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従軍慰安婦問題をめぐって──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(2) [本]

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[写真はウィキペディアから]

 従軍慰安婦問題はすでに政治問題ではないというのが著者の見解とみてよいだろう。それは(遺憾ながら)政治的には日韓基本条約とそれにともなう日韓請求権協定によって決着されているのだ。
 だからといって、あたかも従軍慰安婦など存在しなかったとみるのは、まちがいである。歴史をなかったことにはできない。
 韓国(朝鮮)に関して、日本人に欠けているのは歴史的反省である。植民地化があやまりだったということを認めたうえで、従軍慰安婦問題をとらえなければならない、と著者は考えている。
 1993年の「河野洋平官房長官が発表した、いわゆる河野談話は、従軍慰安婦の問題に関する限りにおいて、私たち日本人の責任を認めるのにほぼ充分な表現であった」と、著者はいう。
 河野談話は「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと」を認め、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」というメッセージで締めくくられる。
 河野談話の歴史認識は次のようなものだ。もう一度、思い起こしてみよう。

〈慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。〉

 きわめてまっとうな認識といわねばならない。
 だが、日本ではこの談話への反発が根強い。安倍政権は、表向きこの談話を引き継ぐとはしているものの、事実上、上からふたをして、無視するかたちになっているとみてよい。。
 本書において、著者は『日本軍「慰安婦」関係資料集成』(すべて公文書)にもとづいて、歴史としての従軍慰安婦の像をできるだけ正確にたぐろうとしている。
 最初に中国大陸の戦線で、日本軍兵士による強姦事件が頻発し、軍はその対策に苦慮したものの、案件のほとんどが情状酌量されていたことが紹介されている。
 そうしたなか、軍は慰安所の設置を決める。従軍慰安婦を集める際、軍は直接関与を避け、あくまでも斡旋業者(いわゆる女衒)を利用した。とはいえ、「慰安所設置は日本政府の全面的了解にもとづいて行われた」ことはまちがいない、と著者はいう。
 慰安婦は日本国内からも集められた。その実態について、著者はこう解説する。
 日本内地では、営業許可を受けた周旋人が従軍慰安婦を募集し、抱え主が慰安婦を前借金で拘束する形式をとっていた。慰安所を経営したのは、こうした抱え主であり、前借金の額は500円ないし1000円(現在の感覚では100万円ないし200万円)、慰安婦の年齢は満16歳から30歳までとされていた。
 契約期間は通常2年だが、借金が完済されないまま延長される場合が多かったという。稼ぎ高の9割は抱え主がとり、本人の所得は1割で、そこから衣装代、食事代などを引かれて毎月清算がなされた。
 売春の代金は、将校が5円、下士官が3円、兵士が2円とランクによって分かれていた。一般兵士の場合、中国人慰安婦は1円、朝鮮人慰安婦は1円50銭だったという。
 しかし、「資料集成」には、朝鮮人慰安婦の記録がない。そこで著者は当時の雑誌や新聞から、朝鮮の公娼や従軍慰安婦の実態をさぐろうとしている。
 朝鮮でも、斡旋業者が窮乏した農民に数百円の前借金を払ったり、あるいは甘言でだましたりして、その娘を遊郭の抱え主に売ることが昔からおこなわれていたという。従軍慰安婦もこんなふうにして、斡旋業者によって集められた、と著者はみる。
 いわゆる強制連行はなかった。「ただ、業者が軍属の服装をすることが許されていたように、募集にさいして、内地と同様、軍の威信を利用したり、誘拐同然の方法を用いたこともありえたと私は考える」と、著者はコメントする。
 慰安所は軍が直営したわけではない。軍専用の慰安所を業者が経営するか、軍が民間の遊郭などを一時的に慰安所として指定するケースが一般的だったという。
 慰安所の営業については、それぞれ現地部隊の内務規定によって、営業時間や階級ごとの利用時間、遊興費は一切現金といった細かい規則が定められていた。
「業婦」は月3回、検黴(梅毒検査)を受けること、「使用者」は必ず衛生サックを着用すること、「営業婦」はみだりに柵外をうろついてはならぬこと、「営業主」は「誠意をもって明朗なる営業を営む」ことなどが規定されていた。
 なかには、こんな規定もあった(原文は漢字とカタカナ、読点を加えた。[]内は注である)。

