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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(1) [人]

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 読み残しの本から取り出して、ぱらぱらとめくってみる。
 丸山眞男(1914−1996)については、学生時代から気になりながら、これまであまりまじめに読んでこなかった。そのくせ、主要著作は買っている。『日本政治思想史研究』、『現代政治の思想と行動』、『日本の思想』、『戦中と戦後の間』、『反逆と忠誠』、『「文明論之概略」を読む』、それに「講義録」。
 買っただけで、満足してしまうのが、昔からの悪い癖だ。おそらく買った当初はぱらぱらとめくったのかもしれないが、いまとなってはほとんど中身を覚えていない。たぶんむずかしすぎて理解できなかったのだろう。
 いちばんおもしろかったのは『日本政治思想史研究』だ。この本で、ぼくは荻生徂徠のことを知った。
 ぼくの学生時代にはすでに象牙の塔の人だった。東大闘争のときに、学生たちが丸山の資料室を占拠し、それにたいし丸山が「ファシストもこんなことはやらなかった」と憤激したといううわさが、ぼくの近辺にも伝わってきた。よほどだいじな資料があったのだろう。
 1968年のころ、丸山はすでに学生運動はおろか、ベトナムにも成田にも興味をもっていなかったようにみえた。学生たちにしてみれば、60年安保の思想的リーダーと思われた丸山が、政治学者でありながら、なぜ現実の戦争や大学問題に無関心を決め込んでいるのかが不思議でならなかった。
 それから3年後の1971年、丸山は定年まで3年を残して、57歳で東京大学を退官する。そのあとは、社会的に活躍することなく、残りの25年を隠居のように暮らした(という印象を、すくなくともぼくはもっている)。
 ぼくは丸山眞男のよい読者ではない。それどころか吉本隆明や滝村隆一の影響を受けているせいか、どちらかというと丸山をずっと毛嫌いしてきた。にもかかわらず、いまでも丸山の熱烈な愛好者は多い。逆にこの年になって、ぼく自身、丸山のことをよくわかっていなかったのではないかと思うようになってきた。
 本書を読んでみることにした。
 丸山は1914(大正3)年に大阪で生まれた。父の幹治はリベラルな新聞記者で、長谷川如是閑と親しかった。丸山は自由な中流家庭で、のびのび育ったようにみえる。
 一高に入学した年、満州事変が勃発した。その後、日本は急速に軍国主義化していく。
 印象的なのは、高校3年生になった1933(昭和8)年4月に、丸山が警察に引っぱられ、取り調べを受けたことである。丸山自身は共産党員でもなんでもなく、むしろノンポリだった。たまたま貼り紙で長谷川如是閑の名前をみて、その講演会に出席したところ、警察に目をつけられて、連行されたのである。
 特高による取り調べは苛烈だった。その経験が、精神の内側にまで踏み込んでくる国家権力の姿を丸山に思い知らせた、と著者は書いている。
 見えないところからじっと監視されつづける恐怖というものは、じっさいにそれを味わった者しか、わからないものだろう。当時、国民は官憲による無気味な弾圧の実態をほとんど知らなかった。
 逮捕の翌年、1934年に東京帝国大学法学部政治学科に入学した。卒業後は法学部の助手に採用され、研究者の道を歩むことになる。
 国家が社会や経済を統制する「政治化」の時代がはじまっていた。美濃部達吉をはじめ、矢内原忠雄、河合栄治郎などリベラル派の大学人が、政府に目をつけられ、大学を追われていた。
 大学時代、丸山は数多くのマルクス主義文献を読んでいる。だが、党やコミンテルンに魅力を感じたことはなかった。マルクス主義には革命思想はあっても政治学がなかったからである。日本の政治体制を分析するという学問上の動機のほうがまさっていた。
 丸山が評価したのが、いわゆる「講座派」である。日本では農村部における封建的生産様式と都市部における資本主義的生産様式が不均衡なかたちで共存し、そのうえに絶対主義的な天皇制が成り立っている──これが講座派のとらえ方である。その考え方に丸山はひかれた。
 戦前の丸山は、みずからも述懐するとおり「ムード的左翼」だったという。戦前の知識人がそうだったように、天皇中心の「国体」思想など信じていない。一般国民が国体を素朴に信奉している社会の実情こそが問題だと思われた。
 このころ丸山は、発表論文で、市民社会や個人主義はブルジョアジーのイデオロギーであり、それは乗り越えられなければならないと述べていた。だからといって、ファシズムやマルクス主義にくみしたわけではない。国家権力を制御する必要についてもふれている。
 丸山は強靱かつ柔軟な自由主義に、みずからの思想的立場を置くようになった。それは自由と平和と正義を普遍とする立場である。マルクス主義とはおおいにことなる。
 1940年10月8日に昭和天皇が東京帝国大学に行幸したとき、丸山は法学部助教授になっていた。
 そのころ刊行された福沢諭吉の『文明論之概略』を読んで、その自由な物言いに感銘を受けている。そこには当時の軍国主義時代の風潮にたいする痛烈な批判が隠されていた。個人が独立して自主的人格を形成し、政治社会にかかわっていく姿を福沢がえがいていることを、丸山は高く評価した。それこそが近代のあり方だと思われたのである。
 助教授になった丸山は、大学で「東洋政治思想史」の講座を担当するようになる。さまざまな文献を読みあさったすえ、徳川時代の思想家では荻生徂徠がいちばんだと思った。
 徂徠の独創性は、儒教を道徳の学ではなく、政治の学として再解釈したことである。徂徠における「政治の発見」は、新たな政治的地平を開いた。それは丸山が徂徠や諭吉を西洋政治哲学の文脈で読み込んだことと関係している。
「[丸山は]全体を管制する政治権力のもとで『私的』な活動がさまざまに展開するという『寛容』の体制を『近代的なもの』と呼んだ」と、著者はいう。
 すなわち、道徳と政治の分離、社会と政治の分離といってもよい。政治は個人道徳や社会秩序に恣意的に干渉してはならない。いっぽう個人の自由の確保と、政治権力にたいする批判が認められなければならない。
 著者によると「ありのままの個人と、倫理を内面化した『主体』がおりなす『人間仲間』と、政治秩序との3つの層」を、丸山は近代の「秩序原理」ととらえるようになっていたという。
 ばくぜんとマルクス主義に共感をいだいていた丸山は、内外の政治哲学を学ぶなかで、ここではっきりと「近代の理念」すなわちリベラリズムに軸足を移すことになる。
 丸山を近代主義者、リベラリストと呼ぶのは、けっしてまちがいではない。問題はそういうレッテル貼りをして丸山を葬り去る側が、はたして近代やリベラリズムについて、どれだけ深く理解しているかである。丸山からみれば、日本の現実は、近代やリベラリズムからはるかに遠かったのである。
 丸山は1944年3月、30歳で結婚し、その直後の7月に軍隊にとられた。東京帝国大学の助教授が徴兵されることはめずらしく、まして陸軍二等兵としての召集は例がなかったという。一種の懲罰だった。
 丸山は松本の連隊に入隊し、そのまま朝鮮の平壌に送られた。皇民化教育を受けた朝鮮人の一等兵から、意地の悪い仕打ちを受けたという。植民地朝鮮での軍隊経験は、丸山に生涯忘れられない記憶を刻んだ。
 11月、丸山は病気にかかり、いったん東京に戻った。政府の上層部では、すでに戦争終結の構想が練られはじめていた。
 1945年3月、丸山はふたたび召集を受ける。こんど配属されたのは広島市宇品町の陸軍船舶司令部だった。平壌にくらべれば苛酷な環境ではなかった。与えられた任務は船舶情報と国際情報の収集。
 7月にはポツダム宣言を新聞で読み、「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重」というくだりに、むしろ感動を覚えていた。しかし、軍隊のなかで、そんな思いを口にするわけにはいかなかった。
 そして8月6日、広島に原爆が投下される。宇品の司令部にいた丸山は閃光を目にしたものの、建物の陰にいたため、熱や爆風の直撃を受けることはなかった。しばらくして、重傷を負い、助けを求めてやってきた市民の群れで司令部は埋めつくされることになる。
 8月15日、ラジオの玉音放送で日本が無条件降伏したことを知る。「やっと救われた」というのが、そのときの正直な気持ちだったという。9月になり、丸山は焼け野原の東京に戻ってきた。玉音放送があった日に母は病気で亡くなっていた。
 軍隊経験をへて、リベラリズムの立場はさらに確乎たるものになっていた。
 著者はこう書いている。

