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『犬が星見た』を読む(4) [われらの時代]

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 1969年6月25日。レニングラード(現サンクトペテルブルク)のホテル。武田夫妻は白夜で寝つけなかったため、寝坊し、朝食の時間に遅れてしまう。食堂でパンとオムレツ、サラミなどをかきこみ、10時のバスに乗りこんだ。
 レニングラードは港町で、建物はすべて石と煉瓦でできている。最初、バスはネバ河畔にとまり、ガイドがまず要塞の島を指し、ここにドストエフスキーもゴーリキーも入れられたと説明する。ワシリエフスキー島の高い塔には海軍の錨の印がついていた。

〈ねぎ坊主形の金色の屋根が曇天にいくつも浮んでいる。やがて雲間から太陽が出ると、ねぎ坊主屋根という屋根は、黒ずんだ小金色のまま、どの屋根もこってりと憂うつそうに輝き出した。どこかで鐘がなったから仕方がない、それを合図にいっせいに光ってやっているのだぞ、という感じだった。〉

 レニングラード観光はてんこ盛りだ。ガイドの説明にも熱がはいる。デカブリスト広場、ピョートル大帝の銅像、聖イサク寺院、第二次大戦中のレニングラード攻防戦の話、宮殿広場と冬宮、ピョートル大帝の小さな家、スモールニー寺院とその側の教会、芸術広場、ネフスキー通り、など。午後からはエルミタージュ美術館を見る。ガイドが「ゆっくり見ない、立ち止まって見ない、皆一緒になって迷わず歩きつづけてください」というので、「立ち止まらず、ゆっくりしなかったから、予定よりずっと早く出口にきてしまった」。
 そして、夜は劇場でバレーの鑑賞。レニングラード白夜祭番組と称して、いろいろなバレーのさわりをやる。あまり感心せず、ソンした、と百合子は書いている。
 10時半に劇場がはねたあとも、外は明るいうす浅葱の空に包まれていた。地下鉄に乗って、ホテルに帰る。12時になると、空は青色に変わった。
 翌6月26日も、ツアーは盛りだくさんだった。まずは、水中翼船に乗り、ピョートル大帝の宮殿に。

〈パリが憧れであったピョートル大帝は、ヴェルサイユ宮殿に似たものを造りたかったらしい。そう思ったら、思ったとおり、何でも造ってしまった。800ヘクタールの庭には200の彫像と125の噴水がある。この巨きな人は、全部自分で設計し、40年かかって造りあげた。〉

 帰りはバスで町に帰り、ホテルで昼食。ポプラの綿毛が舞っている。疲れたらしく、竹内は午後の見物を休む。午後は聖イサク寺院の内部、革命戦士の墓、博物館を回る。ガイドにきのうのバレーはどうだったかと聞かれるが、答えなかった。百合子は内心「踊りのよしあしぐらい、こっちにだってわからあ。ロシアのバレーばかりが踊りじゃないよ」と思っていた。
 夜は竹内も一緒にタクシーに分乗し、何人かでマルイテアトルに。華やかで古めかしい劇場だ。シャンデリアが暗くなり、「バフチサライの泉」がはじまった。竹内は終始つまらなそうにしていた。
 11時に劇場を出たが、タクシーはつかまらず、ネフスキー通りまで歩いて、地下鉄に乗った。空は赤い夕焼けだ。通りでは酒を飲んだ大学生らしい男たちが喧嘩をしていた。すれちがう肉体労働者風の男たちもウオツカを飲んでいるらしく赤い顔をしている。

〈水兵の多い町だ。水兵が公衆電話をかけている。水兵が女と別れている。水兵が女と歩いている。背に垂らした水兵襟の水色は、薄暮の遠くからでも、鮮やかに見える。
椅子に腰かけている人の銅像の下、昨日老婆二人がいたベンチに、若い男女五、六人がウオツカを飲んでいる。女は赤い顔をして声高に笑ってている。〉