〈業婦[慰安婦]はよく使用者[兵士]の立場を理解し、何人にも公平を第一とし、使用者をして最大の御奉公[軍事活動]を為さしむることを念願し、如何なる事情に依るも身を誤らしめ、御奉公を欠かしめるが如き[厭戦気分をいだかせるような]こと絶体なき様、万事細心の注意を以て取扱ふものとす〉

 まるで「おもてなしの心得」のような、こういう「丁寧な説明」を何といえばいいのだろう。ブラックユーモアの域をはるかに超えている。
 従軍慰安婦の労働は苛酷だった。休日は月1回しかないし、月3回、憲兵立ち会いのもと梅毒検査を受けなければならなかった。労働時間は1日12時間である。しかも前借金でしばられ、この泥沼から抜けだすことはほとんど不可能だった。現在の人権感覚からすれば、「性奴隷」と呼んでもおかしくない、と著者も認めている。

 ここで著者は朝鮮人勤労挺身隊に焦点を当てている。これは従軍慰安婦とはまったくことなる存在である。
 日本政府は1944年8月23日に「女子勤労挺身勤労令」なるものを発令した。これにもとづいて、日本内地だけではなく、朝鮮でも女子勤労挺身隊が組織されることになった。だが、この勅令が発令される前の1943年3月末段階で、内地だけで隊員数はすでに29万2000人あまりいたとされる。
 朝鮮の女子勤労挺身隊員がどれくらいいたか、はっきりした数はわかっていない。しかし、長崎では原爆により300人あまりの朝鮮人女学生が爆死したといわれる。和歌山県の軍需工場や相模原海軍工廠、満洲の南満紡績工場、仁川の帝国繊維工場、京城や光州の鐘淵紡績工場でも、朝鮮人の女子勤労挺身隊員が苛酷な労働条件のもとで働いていた。ほかにも沼津の東京麻糸、富山の不二越鋼材工業、三菱重工業名古屋航空機製作所などで朝鮮の少女たちが働いていることが確認されている。その労働は苛酷で、食事は劣悪、少なくともあとの3社は給料を支払っていない。
 女子勤労挺身隊員の年齢は14歳以上の未婚女子と決められていたが、実際には満13歳から15歳がほとんどだったという。
 応募者は貧しい家庭の少女が多く、日本の工場に行けば女学校にはいれるということばにつられて応募した者もいた。警官や里長などに強迫されて応募した例もあった。愛国心から応募した少女もいなかったわけではない。たしかに、挺身隊への応募は強制ではなかった。
 ここで著者は、重要なことを書いている。

〈韓国挺身隊問題協議会を中心とする韓国の人々は従軍慰安婦と女子勤労挺身隊とを混同していると思われる。ソウルに2011年冬にブロンズの少女像の記念碑を建てたのも、2014年にアメリカに同様のブロンズ像を建てたのも、挺身隊の名の下に募集した韓国・朝鮮の少女たちを従軍慰安婦として性奴隷化したという誤解にもとづいているとしか思われない。しかし、従軍慰安婦は挺身隊に動員された少女たちとはまったく関係ない。〉

 真相はたしてどうなのか。
 ぼくも著者の見方が正しいと思う。
 だからといって、著者はブロンズ像設置を糾弾するわけではない。
 まずあやまるべきは日本だからだ。
 著者はいう。

〈日本政府が日韓基本条約の法的効力をあくまでその建前通り押し通すとしても、私たち日本人が植民地支配の責任を認めてならないことにはならない。これは統監府、総督府の失敗、私たちが朝鮮半島の人々に抱いてきた差別的意識と待遇、たとえば関東大震災にさいしての在日朝鮮人虐殺等から強制徴用、従軍慰安婦問題等に至るまでの責任を、市民としての私たちが認め、その償いをするのが、私たちの良心の命じるところだからである。〉

 対立の応酬は不毛である。何とか解決の糸口を見いださなければならない。

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サンボー・プレイ・クック──カンボジア2019春ツアー(4) [旅]

