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『犬が星見た』を読む(2) [われらの時代]

 6月14日。飛行機の接続がうまく行かず、ノボシビリスク空港の宿舎に泊まることになった。飛ぶたびに時差が発生するので、だんだん時間の感覚がへんになってくる。
 男性トイレの前で、銭高老人が「扉が開きませんのや」と困りはてているのをみて、百合子が勢いをつけて思い切り扉にぶつかると、ようやく開いた。「この宿舎の扉は、ゆるすぎてきちんと閉まらないか、かたすぎて開かないか、どちらかである」
 翌日は朝から日が照りつけ、暑い。銭高老人は「ああーっ、おもしろ。ああーっ、おもしろ」とくり返す。
 午前9時半、「お猿の電車みたいなものに乗って飛行機の下まで行く」。アスファルトはとろけている。
 飛行機はアルマ・アタ(アルマトイ)に向かう。トルコ玉色をしたバルハシ湖の真上をとぶ。左側に雪の天山山脈がみえてきた。

〈いく重にもいく重にも奥の奥までひしめき重なり合っている地球の波。このおびただしい山の波を越えた向こうにタクラマカン砂漠があるのだという。窓硝子に額をぴったりつけて、さえぎる雲一つない大快晴の天空から、天山山脈を見つづける。……天山山脈がうしろになると私はお産をすませたあとのような気分になり、眼をつぶった。〉

 からだと地球はつながっている。
 飛んでから2時間ほどでアルマ・アタにつく。空港食堂で軽食をとって、すぐに出発。ペルシャ美姫を思わせる顔立ちの女が、赤ん坊をつれて。木柵にもたれている。町は見えない。ただ広い草原だ。「はるばるとやって来た私たちを迎えながら、アルマ・アタの町は青い山々をひきつれて遙かにあとずさり、そのまま深く眠りこんでしまっている」
 1時間ほど休憩して、飛行機はすぐに飛び立つ。午後2時50分タシケント空港に到着。時差があるので、時計の針を3時間回した。
 どこに着いても、まず先に酒を確保するのは百合子の務めだ。空港の売店でウオツカを買った。ついでに絵葉書も。
「酒の手持ちがないと思うと、思っただけで、あたりの景色は黒白、酒の手持ちがあると思うと、あたりの景色は天然色──主人はそういう」
 バスでホテルに向かう。運転手が気をきかせて、ラジオのスイッチを入れ、音楽を流してくれる。チャカチャンチャカチャカチャカチャカアアアア……ピラピンピラピラピララララアアアア。そんなふうに聞こえる。シルクロードの音楽だ。
 銭高老人はホテルの風呂桶に栓がないので、困りはて、添乗員の山口さんに助けてもらったという。「しかし、えらい国じゃあ。この国は。風呂に栓がないんじゃあ」と、いつものように、なにごとにも感心している。
 ホテルの食堂には、町内会のおじさんの集まりのような楽隊がいて、愉快でたまらぬというふうに演奏する。一曲終わったら日本語で歌いはじめる。日本人とみれば「恋のバカンス」をやるのだ。たしかに、このころピンキーとキラーズの「恋のバカンス」がはやっていた。
 6月16日。飛行機でタシケントから1時間ほど飛んでサマルカンドへ。真っ青な空。白熱の太陽。暑い。バスで市内見物。
 昼食をはさんで、ウルグベグ天文台、シャヒ・ジンダ(霊廟)、バザール、回教寺院、ビビハニム・モスク、中央博物館と回る。夫の泰淳は暑気あたりで具合が悪そうだ。
 途中、銭高老人がバスに全財産のはいった革袋を忘れてきたので大騒ぎになったが、無事見つかって一件落着。
 夕飯後、3人で散歩。竹内好が何度も「疲れたなあ」とつぶやいた。
 6月17日。朝早く起きて、サマルカンド空港からブハラへ。ブハラで朝食をとったあと、池やら寺院やら城壁やら廟やら回教学院やら、いろんなところを見学したが、次第にどれがどれだかわからなくなった。
 林の中にあるチャイハナ(茶店)で、熱いチャイを飲みながら、銭高老人は「わし、なんで、ここにおるんやろ」とひとりごとを言った。
 午後はマキハサ宮殿(夏の離宮)と美術館へ。

〈濁った小川、川のほとりにゆっさりと茂る大樹。向う岸の泥煉瓦の集落に写真機を向けてはいけない、と注意がある。泥の家から女の子が出てきた。女の子が家に入ると、中年の女と娘、幼女二人が出てきて、川べりに居並ぶ。
 八つ位の瘠せた少女が、三つ位の妹を連れてしゃがみ、ねぎ、赤だいこん、にんじんを、地べたに置いて売っている。暑いから、泥のついた野菜は萎れきっている。屈託もなく少女は妹と遊びながら、売っている。〉