〈どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること。1945年8月15日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追求していく営みの、原点となったのである。〉

 次回は戦後の丸山眞男の歩みを見ていくことにしよう。

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『気の向くままに』から(1) [人]

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 ジョージ・オーウェルは1943年12月から47年4月にかけて、途中1年9カ月の休載をはさみながら、ほぼ毎週、独立左派系の新聞「トリビューン」にコラム「気の向くままに」を連載していた。
 第2次世界大戦末期から戦後にかけてのことである。
 オーウェルは戦争の時代に、みずからをどう保っていたのか。そのことが気になっていた。
 本棚を整理していて、この本をみつけ、いなかと往復する新幹線のなかで読んでみた。
 ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったのは1939年9月のことである。
 その前、1936年末にオーウェルはPOUM(マルクス主義統一労働党)市民軍の一員としてスペインに渡り、アラゴン戦線でフランコ軍と戦い、首を撃たれ、あやうく死ぬ目にあった。バルセロナでは共和国政府を牛耳るコミンテルンによるPOUM弾圧がはじまっていた。1937年6月、オーウェルは妻のアイリーンとともにバルセロナを脱出する。
 イギリスに戻ったオーウェルは、スペイン内戦でみずから体験したことをありのままにつづった。それが『カタロニア讃歌』である。初版は1500部で、700部しか売れなかった。
 オーウェルは1938年3月に吐血し、ケント州プレストンホールのサナトリウムに送られる。休養が必要だった。
 サナトリウムでは、次の小説の構想を練ったり、短いエッセイを書いたりしてすごした。
 そのころのオーウェルの考え方について、伝記作家のマイクル・シェルダンはこう書いている。

〈当時、彼の戦争観はかなり素朴なものだった──支配階級が戦争を社会変革の引き延ばし策に利用するつもりならば、そのために武器を取って戦っても意味がない。〉

 このころのオーウェルは、独立労働党(ILP)を支持し、戦争反対を唱えていたことがわかる。オーウェルは終生、社会主義者でありつづけた。支配階級と資本家は、戦争の危機をあおることで、労働者の賃上げを認めず、社会変革を引き延ばそうとしていると考えていたのだ。
 オーウェルはさらに療養をつづけるため、妻とともにモロッコのマラケシュに移った。空気が乾燥し、温暖な地を選んだのだ。住み着いたのは郊外にあるオレンジ畑の真ん中にたつ邸宅だった。ここで、オーウェルは次の小説『空気を求めて』を執筆し、さらにエッセイ「マラケシュ」を書く。
 ボロ着を身につけたマラケシュの人びとと、道を行進するフランスの植民地軍を対比的にえがくエッセイはいきなりこう結ばれる。

〈われわれはどれほど長くこれらの人々をだましつづけられるだろうか。どれほどしたら、彼らが銃口をべつの方角にむけるようになるだろうか。〉

 マラケシュで6カ月すごしたあと、オーウェル夫妻は1939年3月末にイギリスに戻った。
 6月には(さして好みではない)ゴランツ社から『空気を求めて』が出版される。初版は2000部で、すぐに再版となり、3000部ほどが売れた。この月、ロンドンの父が82歳で亡くなる。死ぬ前に不和が解消できたのが、なによりも幸いだった。
 オーウェルの自宅は、ロンドンから北に50キロほど離れたハートフォードシャーのいなかウォリントンにあった。ここで、かれはさまざまな文芸エッセイを書きはじめる。「チャールズ・ディケンズ」、「鯨の腹の中で」、「少年週刊誌」など。
 そして、9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、開戦となった。
 それから1週間もたたないうちに、オーウェルは中央登録局にすすんでみずからの名前を登録する。祖国が危機におちいれば、戦うのはとうぜんだと考えていた。
 1940年末に発表されるエッセイ「右であれ左であれわが祖国」では、その心情をこう説明している。

〈愛国心は保守主義となんら関係ない……チェンバレン首相[前内閣]下のイギリスにも明日[いまのチャーチル内閣、そしてその後]のイギリスにも忠誠をつくすのは、日常生活のひとつの確たる現象なのだ〉

 このころオーウェルは、かつてヒトラーを容認し、絶対平和主義を唱えた独立労働党(ILP)から完全に離れ、かれらを「左翼の腰抜けども」とまで呼ぶようになった。
 オーウェルは社会主義者から保守主義者に転向したのだろうか。そうではない。かれは終生、社会主義者だった。資本主義と帝国主義の国家には、ずっと抵抗しつづけた。
 だが、スペイン内戦で、オーウェルはファシズムとコミュニズムの全体主義をまのあたりにしたのだ。全体主義との戦いは、いまや最大の課題と思われた。
 こうして、かれの社会主義は、新社会主義とでもいうべきものに移行する。それは愛国心に根ざしながら、全体主義と戦い、言論の自由を守り、社会的正義と公正を求める社会主義だった。
 1940年春になると、オーウェルは戦火がイギリスにおよぶことを覚悟していた。自宅周辺の畑を耕し、大量のジャガイモを植えた。
 妻のアイリーンはいなかを離れて、ロンドンではたらくようになった。それを追いかけてオーウェルもロンドンに移り、戦争遂行に役立つ仕事を探しはじめた。身体検査にも出頭したが、軍務に不適格と判定された。
 そのため、オーウェルはしばらく雑誌に映画や演劇の批評を書く仕事を引き受けるようになった。絶賛した映画が、チャップリンの『独裁者』だ。大衆文化についてのエッセイも数多く書いた。まさに書きまくったといってよい。
 6月、ドイツ軍はフランスを占領した。軍務につけなかったオーウェルも国土防衛軍に加わる。万一、敵がロンドンに侵入した場合、市街戦を戦う市民兵組織だ。8月には大空襲(ブリッツ)がはじまる。ロンドンのイーストエンド埠頭が炎上し、グリニッジも空襲を受けた。
 大空襲はつづく。ダンケルク撤退戦で兄を失った妻のアイリーンは、このころすっかり落ちこんでいた。
 そんななか、オーウェルは猛烈な勢いでタイプを叩きつづける。書評や映画評に加えて、年末にはアメリカの独立左派の文芸誌『パーティザン・レビュー』から「ロンドン便り」執筆の依頼が届き、それを引き受ける。
 1941年2月にはエッセイ集『ライオンと一角獣』を刊行、1万2000部以上が売れるヒットとなった。オーウェルはマルクス主義に汚染されない社会主義運動、「妥協の伝統と国家の上にある法の信頼」にもとづくイギリス型社会主義を称揚した。
「トリビューン」のコラムはまだはじまらない。
『ライオンと一角獣』で名声を得たオーウェルは、BBC(英国放送協会)から声をかけられ、1941年8月から2年間インド向けのラジオ放送を担当するようになったからである。それは制約の多い、検閲を通さねばならないやっかいな仕事だった。かれなりにファシズムと戦うためにはじめた仕事だったが、枠づけられた戦時放送に縛られている自分に次第にうんざりしてきた。
 オーウェルはBBCに辞表を提出し、やっと解放される。そして、「トリビューン」のスタッフに加わって、まさにその名のとおり、「気の向くままに」(As I Please)というコラムを書くようになるのだ。まだ戦時統制がつづいていたが、これからは書きたいことを書くつもりだった。
 今回は、そのコラム集について紹介しようと思ったのだが、そのとば口でくたびれてしまった。また、気が向けばということにしよう。