2月14日(木)
サンボー・プレイ・クックの意味はサンボーの森のなかのストーブというのだそうです。遺跡がストーブみたいなかたちをしているところから名づけられたといいます。ここには前アンコール期の7世紀に古い都がありました。
東西6キロ、南北4キロにわたる都です。これをつくったのはイーシャナヴァルマン1世(在位613〜628)。玄奘三蔵は、この都をイーシャナプラ都城と呼んでいるそうです。
昔はこの都に291カ所寺院が建っていたといいます。遺跡は20世紀はじめにフランスによって発見されましたが、本格的に修復がはじまったのは1998年です。2017年7月にカンボジアで3番目の世界遺産に登録されました。
われわれがここに到着したときは、すでに午後4時をすぎていました。バスを降りたあたりから、赤土の森のなかに遺跡が点在しているのがわかります。
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見学できるのは都城の東側で、3つのブロックが公開されています。都城は環濠によって囲まれ、かつては2万家族ぐらいが暮らしていた、とガイドさん。
遺跡はいま森にのみこまれています。
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森のなかを歩くと、寺院が姿をみせます。木が寺院をおおっています。
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八角形の建物はクメール様式だとか。
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イーシャナヴァルマン1世は、ラオスからベトナム、タイ、マレーシア北部まで支配していました。支配民族はクメール族とモン族です。ガイドさんによると、昔はここに港があって都として栄えたが、7世紀の終わりに水が涸れ、港がつかえなくなったために、引っ越さざるをえなくなったといいます。
そして、14世紀にはヒンドゥー教と仏教の争いが激しくなり、15世紀にシャム(タイ)のアユタヤ軍が攻め込んできます。アユタヤ軍はこの旧都を燃やし、その結果、あたりはジャングルと化します。
当時のレリーフがきれいに残っていますね。
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20世紀はじめにフランス人が発見したことで、ここに遺跡があることが知られるようになりました。
しかし、ベトナム戦争が拡大するなか、1970年ごろ、アメリカがこのあたりを爆撃します。ポル・ポト派がこの森の中に拠点を置いていたからです。
地面のあちこちに大きな爆撃跡が残っています。いたるところ蟻塚がつくられています。
寺院のひとつにはいってみます。
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堅牢な建物で、なかは吹き抜けになっています。
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入り口には、何やら鬼のような顔が。
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城壁の跡ですね。
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プラサット・タオと呼ばれる寺院。獅子が入り口を守っています。
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咆哮しています。
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その内部です。
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門のデザインが美しい。
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その寺院はこんなかたちをしています。
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サンボー・プレイ・クックの見物は1時間足らず。
あわただしく出発です。途中の休憩場所では、川辺の牛が水を飲んでいました。
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日が落ちてきます。
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ここからシェムリアップまでの道中は長く、ホテルに到着したときは夜の9時過ぎになっていました。

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シルバーパゴダ──カンボジア2019春ツアー(3) [旅]