 百合子は寺院や霊廟や博物館よりも、そこで暮らす人に興味がある。夫や竹内の興味も、とつぜん現れるさりげない風景に向けられているようだ。
6月19日。竹内は具合が悪く、今日は外出をとりやめるという。マイクロバスと乗用車(ボルガ)に乗って、町から50キロほど離れた砂漠を訪れた。
 途中、コルホーズの綿畑を見かける。真紅ののぼりにロシア文字でスローガンらしきものが書かれ、それが風にはためいている。畑にはコバルト色のトラックがずらりと並んでいる。
川を渡ると、だんだん砂漠になってくる。
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 砂漠のなかに、ぽつりぽつりと包(パオ)がみえてきた。車は砂の海にはいっていく。包のなかにはいらせてもらう。「何だか、サーカス団の団長の楽屋へ遊びにきているみたいだ」
 百合子の写真を撮ろうとしていた夫の泰淳が「あれ、へんだぞ、この写真機は。カシャッといわない」と言う。
「とうちゃん、こわしたな」
「俺、いま触っただけだよ。いままで百合子がずっといじってたろ」
「さっきまでカシャッといったんだから。いま、とうちゃんが触ったからこわれたの。いじくらなくても、触っただけでこわれたの」
「そうかなあ」
「うちにあるお中元や記念品のライター、みんな、とうちゃんが触ってこわれたんだから。とうちゃんが触ると、うちにある文明の利器はみんな腐ってこわれるの」
 脇で夫婦の会話を聞いていた人が、「奥さん。砂漠でそんなこと言わんでも……」と、茶々をいれる。
 砂漠の遊牧生活体験もツアーの目玉になっているようだ。
現地のガイドさんは、包がみられてよかったですね、トクしましたねというが、百合子はそんな気がしない。

〈うまくいったのだろうか。よかったのだろうか。こういう見物をしても、私にはそういう感じがない。包の暮しは、ごく当たり前のような、ちっとも珍しいものではないような、ずっと前から判っていたような気がする。ずっと前に私もしていたような気がする。〉

 1時間訪れたくらいで、パオの生活はわからないだろう。それよりも、百合子が思ったのは、おそらく富士山麓での山小屋生活である。『富士日記』にえがかれる夫との生活は、すでに長くつづいている。そして、人生は一時の仮寓だという思いも、心によぎる。
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 砂漠に行った次の日は、ブハラの城を見に行った。ここの王様は悪い人だったと百合子は書いている。税金を払えなかった人は牢にいれられた。城門をはいったところに石の牢が4つあった。そこには囚人の蝋人形がおかれていた、うずくまったり倒れたりしている老人や若者の姿があったかと思うと、4番目の牢の人形は首を吊ってぶらさがっていた。
 小さな博物館もあって、王様がかぶった帽子なども展示されていたが、つまらなかった。混み合っていたのは石牢の前だけだった、と百合子は書いている。
 午後はバザール見学が予定されていたが、暑いので武田泰淳も竹内好もホテルに残り、百合子だけがでかけた。歩いてもすぐというバザールにはなかなかつかなかった。銭高老人が「いつまで歩くんじゃ、タクシー!」といって、怒りだす。やっと着いたバザールの円屋根の塔にコウノトリが巣をかけていた。
 夕方5時にホテルを出発し、飛行機でタシケントに戻る。飛行機の天井から水がぽたぽたと垂れてきた。
「大樹の深い緑に包まれたタシケントは、ブハラから戻ると、文明の都だ」。竹内は気分がすぐれず、夕食を断って、ヨーグルトだけ食べる。
 日にちがわからなくなっている。昨夜は雷と豪雨に見舞われたせいか、けさは涼しく、ツアーの一行は元気を取り戻した。
 バスに乗り込み、往来の女たちを見ていた銭高老人がいう。「この国の女ごはよう働きまっせ。えらいこっちゃ。朝から腕まくりしょってからに歩いておるんや。ロッシャはたいした国じゃあ」
もっとも女たちは袖なしのワンピースを着ているので、まくろうにも袖がないのだ。
 バスでタシケントの町をめぐる。髪とひげがもくもくした気難しい顔をした銅像を見かけたので「ベートーベンでしょうか」と聞くと、ガイドさんからは「マルクスです」との答えが返ってくる。
 タシケントは3年前の1966年に大地震に見舞われた。いまもその跡が残っている場所があった。
 午後は中央博物館に。竹内は休んだ。
 夕食は屋上の食堂で3人そろって。

〈雪を頂いた天山山脈が、はるかに霞んで真正面に見える。竹内さんは見惚れている。
「いい山だねえ。見飽きないね」
 竹内さんが行かなかった博物館と美術館の話をした。
「たいして面白くなかったのよ」
「百合子は博物館や美術館に行くと、すぐ糞しに行くんだ。つまらないとしたくなるらしい。性に合わないんだな」
「俺もミュージアムは、もういいよ」
 竹内さんは、夕陽のせいか、血色はいい。午後、眠ったので元気になったらしい。〉

 友達どうしの屈託のない会話。泰淳は露悪的だが、百合子がいないとどうしようもなくなる。
 翌日はタシケントを離れ、グルジア(ジョージア)のトビリシに向かう。コーラン世界の中央アジアとは、もうお別れだ。
 だれかが「もう、旅のヤマ場は終りましたな」というのを聞いて、急に大きな忘れ物をしているのに気がついた。

〈大きな忘れ物──東京に置いてきた「時間」。旅をしている間は死んでいるみたいだ。死んだふりをしているみたいだ。〉

 時間の感覚がなくなってしまっている。時間をおいたまま、さまよっているのは、だれもが同じだ。

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