 ホテルに戻ると、月が赤く出た。
 6月27日の午前中は自由時間。午後にはモスクワに発つことになっている。夜明け前に雨が降ったらしく、屋根も道も濡れていて寒かった。添乗員の案内で、ネフスキー通りに出た。ポプラの綿毛がただよっている。百貨店に寄った。武田のところに二人の男が近づいてきて、「買いたいセイコー、買いたいソニー」とくり返す。無視すると、いなくなった。本屋にもはいり、歴史博物館の向かいのベンチに座った。リラの花が咲いている。竹内は「愉快だ」という。プーシキンの家を探す。雨が降ってきた。鳥打ち帽をかぶり、レインコートを着た竹内は「この道がいいねえ。雨が降ってきた、というのが、またいいじゃないか」とご機嫌だ。
 やっと見つけたプーシキンの家の明るい中庭には、たくさんの花が咲いていて、プーシキンの銅像が立っていた。家の中はどこも暗かった。ヨの字形の置かれた書棚にぎっしりと本がつまっている。そこに大きな机と小さな机、背もたれの安楽椅子が置かれている。隅々まで検分した竹内は「いいねえ。こういう書斎で仕事をしたらいいだろうなあ」と、うっとりした声でいった。
 市電でホテルに戻った。午後3時半、ホテルを出発。5時、飛行機に乗り込み、1時間ほどでモスクワ空港に着く。白樺の林を抜けて、モスクワの町にはいった。ホテルは「赤い広場」のすぐ前。ホテルの玄関に、モスクワ在住で筑摩書房に勤務する「松下さん」が竹内好を迎えにきていた。この「松下さん」はのちにチェーホフの翻訳をし、『評伝中野重治』を書く松下裕のことだ。
 ロシアともそろそろお別れだと思い、夕食に行くとき、百合子はあやめが描いてある新調の白い服を着る。すると、泰淳は「宇宙探検隊みたいだなあ」といった。
食堂では、楽団による演奏がはじまっていた。酒をがぶがぶ飲んでいるブルガリア人がいる。何でもブルガリアでは「酒飲みツアー」が流行しているらしい。
「いい旅行でしたね」と誰かがいう。ツアーはまもなく解散となり、銭高老人には飛行機でモスクワから日本に直行してもらい、ほかのメンバーはそれぞれ自由行動となる。武田夫妻と竹内は、ストックホルムとコペンハーゲンを回ってから帰国することにしている。宴席は盛り上がった。
 翌6月28日はモスクワ観光。まずは、ホテルのすぐ前の「赤の広場」に。聖ワシリー寺院の横にバスが停まる。

〈中心の大きな塔が次々と子を孕んでは生み殖やしたように、塔のまわりを九つの教会がとりまいている。円柱形の九つの教会は同じように見えていて、高さ、装飾の彫刻、窓の形、屋根の形、どんな部分も、一つとして同じところがない。東洋風でもあり、回教風でもあり、ヨーロッパ風でもある。〉

 レーニン廟に参列する行列がつづいていた。ソフィア寺院修道院、チェーホフやゴーゴリの墓、モスクワ大学、トレチャコフ美術館、国立プーシキン美術館と回る。
 5時半にホテルに戻った。夜は竹内とともにモスクワ在住の松下の家を訪れた。旅の終わりまでほとんど手をつけなかったインスタントラーメン、味噌汁の素、味の素、梅干しを持参する。大和糊、セロテープ、マジックペンもないので、もらうと助かるという。ロシア人は風呂敷をめずらしがるという話を聞いた。竹内は松下が毎日新聞の支局から借りてきた新聞を読んでいる。食事のあと、さくらんぼをおみやげにもらった。帰り際に「何か足りないものがあったら日本から送りましょうか」というと、松下は「小包は、高い税金を支払って受けとることになりますから」と遠慮した。
 6月29日。朝食前に散歩。クレムリン宮殿の入り口には、もう人が群がっている。赤旗をかかげたサイドカーが並びはじめた。きょうは「青年の日」とやらで、広場でパレードがはじまるらしい。
 朝食のあとはレーニン廟にお詣り。行列がつづいているが、団体の旅行者は優先的にいれてくれる。
 守衛の軍人は唇に指を当て静粛を促す。大理石づくりの廟のなかは暗く、レーニンのはいった硝子の棺には、青白い照明が当てられている。銭高老人は声をださないまま「なまんだ、なまんだ」と唱えている。

〈レーニンは黒い服を着て横たわっていた。思いのほか、顔も手も小さかった。光線の具合で青白く見えたが、顔は本当は黄ばんでいるのではないかと思われた。正面を通り過ぎるとき、老人に倣って、合掌瞑目した。すると涙が眼の裏に湧いた。もしこれが本当の木乃伊ならば、レーニンが気の毒で。〉

 外に出ると、皆ほがらかになり、おしゃべりがはじまった。クレムリンの城壁に沿って、いくつも墓が並んでいる。ガガーリンの墓があった。ガイドさんが「外国人のえらい人のもある」というので、「日本人のもあります?」と聞くと、「カタヤマセン(片山潜)ね」と答え、指さした。スターリンの墓には大きな花束が置かれていた。
 クレムリンのなかにはいり、宝物殿をみる。ホテルでの昼食は、旅行の思い出話で盛り上がり、皆はいつまでも食堂から立ち去らない。
 4時に松下が迎えにきて、街に出る。子供ものばかり売っているデパートにはいった。ロシアは子供のものは安い。自転車を担いで帰っていく若い男がいる。松下によると、きょうはたくさんあるが、この春には自転車が少なくて、行列でなかなか買えなかったとのこと。
 昔から学者や芸術家が住んでいたという裏通りを歩く。エセーニンが住んでいたというアパートがあった。プーシキンの銅像があるちいさな公園で休んだ。ポプラの綿毛がひっきりなしに落ちてくる。
 夜は松下が予約しておいてくれたグルジア料理店にはいった。竹内はよく食べ、雄弁に語った。ホテルの玄関まで送ってくれた松下は名残惜しそうにしていた。
 6月30日。ツアーは解散。朝6時、武田夫妻と竹内、ほか3人はマイクロバスで空港に向かう。空港でほかの3人ともわかれ、8時過ぎのスカンジナビア航空でストックホルムに向かう。「これからは百合子を財布係にしよう」と武田が竹内にいう。飛行機はロシアのものよりずっと快適だ。
 銭高老人はいまごろ何をしているかなと思った。2時間ほどでストックホルムに着いた。
 飛行場に着くとモスクワ駐在商社員の奥さんが話しかけてくる。