2月14日(木)
プノンペンの王宮の前にはトンレサップ川が流れています。少し下るとメコン川と合流します。
王宮の隣にある寺院、シルバーパゴダに向かう前に、即位殿に向かって右隣にあるゾウ舎を紹介しておきましょう。
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同じく向かって左側の宝庫には、王朝時代の衣装や食器などが飾られていました。
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ここは国王の執務室ということになっていますが、ほんとうでしょうか。
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王宮を出て、隣の区画のシルバーパゴダへ。側面から見たシルバーパゴダです。
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その周囲には回廊があって、ラーマーヤナのみごとな壁画が、100メートル以上もつづいています。ポルポト時代には放置されたままだったので、痛みがひどく、修復も半ばほどしか進んでいないとか。
それでも修復された壁画はみごとです。
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物語の内容を知っていれば、もっと楽しいでしょう。
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修復が終わった部分を写真に収めました。この先は痛みがひどく、現在も修復がつづいています。
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シルバーパゴダのなかへ。
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ここがシルバーパゴダと呼ばれるのは、床に銀のタイルが5000枚以上も敷かれているからだそうです。内部は撮影禁止。靴を脱いではいります。エメラルドの仏像やダイヤモンドをはめこんだ仏像も置かれていて、豪勢な宝物館です。
前にはこんなストゥーパがいくつも立っています。王様の墓といってよいでしょう。
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10時10分、シルバーパゴダを出て、セントラルマーケットに向かいました。
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その内部はこんな感じ。マフラーなどいくつかおみやげを買いました。
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昼食は中華。12時15分、プノンペンを出発し、バスでシェムリアップに向かいます。
車中でのガイドさんの話。
カンボジアでは仕事がないため、男はタイに出稼ぎに行くことが多い。女性は国内の外国工場で働いている。子供の数は多い。20代が70パーセントの若い国だ。内戦では多くの人が死んだ。内戦が終わってから、政府は子供を産むことを奨励している。
平均寿命は60歳。内戦のときは53歳くらいだった。……
ガイドさんは1996年から2年間、シェムリアップにつくられた日本語学校で学んだといいます。当時は人が集まらず、学校がおカネをだして、試験で合格した10人をそこで学ばせたとか。そのひとりがガイドさんのようです。授業料はただで、この学校をつくった山本宗夫さんは90歳になるいまも元気だそうです。
トンレサップ川にかかった橋を渡ります。これは中国の援助によってつくられた「カンボジア中国友好橋」で、その隣の「カンボジア日本友好橋」は老朽化して、現在修理中。そう思ってはいけないのですが、何やら象徴的なものを感じてしまいました。
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しばらくメコン川に沿って北上。郊外に出ると田んぼが広がります。石灰岩の山がむきだしになっているのは、たぶんセメントの材料が採取されているためです。
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このあたりは一毛作だが、トンレサップ湖の近くは二毛作だとガイドさん。炎天のなか北上をつづけます。
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白いやせた牛があちこちに放し飼いされています。スイギュウの姿も。暑いためか人の姿はあまり見かけません。
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家はみんな高床式ですね。
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午後3時半ごろ、コンポントムを通過。ここから脇道にはいってサンボー・プレイ・クック遺跡群に立ち寄ります。

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王宮──カンボジア2019春ツアー(2) [旅]

2月14日(木)
朝起きて、部屋の窓から周囲の様子を写真に収めます。
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ビルの谷間に寺院のようなものもみえます。
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7時バイキングの朝食。中国の人が多い。ガイドさんによると5年ほど前から、中国人観光客が猛烈な勢いで増えているといいます。
観光客だけでなく中国資本の進出も際立っており、ビルの建設ラッシュがつづいています。そのため土地価格も高騰し、プノンペンの地価がいまでは1平米あたり5000ドルから1万ドルもするとか。
ホテルの前の食堂で、大勢の人が出勤前の朝食をとっていました。
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8時すぎホテルを出発。朝から大渋滞です。要人や政府幹部が通ると、その都度交通が遮断されるといいます。トヨタの車もよく見かけます。日本企業では、シャープやスズキ、コニカ、日立、ソニー、キヤノンなども健闘しているようです。これはファーウェイとサムソンの店。
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中国製品にくらべ、日本製品の品質の高さはいまも評価されているとか。独立記念塔が見えてきます。シアヌーク殿下の像も。写真はバスのなかからほんの一瞬。毎年11月9日は独立記念日で祝日となるそうです。1953年のこの日、カンボジアはフランスからの独立を宣言しました。
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路上で、ちまきを売るおばさんの姿。
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8時半、王宮に到着します。
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サルスベリが花を咲かせています。マンゴーの木もありました。
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王宮の入り口に。
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バナナの木がありました。
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ガイドさんによると、これは沙羅双樹の木だといいます。
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その花です。白い花だと思っていたのですが、赤い花なんですね。沙羅双樹はカンボジアの国花になっています。
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ガイドさんによると、カンボジアの歴史はアンコール時代を中心に3つに分かれるそうです。
1世紀ごろから802年までは前アンコール時代、それから802年から1431年までが、アンコール時代。それから1431年から1863年までが後アンコール時代です。
その後は近代です。
カンボジアは1863年から約90年にわたって、フランスの植民地になります。
1953年の独立後は苦難の歴史がつづきました。シアヌーク時代、ロン・ノル時代、ポル・ポト時代、ベトナムの侵攻、王制復古と現在のフン・セン時代というわけです。
ガイドさんは、プノンペンに王宮ができたのは1432年ごろではないかといいます。このころ、アンコールの都はシャム(タイ)のアユタヤ朝によって陥落しました。その後、カンボジアの王朝は存続したものの、シャムとベトナムに隷属する状態がつづきます。
プノンペンが都になるのは1866年のことで、すでにフランス植民地時代にはいっています。その前はウドンというところに都がありました。
現在の王宮はフランス時代に建てられたものです。メインの建物が即位殿で、いまも謁見はここでおこなわれるようです。
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柱の菩薩像がおもしろいですね。
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尖塔の観音さまが東西南北を見ています。
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屋根や階段などには、あちこちにヘビの図像が……。ナーガ(コブラ)はブッダの守り神です。
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即位殿の内部は撮影できませんでしたが、その天井にはラーマーヤナの物語が描かれており、内戦のときも被害にあわなかったそうです。
即位殿の奥には王の住居がありますが、ここはもちろん立ち入り禁止です。青いカーテンが下りているときは、在宅中だといいます。この日は青いカーテンが下りていました。
現在のシハモニ国王は66歳ですが、まだ結婚していないそうです。外国に彼女がいるが、結婚が認められていないため、いちおう独身というかたちになっている、とガイドさん。王位はお兄さんの息子が継ぐといわれているとも解説してくれました。
ナポレオン三世の妻が提供した洋館「ナポレオン三世の館」は現在、修理中で、見学できませんでした。
これは宴会ホール。われわれは、この宴会ホールと工事中の「ナポレオン三世の館」(写真右側)のあいだを通って、王宮の次の区画、シルバーパゴダに向かいます。
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カンボジア2019春ツアー(1) [旅]

