SSブログ

吉本隆明とマルクスについて(3) [われらの時代]

513FG650MDL._SX340_BO1,204,203,200_.jpg
 吉本はマルクス(1818〜1883)の伝記をコンパクトにまとめた「マルクス伝」を書いている。ことこまかに紹介するわけにはいかないが、いくつか感ずることを記しておこう。
まずは若き日のマルクスだ。
 ドイツでの大学教授の道を断たれたマルクスは、評論家として生きていく道を選び、雑誌や新聞に論考を書きはじめた。パリで結婚する。だが、前途には貧窮生活が待っていた。
 1845年春、マルクスはパリを追放され、ブリュッセルに滞在する。このときエンゲルスと出会い、ふたりで『ドイツ・イデオロギー』を執筆する。共産主義は世界市場の広がりを前提とした、自由な個人にもとづく国際的かつ現実的、永続的な運動だと論じた。
 マルクスのところには、亡命者や社会主義者が集まっていた。1847年には共産主義同盟が結成され、マルクスはブリュッセル支部、エンゲルスはパリ支部の責任者となる。
 亡命者集団によるうんざりするような政治論争のなかで、プルードンやバクーニンのグループとの対立が激しくなる。それはのちのちまで尾をひくことになる。
 1848年、フランスで二月革命が発生する。その直前、マルクスは共産主義者同盟の依頼を受け、「共産党宣言」を執筆する。
 宣言により、じっさいに共産党が生まれたわけではなかった。しかし、ともかくも大風呂敷ながら共産主義をめざす政党の綱領がかかげられたのである。
 共産主義者同盟は「階級なき、私的所有なき新しい社会」をめざした。共産主義は当時の道徳的、温情的な社会主義とみずからを区別するために掲げられた標語だった。
 武力による革命をめざしたわけではない。私有財産の否定を主張したわけでもない。貴族やブルジョアが財産を独り占めする社会を終わりにしようと唱えていたにすぎない。目標は国家間の戦争に明け暮れることのない、万国の労働者のための政権をつくることだった。
 共産主義者同盟は1848年の革命にほとんど何の役割もはたしていない。パリでは2月に労働者と学生が蜂起し、国王ルイフィリップが亡命し、臨時政府がつくられた。ウィーンでも蜂起があり、ベルリンでもデモが拡大する。しかし、革命はその後、急速に敗北に向かう。フランスではルイナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世)が政権を握り、労働者団体の弾圧に転じる。ドイツの各都市でも戒厳令が敷かれ、プロイセン軍が共和制を求める反政府集団を打ち砕いた。
 1848年の革命は挫折のうちに幕を閉じ、そのあと、反動の嵐が吹きすさんだ。マルクスはケルンで『新ライン新聞』を発行し、民主化に向けての論陣を張っていたが、身辺があやうくなる。そこでパリに向かうが、ここにもすでに司直の手が伸び、家族とともに1849年8月にロンドンに亡命する。
 ロンドンのマルクスは、ここで30年以上にわたり、時折、新聞に寄稿しながら、貧窮のうちに『資本論』にいたる研究をつづけることになる。
 ロンドン生活でも、マルクスは労働者国際協会(第一インターナショナル)にかかわり、プルードン派やバクーニン派との対立に巻きこまれつづける。だが、『資本論』の執筆を怠ることはなかった。1867年9月にはハンブルクで『資本論』第1巻が発行された。
 吉本は経済学にのめりこむ後期のマルクスにいささか不満をいだき、こう書いている。

〈わたしには、マルクスがかなり無造作に生産社会の究明へと全力を集中し、俗な言葉でいえば、経済学の批判としての経済学にこっていたことが不思議なことのようにおもわれる。たえず法・国家哲学との関連をおもいえがきながら、経済学的な範疇にのめりこむといった用意は、それほど周到になされていない。文字どおりかれは経済学へとのめり込んでゆくように思われる。〉