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ビルマのエリック・ブレア [人]

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[ビルマ時代のブレア。後列中央]
 世の中が不安になってくると、なぜかこの人のことが気になる。
 エリック・ブレア。1903年に生まれ、1950年1月に46歳で亡くなった人だ。
 その伝記を読んでみた。
 19歳のブレアがイギリス人警察官としてビルマ(現ミャンマー)に赴任したのは1922年11月のことだ。当時のビルマはイギリスの植民地で、インド帝国に属していた。
 ブレアはイギリスの名門、イートン校を卒業したのに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学(日本なら一高から東大に行くようなもの)に進まず、植民地の警察官になった。たぶんに家庭の事情がある。
 家は裕福でなかった。高校での成績も悪く、大学の奨学金をもらえそうになかったことが、進学を断念したひとつの理由だろう。イートンでのエリート教育にもうんざりしていた。
 仕事先にビルマを選んだのは、たぶんわけがある。エリックの父は定年でイギリスに戻るまで、インドのアヘン局に務めていた。ベンガル地方で生産されるアヘンを管理するのが、その仕事だった。
 フランス人とイギリス人のあいだに生まれたエリックの母は、ロンドンで生まれ、ビルマ第3の都市、モーラミャインで育った。その実家は材木業と造船業を営んでいた。
 つまり両親はインドで出会ったのだ。
 エリックは1903年にネパールとの国境に近いインドのちいさな町モティハリで生まれた。だが、1歳になるかならないかで、母親は父親を単身インドに残したままイギリスに引き揚げてくる。
 幼年期から少年期をすごしたのはテムズ川のほとりにあるヘンリー・オン・テムズ(オクスフォードシャー)である。有名私立に入学できたのは、頭がよくて、奨学金をもらえたからだ。
 エリック・ブレアにとって、ビルマはなじみのない土地ではなかった。かれが就職するころ、父はすでに定年を迎え、イギリスに戻ってきていたが、一家にとって、ビルマを含むインド地域は、いわば第二のふるさとだったといってよい。
 植民地のイギリス人警官は、いわば行政官で、現場に出動して、犯人を逮捕するような危険な仕事に従事したわけではない。各地に分散した駐在地で、数千人にのぼる現場の巡査を指揮するのがおもな仕事である。それでも、警官になるというのは、ちょっとびっくりする。
 若いブレアにとって、遠いビルマはみずからの冒険心と好奇心を満たす絶好の場所と思えたのかもしれない。だが、じつはそこは決して安全な地ではなかった。イギリスの支配にたいする反発は強かったし、ダコイツと呼ばれるギャング団も横行していた。
 そんなことも知らないままインド帝国警察警視補見習としてビルマに着任したブレアは、まずラングーン(現ヤンゴン)から北部のマンダレーに向かい、州警察訓練学校で、ほんものの植民地警察官になるため2年間の訓練を受けることになった。
 異国情緒に満ちていたにもかかわらず、マンダレーはブレアの心を引きつけなかった。
「マンダレーはどちらかといえば不愉快な街である」と書いている。そこは5つのPからなる町、すなわち、パゴダ、パリア(不可触民)、ピッグ(ブタ)、プリースト(僧侶)、プロスティチュート(売春婦)の町だった。そして、なによりも、かれ自身、その地を支配するイギリス人であることに罪悪感と自己嫌悪を覚えるようになった。
 ブレアは丸5年、ビルマで警察官として勤務した。訓練学校を出てからは、5つの地区を転々と回った。最初の任地はラングーン(現ヤンゴン)の西130キロほどにあるイラワジ川デルタのミャウンミャだった。勤務成績は優秀だった。
 半年後、その勤務ぶりが認められ、ラングーンにほどちかいトゥワンテという分署の警察隊をまかせられる。まだ二十歳そこそこなのに、召使いにかしづかれる生活だったという。
 さらに半年後、こんどはラングーン北郊のインセインに異動となる。ここには2500人以上の囚人を収容する大きな刑務所があり、数多くの死刑が執行されていた。
 しかし、イギリス人警察官は死刑の立ち会いを求められていたわけではなかった。当時を知るあるビルマ人は、ブレアが死刑に立ち会ったのは、インセインではなく、次の勤務地下ビルマ、モールミェンの刑務所で、しかもそれを志願したのではないかと推測している。モールミェンはビルマ第3の都市で、かれはその分署で、あらゆる警察活動の責任を担っていた。
 のちにブレアは、死刑執行のディテールをエッセイにえがくことになる。
 その囚人はヒンズー教徒で、はだけた褐色の背中を見せながら、両腕をしばられたまま、ぎこちない足どりで絞首台に向かっていた。濡れた砂利のうえに残された足跡、ひょいと水たまりを避けた瞬間が、目にきざみついた。

〈その瞬間まで私は、健康かつ冷静な人間の一命を断つのがいったいどういうことなのかついぞ考えたためしがなかった……その頭脳は依然として記憶し、予知し、判断をくだしていた──水たまりについてさえ判断をくだしていたのである。死刑囚とわれわれはともども歩く一団の人間であり、おなじ世界をその目で見、耳で聞き、肌で感じ、理解していた。するとわずか2分間で、突如ガタンという音とともにわれわれのひとりが消え失せてしまうのだ──ひとつの精神が断たれ、ひとつの世界が断たれる。〉

 この描写は何度もくり返し、読まれるべきだろう。
 モールミェン管区でブレアは、もうひとつの大きな出来事を体験する。
「私は大勢の人からにくまれていた──わが人生のなかで、そのようなことがわが身に起こるほど重要人物だったのは、この時期だけである」と、皮肉っぽく書いている。
 大勢の人からにくまれていたのは、ブレアがイギリス人のエリート警察官だったからである。だが、かれもにくんでいたのだ。支配者と被支配者を、そして、自分自身も。心の奥底には、不条理な感情が渦巻いていた。
「心の片隅ではイギリスの統治を難攻不落の暴政だと思った……もうひとつの片隅ではこの世に最高の喜びがあるとすれば、仏教僧のどてっ腹に銃剣を突き刺してやることだと思った」
 そんなとき事件が発生する。
 モールミェンのチーク材置き場では、木材を運ぶのに何十頭もの象が使われていた。そのうち一頭の象が、群れを離れて、とつぜん町なかをふらふらしはじめたのだ。
 暴走して、人を傷つけたわけではない。通報を受けて、ブレアが駆けつけたときには、迷い象はのんびり水田にたたずみ、口もとに草をつめこんでいた。象使いが連れて帰れば、それで事は収まったはずである。
 しかし、そうはならなかった。ぞくぞくと集まってきた人たちは、もっと派手な始末を期待したのだ。人のいうことをきかない迷い象には、処罰が与えられなければならない。ビルマの群衆は、象が撃たれて倒れるシーンをわくわくしながら待ち望んでいた。

