになったのが、今回の旅の成果でした。夕飯後、タシケント空港に向かいます。今回もガイドさんをはじめ、いろいろな人のお世話になりました。

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タシケントのガンダーラ仏──ウズベキスタンの旅(13) [旅]

 5月16日(木)
 朝早くホテルを出発し、サマルカンド駅にやってきました。荷物をもっての移動は少したいへんですが、駅の構内はさほど混み合っていません。
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 6時38分の列車アフラシャブ号に乗ります。
_DSC0810サマルカンド駅アフラシャブ号.JPG
 途中、ティムールが進軍するときに軍を集結させたというティムール・ゲートを通過します。
_DSC0847 2チムール・ゲート.JPG
 シルダリヤ(シル川)を渡ります。
_DSC0871 2シルダリア川.JPG
 9時前、タシケント駅に到着しました。
_DSC0874タシケント駅.JPG
 最初に訪れたのはヤッカサライ・モスク。この一角に、ソ連時代に抑留された日本人の墓地があります。
_DSC0880ヤッカサライモスク・日本人墓地.JPG
 タシケントには9760人の日本人が連行され、住宅や道路、運河、劇場などの建設に使役されました。この墓地には79人の日本人が葬られています。慰霊碑に手を合わせるご夫妻の写真をとらせてもらいました。
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ウズベキスタンの人のお墓。墓石には生前の写真が彫り込まれています。
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 スーパーでの買い物タイムのあと、タシケントのウズベキスタン歴史博物館にやってきました。ここには石器時代から18世紀ころまでの文物が展示されています。
_DSC0925 2ウズベキスタン歴史博物館.JPG
 詳しいことはわからないのですが、いくつか気になった展示を紹介しておきましょう。
これは蛇の分銅。フェルガナ地方で発見されたもので、紀元前2000年ごろペルシアでつくられたものだといいます。何に用いられたのでしょう。
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 これは紀元前5世紀ごろ、アムダリア河畔の古代都市で発見された祭司の像。
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 同じく腕輪。
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 ヤギのとって。ヤギの姿が躍動的です。
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 カラカクパクスタンのブルリカラで出土した紀元前1〜3世紀の人物像。貴人でしょうか。
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 これは鏡ですね。紀元前1〜2世紀の女性の墓からの出土品です。鏡はシルクロードを通って中国からもたらされたのでしょうか。
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 テルメズ近郊の仏教遺跡から出土した塑像。1〜2世紀ころのものです。伎楽の面に似ていませんか。
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 これも同じ。
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 ひとつひとつ紹介していてはきりがありません。しかし、なかでも圧巻は、テルメズ近郊のファヤズテペ遺跡から発掘された1〜3世紀くらいの仏像でした。ここには広大な僧院がありましたが、玄奘三蔵法師が訪れたときには、すでに土に埋まっていたようです。
_DSC0982 2ガンダーラ仏.JPG
 あまりに完璧な像なので、アップした写真も載せておきましょう。平和を祈る念が伝わってきます。いつの時代も世界中どこでも、人の思いは同じです。なおこの像を発見したのはガイドさんのいうように加藤九祚先生ではなく牧夫のアブサド・ベクナエフという人です(加藤先生自身が『中央アジア遺跡の旅』という本で紹介されています)。
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 この博物館には、ほかにもイスラム時代の遺物やティムールにまつわる絵画、スターリン時代の弾圧の記録も保存されています。ウズベキスタンでもスターリン時代、密告により多くの人が処刑され、7000人以上が犠牲になったといいます。有名なのはアブドゥラ・コディリ(1894-1938)という作家です。いまはタシケントの地下鉄の駅名にも、この人の名前がつけられています。
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 もっと時間と知識があれば、ここで1日過ごすこともできたでしょう。しかし、残念ながら帰国の時が迫っていました。ほんの1時間ほどの見学でおしまいです。

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サマルカンドの昼──ウズベキスタンの旅(12) [旅]

