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尖閣よりこわいこと [時事]

 このところ忙しくて、テレビを見る時間もありません。25年ぶりに台所を改装して、いろいろと後片付けに追われていたことや、まもなく出版される翻訳の最終チェックをしなければならなかったこともあって、何だか気持ちに余裕がありませんでした。
 それでもニュースなどを見ると、最近は尖閣諸島や北方領土の問題でもちきり、政府民主党の対応のまずさが連日報道されているようです。領土問題というのはむずかしく、そう簡単に解決することは不可能だと思います。最終的には両国間で条約を結んで、領土の帰属を確定する以外にないのですが、これまでの歴史をみると、この問題を解決するには、相当の政治力を発揮するか、政治の延長としての戦争を発動するしか方法はありませんでした。
 しかし、政治力には期待できないし、まして戦争はしないほうがいいに決まっていますから、当面、このふたつについては──竹島の問題も残っていますが──ここが日本の領土であることを主張しつづけること、とりわけ尖閣については実効支配を強めること、それに相手国の出方に対する警戒を強めることくらいしか打つ手がないと思います。
 それにしても領土問題というのは、そこが150年ほど前までアイヌや、沖縄人・台湾人の行き来する地であったことを考えると、日本、中国、ロシアどの国にとっても、どこかさもしいところがありますね。国益とやらを振りまわすまえに、互いにみずからを鏡にうつしてみることがだいじかもしれません。
 で、領土問題やらAPECやらで、このところマスコミが連日大騒ぎしているなかで、先日たまたまNHKで日本の借金はなぜふくれあがったのかという報道番組を見たのを思いだしました。ぼく自身は、連日の過熱したニュースより、ほんとうはこちらのほうを心配しています。
 番組の趣旨は歴代の事務次官に、なぜ日本の借金がここまでふくれあがったのかを聞くということでしたが、その話をまとめてみると、要は社会保障費が増えたとか、景気が急に悪化したとか、アメリカの圧力に負けたとか、政治に振りまわされたとか、国民のレベルが低いとか、そういうことでした。事務次官の任期はほぼ2年。だからどの官僚もその期間を何とかやりすごすだけで、あとは野となれ山となれという感じを受けました。その結果が積もり積もって国だけで900兆円近い借金です。その勢いはまだ止まりそうにありません。
 そして不思議なことに、この借金をどうするかについての議論は、政府内でも、まともにおこなわれているように思えないのです。たしかに消費税を10パーセントに引き上げるという議論はあります。ただし、それをやったところで、国債の新規発行が必要なくなるかといえば、そこまではむずかしいというのが、ほんとうのところではないでしょうか。たぶん財政支出を大幅削減したうえで、消費税を20パーセントくらいにしないかぎり、予算のバランスはとれないというのが真相ではないかと思います。
 民主党は「事業仕分け」とやらのパフォーマンスで、しきりに大向こうをねらった点数稼ぎをしようとしていますが、財政のムダを洗い直すことはだいじとはいえ、これによって大幅な財政支出のカットが期待できるとは考えられません。それよりも、これは消費税増税に向けての「仕分け」ならぬ「言い訳」づくりといえるのではないでしょうか。
 そして、はっきり言いますが、たとえ消費税を導入しても、日本の借金問題はそう簡単には解決しないのです。なかには、日本は借金があっても何も問題はないという人がいます。お金のあまっている人が国債を買って、国の借金を支えているのだから、これ以上借金が増えるのは問題としても、現状が維持できれば、経済的には何の不安もないというのです。
 これはほんとうかもしれません。しかし、財政的にはかなりの綱渡りを必要とするでしょう。単純化していえば、銀行や郵貯も含めて、だれもが国債が満期になったときに、それを崩さないで、また同額の(できればさらに多額の)国債を買うようにすればいいのです。しかし、それがいつまで可能なのかは知るよしもありません。国債を崩して老後の資金にあてる人もいるでしょうし、海外旅行に行く人もいるでしょう。経済状況が不安になって、だれもが一気に国債を引きだせば、それこそ国全体がパニックです。いずれにせよ、政府がいま考えているのは、借金で借金を返すというテクニックだけという気がします。つまり例によって問題の先送りです。
 インフレ誘導や社会保障費の削減を唱える人もいます。しかし、これも度を超すと、社会は大混乱します。歴史の大事件は、国の借金から生じているといってもいいくらいです。ヒトラーが登場した背景には、ドイツの巨額の賠償金とハイパーインフレがありました。明治維新のときも幕府・藩とも借金まみれでした。
 菅さんは突然TPPなるものをもちだして、新たな「開国」が必要だなどと言いだしていますが、「開国」が江戸幕府の「瓦解」につながったことを思えば、統治能力を失った民主党政権の瓦解も近いのかもしれませんね。
 何はともあれ、ハイパーインフレやデフォルトは避けたいものです。
 番組を見て感じたのは、民主党にしても自民党にしても、当面のハエを追うのに精一杯で、長い将来のことを考えていないということでした。国の借金をいっぺんにチャラにするうまい手はありません。しかし、このまま見て見ぬふりをしていると、そのうちたいへんなしっぺ返しをくらうことはまちがいありません。
 昔、日露戦争が終わったとき、当時の桂太郎首相は、ロシアから賠償金がとれなかったために積み重なった国の膨大な借金(約20億円。現在の貨幣価値にすると約10兆円[わずか!]で、そのほとんどが外債でした)を片づけるために、約30年間で公債の全額を返還するという長期計画を立てました。この計画は紆余曲折があって、いろいろ評価はあるのですが、桂太郎の心意気をいまの政治家にもくんでもらいたいものだと思います。
 もっとも、現在の借金は日露戦争後とは比較にならぬほど多いので、どの政治家もそれをどうしたらいいか、こわくて言い出せないのかもしれませんね。まさに、あとは野となれ山となれ、わが亡きあとに洪水よきたれ、です。
 公債については、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一が、次のように語っています。