〈白人(サーヒア)の旦那は白人の旦那らしくふるまわなくてはならないのだ。決然とした態度を見せ、はっきりした意思のもとに物事をしかとやってのけなければならない。〉

 ブレアは「ただまぬけに見えるのをさけたいばかりに」象を撃ち殺す。これは、かれにとっても一生忘れられない思い出となった。
 最後の勤務地となったのはマンダレーの北220キロほどにある上ビルマのカターという町だった。イラワジ川上流にあるこの辺境の湿潤な地で、ブレアはデング熱にかかった。高熱がでて、首筋や肩のあたりに発疹ができ、それが直るまで数週間を要した。もうろうとした鬱状態のなかで、かれはビルマの日々をふり返り、大英帝国の実態を見直していた。
 仕事柄、ビルマでは何十人となく殺された男たちの死体を見てきた。しかし、そうした犯罪による殺人よりも、公的な処刑ほど残虐なものはないと感じていた。のちにこう書いている。

〈私はいちどだけ絞首刑に処せられる男を見たことがある。千の殺人よりずっとひどいように思われた。〉

 ブレアは長期休暇を申請し、それが認められて、本国に戻る。ビルマには帰らないと決意していた。もちろん、インド帝国警察もやめる。それでどうするのか。子どものころからあこがれていた作家になろうと思っていたのである。
 ビルマのことを書くつもりだった。だが、いきなりは無理だった。作家としてデビューするまでに、5年の歳月を要した。
 1932年に最初の作品『パリ・ロンドン放浪記』がロンドンのゴランツ社から出版されるときにペンネームが必要になった。本が刊行されるわずか7週間前、ようやく名前を決めた。それ以降、エリック・ブレアはジョージ・オーウェルと呼ばれるようになるのである。

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ひとつのアンチテーゼ──西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む [人]

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 西部邁は思想の人である。
 2018年1月21日日曜日、多摩川に入水し、自死した。享年78歳。
 かれの思想的自伝ともいえる『ファシスタたらんとした者』を読んでみた。
 英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)などと名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。テレビに出演し、さまざまな雑誌に寄稿して、それなりに人気者だったにもかかわらず、この人は孤立無援という立場に自分を追いこむ癖があった。それが思想を担う者の宿命なのかもしれない。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、人と結束して、世界の(国家ならびに社会の)秩序を立て直そうとする者を指している。ファシストといわず、ファシスタと名乗ったのは、みずからをムッソリーニやヒトラーの同類とみなされたくなかったからである。しかし、かれが左翼や近代主義者と対峙する立場を貫こうとしていたことはまちがいない。
 かれは日夜、世界の秩序を立て直すべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられず、失意のまま人生を終えようとしていた。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶというのが、かれの心境だったのだろう。
 とはいえ、ファシスタというのは、あくまでも反語ではなかったのか。かれは発言者であり、表現者であったが、組織者ではなかった。結社や党や軍事組織をつくろうとしたわけではない。人間性や思想にたいし、行動と統制を優先するほんもののファシスタは、もっと残忍な存在である。
 とすれば、ファシスタという自己規定は、さほど意味をなさない。それは国家社会にたいしてという以上に、みずからに突きつけた刃でもあった。
 その人生をたどってみる。

   1 60年安保まで

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要な人員とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は、西は大都会の札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境に位置する。かれによれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、箱からマッチを取りだして、こすったところ、火が障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。8月15日、敗北の日がやってくる。「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。
 元気な少年で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットの少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼りついていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこし、一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 カネがないので、なにも買えなかった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれるのだった。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きをしたことも認めている。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップに近い成績だった。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。事件がおこる。妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったのだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」(両親のどちらかが朝鮮人)の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の知り合い、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。かれはそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝ががくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れでた。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、かれは名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしただけのでっち上げだったと認めている)。6・15、ブントは国会突入を呼号していた。正面からではなく、南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で逮捕される。6・3事件でも6・15事件でもかれは起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。
 拘置所を出る11月末までの4カ月半、かれは沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』を読むが、つくり話だとしか感じなかった。「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。

   2 革命思想から保守思想へ

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、そんなものは絵空事だと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、おのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでもいったん北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦(のちの経済学者)は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同(革命的共産主義者同盟)に合流することになった。かれは「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(6) [人]

 著者にとって、2014(平成26)年3月の妻の死は、まるで半身をもがれるようなショックを与えた。自分は生と死のあわいにある「半死者」になったと感じた。
 左翼の学者、知識人、ジャーナリストはばかだと思いつづけてきた。民主主義、高度情報社会、したり顔のインテリや解説者が気にくわなかった。それでも自分の無力を感じていた。酒を飲んで世間話をするのは楽しいが、それにも飽きがきた。世間は煉獄なのだと思った。
 自分の発行する雑誌も孤立して、おさらばする潮時が近づいていた。もうろくと病気にどう対処するかだけが課題となった。安楽死や尊厳死などもばかげている。著者は55歳以来、シンプル・デス(簡便死)を選ぶと公言していた。最初、友人の暴力団員からピストルを入手しようとしたが、うまくいかない。そして、ついに妻に先立たれてしまった。自分のこの先を考えると、家族や社会に迷惑をかけたくなかった。かっこよく死にたいと思っていた。
 人間の時間(歴史)と空間(社会)はあまりにも複雑、広大だ。それにたいし全知を得ることなど不可能である。人間にできるのは、そのなかで、決断し、実践し、何かの規準を選び取ることだけだ。総合知に向けての努力を、著者はエッセイのかたちで表現しようとした。
 人間の意識は「総合への欲動」に突き動かされている、と著者はいう。人は一回切りの人生で、ひとつの「物語」をつくろうとするのだ。著者は他者との連帯を求めて、エッセイをつづった。それはひとつの幻想にすぎなかったが、それでも人はその幻想を生き、死んでいくしかない。
 自分の生は芽も出ず花も咲かず実も成らなかった、と著者は絶望した。著者はみずからの考えを穏健な思想だという。だから世間の支持を得られなかったとふり返る。しょせんはアウトサイダーだったと自嘲している。言論活動にもあきあきしていたのかもしれない。
 ここで、この長いエッセイはしめくくりを迎える。
 著者はみずからの遍歴をふり返り、自分はエッセイで人間と社会の全体像をせめて輪郭だけでもえがこうとしてきたのだという。仕事の中心は人性論と実践論、大衆社会・マスメディア・アメリカニズム批判、保守思想の普及からなっていた。
 著者は仮説を体系化して理論化する、いわゆる社会科学にうんざりし、体験にもとづいて知の発露をこころみるエッセイストに転じた。ケインズやヴェブレン、オルテガ、福田恆存、福澤諭吉、中江兆民などの評伝を書いた。亡き友人たちを顕彰するために一文を草した。書くことはしゃべることと同じなので、テレビや講演会にでたり、塾を開いたりもした。
 状況のただなかに身を置くと、生のアクチュアリティが実感されるように思えた。それはじゅうぶんに満足できる人生だった。
 著者がとりわけ力を入れたのが大衆批判である。というより、人を大衆として扱い、それにもとづいて、あるいはそれにおもねって、自己の思想と行動を正当化する風潮への批判である。それは知識人やマスメディア、大量情報社会やアメリカニズムへの批判につながった。だが、日々発生する果てしなき戦いにもくたびれはてた。妻の死が人生の幕引きを決意させたのだという。
 現在、世界は混迷状態にあり、第三次世界大戦の前哨戦がはじまっている、と著者は感じている。だからこそ、日本はアメリカの道具となるのではなく、みずから身を守らなければならず、そのためには核武装もやむなしと主張した。しかし、それもどうにもならないと思うようになった。
 天皇制は「半聖半俗」の虚構だと考えていた。それは日本の伝統として、長くつづく安定した文化制度だった。国家による政策決定には、宗教的儀式が必要になってくる。その点、天皇はカトリックでいう法王と同じ位置にいる。現人神ではないし、普通人ではない。
 国家がつづくためには、伝統が継承されなければならない。そのことを象徴するのが皇位の世襲なのだ。天皇は国家の歴史に時代の刻印を押す存在である。著者は女帝を否定しない。むしろ国民を統合する能力としては女帝のほうがすぐれていると考えている。
 そのいっぽう著者は天皇が平和主義や民主主義に同調する言動をすることに反対している。むしろ、日本の漂流を防ぐために、天皇と皇室はなくてはならぬ存在だと感じていた。
 神仏は信じなかった。俗世から隠遁しようとも思わなかった。信心なるものは、現世利益への執着を延長したものにすぎない。良心をつらぬいて、恬澹(てんたん)として生き、そして死ぬことだけが残された課題となった。
 世の中は現実主義的な保守とグローバル資本主義に支配される時代になっている。著者の「真性保守」思想は、右翼を喜ばせ左翼を怒らせ、また左翼を喜ばせ右翼を怒らせた。著者は市井の散人として終わるのではなく、あくまでも輝く星になることをめざした。りっぱな戦いぶりだったと思う。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(5) [人]