 5月15日(水)
 シャーヒ・ジンダ廟を見学したあとは、ショブ・バザールに。ここで父のおみやげとして、お皿とカップを買いました。
 バザールの手前には、ハズラティ・ヒズル・モスクがあります。古代、ここにはゾロアスター教寺院がありましたが、その後、モスクとなり、そのモスクもチンギスハンによって破壊され、19世紀に再建されたといいます。独裁者と呼ばれたカリモフ前大統領もここに眠っています。
_DSC0671 2ハズラティ・ヒズル・モスク/サマルカンド.JPG
 アレクサンドロス大王が築いたといわれる土塁も残っています。
_DSC0673 2アレキサンダー大王の作った壁・サマルカンド.JPG
 バザールでは、ガイドさんがおすすめのナッツ類を教えてくれました。
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 いろいろなものが売られていて、にぎやかです。
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 買い物をすませ、隣にあるビビハニム・モスクを訪れます。
_DSC0684 2ビビハニム・モスク/サマルカンド.JPG
 このモスクもティムールがつくったものです。ティムールの死の直前、1404年に完成しました。ビビハニムはティムールの妃で、彼女にまつわるさまざまな伝説があります。
 ここも革命時代に破壊されましたが、1990年代に修復されたといいます。アーチをくぐって、なかにはいると、ウルグベクが寄進したといわれるコーランの本を置く石の台(ラウヒ)が置かれていました。
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 修復以前の写真が残されていました。ほとんど廃墟ですね。
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 いまモスクの内部は、きれいに修復されています。
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 ビビハニム廟です。
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 食事をしてから、ふたたびレギスタン広場に。道路にクラシックカーのような車が停まっていました。ロシア製のヴォルガでしょうか。
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 きのう夜景を見たレギスタン広場にやってきました。中央がティラカリ・メドレセ、左がウルグベク・メドレセ、右がシェルドル・メドレセです。
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 いささか昼間のビールがきいたのと、猛暑も加わって、肝心な場所なのに、ぐったりくたびれました。ガイドさんの説明も上の空、見学もおざなりに。
 しかし、まずは広場にはいり、ウルグベク・メドレセの前を通って、と。
_DSC0724 2ウルグベク・メドレセ/サマルカンド.JPG
 右手のシェルドル・メドレセもりっぱです。
_DSC0726 2シェルドレ・メドレセ/サマルカンド.JPG
 アーチには人面の日輪を背負ったライオンがシカを追っているモザイク画がみえます。偶像崇拝を禁じるイスラムらしからぬ絵柄です。
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 正面のティラカリ・メドレセ。左のドームは工事中ですね。
_DSC0729 2ティラカリ・メドレセ/サマルカンド.JPG
 そのなかにはいってみます。
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 礼拝所は金で装飾されていました。天井もみごとです。
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 ウルグベク・メドレセのシンボルは青い星ですね。
_DSC0747 2ウルグベク・メドレセ星模様/サマルカンド.JPG
 その奥にも礼拝所がありました。
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 これでサマルカンドの見学も終わりです。ホテルに戻る途中、ティムールの像をみつけました。
_DSC0768 2ティムールの像/サマルカンド.JPG

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サマルカンドの朝──ウズベキスタンの旅(11) [旅]

 5月15日(水)
 リシャルド・カプシチンスキは『帝国』で、ティムールについてこう書いています(工藤幸雄訳)。

〈ティムールは史上の奇異な現象なのである。その名は何百年となく恐怖の的とされた。……彼は死を運んだ、そしてその任務に半日を費やした。あとの半日、彼の熱中したのが藝術であった。藝術の普及に対するティムールの献身たるや、死の普及に対する熱意に劣らなかった。……ティムール帝国にあって、最良の避難所となったのが才能である。ティムールは、こうした才人らをサマルカンドへと引き入れ、有能な人士の獲得に鵜の目鷹の目となった。……藝術家たちは花開き、サマルカンドも花と開いた。この街こそティムールの誇りであった。〉