〈「北欧はおはじめてでいらっしゃいます?」
「はじめてです。ロシアもはじめてです。日本から外へ出たのもはじめてです」
「モスクワからいらっしゃいますと感動なさいましたでしょう。北欧は素晴らしゅうございましょう?」佐久間良子風の美人の奥さんは、しきりと感想を促す。
「はあ」物が豊富で迅速にことが運ぶ文化都市にやってきたのだな、ロシアとはちがったところだな、と思っているだけだ。感動というのは、中央アジアの町へ着いたときにした。前世というものがあるなら、そのとき、ここで暮していたのではないかという気がしたのだから。〉

 ここからは添乗員がいないから、自力で旅をつづけ、無事日本に戻らなくてはならない。まず予約したホテルまで行くのがひと苦労。それから酒屋を見つけること。その役を百合子がおおせつかった。スーパーにはあらゆる日常品がふんだんに並んでいるが、酒だけはない。ようやくみつけて、コニャックを買ったが、高かった。ホテルの廊下の自動販売機にはビールが売られていたので、それも買う。ホテルの食堂で遅い昼食をとる。ゆでた海老とビフテキ、盛大に食べた。
 町を散歩して武田と竹内のもっぱらの興味は、どこかでポルノ雑誌が買えないかということだ。だが、そうした店はなかなかみつからない。夕方からは観光バスに乗って、市内見物をした。高層アパートの大団地、テレビ塔などを回るがつまらなかった。町の食堂で夕食をとる。中年男やら水兵が武田と竹内に話しかけてくるが、相手にしなかった。
 ホテルの部屋は26度の温度が保たれており、洗面所もトイレも浴槽も快適だった。
「するする、するする、と万事が滑らかに運ぶ。ロシアを旅してきた私は力の入れどころがなくて、体がむくんでしまいそうである」
 翌日もストックホルム観光。バイキング方式の朝食。「ほんとにうまくて仕様がない」と武田がいう。遊覧船に乗り、チボリという遊園地に行き、船着き場に戻ってきた。午後からは3時間半の島めぐり。ホテルに戻り、近くの食堂で夕食をとるが、百合子は船酔い気味だった。

〈河岸からホテルまでの道でポルノ雑誌を置いている店をみつけたことを主人が話すと、これから是非そこへ行ってみよう、と竹内さんは言った。
近くまできて「あの店」と教えると、竹内さんは駈け出した。主人もぱたぱたと急ぎ足になって、あとから往来を横切っていった。〉

 だが、雑誌は買わずじまい。
 翌7月2日。霧雨のなかストックホルムを発ち、コペンハーゲンに向かう。飛行時間は45分ほど。河畔にたつ高層ホテルの部屋からは、河と開閉橋、貨物船、倉庫と引き込み線、飛び交うカモメの群れ、対岸の寺院や煉瓦色の家が見えた。すばらしい眺めだ。
 武田は食欲旺盛でビールを飲みながら何種類ものカナペをつまんでいる。午後は国立博物館とチボリをみる。チボリを出て歩くうちに古道具や古本を売っている一画に入り込んだ。竹内と武田は本屋を覗いていたが、半地下風の店にはいっていった。ずいぶん長いことはいっていたが、竹内が「買った、買った」と言って、にこにこしながら出てくる。とうとうお目当ての雑誌を見つけたのだ。
 周辺の広場にはヒッピーたちが大勢たむろしていた。そのあとは観光バスの発着所に行き、バスに乗って市内見物。牛の噴水やら人魚の像やら、大理石教会やら宮殿を回った。疲れ切ってしまったので、夜は武田の部屋で、みんなで夕食をとった。
 そのとき話題になったのが、雑誌をトランクに入れて持ち帰ると羽田で没収されるかもしれないということだった。ふたりはいつまでも思案に暮れている。
 7月3日。7時間コースの観光バスに乗る。人魚像を眺めてから、海沿いの道を走り、大きな森にさしかかる。西洋映画の風景。エルシノア城、これはシェイクスピアの『ハムレット』の舞台だが、実際の名前はクロンボー城という。フレデリクスボー城なども回る。ホテルに戻ったときは5時半になっていた。ホテルで食事。例の雑誌はホテルにおいていこうと竹内がいう。聞くと15ドルもしたという。「もったいない」と百合子は大きな声をだした。
「15ドルも出したの。それを置いてくなんて! 腹が立つ。あたしが持って帰る。あたしのトランクに入れて帰る」
 翌日7月4日。朝食をとったあと、開演したばかりのチボリで時間をつぶし、昼、空港に向かった。飛行機は日本航空で、乗客は日本人ばかり。氷ばかりの北極の上を飛んで、アンカレッジ空港に。ふたりは蜿々と酒を飲みながら、「スパシーバ(ありがとう)」「パジャールスタ(どういたしまして)」をくり返している。
 こうして長い旅が終わった。

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