 著者は経済を発展させるのはイノベーションだという考え方に疑問をいだいていた。イノベーションは資本をより機能的にし、労働をより節約する方向にはたらき、その結果、労働分配率の減少をもたらす。その結果、所得格差が広がり、国内の購買力が低下するのは目に見えていた。
 イノベーションはさらに現在の資本収益率を未来にも想定することによって、デリバティブ(派生証券)をつくりだす。それがいずれ金融パニックにつながることもわかりきっていた。
 イノベーションが伝統の破壊をもたらすことも気に入らなかった。また、競争といっても、それは力をもつ者どうしによる価格の調整にすぎないこともわかっていた。
 著者はデモクラシーを絶対的な社会正義とする現代の風潮に一石を投じようとした。とりわけ、有権者に政策を選択してもらう民主党の「マニフェスト政治」にあきれた。新語で人をたぶらかすのは衆愚政治にほかならないと思った。そこには議会で少数派が多数派の意見を検証し、修正していこうという議会制民主主義の真摯な姿勢もみられない、と著者は怒る。
 著者は「小さな政府」論なども信じない。公共活動があって、はじめて市場の安定性がもたらされると考えていた。財政赤字の大半は、将来世代のためのインフラ投資であり、その点では子孫からの借り入れにならないと思っていた。
 民主党は偽善をばらまくことによって、選挙民をたぶらかしたという。
 その矢先に2011年の3・11東北大地震と福島第一原発事故が発生した。民主党はすっかり腰砕けになり、あとは漂流する以外になかった。
 だが、著者は自民党を支持するわけでもない。自民党は社会主義者をやっつけるだけで、「アメリカ流の純粋近代主義としての戦後レジーム」を完成させることにはげんでいるだけだ、と批判している。
 2014(平成26)年に、著者は妻に先立たれる。これが大きな打撃となった。もう生きていても仕方がないと思った。だが、当面、評論活動をやめるわけにはいかなかった。
 そのころはじまったのがTPPと安保法制をめぐる議論である。その議論を聞いていて、著者は日本がやはりアメリカの保護領にほかならぬと感じた。アメリカは自己の自由民主主義という個別性を普遍原理として他国に押しつける侵略国家であり、それを牛耳っているのが「巨大金融資本と軍産複合体」だ、と著者は論じる。そのアメリカは中国と対立しているようにみえて、両国が手を結ぶ可能性は強いとみていた。
 そこから抜けだすには、「日本自身が軍事に始まって外交や政治を経て文化に至るまでのパワー(力量)を身につける必要がある」。そのパワーがあってこそ、アメリカの協力も得られるのであって、最初に集団的自衛権をもちだす安倍首相の考え方はまさに属国の思考法だ、と著者は批判する。そして、日本が自力防衛をかちとるには、核武装の道を検討するほかないと主張する。
 憲法について、著者はイギリスにならって、不文法のほうがいいと思っている。改憲より廃憲の立場なのである。だから立憲主義などちゃんちゃらおかしいということになる。万機公論に決すべし、でじゅうぶんなのだ。
 戦後の日本国憲法は敗戦直後の混乱期に押しつけられたもので、その条項を著者はことごとく批判している。それを紹介するのはめんどうなのでやめておくが、もし憲法が必要なら、憲法制定議会を開いて、伝統にもとづく新しい憲法を制定すべきだと主張する。
 著者がみずからファシスタと称するのは、自由、民主、平和を金科玉条とせず、反資本主義、反社会主義、反米主義の立場をとるからである。それは世にいう右翼、左翼の主張とはことなり、いわば真性保守の考え方といえるかもしれない。とはいえ、ヒトラーやムッソリーニとちがうのは、みずからの立場を戦争や暴力によって表現するのではなく、あくまでも言論によって主張するところである。
 現在の戦争は、アメリカニズムで世界を塗りつぶそうとするアメリカの侵略行為と、それに抵抗するイスラムのテロとの武力衝突の様相を呈している、と著者はみる。いっぽう、中国は東シナ海や南シナ海に進出し、アジアを勢力圏にいれようとしている。第三次世界大戦の前哨戦がはじまっているとみてよい、と著者はいう。
 そのなかで、日本はどうすればよいのか。自衛を強固なものにすることがだいじだ、と著者は論じる。
 著者はファシスタを自認するが、それは「国民性の保持」を第一と考えるからだ。状況に対応しながら、自衛を強固なものにしつつ、国民性を維持・進化させていくというのが、著者の考え方だといってよい。
 イノベーションがつづく現代は、リスク社会どころかクライシス社会に突入している、と著者はいう。その象徴がバブルと詐欺だ。さまざまな事故や災害も発生している。テロと戦争が結びついている。先制攻撃は報復攻撃を招いて、事態は戦争とならざるを得ない。
 こうした危機においては、政府による舵取りが重要になってくる。とはいえ、軍事力なき外交力など空語にすぎないのだから、軍事力を含むパワーの維持強化をめざすのはとうぜんである。
 国家は自由・平等・友愛・合理という近代主義に代えて、活力・公正・節度・良識の規範を国民に示していかねばならない。国家の改革は漸進的にしかなしえない。革命は地獄(ディストピア)を招くだけである。国民社会の伝統にももとづく統合がなされなければならない、と著者はいう。
 ところが、実情はマスと化した人びとが高度情報化(技術)社会のなかで、ひたすらロボット化、ないしサービス化の道を歩んでいる。つまり、みずからがつくりだした情報や技術にもてあそばれているのだ。
 そんなことを思いながら、言論人である著者はほとんど何の収穫もないまま、死が近づいていることを感じていた。他人による看取りが長期におよぶことには堪えられなかった。
 雑誌の編集や妻の看病、講演、テレビ出演などで、日々の仕事は忙しかった。それでも、死の影は容赦なく迫ってきた。著者は「自死の具体的なやり方」を検討するにいたる。妻が亡くなってからは、こんな時代に生きるのでは生きた心地がしないと思うようになっていた。
 このままいけば虚無への転落が待っているような気がした。それを避けるにはまだ気力のあるうちに自決するほかないと決意するようになっていた。あとは社会や周囲に迷惑をかけないシンプル・デス(簡便死)を選ぶだけである。「死は束の間の生の最後のほんの一環にすぎぬと心の底から思わないわけにはいかない」と、著者は書いている。
 このあたり書き写していて苦しくなってくる。人間どうせ死ぬのだから、もっと気楽に考えればいいとぼくなどは思うのだが、やはり思想家ともなると、そうはいかないのだろう。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(4) [人]