 後世の吉本がこうぼやくのは、マルクスがのちのロシア的改訂を許さぬような、すなわちソ連や中国などの「社会主義」国家の誕生をはばむような政治哲学を残しておいてくれたらなあという思いからである。だが、マルクスには、そうした思わぬ未来予測図はえがけなかったにちがいない。
 マルクスが資本の研究にのめりこんだのは、これまで歴史上にはない新しい時代を資本がつくりあげていくダイナミズムに対抗しようと思いながらも、その構造を分析する仕事がおもしろくて仕方なかったためである。
 1870年には普仏戦争が勃発した。ナポレオン3世はとらえられ、パリでは臨時政府が発足する。だが、プロイセン軍がパリを取り囲むと、臨時政府はボルドーに撤退、そのときパリ市民が蜂起し、パリ・コミューンが誕生した。最初、蜂起に反対していたマルクスは、コミューン支持に転じた。ところが、プロイセンと和平協定を結んだ臨時政府のティエールは、軍を動員してパリを包囲し、徹底的にコミューンをつぶした。残虐をいとわぬ激しい弾圧が待っていた。
 マルクスは挫折したパリ・コミューンを愛惜しながら、共産主義にいたる道筋を定式化しようとも試みた。すなわち、権力の掌握、プロレタリア独裁、そして労働に応じた分配をおこなう社会主義、最後に欲求に応じた分配をおこなう共産主義。
 その構想の実現は長い道のりになることが予想された。革命はけっして絵空事ではなかった。しかし、この時点で、労働者政権が生まれる可能性はきわめて低かったといわねばならない。
 スターリニズムは、マルクスのこの公式を形式だけ受けいれ、一党独裁を正当化することになる。そのもとでは、資本家ならぬ党官僚のもとでの疎外された労働、思想統制、反対派弾圧、経済的自由のない配給制度がつづくことになる。
 パリ・コミューンの敗北後、マルクスの健康は次第に衰えていく。それでも、マルクスは1883年になくなるまで『資本論』の続稿を書きつづけた。
マルクスの全思索のなかで『資本論』をどうとらえればよいのか、吉本はこう書いている。

〈『経済学と哲学にかんする手稿』[「経哲草稿」]が、市民社会の内部構造としての経済学の範疇をとりあつかったものとすれば、『資本論』は、人類の生産社会の歴史的発展段階としての資本制社会を、資本と労働との総過程としてあつかったものといえる。『経済学と哲学にかんする手稿』がマルクスの〈自然〉哲学のうえに構成されたものとすれば、『資本論』は、生産社会の発展段階を〈自然〉史の過程とみなすという哲学のうえに構成されている。〉

 マルクスは生産社会としての資本制社会を、人類の自然史の発展過程、言い換えれば歴史としてとらえた、というのが『資本論』にたいする吉本の見方である。いっぽう、吉本には、残された仕事は、幻想としての国家の原理を始原的に解き明かすことだと思われた。
 ここでコメントを加えるなら、生産は消費のためにおこなわれるのだから、生産社会は消費社会でもある。世界史において、商品は古くから存在するが、資本システムはせいぜいいまから600年ほど前に定着したにすぎない。マルクスは、人類の長い歴史のなかで、資本制が永遠につづくわけがないと考えていた。
そのいっぽう、資本システムは、それが意味をもつかぎり発展しつづけると考えることもできる。資本の本性とは、マルクスの概念でいえば剰余価値、つまり利潤を求めて自己運動する貨幣の流動性にほかならない。
 貨幣の実体を担うのは商品なのだから、資本システムは無限ともみえる商品の開発と集積、消費がどこまでも拡大することによってしか存続することができない。
 その資本システムを支えているのが、資本家と労働者であることはいうまでもない。資本家と労働者は、資本と労働を体現した存在であって、その実態は経済発展とともに姿を変えていく。とりわけ、現代においては、国家の果たす経済的役割が大きくなってくる。
 マルクスはもちろんのこと、吉本も資本システムの終わりを知ることはなかった。資本システムに抵抗した「社会主義」国家の試みは、20世紀の資本システムの発展を前にして、かえってその醜悪な姿をさらけだすにいたった。ソ連崩壊を目にした吉本が消費社会論を展開することで、資本システムの現在をとらえ直そうとした気持ちはわかるような気がする。
 吉本のマルクスへの敬愛は、終生やむことがなかった。以下の一文は、吉本によるマルクスへの弔辞として読むこともできる。

〈かれが、幻想性、観念性の一般理論に『ヘーゲル法哲学批判』以後あまりかかわっていないことを嘆くひつようはない。その余の時間を、かれは共産主義者同盟、国際労働者協会(インターナショナル)の隔絶した頭脳としてついやした。かれの体験したものは、亡命者団体の挫折したすがたであり、パリ・コミューンの敗北に象徴される西欧の労働者の運動の敗北であった。そのたびごとに、挫折した戦士たちの世話をやき、相談役となり、また頭脳となり、そのことにより当の挫折者からの反感と中傷を一身に浴びた。全欧州の官憲はかれを敵視した。しかし、かれは孤立のなかでもくじけることなく、研究に没頭した。よく生き場所と死に場所をしっていたし、生活を貧困のうちで愉しむこともしっていた。その総合的な力量においてかれに匹敵する思想家を人類が見出すことは、いまでも、これからも困難であろう。〉

nice!(9)  コメント(0)