〈非常の場合に一時に多額の国費を要するときにおいて、公債の価値あるはいうまでもなく、国家経済の発達を助くるの効は実に大なるものである。しかしながら公債はこれを処置するの道を誤り、整理の方よろしきを得ざるときは、国運の発達を害することけっして少なからず、換言すればすなわち鋭利なる利器であると同時に恐るべき凶器であることを忘れてはならぬ〉

 そのとおりだと思います。いま必要とされるのは小手先の政権運営、あるいは事なかれの職務遂行より、国の借金問題解決を含めて30年にわたる経済ビジョンであることはまちがいありません。
 そんなことをうつらうつら思いました。

大阪の2児置き去り死亡事件について [時事]


きのう(8月22日)の朝日新聞で読んだ、大阪の2児置き去り死亡事件のことがなんだか気になってしかたがない。
事件が発覚したのは7月30日のこと。近所の通報を受けて、レスキュー隊が南堀江のマンションにかけつけたところ、ゴミの山となった部屋のなかで、3歳と1歳の幼児2人が、一部ミイラ化した状況で死んでいた。死後1カ月半は経過していたようにみられたという。
母親は6月9日、子どもたちに最後の食事を渡したあと、そのまま家に戻らなかった。23歳の彼女は、1年前に離婚し、風俗店で働いていたという。春ごろから交際中の男性らと外泊をくり返すようになり、数日に一度しか家に戻らなくなる。そして、最後にわずかな食事を置いただけで、子どもを部屋に閉じこめたままにして、家を出たのだ。子どもが餓死することはわかっていただろうから、明らかに故意の殺人である。
ひどい母親もいたものだ、それにしてももう少し何とかならなかったものかと思うのが、最初の印象である。だが、その経過を知ると、底知れぬものが見えてくる。
容疑者の父親は三重県の高校の体育教師で、母親と離別してから、あまり家庭を顧みなかったという。さびしかった娘は、中学時代からぐれはじめるが、それでも東京の高等専修学校を卒業し、地元の日本料理店で働きはじめ、そこで夫と知りあって結婚、ふたり子どもが生まれた。
だが、子どもができてからも、彼女の夜遊びは収まらなかった。あげくの果てに離婚。ふたりの子どもを連れたまま、最初は託児所のある名古屋のキャバクラで働き、つづいて大阪の風俗店に移って、そこで子どもを放りだして、ホストクラブで遊ぶようになり、ついに育児を放棄する格好になった。
元夫や自分の父親、祖父母に、子どもをあずけようとはしていない。養護施設にあずけるつもりもなかった。最初は「母親である以上、強くないと」と語っていたのに、最後は「子どもなんていなければいいのに」と思うようになったのは、なぜなのか。
もともとは気丈な女性なのだろう。それでも、どこかでぷつんと糸が切れてしまった。ほとんどだれもアドバイスしてくれない、たった一人の子育てに、いつしかくたびれはててしまったのかもしれない。