 東大教養学部では「相関社会科学」に向けての機構改革が具体化されようとしていた。狭い学問領域を超えて、相互の学問分野の交流をはかろうとする構想だった。
 新任教授に中沢新一の名前があがり、著者はそのときの人事担当者となった。教授会はもめるにもめて、中沢人事はけっきょくつぶされる。いやけの差した著者は1988年に東大をやめてしまい、評論家になった。49歳のことである。ずいぶん思い切ったことをしたものである。
 それから八面六臂の活躍がはじまる。出演した「朝まで生テレビ!」は大評判となり、「週刊文春」のエッセイもはじまり、地方講演などでも引っ張りだこになった。時局評論が中心の仕事になる。その活躍ぶりによって、政界やマスコミにも知り合いが広がり、一躍人気者になる。世間は粋のいい保守思想家の登場を歓迎したのだ。
 著者はいたるところで天皇制を擁護した。天皇制は日本の誇るべき「国柄」であり、国家の非常事態においては国民共同体の基礎となると主張していた。そのため左翼過激派から襲撃されようとしたこともある。
 だが、大学を離れて評論家になったのはただしかったと感じていた。「公衆に直接語りかける」ことで政治にかかわるのは人の本分だと思っていたし、自分の働きで稼ぎ、家庭を守ることに生き甲斐を覚えていた。決まりきった学説など脇目において、「世間からの毀誉褒貶を一身で受けて、自分の思ったことを開陳してみせる」ことが、自分にとっての自由であったと記している。
 東大を辞めて、最初に書いた評論が三島由紀夫論だった。三島とは天皇観がちがっていた。三島は天皇を愛の対象と考えていたが、著者は天皇を伝統にもとづく文化的・制度的な装置とみていた。「楯の会」のようなものをつくって、集団の力学で、みずからを死に追いこんでいくやり方にはなじめなかった。
 とはいえ、著者は「三島を論じることを通じて、自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意がほぼ固まった」と書いている。つまり、五十代半ばから、最期は自殺することに決めていたというのだ。その理由は家族や周囲に過大な迷惑をかけるのを避けるためだという。延命には価値をみいだせなかった。だが、すぐ死ぬわけにはいかなかった。全力を挙げて妻を守ることを自己の使命と考えていたからである。
 1990年代前半は、政治改革という名の改悪がなされ、衆愚政治がまかりとおった時代だったと書いている。自民党の汚職が誇大妄想ふうに暴露され、中選挙区制や日本的経営が悪とみなされるようになった。そのことに著者は違和感をいだいた。アメリカに主導される構造改革なるものは伝統の破壊にほかならず、そんなものと妥協したくないと思った。
 そこで、著者は真性保守の立場から1994年に『発言者』という雑誌を発刊する。『発言者』は10年ほどつづく(その後、『表現者』と雑誌名を変えて存続)。同時に事務経費をまかなうため、「塾」の活動もはじめた。雑誌の発行は経済的には苦労の連続だったようだ。そのためMXテレビに出演したり、秀明大学で教えたりもしている。しかし、この雑誌があったおかげで、著者はみずからの発言と表現の砦を守ることができた(もちろん『正論』や『諸君!』の常連執筆者ではあったのだが)。
 真性保守をうたう『発言者』は単なる反左翼の商業右翼雑誌とは異なる、と著者はいう。保守は理想と現実とのバランスを重視する。そして、保守とは「活力、公正、節度、常識」という根本規範を守る態度をさすという。
 オウム真理教の麻原彰晃から対談の誘いがあったが、返事をしないでほうっておいたら、地下鉄サリン事件が発生して、あやうく難を逃れたこともあった。屋山太郎と古森義久にバッシングされた榊原英資を雑誌『正論』で擁護したこともある。ともかく、評論家に転じた著者の活動はなかなか冒険に満ちていた。
 60歳のころ福沢諭吉論を書き、その「報国心」や「武士の心」を高く評価した。丸山眞男など進歩的文化人による解釈のゆがみをただそうとしたのだという。
 幕末以来の「百年戦争」についても、日本軍のふるまいは「自衛度が侵略度を上回る」と考えるようになった。大東亜戦争は「負けを覚悟の偉大な祖国防衛戦争」であり、「日本は果敢に戦って無残に敗北した」というのが、著者のとらえ方だった。これにはおおいに異論があるが、いまはやめておこう。
 そのころ著者は東南アジアを回り、グローバリズムの惨状を目にする。ビルマ(ミャンマー)のマンダレイまで足を伸ばし、インパールの地を訪れ、歴史の運命に殉じた兵士たちをとむらった。
 それから何年かしてパラオのペリリュー島も訪れ、戦争の犠牲者をとむらった。さらに、しばらくして硫黄島を訪問した。知覧や沖縄にも足を運んだ。沖縄に米軍基地があるのは、日本がアメリカの保護領であるに近い、との感慨をいだいた。
 それぞれの戦跡を訪れてよかった、と著者は書いている。200年にわたる西洋のアジア植民地化に昂然と抗したのは大日本帝国だけだったという(ぼくは、そう思わないけれど)。アメリカが正義で、日本が不正義だなどというのはちゃんちゃらおかしい。その意味で、著者にとっては戦後の平和、民主、進歩、ヒューマニズム、自由、人権、幸福、福祉などの観念はとても受け入れられないのだった。
 1991年には湾岸戦争があった。イラクによるクウェート侵攻を容認してしまえば、世界が弱肉強食のジャングルになってしまうという観点から、著者はアメリカによる介入を容認するが、日本がそれに協力するいわれはないと考えていた。
 アメリカによる世界支配に反対していたからである。しかし、その後、アメリカが主導するグローバリズムに日本も巻き込まれていった。
 2001年には9・11事件があった。著者は世界の中心を自称するアメリカにテロがおこるのは何の不思議もないと思っていた。革命と同様、テロには反対だった。しかし、ビン・ラディンにはひかれるものがあった。アメリカが戦争という「国家テロ」を仕掛けるなら、それに「不法の武力行使」としてのテロで対抗する者がでてくるのも自然の成り行きと考えていた。
 翌年のブッシュ・ジュニアによるイラク侵攻を、著者は「侵略」とみなした。イラクが大量破壊兵器を所有しているという証拠など、どこにもなかったからである。難癖をつけてでも、フセインを倒したいという、アメリカの暴力的な姿勢がみえみえだった。そのアメリカの「国家テロ」に加担する日本は度しがたいと思われた。著者は孤立をも恐れず言論戦を展開する。
 自由民主主義というアメリカニズムがグローバルに広がっていくことに反対する、というのが保守派としての著者の立場である。
 そうした輿論を喚起しようと著者は努めるが、それがしょせんむなしいものだともわかっていた。技術主義と拝金教、世論にもとづく多数決制が近代文明の原理なのだ。
「世界破壊の際限なき深刻化、それが世界の未来にかんする唯一の展望」であり、「今はその大戦の『前哨戦』が長く尾を引く時期」なのだ、と書いている。
 2002(平成14)年の秋、母がなくなる。しあわせな自然死だった。だが、著者は、こんなしあわせが自分に訪れることはぜったいにおこりえない、と肝に銘じていたという。人類の未来には絶望しか感じていなかったといえる。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(3) [人]

