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ソ連時代の消費生活(2)──オックスフォード版論集『消費の歴史』から [われらの時代]

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 社会主義体制を自由のない抑圧された貧しい社会と一律にとらえるのはまちがいである。ソ連についても、その70年以上にわたる歴史を、すべてスターリン時代の大粛清のイメージで認識するのは、あまりにイデオロギーのバイアスがかかっているといえるだろう。
 消費面からソ連時代の歴史を研究するシーラ・フィッツパトリックは、1930年代半ばになると、オールド・ボリシェヴィキのあいだでは禁欲的なエートスが残っていたかもしれないが、時代が進むとともに消費においても趣向の問題が徐々に生ずるようになってきた、と指摘している。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にあたる1935年の新聞記事には、モスクワのデパートで、かたちやツヤ、デザインを気にかけて、ティースプーンを選ぶ男の話が出ているという。この人物は、以前はどんなスプーンやボウルでも気にしなかったが、いまではシンプルで魅力的で、出来のいいものにひかれるようになったと書かれている。
 飢饉の時代は終わり、配給制も打ち止めになろうとしていた。スターリンは「これから暮らしはますますよくなり、楽しくなる」との声明を出した。食料相のアナスタス・ミコヤンは人民にアイスクリームとソヴィエト・シャンパンを配るのだと躍起になっていた。
 新聞は、モスクワのメインストリートの食料品店に行けば、何種類ものソーセージやチーズ、魚、手ごろな菓子が手に入るとかき立てていた。実際に手にはいったわけではないが、ケチャップなど、新しい食材の紹介もされていた。
 デパートで働く労働者は「洗練された社会主義的交易」の習慣を身につけるよう求められていた。つまり、いままでの客にたいする粗野でぶっきらぼうな態度をあらため、製品についても丁寧に説明するように、というわけである。
 もちろん、だれもがすぐにキャビアやソヴィエト・シャンパンを手に入れられたわけではない。それは当面は夢物語だった。しかし、ソ連はいま建設中であり、いくいく社会主義が達成されれば、ものは豊富になり、だれにでも行き渡ると宣伝がなされていた。
 実際に贅沢な物資を手に入れられるのは、ごく限られた人びとだけだった。とはいえ、エリート党官僚が勝手に振る舞えたわけではない。
 1930年代後半は大粛清の時代だった。豪華なダーチャ(別荘)を建て、宴会を開き、車や外国製品、きらびやかな衣服をもって、ぜいたく三昧にふけっているなどと告発されないよう、官僚も万全の注意を払わなくてはならなかった。告発されると、「人民の敵」とみなされ、粛清されるからである。
 物質的な権利を認められたのは、社会的エリートというより社会的貢献者だった。つまりノルマの達成を求める「スタハノフ運動」で実績を認められ表彰された労働者や農民である。
 フィッツパトリックの研究によると、タジク人のある労働者は、ベッドや蓄音機などをもらい、いまは泥の家ではなくヨーロッパ式の家に住まわせてもらっていると話している。あるロシア南部の女性は、コルホーズの仕事が認められて表彰されたおかげで、洋服や靴だけでなく、ミシンまでもらったと自慢している。ウラル山脈の南にあるマグニトゴルスクで3年間働いた労働者は、妻といっしょにここにやってきたときはスーツケースひとつだったが、スタハノフ運動で認められたおかげで、猟銃や蓄音機、オートバイまで与えられ、ソファーや衣装だんすなどの家具、オーバーなどの衣服をもてるようになったと話している。
 ソ連において「文化財」は、こうして資本主義にけがされていない財となった、とフィッツパトリックは書いている。こうして1930年代半ばからは文化建設の名のもと、ラジオや蓄音機、ミシン、時計、鉄製ベッド、自転車、オートバイなどがつくられるようになり、都市や農村に行き渡るようになった。
 第二次世界大戦がはじまると、ソ連ではふたたび配給と窮乏の時代がはじまる。だが、この戦争でソ連はナチス・ドイツを破り、勝者の側に立つことになる。ソ連兵はヨーロッパに向かい、市民から戦利品を略奪した。それは高級将校も例外ではなく、かれらはグランドピアノなどを勝利の証しとして持ち帰った。戦後のソヴィエト社会で上等な品を求める物質的な欲望がみなぎるようになったのは、ソ連兵が西方に進出した副次的産物だと評する人もいる。
 戦利品としてのピアノは、いまや相続の対象となった。財産の私的相続は表向きは禁止されていたが、実際には、国が個人所有物を没収することはまずなかった。だが、それは国民が個人的に使用するものに限られていた。ダーチャ(別荘)の相続なども次第に認められるようになった。
 スターリンは1953年に死亡し、雪解けの時代がはじまる。生活水準上昇への期待が高まるなか、フルシチョフはソ連は食料供給と消費財の面で数年のうちに西側に追いつくと予言した。さらに1961年には、ソ連は20年のうちに社会主義から共産主義の段階に達すると大風呂敷を広げた。