子どもを捨てて、家を出た次の日のSNSに「まだやりたいこと やらなきゃだめなこと いっぱいあんねんもん」と書きこんでいたという。いったい、なにをやりたかったのだろう。
わからないことは、ほかにもいっぱいある。彼女が中学のころ、ぐれはじめたのはなぜか。結婚して子どもができたのに、夜遊びするようになったのはなぜか。離婚したあと、はたらきはじめたキャバクラの場所が、なぜ名古屋だったのか。どうして託児所もあるキャバクラをやめて、大阪の風俗店に移ったのか。ホストクラブで遊んでいたというが、そのことと育児放棄とは、どのような関係があるのか。
女性史家の高群逸枝は、かつてこんなふうに書いたことがあるという。商業主義の時代には、人はいっそう陽気にふるまい、漠然とした不安を忘れるために性を享楽する。そして、われわれはただ「在る」だけになって、その時がくれば、あっけなく死んでしまう。そういう「物質から虚無への道」を歩んでいるのだ、と。(山下悦子「戦後社会と女性」を参照)
この事件、どうも、ひとごとではないような気がする。

80年ぶりの世界恐慌か [時事]

先週の9月15日、アメリカ4位の証券会社リーマンブラザーズが破産申請し、3位のメリルリンチがバンク・オブ・アメリカに吸収されるという驚くべきできごとがあり、加えて最大手保険会社のAIGまでが経営危機におちいり、400億ドルという巨額の公的資金が投入されるというニュースが世界中をかけめぐった。
ニューヨーク株式市場は500ドルという史上4番目の暴落となり、その影響がヨーロッパ市場、アジア市場、東京市場にもおよんだ。
アメリカ政府の素早い対応によって、いちおう危機は脱したかのように思えるが、この先どうなるか不安はつきない。
考えてみれば、あやしい兆候はずいぶん前からあった。
9月上旬に政府系の住宅金融会社、ファニーメイとフレディマックが破綻し、多額の公的資金がつぎこまれることになったのも、そのひとつ。
春先には投資銀行のベアスターンズが破綻し、アメリカ政府の管理下におかれた。
アメリカ経済は1年以上前からおかしくなっていたのだ。
「リベラル21」に半沢健市氏が書いているところによれば、ロサンゼルスの住宅価格指数は2000年を100とすれば、06年が374、そして08年4月が202になったという。
つまりアメリカの住宅バブルは06年がピークで、それから2年間に45%下落した計算になる。
1990年代に日本のバブルが崩壊したのと同じ現象がアメリカで発生したのだ。
おそらく住宅価格の下落はこれで収まるわけもなく、さらに半分まで落ちこんでようやくストップすればいいというところではないだろうか。
しかし、日本のバブル崩壊がほぼ国内問題として決着したのに対して、アメリカの場合は世界中に問題をばらまいている。
その原因は、アメリカが住宅購入貸付資金の保証を、債券(デリバティブ)のかたちで世界中に分散したことにある。
いわゆるサブプライム問題である(だがサブプライムだけで収まりそうにない)。