[2、3日、いなか(兵庫県高砂市)に帰っていました。それにしても思うのは町のさびれようです。ぼくは店で育ちましたが、最初、店のあった南本町も、それから次に移った鍛冶屋町商店街も、いまはほとんど人が通らない状況になってしまいました。70年代半ばに大型店ができたこと、80年代から郊外の大型店どうしの競争が激しくなったこと、車の発達、工場の撤退と合理化により人口が減ったこと、若い人が町を出ていってしまったこと。ほかにも理由があるでしょうが、景気がいいといわれる裏で、かつてはにぎわった地方都市の衰退がますます進んでいるようです。いま必要なのは都市論ではなく、いなか論ではないかと思った次第です。そんなことを思いながら、今回も西部邁の自伝を読んでみます。]

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、著者はそんなものがつくれるわけはないと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、それぞれおのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでも北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同に合流することになった。著者は「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。
 下宿を見つけ、家庭教師をし、パチンコではほとんどパチプロの領域に達した。たまに大学に出ると、共産党員からリンチにあった。
 被告人として3つの裁判所に通うので、けっこう忙しい毎日だった。著者はなぜ安保条約改定に反対したのかとふり返る。それは「日米の軍事協力」そのものに異を唱えるためだ。双務性といっても、それは見せかけのもので、日本がアメリカの下請けになるのが目に見えていたからだという。
 ブランキストめいた行動主義の熱狂の裏には空無感が貼りついていた。その罰を受けるのはとうぜんだと思っていた。それから20年、著者は政治向きの問題についてはいっさい沈黙を守りつづけることになる。
 経済学の勉強がはじまる。まずマルクス経済学の書物を読みあさったが、すぐに失望する。1年ほどたって気づいたのは、文明の基礎は経済にあるのではないということだった。反権力も手前勝手な思想だと思えた。そこで、文明について知るには、あらゆる学問を習得しなければならないと決意した。
 1963(昭和38)年の夏、元ブントの青木昌彦と生田浩二に誘われて、通産省の外郭団体でのアルバイトにありついた。データ整理と解析の仕事だった。それは玉野井芳郎ゼミの請負仕事で、おかげで著者は多少なりとも喰うことができた。そのころ、別れをつげたはずの北海道の彼女がやってくる。そして、けっきょく、いっしょに暮らす成り行きとなった。
 青木昌彦は著者に近代経済学で大学院に行くことを勧めた。そこで、著者は10冊ほど近経の本を読んで、論文を提出したところ、みごと合格。東大の大学院にはいることになった。
 大学院では数理経済学を専攻した。いくつかの経済動学モデルをつくったりもした。それまで解けなかった数学の応用問題の解法もみつけた。宇沢弘文に評価されて、横浜国立大学に助教授として迎えられることになった。それが可能になったのも、1967年に6・15事件の執行猶予つき温情判決がでたからだ。そのころ、まだ組織にいた連中は、権力を志向する陰湿な組織の論理にしばられ、底なしのテロにおののいていた。
 1970年4月から73年3月まで横浜国大で近代経済学を教えた。そのころ新左翼は内ゲバで自壊しはじめていた。大学の講義は平均並みにこなしていたが、どこか方向性を失っていると感じていた。「尋常ならざる遊び癖と異様なまでの子育てへの熱中」が同居していた、と著者はいう。
 そんなとき東大の内田忠夫教授から、東大の教養学部にこないかと誘われた。社会科学方法論のようないささか哲学的なこともやれると聞いて、喜んでそれに応じた。
 1972年2月に連合赤軍による浅間山荘事件が発生していた。しかし、事件後、榛名山リンチ殺人事件が発覚したことで、著者は驚愕を覚える。10年前、組織を離れたときに、このまま組織にいると、訳のわからぬ仲間殺しがはじまるという予感があたったことに慄然とする。
 東大に移ってから、著者は遊びをやめて猛勉強をはじめる。哲学、社会学、政治学、心理学、歴史学、文化人類学、記号論などの本を浅く広く渉猟した。
 そして1年半後、経済学の基礎は物質や技術そのものにあるのではなく、経済を意味づける過程にあると考え、『ソシオ・エコノミックス』という書物を上梓する。あまり評判はよくなかった。
 外国には行ったことがなかった。そんなとき、インド、アフガニスタン、トルコ、イラク、エジプト、アルジェリア、モロッコの貧民窟を回るという旅行企画がもちあがり、それにホイホイ乗ったりもした。
 著者はスペシャリストではなくジェネラリストをめざそうとしていた。いわば社会全体をえがいて、そのなかに経済を位置づけようとしたのだ。すべてをコスト・ベネフィットで組み立てる分析的な経済学の思考には、ついていけなくなっていた。マル経もひどいものだが、近経も大同小異だと思った。
 アメリカ知らずのアメリカ批判と評されるのもしゃくなので、36歳になってから一家はカリフォルニアの大学に行き、1年間バークレーで暮らした。アメリカは精神的にも物質的にも貧しい国だと感じた。左翼思想はいうまでもなく、大衆化を進める近代主義にも薄っぺらなものしか感じられなかった。
 科学とは仮説を導きだし、命題を検証するというふたつの手続きのうえに成り立っている。仮説は経験される世界にもとづいているが、それは感覚によって選びだされ、ことばによって表現されるほかない。著者は、問題は科学ではなく、思想だという気がした。
 そこで著者は経験論の国イギリスに渡ることにする。保守思想を学ぼうとしたのだ。保守思想とは伝統にもとづく考察にほかならず、言い換えれば「歴史の英知」のことだと思った。
 当時はハロルド・ウィルソンの労働党に代わって、マーガレット・サッチャーの保守党が政権を奪還しようとしている時代だった。日本とちがい党首どうしの論戦は知的で迫力があったという。
 サッチャーの考え方はフリードリヒ・フォン・ハイエクに依拠していた。著者はハイエクの「自生的秩序」という考え方に賛同を覚えた。しかし、経済の自由競争が秩序ある市場社会をつくるという主張には納得できなかった。
 歴史は危険に満ちたものである。そのなかでバランスをとっていく知恵だけが伝統の名に値すると考えるようになっていた。エドマンド・バークの保守思想もそのようなものだと思われた。
 大学はケンブリッジにあったが、著者が暮らしたのはフォックストンという小さな村だった。スコットランドにも足を伸ばし、旧東欧圏やトルコ、ギリシャも旅してみた。社会主義のひどさに慄然とし、歴史の栄光を失った国の悲惨さに心が痛んだ。
 多数派の世論を正しいとする民主主義の考え方や、通常、大衆社会と訳されるマス社会にも批判をいだくようになった。民主主義と大衆社会は、愚劣きわまる政治と社会を生みだす可能性があることに気づいたという。
 近代への懐疑も芽生えはじめる。大衆社会を批判したフリードリヒ・ニーチェやホセ・オルテガ・イ・ガセットに共感をいだくようになった。
 1979(昭和54)年暮れ、著者は日本に帰国する。そこでみたのは「経済大国」日本の狂乱と愚劣にみちた光景だった。
 帰国してからの最初の仕事は、世にはびこる相対主義への反撃だった。相対主義は、他人の意見を認めるとか、だいじにするといいながら、その実、それを無視して、自己の考えを押し通すことになりやすい。しかし、ほんとうはどちらの考え方がただしいかという絶対的基準があるはずだ。その基準を模索することこそが求められる。
 流行のポストモダニズムも阿呆としか思えなかった。差異化を求めて、自由に進めという考え方は、あまりに軽薄だった。
 著者によれば、保守とは現状維持を意味するのではない。それは歴史を踏まえながら、先を見据える態度を指している。
 ケインズとヴェブレンについての評伝を書いた。両者ともマルクス主義には批判的だったが、現代資本主義を混迷に導くのは拝金主義とマス(世間)の心性と行動だと見抜いていた。
 著者がふたりの評伝を書いたのは、なにもかれらの経済学をもちあげるためではなく、かれらがいかに時代と格闘したかを示したかったからだという。科学の論理と検証の前に、感性と理性にもとづく総合が存在するはずだと思っていた。
 オルテガについての評伝も書き、そのタイトルをあえて『大衆への反逆』とした。それによって、日本の高度大衆(マス)社会を正面から批判しようとしたのだ。
 著者はマスのことを「大衆」というよりも「大量人」としている。この区別はいささかわかりにくい。マスは政界にも経済界にも学界にも存在している。また左翼もマスだという。戦後日本をアメリカ化した連中もマスだという。経済大国自体がマス社会だ。しかし、人々はホンネではマスであることにうんざりしている可能性がある、とも書いている。そこに著者は賭けたわけだ。
 45歳のとき、親友の唐牛健太郎が亡くなった。著者はブントとは何だったかについて書く。その年、父も72歳で亡くなる。子どもたちは日教組の教師からいやがらせを受けていた。それは著者が大平正芳首相のブレイン組織に名をつらねたせいらしい。
 そのころ著者は保守の立場を鮮明にする。「ブラウン神父」シリーズなどで知られるチェスタトンを読み、「平凡の非凡」を理解した。保守の真髄をもとめて、福田恆存の評論を読みあさり、「勇気と節制」、「正義と思慮」のあいだで精神の均衡を保つことの重要さを学んだ。田中美知太郎とも出会った。
 そして、著者は保守思想がきわめて繊細なものであることを悟った。自称保守は、中国や韓国・北朝鮮、さらには民主党や共産党のことをあしざまにののしるが、それはほんらいの保守思想ではない。保守はみずからの主張も「間違いを犯す可能性を持つ」ことを自覚している者を指すという。
 世論や民主主義を金科玉条として、時の政権に罵声をあびせる自称左翼の態度も受け入れがたいものだった。なぜなら、民衆が常に正しいとはかぎらないからである。
 ヘイト・スピーチは著者のもっとも嫌うドグマだった。ルール、マナー、エチケットこそが、保守の要ともいえる精神なのだった。それを無視して、権力をごり押しする者は、右翼であろうが、左翼であろうが、けっして認めないというのが、保守の真髄なのだった。
 このあたりは、ぼくにも共感できる。つづきはまた。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(2) [人]