ことしも気がつけば師走。何もかもすぐに忘れてしまうきょうこのごろですが、ともかくもこの1年無事にすごせたことを感謝しなければならないでしょう。
年末の大掃除をはじめました。といっても、読み終わった本を古書店に売ったり、電気こたつを出して、部屋を掃除したりといった程度なので、たいしたことはありません。
ことしは自主制作のKindle本を12冊もつくってしまいました。もっとも、これはホームページの一部を整理し、移動しただけで、まあ自己満足です。あとは翻訳書が1冊(ケネス・ルオフ著『天皇と日本人』)。
閑人の楽しみのひとつ、夫婦での海外ツアーはカンボジアとウズベキスタンに。ウズベキスタンについては本ブログで紹介しましたが、先に出かけたカンボジアについて書くのを忘れていました。
そこで、これも年末の整理のひとつとして、ごく簡単にカンボジア・ツアーの思い出を写真中心に記録しておこうというわけです。例によって、お気楽なぼんやり紀行です。

2月13日(水)
11時ごろANAで成田を出発し、現地時間16時にプノンペン空港に到着しました。カンボジアとの時差は2時間。約7時間の飛行ということになります。
空港のロビーでJTB「旅物語」ツアーの一行31人が集合し、午後4時半にバスに乗ります。
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宿泊先のグリーンパレスホテルまで1時間かかりました。渋滞していなければ20分ぐらいの距離だといいます。
気温は30度くらいで、蒸し暑い。カンボジア の人口は1600万、そのうちプノンペンに300万人が集中しています。
ものすごい渋滞で、道路にバス、乗用車、バイクがひしめきあっています。道路側には商店が立ち並びます。建設ラッシュで、中国資本が進出しているらしい。高層ビルやマンションも増え始めています。
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店では携帯電話や靴、メガネ、コーヒー、洋服などを売っていて、活気があります。マツダやスズキの車を多くみかけます。
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夕方5時は学校が終わる時間でもあるらしく、学校帰りの高校生たちがバイクに相乗りして、道路を走っています。カンボジア では16歳からバイクに乗れますが、150ccまでは免許なしでもだいじょうぶだといいます。学校は2部制で、子供たちは家の手伝いをしながら、学校にかよっている、とガイドさん。
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空港の反対側は経済特区になっていて、味の素やデンソーなどの日本企業も数多く進出しているそうです。しかし、町なかの印象は漢字の看板や中国料理店の派手な暖簾が目立ちます。
いい会社に就職するには英語が必須になっており、そのため、英語学校が繁盛しているといいます。じっさい、ホテルの近くでもインターナショナル・ユニヴァーシティというのがありました。これは通りの別の英語学校ですね。
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ポル・ポトは都市の発展を嫌ったのでしょうか。かれにとって、都会は喧騒と猥雑と腐敗のたまり場であって、理想の農村社会には程遠いものと感じられたのでしょう。
午後5時半、ホテルに到着。「地球の歩き方」の地図でみると、ホテルからほど近いところに「トゥール・スレン虐殺博物館」というのがありますが、行く時間はなさそうです。
ホテルの部屋から街の様子を写真に収めます。
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日が落ちてきました。あちこちに高層ビルが立ちはじめています。
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徴用工裁判をめぐる日韓の溝──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(1) [本]