現在のアメリカの金融は、日本や中国、中東などのマネーで支えられているといってもよいだろう。
そのためアメリカがおかしくなれば、ことはアメリカ国内にとどまらず、世界中にその影響が広がるのだ。
具体的な数字は覚えていないが、アメリカのバブルの規模は現時点で、90年代の日本のほぼ2倍の規模に膨らんでいるといわれる。
だが、それだけではとても収まらず、その規模は最終的には10倍くらいに膨らむのではないだろうか。
現時点でアメリカの銀行は11行が経営危機におちいっているが、潜在的には100行以上が問題をかかえているとのうわさも飛び交っている。
5社あったアメリカの大手証券会社はすでに2社になってしまった。
80年ぶりの世界恐慌がやってきそうだという見通しも、あながち嘘ではなさそうだ。

今回の危機は80年代以来の「新自由主義」が完全に破綻したことをも意味している。
考えてみれば、新自由主義は規制緩和と市場原理主義を唱えるいっぽうで、バブル経済(学者風にいえば資本主義の活性化)を生み出すイデオロギーとして機能していた。
市場の規制をはずして、どんどん競争を高め、経済を刺激し、それによって手元にカネがない人でも、好きなようにモノを買えるようにするのが、新自由主義のイデオロギーだった。
その結果、いつか化けの皮がはがれて、バブルがはじけ、経済が破綻する。
これからアメリカでは、さらに株価が下がりつづけ、政府の公的資金が投入されて銀行と投資会社、証券会社が再編されるかたわら、膨大な失業者が生まれ、不況の影響は不動産・建設業界にとどまらず、一般の製造業や流通業にも広がっていくだろう。
これと同じ現象がアジアでもヨーロッパでも起きることはまず間違いない。
コントロールを失った資本主義をふたたび制御できるかどうかが問われている。
政府や官僚が当てにならないことは、食の安全をめぐる最近の騒動をみても明らかだ。
社会のなかに資本主義の暴走を防ぐ制御装置をいかにして組み込んでいくかが、これからの大きな課題だろう。
資本主義の制限なき開放を加速する、構造改革や規制緩和といったスローガンに、これ以上だまされるわけにはいかない。
世界恐慌の危機はまだ収まっていないのだ。


『暴走する資本主義』を読む(1) [時事]