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は西は大都会札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境界につくられていた。著者によれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、マッチ箱からマッチを取りだして、こすったところ、それが障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。そして、8月15日、敗北の日がやってくる。このころから「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。少年のころの思い出は甘く苦い。
 元気溌剌で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットに住んでいた少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼り付いていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこす。一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音の著者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の柏中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 少年はからっけつだった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれた。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きもした。
 高校入試の全国統一試験では、900万点中899点で、北海道で1番の成績だと知らされる。だが、その志向性はどうみても体制内上昇型ではなく、脱体制の非行型だったという。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップクラスにはいっていた。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。もうひとつの事件は、妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったことだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の関係で、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。このあたり、どこか北大の兄や唐牛健太郎の影響がある。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。著者はそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向性だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。革共同(革命的共産主義者同盟)にも誘われたが行かなかった。ブントの最期を見届けるつもりになっていたという。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝はがくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れ出た。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、著者は名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしたでっち上げだったと認めている)。そして、6・15、ブントは国会突入を呼号していた。南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で、著者は逮捕される。6・3事件でも6・15事件でも著者は起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。そこを出る11月末までの4カ月半、著者は沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』は、つくり話だとしか思えなかった。そして「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。
 本日はこのあたりにしておこう。それにしても西部邁という人は、元気なはみだし型の秀才だったことがわかる。

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西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(1) [人]

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 西部邁は思想の人であり志操の人である。
 ちゃらんぽらん、かつ無思想、また気弱く生きているぼくは、これまで西部の本を何冊か買ったものの、いつも途中で投げだすか、飛ばし読みするかのどちらかですませてきた。しっくりこないところもあったし、しつこくこねくりまわすような議論がなんだかうっとうしくもあった。そのため横目でみながら、のめりこむこともなく、やりすごしてきたのが実情だ。
 21日の日曜日、成田山の裏手で、昼間からカミさんやその仲間と一献傾け、いい気持ちで自宅に帰って、ぼんやりネットを眺めていたら、かれがけさがた多摩川に入水し、自死したというニュースが飛びこんできた。急に酔いがさめ、粛然とした。
 テレビや雑誌でも活躍し、知己も多かったはずだから、メデイアではこれから数々の西部追悼文があふれでるにちがいない。よくしゃべり、にぎやかな人だったという印象が強い。しかし、じつは鬱をかかえた孤独な人だったのではないだろうか。
 きのう、駅前、東武百貨店内の旭屋に行って、西部の本を探した。最後の著書とされる『保守の真髄』(講談社現代新書)は売り切れていた。しかし、去年6月に発行された『ファシスタたらんとした者』が1冊残っていたので、それを買うことにした。おだやかなタイトルではないが、せめてもの供養にと思ったのである。
 ぼくにはこの人について語る資格はない。異議は異議として、この本をできるかぎり読みとおしてみることくらいが、死者を追悼するために、ぼくができる唯一の事柄である。
 本書は西部邁の思想的自伝だといってよい。英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)と名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。この人はけっこう人気者であるにもかかわらず、孤立無援のポジションを好む癖があった。カネや権力を求めたわけではない。たぶん清廉な人だ。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、世界の(国家ならびに社会の)秩序を変えることをめざす人のことである。ムッソリーニやヒトラーのイメージを思い浮かべないほうがいい。ただし、反左翼という含意がある。
 かれは日夜、世界の秩序を変えるべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられるところとならず、失敗のまま人生を終えようとしている。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶ。
 それが、かれの心境だったのだろう。
 生半可なことではない。死して志を残すという言い方がある。だが、これは非凡人のやることだ。ぼくには、そんな勇気も志もない。たぶん、死ぬまでうじうじと生きるのだろう。
 この人の志のありかを知ることは、せめてもの供養と思われる。それを継承しようとは思わないかもしれないけれど。
 そんな気持ちをいだきながら、ページをめくりはじめる。
 むずかしくて、途中でまた投げだす恐れはおおいにあるにしても。

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