 そのティムールのサマルカンドにいます。ティムールの時代なら、ぼくなどはあっさり殺されてしまっていたでしょう。
 泊まったホテルは空港の近くでした。
 けさはまずシャーヒ・ジンダ廟に行くことになっています。
 バスに乗ってすぐのところに、ウルグベク天文台があります。残念ながら見学の対象ではありませんが、ウルグベクは1年の時間を正確に計り、1018の星の軌跡をここで観察したのでした。
_DSC0608 2ウルグベク天文台下サマルカンド.JPG
 ウルグベクはティムールの孫で、ティムール帝国4代目の君主ですが、天文学者でもあり詩人でもありました。しかし、首を斬られ暗殺されるという悲劇の最後をとげます。その銅像が建てられています。
_DSC0609 2ウルグベクの像・天文台下サマルカンド.JPG
 シャーヒ・ジンダ廟に到着。時刻は8時です。ガイドさんによると、朝早く来ないと、大混雑になるといいます。
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 正しくはシャヒーダ・ジンダだとガイドさんはいいます。受難の聖人という意味だそうです。7世紀にムハンマドのいとこクサム・イブン・アッバースがサマルカンドに布教にやってきて、不幸にも首をはねられ、殺害されます。
 そのクサム・イブン・アッバースを祀ったのが、シャーヒ・ジンダのはじまりでした。いちばん奥にある11世紀の廟がそれですが、のちに、ここにはさまざまな廟がつくられることになります。主にティムールとかかわりのある女性たち(乳母や妃、妹、姪)の廟が中心です。
 ウルグベクのつくった入り口の門をはいったところにある建物の天井がきれいだったので、カメラに収めました。
_DSC0610 2シャーヒズィンダ廟群.JPG
 ガイドさんによると、それまで口承で伝えられていたコーランが、はじめて文字で書き記されたのも、ここサマルカンドにおいてだったといいます。
 サマルカンドは13世紀にモンゴル軍によって徹底的に破壊され、コーランはバグダッドに移されますが、ティムールがこれを取り返したといいます。ウズベキスタンがロシアの支配にはいると、コーランはロシアにもっていかれますが、これも返却され、現在はタシケントにその原本があるそうです。
 天国の階段と呼ばれる階段をのぼっていきます。左手に、青いドームをもつコシュ・グンバズ廟があります。ウルグベクの天文学の先生を祀った廟とされていますが、ほんとうのところはだれが祀られているか、よくわからないといいます。
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 タイル模様がきれいですね。ガイドさんが、図柄についてくわしく説明してくれましたが、すっかり忘れてしまいました。
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 さらに階段をのぼっていきます。のぼりきった右手にあるのが、ティムールの将軍にちなむトゥグル・テキン廟。
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 つづいて、ティムールの妹を祀るシリンベク・アカ廟。
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 ふり返って、小道の写真を1枚。
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 柱のかたちがおもしろい。
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 だんだん、青の世界に酔ってどれが何という廟がわからなくなってきます。
 豪華な扉のなかにはいっていきます。
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 廟のなかのタイルもみごとです。
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 シャーディムルク・アカ廟。ティムールの姪を祀った廟です。
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 内装も美しいですね。
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 いちばん奥までやってきました。
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 吸い込まれるように、なかにはいっていきます。すると、みごとな天井装飾が。
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 別の部屋にもこんな天井が広がっています。
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 部屋のタイルも豪華です。
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 ふたたび、天国の階段を下りていきます。
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 坂の途中にある廟をもう一度。まだ9時前だというのに、気温はどんどん上がっています。
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サマルカンドに到着──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 夕方5時ごろ、サマルカンドに到着します。
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 バスはそのままグル・アミール廟へ。ここにはティムールの孫、ムハンマド・スルタンのメドレセ(神学校)がありました。その孫がトルコ戦役で戦死したのをしのんで建てられたのが、グル・アミール廟です。
 のちにティムールやその息子や孫も、この廟に祀られることになります。ティムール自身は、サマルカンドでなく、シャフリサブスで眠りたいと漏らしていたようですが、その希望はかなわなかったようです。
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 ソ連時代の1920年代にこの廟は塔もろとも破壊されましたが、復元されたといいます。その門をくぐってみます。
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 礎石しか残っていない場所に、かつてはメドレセが建っていました。
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 廟のなかにはティムールの肖像とその版図がえがかれています。ティムールが支配下においたのは、現在の中央アジア諸国だけでなく、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インドの一部、トルコの一部、ロシアの一部を含む広大な地域でした。
_DSC0570 2ティムールの肖像グル・アミール廟/サマルカンド.JPG
 ティムールの一生は戦争に明け暮れたといえます。亡くなったのは68歳のときで、1405年に中国遠征を試みる矢先でした。
 めざしたのは新モンゴル帝国の建設だったのかもしれません。そのティムール帝国も、かれの死後100年ほどしかつづきません。しかし、のちにその王族のひとりバーブルがインドにはいって、ムガール帝国を築くことになります。ちなみにムガールとはモンゴルのこと。
 墓室にはいります。いくつも墓が並んでいますが、黒い玉でつくられているのが、ティムールの墓です。
_DSC0576ティムールの墓(黒).JPG
 もう少し近づいてみましょう。柩の正面には何やら文字が刻まれています。これがかの有名な「私が死の眠りからさめたとき、世界は恐怖に見舞われるだろう」という文言でしょうか。アラビア語が読めないので、ほんとうのところ、よくわかりませんが、たしかにりっぱな柩にはちがいありません。
_DSC0574 2ティムールの墓(黒).JPG
 グル・アミール廟の北側にはルハバッド廟というシンプルな廟もあります。神秘主義者のシェイヒ・ブルハヌッディン・サガルジが祀られているとか。イスラム神秘主義というと井筒俊彦さんを思いだしますね。
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 いったんホテルにチェックインし、それからレストランで夕食。
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 おいしそうですが、例によってぼくの胃はすでにくたびれています。
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 ふたたび、ライトアップされたグル・アミール廟へ。
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 月が空高くのぼっているのが幻想的。
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ライトアップされたレギスタン広場も訪れました。大勢の観光客が集まっていました。時刻は夜9時ごろです。
_DSC0596 2レギスタン広場サマルカンド.JPG