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読書といっても、このところ通勤電車の行き帰りくらいのものだが、傾眠というのだろうか、途中で座れたりすると、ついうとうとしてしまうので、いつまでも同じ本を握りしめていることが多い。
間宮陽介著『ケインズとハイエク』も中断してしまった。
どうも根気がない。
かといって、昔から本を買いこむくせが抜けないので、読みもしない本がたまっていって、そこここにあふれだす。
少し片づけようと思って、手にとったのがロバート・ライシュの『暴走する資本主義』(雨宮寛、今井章子訳)だ。
いつものようにちょっとずつしか読めないし、途中で挫折してしまうかもしれないけれども、ともかくも読書メモを残しておくことにした。
著者のライシュはアメリカのクリントン政権時代に労働長官を務め、現在はカリフォルニア大学のバークレー校で経済学を教えているそうだ。
民主党大統領候補オバマ氏の政策顧問もしているというから、実際の政治的影響力ももっている。
世界的危機への対応を訴えるマケイン氏と「変革」を訴えるオバマ氏と、どちらが次期大統領の座を射止めるかはまだ混沌としているが、アメリカで初の黒人大統領候補となったオバマ氏が当初の予想以上に大きな支持を得て、ここまでのし上がってきた経緯を考えると、そこにはレーガン政権以来、経済政策で大きな役割を果たしてきた「新自由主義」に対する不信がかなりつのっているのではないだろうか。
本書の原題は『Supercapitalism(スーパーキャピタリズム=超資本主義)』。
日本語版のタイトルを『暴走する資本主義』としたのが心憎い。
〈自由市場資本主義は大成功を収めたが、民主主義は衰退してしまった〉というのが、本書のメインテーマである。
グローバルな競争のなかで経済はいびつに成長したが、社会的な公正は失われつつあるのではないかという思いを著者はいだいている。
〈大恐慌を乗り越えた米国は経済と民主主義が相乗効果を生み出し、第二次世界大戦で勝利を収め、世界の大舞台に登場した。そして空前の繁栄を謳歌し、それを広く共有していた〉
女性やマイノリティの社会的地位が低かったことを考えれば、1950年代、60年代はけっして黄金時代とはいえなかったが、膨大な中間層が出現して、アメリカ人の大半が新築の家を購入し、食器洗い機や冷蔵庫、テレビ、ステレオをそろえ、自家用車でドライブを楽しむようになった。
ところが、1970年代以降、こうした状況は一変したと著者はいう。
〈大企業はより競争力をつけ、グローバルに展開し、先進性のある存在となった。資本主義の暴走、つまり私が超資本主義(スーパーキャピタリズム)と呼ぶ状況が生まれたのである〉
安定した巨大企業と監督官庁の規制、組織率を誇る労働組合、世間に配慮する企業経営者、住民の守る地域社会、節度ある投資──こうした仕組みがだんだんとなくなって、企業による弱肉強食の時代がはじまったのだ。
〈こうした動きは、冷戦を戦うために政府が開発した科学技術が新製品やサービスによって実用化されたころから始まった。そして運輸、通信、製造業、金融業がその起点となり、新たな競争相手が生み出される状況がつくられるようになった。これらの競争は安定した生産システムに風穴を開け、すべての企業が消費者と投資家を求めて熾烈な競争をする状態になった。この動きは1970年代後半に始まり、それ以降ますます激化していった〉
「新自由主義」とか「新保守主義」とか呼ばれる風潮のもとで、70年代後半からは、自由貿易、規制緩和、民営化がもてはやされ、公正さよりも効率性に重きが置かれるようになった。
著者はアメリカでも、必ずしも大企業の力が増大しているわけではないという。
〈例えば、米国では自動車大手3社(ビッグスリー)が非公式に価格調整や投資の調整をしていたが、現在では少なくとも6つの企業が米国で自動車を生産し、自動車業界の競争は熾烈を極めている。30年前テレビ放送ネットワークは3つしかなく、電話会社も巨人会社が1社あっただけであり、映画会社と音楽会社も数えるほどしかなかったが、現在は通信産業、ハイテク産業、エンターテインメント産業が互いに入り混じった巨大で無定形な市場において、数千もの企業が苛烈な競争を繰り広げている。30年前は、ほとんどの人が銀行に貯蓄をし、銀行の数も1つの町や市に2つか3つしかなかったのに、今では投信や年金も含め何千もの金融機関が個人の貯蓄を獲得しようとしのぎを削っている〉
こういう一節をみると、アメリカも日本も同じだという気がする。
心地よい風の吹いていたさわやかな黄金時代は終わって、嵐に翻弄される日々がつづいている。
なぜ、こういう時代になってしまったのか、はたしてそこから抜け出す手だてはあるのかを考察するのが本書の課題だといってよい。


無為無策という犯罪 [時事]