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 もともとは2015年夏に発行された本だが、2019年9月の増補版で第7章に「徴用工事件・韓国大法院2018年10月30日判決」が加えられた。ぼくが手に入れたのはこの増補新版である。
 ほんとうは韓国が植民地化された経緯や、戦時下までの状況を分析した第1章から順番に読むべきなのだが、それは後回しにして、今回追加された第7章を先に読み、余力があれば、それから逆に歴史をさかのぼることにしたい。
ことし92歳の著者は、詩人であると同時に弁護士でもある。いまも正義感と探究心、読書欲があふれているのには、関心し、驚嘆するほかない。
 毎日をぼんやり、ぼけつつ生きているぼくには、韓国人(朝鮮人)の徴用工については、テレビのニュースで時折流し見するほどの漠然とした知識しかない。
 戦争中に労働力不足を解消するために、無理やり朝鮮から日本に人を連れてきて、炭鉱などで苛酷な労働をさせたという印象だけである。
 これにたいし、韓国の最高裁が日本企業に賠償を命ずる判決を下したが、日本政府はこの問題は日韓基本条約に付随する日韓請求権協定ですでに解決済みで、いまさら問題を蒸し返すのは、国際法に違反していると主張している。その後、双方の対立が日本の韓国への輸出規制、韓国のGSOMIA破棄騒動にいたり、その後もゴタゴタはつづいているのは周知のとおりである。
 両方ともくだらないことで喧嘩せず、意地の張り合いをやめて、仲良くすればいいんじゃないかと思うのは、もはや世事とは無縁のぼくのような年寄りだけかと思ったら、意外と世間にもそう思っている人も多いらしい。そのいっぽうで、やはり韓国はけしからん、韓国人そのものが気にくわないと怒っている人も大勢いる。日本人のなかでも意見はばらばらだ。
 弁護士でもある著者は、増補版の本書で、徴用工事件をめぐる韓国大法院2018年10月30日判決を読み解く章をつけ加えた。著者は日本のメディアがこの判決文を詳しく紹介し、解説することもなく、ただ結果だけを伝えたことに疑問をもったという。
 それはわからないでもない。そもそも裁判の判決文などというのは、法律用語をこねくり回してつくりあげられた、素人には何のことかさっぱりわからない代物であって、そのまま新聞に掲載しても、ほとんど誰も読まないだろう。それを見つけて読んでみたというのだから、さすがに法律家はちがう。
 その判決文の一部をぼくも読んでみたが、やっぱりよくわからない。それでも、がまんして、著者の解説に目を通してみる。
 今回の裁判の発端は、韓国人の元徴用工たちが新日鉄住金を訴えたことである。新日鉄住金というのは2018年段階の社名である。2019年のいまは社名が日本製鉄に変わっている。戦時中の名前はやはり日本製鉄。八幡や釜石、大阪などに製鉄所があった。原告は戦時中、その製鉄所に徴用されていたのだという。
 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金にたいし、原告1人あたり1億ウォン(約909万円)の損害賠償を支払う判決を下した。この判決は現段階ではまだ執行されていない。
 ところが日韓請求権協定というのがある。1965年の日韓基本条約に付随して結ばれた協定だ。この協定にもとづき、日本は韓国にたいし5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)の支払いと経済支援をおこなった。
 その代わり、著者によれば、この協定で「すべての日本国民(法人を含む)が韓国および韓国人に対し、またすべての韓国人(法人を含む)が韓国および韓国人に対し、請求権を主張できない旨」で合意されたことになった。
 つまり、この協定によれば、元徴用工の訴えは、心情的に理解できるものの、そもそも訴えが認められないはずである。にもかかわらず、韓国大法院は新日鉄住金に賠償を命ずる判決を下した。
 そこで「どのように請求権協定を解釈したらこのような判決が言渡されるのか」を知りたいと思った著者は、日本の新聞には紹介されなかった判決理由を見つけ、それを精読したのだという。
 まず言っておかなければならないのは、それが一方的な裁判ではなかったということである。新日鉄住金は代理人を立て、応訴し、主張すべき主張をしている。
 大法廷判決の事実認定によれば、問題の経緯は以下の通りだ。
 原告らは1923年から1929年にかけ韓半島で生まれ、平壌、保寧、群山で暮らしていた。
ひとりの原告は、1943年ごろ平壌で大阪製鉄所の募集広告を見て、応募し、訓練工として採用される。その広告には2年間、日本で技術訓練を受ければ、その後韓半島の製鉄所で技術者としてはたらけると記されていた。
 そこで、原告は仲間とともに、担当者に引率され、大阪製鉄所に行き、労務に従事した。仕事は苛酷で危険だった。ひと月に2、3円の小遣いを支給されるだけで、賃金は自分たち名義の預金通帳に入れられ、印鑑とともに厳重に保管されていた。寄宿舎では、ほぼ軟禁状態で、逃亡することもできなかった。舎監から殴打され、体罰を受けることもあった。1944年2月ごろからは強制的な徴用となり、そもそも賃金も支給されなくなった。