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シャフリサブス──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 ティムール(1336〜1405)の生まれたシャフリサブスに到着したのは11時。最初に訪れたのが、ドルッティロヴァット建築群と呼ばれる場所で、ここにはティムールの父親が眠っています。だから、「瞑想の家」とも呼ばれるのでしょうか。りっぱなモスクと廟があります。
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 その奥にはいってみます。
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 中庭にはりっぱなスズカケの古木が。
_DSC0357スズカケノキ古木Platanus orientalis・ハズラティ・イマーム・モスクの中庭.JPG
 ずっと奥にはいっていきます。ドルッサオダット建築群が見えてきます。
 礎石だけが残っているのは、かつてここには広大な建築群があったことを示しています。右に見えるのはティムールが22歳で戦死した長男のために建てたジャハンギール廟です。
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 その裏手にはティムールの廟もあり、柩もつくられていますが、実際にはティムールは予定していたこの場所ではなく、サマルカンドに葬られました。
_DSC0369 2ティムールの予定廟.JPG
 地元の人たちの信仰を集めるハズラティ・イマーム・モスクです。
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 最初にみたドルッティロヴァット建築群のなかにはいっていきます。
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 中庭はこんな感じ。みやげ物屋が並んでいます。
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 奥にあるグンバズィ・サイーダン廟には4つの柩があります。ここはティムールの孫、ウルグベクが自分の子孫のために建てた廟です。
_DSC0403 2グンバズィ・サイーダン廟(ウルベルグの子孫の墓).JPG
 その隣、ティムールが建てたシャムスッディン・クラル廟には、ティムールの父が眠っています。
_DSC0404 2シャムスッディン・クラル廟(ティムールの父他の墓).JPG
 その天井は美しく飾られていました。
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 大きな青いドームのあるコクグンバス・モスクのなかにもはいりました。
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 そのあと4、5分バスに乗って、アク・サライ宮殿跡に。遠くにザラフシャン山脈がみえます。
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 巨大なティムールの銅像が立っています。
_DSC0426 2.チムール像とアク・サライ宮殿跡.JPG
 このあたりで、記念撮影を1枚。右の人、弱っちそうです。
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 ここには、かつて広大な宮殿が建てられていたようですが、いまではアーチの一部しか残されていません。しかし、これをみるだけでも、それがいかに巨大であったかがしのばれます。
_DSC0429 2アク・サライ宮殿跡.JPG
 アーチの壁面にはその当時のタイルが残されています。
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 シャフリサブスの見学を終えたあと、バスで3時間、いよいよサマルカンドへ。途中はすばらしい高原が広がっていました。
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 ロバに乗る老人と少年の姿をカメラに収めます。
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 ブドウ畑です。後ろの山はザラフション山地。まもなくサマルカンドです。
_DSC0546 2ブドウ栽培ザラフション山地.JPG

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シャフリサブスへ──ウズベキスタンの旅(9) [旅]