1968〜77年生まれは、いわゆる就職氷河期にぶつかった世代である。
朝日新聞によると、その人口1887万人のうち正規雇用者が1036万人、非正規・無業の人たちが736万人で、非正規・無業の人数は前の10年の世代にくらべて約192万人も多いという。
社員が130人ほどの(昔は200人以上いた)ぼくの勤め先を見まわしても、たしかに20代は一人もいないし、30代も数えるほどだ。
このところ十数年、新人を採用していない。
その代わりに増えたのが派遣の人たちだ。
だが、彼ら、彼女らは3年を限度に交代することを法律で義務づけられている。
なかには、まわりが年寄りばかりなので、うんざりして、さっさとやめていく派遣の人たちもいる。
かつてぼくの所属した出版部門では派遣というよりフリーの人が多く、雑誌の校了時には夜遅くまで、時には徹夜で仕事をしている姿を見かける。
ぼくが入社したころは、派遣はいうまでもなく、アルバイトの人さえいなかった。
1年間もアルバイトをつづけていると、組合が社員化要求を出して、社がそれを認めざるをえなかったからだ。
ところがいつのまにかそれでは採算がとれなくなり、雑誌は次々廃刊を余儀なくされ、単行本は返品の山が積み重なり、けっきょく部が縮小され、アウトソーシングとやらで、残った雑誌はほとんど外部スタッフによってつくられるようになった。
多くの若い人たちの就職がむずかしくなり、正規雇用されない人たちが増えてきたのは、われわれ世代が次の世代に仕事の果実をうまくバトンタッチできなかったということでもあり、その責任は大きいといわねばならない。
労働力の流動化を推し進めるということが盛んに言われた。
給料の安いところから高いところへ、あるいはつまらない仕事からやりがいのある仕事へ移れるというのなら話はわかる。
しかし、たいていが逆なのだ。
労働力の流動化とは、例によって「おためごかし」の経済用語であり、実は企業がこれまでより安いコストで人を雇い、しかもいつでも契約を解除できるようになったことを言い表す遁辞(とんじ)にほかならない。
7月12日の朝日新聞に、浦安や船橋で働く派遣労働者の実態を追ったルポが掲載されていた。
34歳のある青年はナットやボルト、薬、菓子、缶詰といった商品を扱うさまざまな倉庫を10年間転々として、いまは中古パソコンを扱うショップの工場で働いている。
時給は1000円で、月収は十数万。年金暮らしの両親と生活しているという。
西船橋の駅前では仕事にありつけなかった43歳の男性がロータリーの前で座り込んでいる。所持金は2円で、2日間、水しか飲んでいない。
アパートの家賃を払えなくなって、野宿生活をする中年の夫婦もいる。
公的社会支出総額に占める雇用対策費の割合は、スウェーデンとドイツが4.1%、フランスが3.7%に対し、日本はわずか1.7%にすぎない。
日本では、こうした困窮者は無視されるままで、その実態すら調査されていないのではないか。
失業者を少なくし、貧しい人をなくすのは、政府の責任のひとつである。
ウルトラ石油ショックで諸物価が高騰し、景気の悪化が懸念されるなかで、政府が知らぬ顔の半兵衛を決め込むのはまさに犯罪に近い。


皇室紛争 [時事]

2月13日、宮内庁の羽毛田信吾(はけた・しんご)長官が、皇太子一家の皇居訪問回数が少ないことに苦言を呈して以来、皇室の雰囲気がどうもおかしい。
これに対し、皇太子は誕生日前の記者会見(2月21日)で「[この問題は]家族のプライベートな事柄ですのでこれ以上立ち入ってお話しするのは差し控えたい」と発言し、沈黙を守った。
天皇皇后が孫の愛子さんともっと会いたいのに、その機会が少なくて「残念だ」と思っているというのは、だれが見ても表向きの理由だろう。
「単に孫にお会いになりたいということではなく、国の問題だ」
と天皇皇后の側近が述べたという話が新聞に載っている。
新聞や週刊誌の記事からしか実際の様子をうかがい知ることはできないが、皇室の場合は一家のコミュニケーション不足を「家族のプライベートな事柄」として済ますわけにはいかないのではないか。
ことはあきらかに皇位継承をめぐる問題にかかわっている。
「週刊新潮」(2月28日号)には、あるジャーナリストの次のような発言が紹介されている。
「もし、さらに関係がこじれた場合、ひょっとすると皇統の移動も、との噂があるのです。今まで常に“私”より“公”の立場を優先してこられた両陛下のことです。そのお気持ちが届かないのであれば、皇位継承順位2位、3位のお二方がいる秋篠宮家に継がせることをお考えになるのは、ある意味、当然でしょう。むろん、皇室典範を一部改正しなければなりませんが……」
現在の皇室典範第2条では、皇長子が皇位の第1継承権をもっている。
そして第3条はこうなっている。
〈皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる〉
人柄のよい現在の皇太子がこの「第3条」に該当するとは、とても思えない。
だから、皇太子から皇位継承権を剥奪するには、皇室典範を「改正」しなければならないのだが、はたしてそんなことが現実問題としてありうるのだろうか。