 大阪製鉄所は1945年3月の空襲で破壊され、一部の訓練工は死亡した。原告は1945年6月に咸鏡道(現北朝鮮北東部)の清津に建設中の製鉄所に移された。そのさい、日本ではたらいた賃金の入金された預金通帳も返されなかった。清津工場がソ連軍によって破壊されると、原告はソウルに逃げ、そこで日本の植民地支配が終わったことを知る。
 韓国大法院の事実認定は、こんなふうに原告ごとに次々と示されている。賃金は払われたが、それはほとんど貯金通帳に入れられ、しかも貯金通帳がついに渡されることがなかったというのは、賃金が支払われなかったのと同じである。現場では事実上、軟禁状態におかれていたこともわかる。
 本書では、こうした事実認定がいくつも紹介されているが、詳しくは本書を読んでいただくしかない。日本の報道では、こうした事実認定が紹介された形跡はなさそうだ。徴用に切り替わったあとは、給与すら払われなかったというのは驚きである。
 著者によれば「大阪、釜石に限らず、八幡でも旧日本製鉄では朝鮮半島労務者に賃金を支給しないことを会社の方針にしていたようである」。旧日本製鉄(継続会社である新日鉄住金、現日本製鉄)には「ほぼ監禁状態で[事実上]無償の労務に従事させたこと」にたいする賠償義務があると、著者はいう。
 ところが、日韓請求権協定により、徴用工にたいする未払い賃金などは、日本政府が韓国政府に支払う3億ドルのなかから、韓国政府が徴用工に支払うという「破廉恥なしくみ」ができている。
日韓の協定によって「債務を免れている、徴用工を雇用した日本企業に対して、私はつよい嫌悪感を覚え、また韓国の人々に対して烈しい羞恥の情を禁じえない」と、著者は書いている。
 徴用工問題をかかえているのは新日鉄住金(現日本製鉄)だけではない。三菱重工業や不二越、IHIなど70社以上が対象になっているという。
 韓国もこれまで「協定」にもとづいて対応してこなかったわけではない。1966年には「請求権支給法」、71年には「請求権申告法」を制定し、強制動員関連被害者(軍人、軍属を含む)に支給がなされた。
 韓国政府は「1977年6月30日までに8万3519件に対して合計91億8769万3000ウォン[約2900万ドル]を支給した」という。
 事態が急変したのは2004年、盧武鉉(ノムヒョン)政権の時代なってからである。
 いわゆる「真相究明法」が制定され、日本植民地時代の「強制動員被害」に対する調査が実施された。
 その後、請求権協定に関する一部文書が公開されたあと、韓国政府は、次のような公式見解を発表した。それは、慰安婦問題を含め、日本の国家権力が関与した「反人道的不法行為については請求権協定で解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている」というものである。
 2007年に韓国はいわゆる「犠牲者支援法」を制定し、「強制動員」による死者、行方不明者(の遺族)、負傷者、生還者、未収金被害者(または遺族)にたいし、追加補償をおこなうことを決定した。
 著者はこうしたナショナリズムをあおる韓国政府の措置に疑問をいだいている。
 請求権協定は日本の植民地支配に対する賠償請求権を定めた協定であって、そこには徴用工への賠償も含まれているはずだ。植民地時代の債権・債務関係については、項目別に金額を確定することは不可能であり、協定では、包括的な賠償金額を定めるほかなかった。さらに「強制動員」といっても、実際には(広告にだまされたとはいえ)本人の自発性にもとづく行動が多く、強制動員を強調するのは、あまりに政治的・恣意的である。
 そんなふうに著者は韓国の対応を批判する。
 2018年10月の韓国大法院判決には前段階があった。原告たちは日本各地の裁判所で訴訟を提起し、敗訴していた。その後、韓国の地裁、高裁でも敗訴。しかし、2012年5月に、大法院がそれまでの原告敗訴判決を取り消し、ソウル高等裁判所に差し戻したという経緯がある。
 したがって、2018年10月の判決は、いわば2012年5月段階で予想されていたことであり、その内容を日本のメディアがほとんど報道してこなかったのは遺憾である、と著者は論ずる。
 大法院は2012年の判決で、すでに「日帝強占期[日本帝国による暴力づくの支配時代、植民地時代]の強制動員自体を不法」とする見解を示していたのだ。
 2018年10月の韓国大法院判決は、2012年の判決を踏まえて、次のような判断を示した。植民地支配を当然とする日本の判決は承認できない。日韓請求権協定はあくまでも「基本的に韓日両国間の財政的・民事的債務関係に関するもの」であって、日本による植民支配の不法性にもとづく強制動員に対する慰謝料請求権まで含まれるとは言いがたい。
 韓国大法院はこの論理にもとづいて、元徴用工らに対し、新日鉄住金に賠償を命ずる判決を下した。
しかし、著者は韓国大法院の論理は破綻しており、請求権協定のなかにとうぜん徴用工問題も含まれていると考えている。すなわち、法律的には請求権協定によって、すべては解決済みなのである。
著者によれば、その後の日韓両国政府の応酬は「まことに愚劣」だった。