 5月14日(火)
 けさは朝6時50分にバスでホテルを出発。中間のカサンを経て、シャフリサブス(旧名ケシュ)に向かいます。最終到着地は青の都サマルカンドです。
 ブハラからシャフリサブスまでは300キロで約4時間、シャフリサブスからサマルカンドまでは170キロで約3時間のバスの旅になります。
 早朝、宿泊したグランドブハラ・ホテルの屋上から眺めると、新しいホテルが建設中でした。観光客が増えている様子がうかがえます。
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 郊外にでると、そこはすぐ乾燥地帯になり、遠くに工場と倉庫らしいものが見えてきます。
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 さらに行くと荒涼とした大地が広がります。ガイドさんによると、このあたりは自然公園になっているとのこと。積み上げた石の上にシカの像が立てられているのは、シカが道路を横切るので注意ということでしょうか。
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 ガイドさんがとつぜん、ウズベキスタンに強制連行された日本人捕虜の話をはじめます。
 戦後、ソ連によって60万人の日本人がシベリアに抑留された話はよく知られています。しかし、そのうち2万5000人がウズベキスタンに連れてこられたことは知りませんでした。
 ガイドさんによると、ウズベキスタンで亡くなった日本人は1300人で、強制連行された人の4%にあたります。これはシベリアに比べると圧倒的に少ない割合だ、とガイドさんは強調します。
 いまでもタシケントをはじめ、ウズベキスタン各地に日本人墓地が残っています。亡くなった人の無念さを思わないわけにはいきません。
 ガイドさんはウズベキスタンとの友好関係に力をいれた大使として、とくに中山恭子さんの名前を挙げていました。中山さんには『ウズベキスタンの桜』という著書もあるそうです。
 バスは砂漠のなかを走っていきます。
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 帰国してから読んだ藤野達善『もうひとつの抑留』には、もう少し生々しい話が書かれていました。
それによると、日本は戦争末期にソ連に終戦工作を依頼し、その見返りとして満洲を放棄し、そこに住む日本人をソ連に引き渡してもよいとする条件を示していたというのです。あきらかに棄民政策です。さらに戦後直後には、捕虜の一部を労働力として用いる、いわゆる「役務賠償」を認めていたといいます。
 これがもしほんとうだとすれば、日本人のシベリア抑留は、スターリンによる非人道的措置というだけでは片づきません。日本の国体維持をソ連が認める代償として、日本政府はスターリンによる日本人強制連行を認めていたことになるのですから。
 60万人の日本人捕虜はシベリアの鉄道建設や港湾建設、鉱山採掘のため、その現場に配置されていきました。そして、その一部の2万5000人がウズベキスタンに回されたのです。
 日本人はウズベキスタンの金属・石油・化学工場や炭鉱に送られたほか、さまざまな建設、すなわち住宅や病院、工場、学校、道路、橋、ダム、発電所、運河をつくる仕事に従事させられました。
 ウズベク人は日本人に同情し、よく差し入れなどもしてくれたといいます。気候はシベリアよりましだったかもしれませんが、砂漠の運河掘りなどは死ぬほどきつい労働でした。
 収容所での生活は生半可なものではありませんでした。自殺、逃亡による射殺、日本人同士の対立、抗争、喧嘩もあったといわれます。
 抑留日本人の墓地は、フェルガナ盆地一帯、飢餓砂漠といわれる砂漠地帯、ブハラ郊外のカガン、タシケントなどに残っているそうです。
 運河が見えてきました。こういう運河もひょっとしたら日本人が掘ったのかもしれないと思うと感無量です。
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 ガイドさんによると、ウズベキスタンは金やウラン、石油、天然ガスなど資源に恵まれているといいます。石油タンクが並んでいました。
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 畑の子どもがバスに向かって手を挙げてくれます。
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 ヒツジの放牧です。
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 これは天然ガスの工場でしょうか。
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 ラクダも放牧されています。
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 ラクダのミルクを売る露店もありました(ついでにコーラも?)。
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 砂漠地帯が終わると、だんだん畑が広がります。
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 ガソリンスタンドの横で、ラクダが草を食べていました。
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 かまどでナンを焼いている人も。
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 これは古い城壁の跡。
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 馬も放牧されています。何といっても中央アジアは名馬を産出する地域です。
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 ブドウが栽培されています。
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 大きな山が見えてきました。あの山の向こうはアフガニスタンです。
 そのふもとテルメズで、人類学者の加藤九祚がクシャン(クシャナ)朝時代の仏教遺跡を発掘し、みごとな仏像を発見したとガイドさんが教えてくれます。われわれは最終日にタシケントの歴史博物館でその仏像と対面することになります。
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 11時、バスはシャフリサブスに到着します。
 シャフリサブスはティムールの生まれた場所です。
 そのころウズベキスタンはモンゴルのチャガタイ・ハン国に属していました。そのなかで実力をつけたティムールはチャガタイ・ハン国を吸収し、みずからの帝国を築きます。その版図はアゼルバイジャン、アルメニア、インド、イラン、トルコ、ボルゴグラードにまでおよびました。享年69歳。遺体はかれの意に反して、ここシャフリサブスではなく、サマルカンドに埋葬されることになります。
 シャフリサブスで最初に訪れたのがドルッティロヴァット建築群と名づけられる場所です。ここにはティムールの父が眠っています。しかし、長くなりましたので、今回はこのあたりで。
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ブハラの午後──ウズベキスタンの旅(8) [旅]