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37歳危機説 [時事]


12月14日夜、佐世保市のスポーツクラブで、男が散弾銃を乱射し8人を死傷させたあと、自殺するという衝撃的な事件が起きてから10日ほどたった。
その事件には何の関係もなく、たまたま三浦展の『下流社会 第2章』(07年9月刊)を読んでいたら、37歳危機説というコラムが載っていたので、ちょっと驚いた。
その書き出しはこうだ。
〈2005年にUFJ銀行(当時)のATM盗撮事件で逮捕された主犯格は37歳だった。01年、池田小学校に侵入し、小1数名を殺害した宅間守(死刑執行済)も当時37歳だった。98年、和歌山毒入りカレー事件の林真須美被告も当時37歳。また少しずれはあるが、04年、奈良市で小1少女を連れ去り、殺害、遺棄した小林薫服役囚は当時36歳。05年、陸橋大学大学院教授である父を殺害した無職男性は38歳だった〉
佐世保の事件の犯人、馬込政義はインストラクターの女性と友人を道連れにして自殺したが、かれも37歳で、無職だった。

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小沢一郎インタビュー [時事]


衆議院と参議院の過半数第1党が異なるというねじれ現象のなかで、国会をどう運営していけばよいのか。
10月30日と11月2日に福田首相と民主党小沢代表とのあいだで会談がもたれ、連立政権構想が出されたものの、民主党内の反対で立ち消えになったのは周知の通り。
そのあと、4日に小沢代表が辞意を表明し、6日に今度はそれを撤回するなど、このところ政局はめまぐるしく動いた。
最近の政局はさっぱりわからない。
初めて連立政権の話を聞いたときは、冗談だろうと思ったものだ。
予期しない進展だった。
民主党鳩山幹事長が「大連立は大政翼賛会的」と批判しているが、この発言が民主党内の雰囲気を物語っている。
しかし、小沢自身は本気だった。

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サブプライム問題とは何か [時事]

きのう(11月12日)の東京株式市場は、日経平均株価が一時1万5000円を割り込み、年初来の安値を記録した(きょうはさらに安値を更新)。
アメリカのサブプライム問題と円高ドル安の影響で、株安が加速したといわれる。
株価について一喜一憂する必要はないが、だいぶ前から問題になっているサブプライム問題というのは意外と深刻なのかもしれないと思うようになった。
「リベラル21」というブログに半澤健一氏が書いているところによると、アメリカの不動産バブルは2年ほど前から大問題になりはじめていた。
ニューヨークの郊外ロングアイランドの住宅に2000年まで住んでいた日本人商社マンが05年にアメリカを再訪したときの話だ。
彼は10年間、借家暮らしだったが、その間、住宅価格はほとんど変わらなかった。
けっきょく家を買うことはなかったが、2000年に家主の韓国人から家を買わないかと話を持ちかけられたときの金額は30万ドルだった。
ところが、その家が05年に80万ドルで売れたと元家主から商社マンは聞いてびっくりする。
つまり5年間に住宅価格が2.6倍にはねあがっていたのである。
80年代後半の日本の土地バブルをほうふつとさせるような話である。

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参院選始末記 [時事]


参院選で自民党が大敗北したにもかかわらず、安倍首相は早々と続投を決めた。
新聞や雑誌から目についた記事を久しぶりに紹介しておきたい。
やはり安倍は責任をとって、やめろという声が圧倒的だ。
それは野党からだけではなく、自民党の中からも上がっている。
〈総理ご自身が、小沢さんを選ぶのか、私を選ぶのかの選挙だ、とおっしゃった。結果、国民は安倍さんを選ばなかった。あの言葉は一体なんだったのか。有権者をなめるな、ということです。国民はよく見ています。……やはり、自ら辞めると言った上で、「私がやりたいことをやってくれる人に後事を託し、自分は一兵卒として全力で支える」と言うべきだった。そうすれば、国民の受け取り方は全く違ったはずです〉
元防衛庁長官の石破茂はそう話す。

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