 ロシアの人びとはついに豊かな時代がやってくるのだと思いはじめた。問題は、その豊かな財が、民間によって運用されるのか、それとも集団、つまり国家によって運用されるのかということだった。
 フルシチョフにとって、その答えは明白だった。いうまでもなく公共的消費基金が共産主義の財とサービスを提供するのであって、それによってこそ集団的精神が強化され、私的所有の心性が取り除かれるというのである。
 経済学者のストゥルミリンは、「人民自身が、自家用車やダーチャや個人住宅を、やっかいなお荷物として投げ捨てる」と述べた。「あらゆるモデルや色の高性能な車が公共の駐車車に揃っていて、それを好きなように利用できる」というのに、わざわざ自分の車をもつことはないというのだ。
 エリートの特権に憤っていた人のなかには、こうした考え方に賛同し、現在個人が所有している車やダーチャなどをただちに集団化すべきだという者もいた。だが、それはそうした財を手に入れられそうもない人の言い分だった。
 フィッツパトリックによれば、実際にフルシチョフ政権がおこなったのは、集団化ではなく、これまでより質のよい財を数多く提供することだったという。そのリストの筆頭に挙げられたのがアパートだった。1950年代半ば、フルシチョフはひと家族用のアパートが理想だという前提にもとづいて、大量の住宅建設に着手した。何百万もの家庭が、これまでの共用アパートからひと家族用のアパートに移ることができるようになった。
 これは大きな社会的変化だった、とフィッツパトリックは指摘している。これによって家族はプライバシーを守り、共有ではないプライベートなスペースを確保できるようになったからである。
とはいえ、新しいアパートの部屋は、国家から借りなければならなかった。これにたいし、ダーチャは所有することができ、実際、都市ではダーチャをもつ家族が次第に増えていった。夏の週末になると、300万人近いモスクワっ子が町を離れてダーチャに向かい、そのうち50万人以上が自分のダーチャを所有するようになった。
 1965年には3分の1、75年には80%の家庭がテレビを所有するようになり、冷蔵庫(65年には17%、75年には77%)や洗濯機(同じく29%から76%に)をもつ家庭も増えていった。これにたいし、あくまでも体制側は、私有財産の所有といった過去の遺物がいまも残っているのは、遅れた要素にほかならないととらえていた。
 しかし、人びとがさらに多くの財を所有し、さらなる財を欲するようになると、こうした見方は的外れになっていく。じっさい、人びとの要求によって、新たなものがつくられていった。たとえば、新しいアパートにはいると、新しい家具を購入せざるをえなくなる。古い家具は部屋に合わなかったし、時代はスターリン・モデルとはちがう明るくて重々しくないものを求めていたからである。
 建築家もデザイナーも北欧様式のシンプルで機能的な「現代風の」スタイルを勧めていた。現代風はファッションから味覚にまで及ぶようになった。いっぽう、車は進歩しなかった。車はフルシチョフのいう社会主義的権利の範疇に含まれておらず、あくまでもエリートのものだった。それでも一般市民も次第に車を手に入れたいと思うようになってくる。そして、1970年代には、車はエリートだけのものではなくなり、ソ連も車社会になっていった。
 消費者の欲求をいかに満足させていくかを追求していくと、西側との競争が生まれ、西側に追いつこうとしても追いつけそうにないという現実にぶつかる。これこそアメリカの社会学者、デイビッド・リースマンが1951年に提案していた冷戦戦略だった。ナイロンストッキングと食洗機でモスクワを攻撃するなら、西側の勝利は確実だというわけだ。
 1959年にモスクワで開かれたアメリカ博覧会で、当時、副大統領だったリチャード・ニクソンはフルシチョフとのあいだで「台所論争」をくり広げた。このときニクソンは食洗機やスーパーマーケット、コカコーラの話をし、モスクワっ子は展覧会に足を運び、アメリカ製品を見てびっくりした。ソ連と共産主義圏が崩壊したのは、ものをめぐる競争で西側が勝ったためだと評する人もいるくらいだ、とフィッツパトリックは述べている(だが、一面正しいにしても、これはあまりに皮相な見方だろう)。
 フルシチョフ体制は、西側文化との接触を必ずしも拒否するものではなかった。ただし、そこにはソ連なりの基準が設けられていた。実際、1957年のモスクワ青年フェスティバルにはじまった西側文化の許容は、国家がイニシャティブをとったものだったにせよ、人びとによって熱烈に支持された。
 雪解けはファッションとともにはじまったともいわれている。ジーンズや革ジャン、タートルネックのセーター、ヘミングウェイの小説、ビートルズの音楽テープ、これらはソ連の60年代を語るうえで欠くことのできないアイテムだった。しかし、こうした文化の多く(たとえばロック)は、ソ連の文化基準に合わなかったし、むしろカウンターカルチャー的なものを生みだしていくことになる。
 フィッツパトリックはさらに東ヨーロッパの状況について述べ、ソ連崩壊後の消費動向についても述べているが、これは来年、また次回ということにしよう。

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