 ボラハウズ・モスクの先の道路を渡ったところがアルク城です。
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 このあたりがブハラ発祥の地といわれます。
 古代の城は残っていませんが、ガイドブックによると、女王フッタ・ハットンはここで7世紀にアラブ軍と戦ったといいます。さらに13世紀にはチンギスハンの軍隊がやってきます。ペルシア語の記録には「彼らは来た、破壊した、焼いた、殺した、奪った、そして去った」とあるそうです。
 ガイドさんによると、アルク城は歴代ブハラ・ハンの居城で、4ヘクタールの広さがあり、熊座のかたちをしているとか。外から見学するだけで、なかにははいりませんでした。1920年代にソ連によって破壊されましたが、現在は半分ほど修復されています。
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 城の前にレギスタン広場と呼ばれる広場になっています。かつてはこのあたりには紙を売るバザールと隊商宿があり、商人があふれていたそうです。西安からここまでは9カ月かかったといいます。
 レギスタン広場を通り、フッジャ・ヌラバッド通りにはいります。
 突き当たりに見えるのがタキ・ザルガロン。バザールですね。
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 このバザールを訪れる前に、われわれはその手前にあるモスクとメドレセを見学します。
 モスクにはミナレットが付属しています。カラーン・ミナレットです。
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 ここにもゾロアスターの模様がひそかに織りこまれている、とガイドさん。わかりますか。
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 ミナレットにつながるのがカラーン・モスクです。
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 向かい側にはミル・アラブ・メドレセが立っています。
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 現在も使われている神学校ですので、なかにははいれません。
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 その天井の模様がみごとです。
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 カラーン・モスクのなかにはいってみます。
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 少しくたびれてきたので休憩です。それにしても暑いです。通りの向こうにあるチャイハナでお茶にしました。
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 タキ・ザルガロンのバザールでは、コウノトリのかたちをしたハサミなどを買いました。
_DSC0035タキ(バザール)ブハラ.JPG
 タキの後ろにウルグベク・メドレセがあります。ティムールの孫、ウルグベクが建てたメドレセです。現存するものでは、中央アジアで最古のメドレセといわれます。ウルグベクは首を斬られ暗殺されるという悲劇の最期をたどります。内部の保存状態はあまりよくありません。
_DSC0041ウルグベク・メドレセ/ブハラ.JPG
 その向かいにあるアブドゥールアジズ・ハーン・メドレセは、それから200年後につくられましたが、未完成のまま残されました。
_DSC0039アブドゥールアジス・ハン・メドレセ/ブハラ.JPG
 脇のタイルにえがかれている花の模様がみごとでした。
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 昼食後、かつてはゾロアスター寺院だったマゴキ・アッタリ・モスクへ。一段低いところにあって、名前のとおり、実際、土砂に埋もれていたそうです。
_DSC0062マゴキ・アッタリ・モスク/ブハラ.JPG
 ラビハウズという池にも立ち寄りました。
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 ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの入り口には太陽と鳳凰の図柄が描かれていました。
_DSC0078ナディール・ディヴァンギ・メドレセ/ブハラ.JPG
 その前の公園にはロバに乗るホジャじいさんの彫刻があります。笑い話の主人公です。
_DSC0077フッジャ・ナスレッディン像/ブハラ.JPG
 そのあと、いったんホテルに戻り、小憩したあと、夕方からナディール・ディヴァンベギ・メドレセの中庭で開かれたファッションと踊りのショーを見ながら食事です。盛りだくさんすぎて、くたびれました。
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ブハラ──ウズベキスタンの旅(7) [旅]