〈このような日韓両国政府がそれぞれ自己の立場、見解だけが正当とみることから生じている現状は決して望ましいものではない。私は徴用工を雇用し、監禁状態ないし軟禁状態で労務に従事させながら給与を支払うことなく、韓国政府が3億ドルの中から元徴用工に支払うことに、疚(やま)しさを感じていたかどうかはともかく、平然としていたかのようにみえる日本の企業は元徴用工に対し賠償責任があると考える。同時に、韓国大法院の判決の論理はきわめて政治的、感情的であって、納得できない。〉

 日韓請求権協定によって解決できない紛争が生じた場合は、仲裁委員会を設けるという規定がある。しかし、韓国側は現在のところ、みずからの条件を提示するだけで、仲裁には非協力の立場をとっているようだ。
 双方が仲裁委員を立てて、さらに二人の仲裁委員が第三の調停委員を選んで、当事者間が直接の話し合いをするという方式をとらないかぎり、問題は解決しない。「もちろん、私は日本企業が相当額の出損をすることを調停の前提としている」と著者は書いている。
 歴史はけっして水に流せない。しかし、愚かな争いにはどこかで終止符を打たなければならない。それがハンナ・アーレントのいう「赦(ゆる)しと約束」なのだと思うのだが、いまのところ日韓の溝は深まるばかりである。だれかが智恵をださなければいけない。

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