 5月13日(月)
 ウズベキスタン中南部のブハラに着いたのは、きのうの深夜でした。
 けさは8時半にホテルを出発します。
 ブハラは古代から砂漠のオアシスでした。7世紀に玄奘三蔵もサマルカンドをへて、ブハラを訪れています。
 ブハラはもともとゾロアスター教の町だったとガイドさん。
 8世紀にアラブに征服されてから、イスラム世界にはいり、10世紀のサーマーン朝時代に繁栄します。その後、11世紀にはカラハン朝、つづいてホラズムシャー朝の時代を迎えますが、13世紀前半にモンゴル軍の侵略で町は大きく破壊されます。
 チンギスハンの征服から100年後にブハラを訪れた大旅行家イブン・バトゥータは、ほとんど廃墟のままの町をみて驚き、「ブハラの住民は今日だれひとりとしてイスラムの教えを知っている者もなく、またそれを知ろうともしない」と嘆いています。
 しかし、その後、イスラム復興がはじまります。
 15世紀にはティムール朝、16世紀終わりにブハラ・ハン国、19世紀後半からロシアの保護領、そして20世紀にソ連の支配下にはいり、1991年に独立という経緯をたどるのですが、ややこしい歴史はこれくらいにして、とりあえずブハラの町にでましょう。
 バスはまずイチスロハット公園に。観覧車があります。朝早いせいか、まだ家族連れの姿はありません。
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 イスマイール・サーマニ廟はこの公園のなかにあります。
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 この廟は、サーマーン朝のイスマイール・サーマニが9世紀から10世紀にかけ、父親のために建設したものです。チンギスハンが来襲したときには、地中に埋めてあったため、丘と思われ、破壊を免れたといいます。発掘されたのは1925年のことです。
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 イスラム様式だが、あちこちにゾロアスターの模様が刻まれている、とガイドさんのお得意の説明がはいります。
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 廟の前で記念写真を撮ってもらいました。早くもバテ気味です。
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 桑の木があちこち植わっています。白い実がなっていますね。桑の実をつんでいる少年がいました。
_DSC1118Morus albaイスマイール・サーマーニ廟/ブハラ.JPG
 金属製の皿をつくっているお店があります。
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 コウノトリの像が上に乗っているのはチャシュマ・アイユブ廟。現在は水の博物館になっています。
_DSC1146チャシュマ・アイユブ/ブハラ.JPG
 ここで、ほんらいのコースはバスに戻って、アルク城前を通過し、カラーン・ミナレットに向かうのですが、ガイドさんが歩いて行きましょうといってくれたおかげで、われわれは思わぬモスクと遭遇することができました。
 それがボラハウズ・モスクでした。1712年につくられましたが、ロシア革命時代には倉庫となり、1970年代に修復されたといいます。前面に立つ20本のクルミの柱がみごとです。
_DSC1153ボラハウズ・モスク/ブハラ.JPG
 その天井も壮麗で、木のぬくもりが感じられます。
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 さらにアップしてみましょう。
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 中に入るとブルーのイメージが広がります。
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 池に映るモスクの姿も幻想的でした。
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 ボラハウズという名前には、どこが聞き覚えがありました。帰国してから本棚を探して、それが書かれている本をみつけました。
 リシャルド・カプシチンスキの『帝国』(工藤幸雄訳)です。工藤先生がポーランドのこの優れたジャーナリストのことを「カプさん」と呼んでいたことを思いだします。
 そのカプシチンスキは、1967年にここブハラにやってきて、チャイハナ(茶店)でお茶を飲んでいるときに、このモスクを見つけたのでした。
『帝国』のなかで、かれはこう書いています。

〈そちらにはすばらしいイスラームの寺院(モスク)が建っていた。
 モスクに目を惹かれたのは、それが木造だったせいだ。イスラームの建築は石と粘土を用い、木造はめったにない。おまけに、砂漠の午後のうだるように暑い静けさのなかで、モスクの奥からなにかがぶつかり合う音が聞こえた。ぼくはポットを置いたまま、その正体を確かめに行った。
 鳴っているのは、ビリヤードの球だった。
モスクの名はボロ・ハウズという。18世紀中央アジア建築の貴重な遺構、当時の姿を止める唯一のものだ。ボロ・ハウズの門口も外壁も、木の装飾で飾られ、その美しさ、精巧さは、類を見ない。だれもが舌を巻く。
 ぼくはなかを見た。グリーンの卓が6台並び、どの台も明るい前髪を乱した若者が取り巻いて、ビリヤードに興じていた。〉

 なんと、1967年には、ボラハウズ・モスクはビリヤード場になっていたのです。ガイドさんが、ソ連時代は倉庫だったというのは、けっしてまちがいではなかったのです。

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ヒヴァ──ウズベキスタンの旅(6) [旅]

 5月12日(日)つづき
 幻想の森のように木の柱がそびえ立つジュマ・モスクを出たわれわれはタシュ・ハウル宮殿に向かいます。
 かつてヒヴァはヒヴァ・ハン国の首都だったのですから、宮殿があるのはとうぜんなのですが、ここが中央アジアの元王国かと思うと、なにやら感慨がわいてきます。
 19世紀の後半、ロシア帝国はヒヴァ・ハン国に加え、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国を併合し、トルキスタン総督府(首都はタシケント)を樹立しました。
 タシュ・ハウル宮殿は19世紀のなかごろ、ヒヴァ・ハン国の王がいた場所で、ここには接見の場と儀式の場、それにハーレムが残されています。
 フランスやドイツから、多くの観光客がおとずれていました。ここは接見の場でしょうか。
_DSC0986タシュ・ハウリ宮殿ヒヴァ.JPG
 壁のタイル模様を写真に収めます。
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 天井も彩色されて美しいです。
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 真ん中のくぼみが星空につづいているみたいで、おもしろいですね。
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 壇上では、何か儀式がおこなわれていたのでしょうか。それとも、踊りが踊られていたのでしょうか。いまは靴下屋さんが靴下を並べて売っています。
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 おや、中庭にユルタ(天幕)がありますね。
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 この天井もにぎやかです。木の柱を横に並べています。
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ハーレムはこのあたりでしょうか。王には4人の正妻がいたようです。
_DSC1004ハーレム/タシュ・ハウリ宮殿ヒヴァ.JPG
 寝室はこんな感じ。わりあいこぢんまりしています。
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 そろそろ昼食の時間です。レストランの外にあるかまどで、おばさんがナンを焼いてくれています。綿の木を薪にしているそうです。
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 次に訪れたのはクフナ・アルクと呼ばれる古い宮殿で、17世紀に建てられたものです。いまは歴史博物館になっています。
_DSC1022クフナ・アルク監獄博物館.JPG
 このなかにもモスクがあります。
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 博物館では、造幣局の様子や古い壺の展示、それにチンギスハンに抵抗した王(ムハマド王?)の絵も飾られています。ヒヴァではティムールより有名だといいます。首をもつ女兵士の絵はちょっとショッキングでした。
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 だいぶくたびれてきたので、座り込む人もでてきます。それに、さっきも同じところを見たような錯覚にもおちいってきます。
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 とつぜん、ガイドさんはアルミニウス・ヴァンベリーの『中央アジア旅行記』を勧めます。あまり聞いたことのない人ですが、19世紀半ばに中央アジアを探検したハンガリー人で、ヒヴァのことも書いているとか。ちょっと気になります。
 クフナ・アルクを出たところに、カルタ・ミノルという未完成の巨大ミナレットが立っています。これをつくっていたムハンマド・アミン・ハンが、ペルシアとの戦いで死んだため、1855年に建設が中断され、このかたちになりました。
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 その隣、ムハンマド・アミン・ハン・メドレセは、同じハンによってつくられた神学校です。いまはホテルになっていて、内部は見学できませんでした。
 ガイドさんによると、ソ連時代は一時刑務所として使われていたとか。いつごろまでか、聞きそびれてしまいましたが、たぶんごく最近までででしょう。
_DSC1040ムハンマド・アミン・ハン・メドレセ/ヒヴァ.JPG
 少しフリータイムがあったので、ふたりでホテルの横にあるイスラーム・ホジャ・ミナレットにのぼってみました。最初は真っ暗でどうなるかと思ったのですが、だんだん目が慣れてきました。ヒヴァの町が一望できます。
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 夕方、ヒヴァを出発。郊外にあるクプラ・トザ・ボク宮殿というロシア風の建物で夕飯をいただました。
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 ウルゲンチ空港に向かい、しばらく待って、タシケント行きの飛行機に乗ります。途中のブハラで下りるから注意するようにとガイドさん。飛行時間は約1時間でした。
 深夜、ブハラのホテル(グランド・ブハラ)に到着しました。

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